2016年08月01日

将軍兄弟プロファイリング

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏観応日記』です。
今日は、先日の七夕回「君の願いは…」の後半で紹介した
康永3年(1344)4月8日の直義の鎌倉「浄光明寺」仏舎利奉納について
ちょっと気になった所を補足しておきたいと思います。


さて、幕府創設(=建武3年(1336))から8年目に当たるこの年は
直義権限立場に飛躍が見られた年で云々―――
という事を前回ちらっと解説した訳ですが…

(ちなみに、実質的な幕政の権限については
 幕府開始〜この年までの間に
 既に多くは直義の担うものとなっていた訳ですが、しかし
 康永3年に起きた変化は、これまでの(予定調和的な)変化とは異なり
 "ある明確な事情" に起因する特別なものだったらしい…
 …というのが(私が勝手に命名した)大命題「康永三年の謎」です。)


これら直義の権限における変化は、普通に考えれば
(当時の常識でも現代の感覚でも)本来好意的に受け取られる事だと思いますし
前回の記事でも、直義の前向きな感情を強調して解説しましたが
ただ、少し細かい事を言うと
この変化については必ずしも、直義自身は全面的に歓迎しておらず
内心では自分(のみ)の地位が高まる事を喜んでいなかった
…というのが実際であって
それ故、康永3年(1344)4月8日に鎌倉「浄光明寺」玉泉院
天下への祈りを込めた自筆の書状を添えて仏舎利を奉納したのも
曇りなき自信に満ちていたとか、まして自身の地位を誇る気持ちからなどではなく

 本当の所は、少し複雑な思いからのものだったのだろうな…

という事を追記&やや訂正しておきたいと思います。


(一般には、直義は自身の政治的理想の実現の為
 幕府内での自身の権限強化を(尊氏の意に反して)自ら積極的に画策した
 …という見られ方をされているように思いますが、それは違います。)



というのも、この直義の地位の変化・向上は「ほぼすべて尊氏の意向であり
直義自身「それが兄の意志ならばと、使命として受け入れた」
というのが実態だったりするのです。
(しかも(毎度の事ながら)直義尊氏がこの意向を示した本当の理由を知らない… )



なぜそう言えるのか?という史料的根拠考察過程については
「康永三年の謎」を順を追って解説する事で明らかになるので
今は結果だけしか言えなくて申し訳ありませんが
以上のような背景から
前回紹介した康永3年(1344)の自筆の仏舎利奉納状を改めて見ていたら
この時の直義は、ただひたすら輝かしく明るい心境だったのではなく
まだ少しの迷い寂しさがあって
しかし現実を受け入れ兄の決定に従い使命を全うする為に
独り天下への誓いを立てる事で、自分の背中を押す気持ちがあったのではないかな…
と、そんな気がして来た訳です。
直義が鎌倉「浄光明寺」に祈る時は
 (他と違って)個人的なものである事から考えても。)




…とか気付いてしまうと
なんかちょっと直義可哀相な感じになって来ますがw しかし
尊氏が(いわば)直義の意志に反してこの決定をしたのは
もちろん、自分の為に直義の気持ちを無視した… のではなく
自分より100倍大切に思う直義の為に自らを―――
…という深い深い事情がありますので
「なんか尊氏ひどい…」とか誤解されませんようにお願い致します m(_ _)m

そして(毎度の事ながら)この辺の事情は
唯一足利高経(というか斯波高経だけはすべて知らされていただろうなとw




高経様は☆*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆見えない超重要人物




ところで、尊氏直義に政道を譲った理由は
「自分より直義の方が政道に向いているから」みたいな
単純に実利的な話でもなければ(…まあ直義の傑出した統治力は事実ですが)
世捨て人に猛烈に憧れていたから」とかいう無責任な話でももちろんなく
決して明かす事の出来ない "重大な理由" があった訳ですが
しかし、"(尊氏とたぶん高経のみが知っている)本当の理由" を隠す以上
みんなへの建前として尊氏
直義のが優秀だし、俺兄貴なのにあほだしwww」
みたいな方便を使っただろうと考えられます。(他の史料から)
これらの事実と照合すると、『梅松論』の…

三条殿(=直義)は全国六十六州と二島に安国寺・利生塔を設置して
 (天下への)所願を寄せ、その振る舞いは廉直実直で決して偽る所が無い
 (そんな立派な御方なので)将軍(=尊氏)は政道を譲られた」


…という記述は
"(当時みんなが知っていた)公の事実" をほぼ正確に伝えていると言えるでしょう。

さて、さらにこの続きには…

「(将軍からの政道の移譲を)三条殿は当初、再三にわたって辞退なされたが
 将軍のたっての懇望という事で遂には了承された。
 その後は、政務の事においては一塵(=わずか)も
 将軍から御口入される事はなかった」

 (※口入(くにゅう)…意見を述べる、干渉すること)

…とあって
「当初、直義は頑(かたく)なに辞退した」というこの記述も
上述した「康永三年の謎」の分析より導かれる直義の心境と合致する事から
事実と判断される(いかにも直義らしい)エピソードですが
ただ、この『梅松論』の記述だけ見た場合
直義が辞退した理由は一見「単なる謙遜でしょw」とか
「兄に対する礼として建前上辞退する振りをした」といったパフォーマンス的なもの
…みたいに思われて軽く流されてしまいそうですが
しかし、これはかなりの核心を含んだ、思った以上に重要な記述だったりします。


なぜなら、実を言うと直義は、直義の本心では…
本当は尊氏 "一緒に" 天下の政道を担って行きたかった」のですよ。
(↑これも康永3年関連の一次史料の考察より)
だから、「再三」にわたってまでどうしても辞退しようとしたのであり
それでも結局はほぼ将軍の立場譲られちゃって「しょぼん… (´;ω;`) 」
…というのが直義の正直な胸の内だったのです。
(普通のある人間からすると信じられないかも知れませんが
 これが直義と言う人間の感じ方なのです。)



直義の政道方針発給文書に見られる特徴からすると
兄である将軍尊氏に仕える(鎌倉幕府の)執権的な存在でありたかったのだと思われます。
 (※↑これについて、詳しくはいずれまた。)
以前「正月奉納連画2016 第三弾」
直義を支える事に至上の喜びを感じていた」
と言ったのは、この辺の事実に基づくもので
政務を主導するようになってからも直義
自分の中ではあくまで兄に仕える立場であろうとしたようです。
それは『観応の擾乱』の最中(さなか)でさえ変わらぬ本心であり
に仇(あだ)なす敵を討ち、の無事を守る事こそが
直義を動かすすべての情熱の根源だったのです。


いつでも天下の為に祈り、全力を投じていたのも揺るぎない事実ですが
もしかしたら直義
"天下の為" と思いながら、心の底では "兄の為" に生きていたのかも知れない…
と思ってしまう所以(ゆえん)であります。

(取るに足らない私の妄想… のように聞こえるかも知れませんが
 しかし観応2年(1351)10月、京都に帰らぬ事を決心してから
 翌年2月に鎌倉で息を引き取るまでの直義不可解な行動の解明においては
 最大の鍵となる視点だったりします。)




これらの事実は従来の…

「二人は幕政の権限を分割した為に、政治方針や主張の違いから対立を起こし
 やがて芽生えた、相手を排し自らの元に幕府権力を一元化しようとする画策が
 『観応の擾乱』という政治抗争を勃発させるに至った」


という意味での "対立的" 二頭政治観からすると
有り得ない!! とか思われそうな世界観ですが
しかし、従来の説の方は意外にも
『観応の擾乱』誤解釈から逆算的に生まれた仮説であって
時系列に沿った史料の分析から実証的・論理的に導かれる事実ではなかったりするのです。


つまり… 従来の対立的二頭政治観の方が非現実世界だった訳ですが
特に、二人の兄弟仲に対する誤解は
広範囲に及ぶ各方面の考察に致命的な大打撃を与えてしまったかと…
例えば、『観応の擾乱』が観応2年(1351)半ばに再燃した時には
政務の座から退くように迫る尊氏に対して
 直義幕政を手放すまいと固執し徹底抗戦を敷いた」

…みたいな解釈がたまにありますが
これは全く史料に基づかない、事実と180度逆の誤解釈であって
実際は
天下静謐の為にと政務を辞そうとする直義
 尊氏が何とかして引き止めようと頑張った」

というのが一次史料的事実です。
(『大日本史料』観応2年7月19日ほか、8月6日など)
この辺の事情は極めて込み合っていて、真相の解明が非常に困難な部分とは言え
直義悪くないのに、誤解ばっかされて本当に可哀相… (´;ω;`)


「人は誰しも権力を一手に握り天下を独占したいという野心を隠し持っている。
 (その渦巻くような野心の前では、兄弟の関係など風前の塵より軽い)」

という一般論は、所詮は固定観念でしかなく
自分よりも遥かに天下を愛する直義には、通用しない定石です。
だから、直義(ってか尊氏も)の思考回路を読む為には
ひたすら地道に史料を分析して個別プロファイリングするしかない、とw



足利兄弟尊氏直義

(※クリックすると拡大します。1000×750px)



…と、話が膨らみ過ぎて来たのでこの辺でまとめに入りますと
直義が鎌倉「浄光明寺」に祈りを捧げる時は
康永3年(1344)の時も、観応2年(1351)の時も
実はどちらも、未来へ向けた希望の中に
ちょっと切ない気持ちが秘められていたようだ… という事が分かり
これは、以前『バーボンMuromachi』「『Muromachi通り』通信【2016年GW企画】」
で紹介した直義の和歌(わりと有名)の…


『新千載和歌集』
うきながら 人のためぞと 思はずは 何を世にふる なぐさめにせん

(この憂いの多い世の中で、人の為だと思わなければ
 何を生きていく慰めにしたらいいのか… )



…とも共通する感情である事からすると

つらい時や悩みがある時の直義は、その苦しみから立ち上がる為に
「天下の為」との思いを新たにする事で、いつも自身を勇気付けていた


と言えるのではないかと。
なんて健気で純粋なの (´;ω;`)

(…と感心してしまう反面
 "自分の為に" と思う感情が異常に欠落しているのは
 直義らしい菩薩気質とは言え(人間としては)少々気になる所ですが… )





直義ってわりと、心から楽しかった日々より
つらいのを我慢している日々のが多かった様に思います。
幕府創設から13年間は、実質天下最も大きな権力を振るえる立場にあったから
何でも上手く行っている人生に見られがちな所があって
(誰もがそうするように)絶頂にある自身の地位にうぬぼれたり
恣意的に強権を振るいもしただろう
…といった根拠のない憶測をされる事が多かったり
さらには
『太平記』の記述は誤り空事」(そらごと)が多いので
直義の指示で、違い目(=事実と違う部分)を(事実へ)訂正した」
『難太平記』今川了俊(←すっごい人格高い、廉直、誠実、頭脳明晰)
が証言しているのに(つまり、当然の正しい事をしただけ)
それをなぜか
「(権力者がみな歴史書にそうする様に、喧伝あるいは保身の為に)
 直義は自身に都合よく(事実を嘘に)書き換えた」

曲解されている事がある… というか
これが事実であるかのように既に通説となりつつあるのですが
(↑この曲解は本当に根拠が不明
 物事を利害だけで考える現代的思考特有の落とし穴… とでも言おうか)

しかし上述したように
直義には一般的な権力者像の定石は通用しないのであって
定石で描いた直義像を基にした考察は
史料的事実との矛盾乖離があまりにも大き過ぎて、説として成り立ちません。


直義今川了俊のように
 利害ではなく道理・道義的「善悪」最も高い価値を置く人間は
 間違った事曲がった事保身の為の嘘不正が何よりも嫌い… というか
 本能的に猛烈な拒絶反応を示すレベルです。そういう人間は居るのです。
 了俊の晩年の手記『難太平記』
 腐りまくった世の中に対して、最後に出力1000%で "真実" をぶっ放した
 了俊渾身の逆襲の一撃… という話は
 以前の「夏休みの宿題(その3)」の真ん中へんを。
 なので、その性質上意図的な嘘は無いと考えるのが妥当です。
 ただし『難太平記』了俊の子孫の為に書かれた私的なもので
 了俊が生きている内は誰にも見せるなよ、おーこわ、おーこわ」
 とか注意書きして若干怯んでいる、やばすぎる極秘本です。)



定石で描くいわば量産型の人物像は、お手軽ではありますが
大抵は使い物になりませんので
面倒くさがらずに史料から個別に分析しなければならない… といっても
実証的・論理的な人物像 "ゼロ" から緻密に描き上げる事こそが歴史学の醍醐味だと
私は思います。
「型に嵌める」が通用しないという事は
「未知の開拓」が待っているという事と同義なのです。
まずは定石の誘惑を振り払い、主観逆説自説をも断ずる覚悟を持つ事が
真実へと至る最初の一歩となるでしょう。


とりわけ、謎なほど自己愛に乏しく(←これはほんとだと思う、要考察
極めて利他的で人の痛みを自分の事のように考えてしまう直義のような
イレギュラー度最高レベルな人物は
根本の性格から行動原理行動の目的規範意識動機・情熱の根源まで
最先端技術を駆使したフルオーダーの最高級特注プロファイリングが要求される
スペシャルな捜査対象です。

"あの" 直義の花押(※)だって
その特異な花押の形だけで判断せず
真に史実の人物像と、当時の詳細な現状分析から理由を探れば
本当の意味が見えて来るはずなのです。


(※…貞和5年(1349)閏6月の『観応の擾乱』勃発直後から
 ほんの一時期だけ現れた、直義の謎の巨大変形花押のこと。
 (本来、直義の花押は極めて洗練されていて
  いつでも変わらず美しいのですが… つまりマジで異常事態です)
 この花押の解釈も(執事高師直罷免された直後である事から)
 「幕府を独占したという自信驕りが反映されたもの」…みたいに
 野心で理解される事が多いようですが
 もちろん事実は、そうではないのです。)





ガンダムってのはな☆*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆ジムとは違うのだよジムとは!!





という訳で、直義の分析は念入りに!というお話でした。
まあでも、直義は分かり易いのでそれほど大変じゃないんですよ
それより尊氏の方が…じゃなくて仮面被っているので
こっちのが大問題です。

上で言った、尊氏直義に政道を譲った理由である
「決して明かす事の出来ない "重大な理由"というのはもちろん
直義に関係する事なのですが
これまで、優柔不断で迷ってばっかのぐずぐず将軍と思われて来た尊氏
実は、ひとたび被ってる猫を引っぺがすと(にゃー)
驚くほどしっかりした考えと強い意志の持ち主で
強固に一貫した目的を持って行動していたりするのです。
ただ、ただし… 調べれば調べるほど
その一つ一つの(隠れた)目的、あるいは決断に迷っていた(ように見えた)理由
おめーの行動原理は全部直義かよ!!
ってくらい、あれもこれも直義という事が判明する
超絶的なブラコン将軍ってゆう (´・ω・`)
尊氏にとって直義
生きる理由生きる意味、それゆえ死ぬ事の意味であり、さらには…
幕府の意味さえも "直義の為" にあらねばならなかったのです、尊氏にとっては。


(…と言っても、尊氏天下の為との視点を片時も忘れなかった
 器めちゃめちゃでかい将軍ですのでご心配なく。
 それに、直義の為天下の為と同義でもありますから
 (↑直義はほっとけば天下の為に突っ走っていくから)
 その辺は問題ありませんです、はい。)




なぜ直義幕政(というか本心では将軍職)を譲ろうとしたのか?
なぜ天性に将軍の資質を備えながら、自分は退く必要があったのか?
なぜそこまでブラコン(重症)なのか?
なぜ(おそらく)足利高経だけに秘密を打ち明けたのか?

この辺がすべて "一つの理由" で繋がります。




…とそんな事になっていたなら
さぞかし二人は相思相愛兄弟だったのだろう… と思われそうですが
しかし、ここに大きな問題が立ちはだかるのでして
実は、尊氏からしたらそうだっただろうが
直義から見たらそうでもなかった可能性が高い
、のです。
というのも、尊氏 "ある理由" により(直義への思いを)
あまり表に出し過ぎないようにしていた(そうしなければならなかった)ので
何も知らない直義は、自分の方の思いのが強い(つまり直義→尊氏の一方通行
と認識していたっぽい… との可能性を色んな史料が示唆しているのです。

(ただしこれは大人になってから、特に鎌倉幕府終焉以降
 世の中が激動し始めてから徐々に顕著になって行く話。
 子供の頃は、尊氏も心のままに直義を(思いっ切り)可愛がっていたでしょう。
 未来がまだ夢の中だった子供の頃なら… )



ってゆうか何それ直義めっちゃ可哀相!!!! (´;ω;`)ブワアァァァッァーーーー滝滝滝
…とならざるを得ませんが
この辺の、運命的などうしようもないもどかしさが
足利将軍兄弟魅力というか真価なのかなぁ…と思ったりしています。
こんな(細かい)事情知らなくても
なんとなく、理屈じゃない潜在的な何かを感じさせる雰囲気が二人にはあって
それが時代を越えて人を惹き付けるんじゃないかなと。

初代将軍として天下に並び立ち二世紀半の一時代を築いた」
という事績だけでも十二分に魅力を放つ歴史的英雄ですが
しかしこの二人は "それだけではない"、宿命伝説を負った存在なのです。





超歴史機密☆*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆MUROMACHI−ファイル





ところで、尊氏直義時代の幕政を語る際
「二頭政治」という言葉は定番中の定番で使われる用語ですが…
まあ、両将軍とか両御所とか両殿とか言われたり
『太平記』でも
兄弟一時に相双(なら)びて大樹の武将(=将軍)に備わる事
 古今いまだ其例を聞かず…」

と記されているように
実際、当時の人々の間に "二人の将軍" という認識があったのだから
二頭である事には間違いは無いし、言葉自体が悪い訳ではないのですが
ただ…
「二頭政治」というのは政治制度(体制)を表す言葉ですが
尊氏と直義は別に "システム" として二頭制を採用した訳では無い、という事と
「二頭政治」と言うとどうしても政治上の対立的イメージが付随するので
やや誤解を助長してしまう言葉かな〜 と思います。


政治戦略としての "システム" と思ってしまうと
 幕府がこのような形となった本当の理由を誰も探究しなくなってしまうし
 「『観応の擾乱』システムの欠陥が招いたもの。
  (二頭政治体制における対立は歴史的必然である)」

 という誤った考察が生まれてしまったりと
 色々と真相が闇に閉ざされてしまうので。)


(※ちなみに "システムではない" というのは
 将軍としての尊氏と直義の関係についてのみであって
 それ以外の幕府機構(訴訟機関など)はもちろんシステムです。
 公正な裁判の実現の為に高度に組織化された "鎌倉幕府" を基礎にしつつ
 社会時代の要請に応えて、臨機応変に改善を重ねていった様子が
 「室町幕府追加法」などから窺えます。
 この幕府の設計・改編を主導した総責任者である直義
 今のところ(悪い意味で)鎌倉的懐古主義と大誤解されていますが
 (それで政治に失敗したとか、過去に拘って改革を拒んだとすら言われますが)
 しかしそれも実は、『観応の擾乱』の原因を直義の失政にあると仮定して
 逆算的に生まれた仮説に過ぎないのであって
 (尊氏直義の政道を求め続けたという上述の史料的事実からも
  直義の失政とする仮説には無理があります)

 従って… 時系列に沿った実証的考察によって明らかとなる事実、すなわち
 最高責任者直義の柔軟性新時代への適応力
 しかし新旧の秩序の波に惑い踊る事なく、普遍中庸に根ざす超然としたバランス感覚で
 鎌倉の良い部分を再興して受け継ぎ
 人治を退け、法治のもとに運営される知的国家の構築を推進した
 類稀(たぐいまれ)な手腕統治力、深い理念と先を見据えた構想力については
 改めて、先入観を排した正当な評価が必要なのではないかと思います。
 直義は、天下の為に道理に適(かな)っているとあらば
 社会通念に遠慮する事も過去に縛られる事もなく
 いくらでも新しい事を取り入れる考えの持ち主だった、という話については
 以前『バーボンMuromachi』「ひとまず尊氏直義観」
 私(=本サイト管理人)の返信コメントと
 「結願の日」で少し言及しましたが
 この時期の幕府の制度・構造の解明の為、追加法発給文書を分析するに当たっても
 定石による直義を基にするか、個別プロファイリングによる直義を基にするかで
 導かれる結果が虚構真実の二つに分かれるくらい180度違ってしまう訳で
 「直義の目的は、形だけの過去政局・政争にあったのでは無い」
 という視点は、とりあえずとても重要です。)



幕政における二人の関係は従来…
「多くの権限を直義が掌握していく(というせめぎ合いの)中で
 尊氏恩賞関連の権限だけは死守した」

という様な、完全な敵対関係だったと大きく誤解されていた事もあるくらいですが
実態としては
「幕政の権限を "戦略的に" 二人で分割した」のですらなく
二人の合意により、基本的にはみな直義が担う事になった中で
 恩賞関連だけが尊氏の元に残った

と言った方が現実に即していたりします。
(複数史料からの推測によると)おそらくは…
すべての権限直義に譲ろうとする尊氏に対して
 どうしても将軍であって欲しい直義
 (将軍の象徴たる)恩賞関連だけは尊氏の名で下命してくれと断固懇願した」

というのが真相なのではないかと、私は考えています。

尊氏は、直義に懇願されるとつい折れてしまうところがあるし
(↑建武2年(1335)に勅命による上洛中止した事とか)
何より、尊氏幕政固執した」とか
派閥に分かれて直義政治的に対抗した」とする解釈は
上述の『梅松論』尊氏政道に口出ししなかった」という記述とも
尊氏の和歌に表れた遁世2秒前状態の心境」とも矛盾するし
その他尊氏書状の記述など、多くの史料的事実と整合性が取れない上に
尊氏プロファイリングの結果と照合した場合、まさに
「そんな尊氏あり得ない」のです。



そんな訳で、誕生時の室町幕府をもっと的確に象徴する言葉として
(ちょっと「二頭政治」とは互換性が低いので、代わりという訳ではないですが)

 『兄弟幕府』

を個人的に推したいな〜とか思っています。
公家の日記で実際に「将軍兄弟」と呼ばれていて、史料的背景はクリアしてるし
誤解解けそうだし、なんか仲良さそうだし、楽しそうだし…

何より、この幕府は将軍兄弟の秘密が生んだ幕府である」という
最大級の核心を衝いた言葉でもある、ってゆう。
(しかもそれは、この国の本当の仕組み…というか
 世界の仕組みをも明かしかねない最重要機密だったりする訳で… )



mFBI捜査官としては(※mFBI=室町連邦捜査局)
二人の仲を引き裂き、機密の抹消を企む宇宙人の陰謀を阻止しなければ…!!
くっ、このままでは地球はいずれ…
何としてもやつらより先に二人の身柄を―――

しかしその一方で、将軍兄弟の秘密を追うmCIA(=室町中央情報局)宇宙人と情報を共有し始めてどうたらこうたら云々…



モルダー、あなた疲れてるのよ (´・ω・`)



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posted by 本サイト管理人 at 22:45| Comment(7) | ★チラ裏観応日記
この記事へのコメント
こんばんは。たびたびコメントしてすみません。ご迷惑でなければよいのですが。
直義の睫毛が美しすぎて、暫く見とれてしまいました。

巨大花押について、私も直義が驕るような人ではないと思っていました。ところが、若王寺文書と忌宮神社文書で、直義が尊氏の寄進状にそれまでつけていた御をつけなくなっているという指摘を、以前他サイトで見てしまいました。大日本史料データベースで見てみると、確かに貞和二年十一月二日寄進状(御寄進状ではなく)とあって、この日に寄進したのは尊氏…。『中世花押の謎を解く』に忌宮神社文書の写真が載っていましたが、やっぱり御がありません。これも、何か理由があるのでしょうか。

前から気になっていましたが、巨大花押の話が出たついでに書き込みました。
Posted by ねこ at 2016年08月05日 23:47
>ねこ様
コメントありがとうございます!! 全然迷惑なんて事はないです!
コメントなら何でも、「ど〜も〜☆」とかだけでもすごく嬉しいのですが
ねこさんのコメントはこっちが教わる事が多くて
じっくり考え直す事が出来て大いに糧となっています。
しかも、絵まで褒めて頂いて… 恐縮感激感極まり無いです m(_ _)m
文字や花押から一番強く受ける直義の印象は「美しい」だと個人的に思うので
そんな直義が描けるようになりたいなぁ〜と夢見ています。

さて、直義の謎の巨大変形花押については、そのあまりの大きさから
自信や驕りといった「絶頂期の万能感の表れ」と解される事が多いですが
しかし、いわば完成形といえる康永〜貞和の直義の洗練された花押が
形も綺麗ですが、線に強弱があって妖艶なくらいに美しく落ち着いているのと比べると
例の花押の方は、強弱の無い一様に太い線で
力任せに何かをぶつけるかの様に書かれていて
もし、権力者としての自信と自己主張から花押が大きくなったのだとしたら
もっと線が美しくなっているはずでは…?
…と疑問に思ったのと、それから
仮にこの花押が(幕府独占を志向する直義の)「将軍に対する示威行為」
だと考えたとしても
花押が据えられた文書をまず直接目にするのは、直義周辺の奉行人や受け取る側な訳で
正常な直義が、第三者に対してそんな恐怖政治じみた事するかなぁ…?
…とのいくつかの違和感により
この花押を記した(というか、記してしまった)時の直義は
自信どころか只ならぬ精神状態だったのではないか?…と考えるようになりました。

ただ、まだ尊氏直義時代に嵌り初めだった頃は
直義は常に冷静、寡黙、謹厳であまり感情を表に出さないタイプだと思っていたので
この花押の意味も「滅びをも恐れず道理を貫こうとする直義の悲壮美」…みたいに
ちょっと感情的に考えてしまっていましたが(→「画像修正しました」2014.10.21)
しかし色々と史料を調べ始めてからは、どうやらこれは
将軍尊氏に対し "左武衛将軍" として対抗心を燃やしていたのではなく
兄尊氏に対し "弟" として並々ならぬ感情を抱いていた…というか
相当に激おこぷんぷんに拗ねていたらしい、という事実が見えて来ました。
(「直義の年齢(その2)」2015.11.3で
 「子供みたいに拗ねる事はあったらしい」と言ったのはこの花押の件です。)

というのも、(今は詳細な解説が出来なくて申し訳ありませんが)
『観応の擾乱』の開始となった貞和5年(1349)閏6月2日晩の騒動は
一般に『太平記』の記述により「直義が高師直に対して先制攻撃(暗殺)を仕掛けた」
とされていますが、実はこれ「高師直からの直義に対しての謀略」つまり
狙われたのは直義の方であり
本来、失脚どころじゃ済まない相当な事件だったと思われるのですが
(↑暗殺まで企図していたのか、まだ諜報段階だったのかは判断しかねますが)
それなのに、尊氏は(一見)直義の訴えを真剣に聞き入れなかったようなのです。
…というのも
この件で高師直は、執事職を罷免され所帯を召し放たれるという処分は受けたものの
主君への危害という事件の重大さを考えたら、それだけでは軽過ぎるだろうし
さらにこの3か月半ほど前の3月14日
尊氏邸が火災で焼失してしまった為、尊氏は高師直邸に仮住まいしていたのですが
この騒動(閏6月2日晩)の後もそのまま、新邸が完成して自邸に戻る8月10日まで
尊氏は何事も無かったかのように高師直邸に住み続けていたようなので。
(↑確証はありませんが、別の場所に移動したという記録もないので
 たぶんそのままだったかと。)

もちろん、尊氏は直義の話を信じなかったり軽視したのではなく
どうやらこれ以前から、高師直の謀略に関するもっと深い事情に薄々気付いていて
警戒はしていたようで
今回の件も、表立った大ごとにせずに水面下で収束を図る、という
尊氏なりの考えがあっての振る舞いだったと思われるのですが
(高師直邸に居続けたのもその一環で、情報収集&実働阻止が目的だったかと)
しかし、何も知らない直義からしたら
自分が狙われたと言うのに、大好きな兄は反応が薄くてのらりくらりとしている…
となったら
それはもう、悔しくて悔しくてもどかしくて悔しくてどうしようもなかっただろうし
それだけではなく、高師直邸に住み続ける尊氏の身にもしもの事があったら…
とか考え出したら、もう気が気じゃなくて夜も眠れなかったと思います。
(この花押が据えられた直義書状で、「忌宮神社」に天下静謐の祈祷を命じています。)
そりゃあ、直義頭どうかなっちゃうよ…と。

つまりこの花押を記した時期(ほんの2か月前後)の直義は
幕府の一方権力者として執事高師直を退け、次は将軍尊氏をも風下に…
などという幕府独占の絶頂期にあった、のでは全く以てなくて
権力者以前のただの一人の弟として、分かってくれない兄への不満とその身の心配で
世界の終わり寸前の世紀末最終段階くらいの脳内状況だった
…という大変な事態にあった訳です、直義的には。
(分かってくれないという事がこんなにももどかしいのは
 兄尊氏に対する愛情の裏返しなのでしょう。)

(※長いので一旦切ります、下に続く↓)
Posted by 本サイト管理人 at 2016年08月07日 23:22
(↑上の続き 2/4)

さて、この花押が据えられた現存4通の直義書状のうち2通の文面で
上位者への礼儀上(尊氏の)「御寄進状」と書くべきところが
「御」が付けられずに単に「寄進状」となっている、という事実については
私は以前
【上島有『室町幕府草創期の権力のあり方について』
 (『古文書研究』第11号 1977年11月)】
 …の「五 尊氏・直義の対立について」
で解説されているのを読んで知りましたが
実は、今回ねこさんの話を伺うまで忘れていましたorz 面目ない&感謝です m(_ _)m
というのも、この論文は発給文書の分析について
面白い視点や貴重な情報が詰まったとても参考になる論文なのですが
(その他、同氏の『足利尊氏文書の総合的研究』『中世花押の謎を解く』には
 いつもお世話になっています)
ただ、基本的に尊氏に好意的(というか完全に尊氏派)で(…私も尊氏は大好きですが)
尊氏に逆らったとされる直義にはかなり厳しい論調なので
これを読んだ当初は
「ちちち、違うもん! た、直義は尊氏を超えようなんておおお思ってない!」
との思いから、若干目を背けてしまっていたのですが(それで忘れてた… )
しかしやはり、これは非常に重要な指摘だと思います。(まあ当然ですが)

ただし、これを「直義が将軍尊氏を超える地位を志向した証拠」と捉える事は
この翌年からの、観応元年末〜観応2年初めにかけての大合戦(※直義方勝利)の後
「将軍家(=尊氏)無為御入洛、天下大慶」(by直義)と
直義が尊氏の帰りを誰よりも大喜びしている事実と整合性が取れない為
(その他、尊氏の無事を祈ったり、懇切丁寧な饗応でもてなしたり… )
別の解釈を考える必要があると思います。

ではまず発給日の早い方から、「若王子神社文書」の
"禅林寺新熊野社宛" の直義裁許状(貞和5年閏6月27日)についてですが
上記論文では
「尊氏の寄進状のことをたんに「寄進状」とだけいって、
 「御寄進状」とはいっていない。」(※本文より引用)
と説明されていますが
『大日本史料』貞和5年閏6月27日の全文を確認すると、この裁許状は実は大半は
「康永四年四月六日 御寄進状」「既給 御下文…」「称 御寄進…」「掠給 御下文…」
と「御」が付いていて
最後の最後だけが「依先日 寄進…」「然則任 寄進状…」となっている
という、ちょっと変わった文面なのです。

なんか最後だけ面倒くさくて省略してしまったんだろうか…という訳ではないでしょうが
他にこの様に「御」有り無しが混在している裁許状はあるのだろうか?と思って
目に付いたものをざっと確認してみましたが
どうも当該フレーズがこれほど繰り返されている事例が見当たらなくてなんとも…
「まあ、普通は全部「御」を付けるよなぁ」と言っていいと思うので
その前提でこの直義裁許状の意図を推測してみますと
もし明確な政治的意図によって「御」を付けなかったのだとしたら
全文を通して一貫しているはずで
そうするとこれは、むしろそのような強い企みが無かった事の証になってしまうのです。

文面の途中から変わっているという事は
文章作成の最中に心境の変化が起こった(心が乱れた?)ような気がするのですが
もしかして、あんまり尊氏関連のフレーズが続くもんだから
「兄上、兄上、兄上…」と脳内ループしている内に
だんだん心がイライラぷりぷりして来て仕舞にぶちっと…
…したのかどうかは、この裁許状からだけでは分からないので
もう一通の直義書状を見てみたいと思います。

(※長いのでまた切ります、下に続く↓)
Posted by 本サイト管理人 at 2016年08月07日 23:23
(↑上の続き 3/4)

という訳で次に、「忌宮神社文書」の直義施行状(貞和5年7月12日)についてですが
こちらは一箇所だけで、そして確かに「寄進状」と表記されています。
そこでまず、この直義施行状の特徴を挙げてみますと
宛所が直義養子尊氏実子の "直冬"(めっちゃ身内)であるという事
前年12月26日に発給された同内容の執事高師直施行状の "再発給" であるという事
そして、この直義施行状によって恩恵を受ける人(※下文拝領者)が
尊氏や直義にとって特別な神社である「忌宮神社」の大宮司国道であるという事です。
(↑九州落ち後の奇蹟の復活は、この社の神功皇后のお蔭だと思っている)

この直義施行状は、直接的には大宮司国道の申請をうけて発給されたものですが
(↑という事になっている、少なくとも文面上は)
それまで施行状は、執事やそれに準ずる者が発給するのが通常だったので
直義名義で、というのはかなり特別な印象を受ける(というかこの時点では "有り得ない" くらいの印象?)…という事と
これに合わせて同日同社に宛てて
「天下静謐の祈祷」を要請する直義御教書が出されている事を鑑みると
この直義施行状には、相当に直義の "私的な" 心情が込められているのではないか?
という推測が可能かと思います。
すなわち…
御利益絶大な「忌宮神社」に、この一大事の解決を全力でお願いすると共に
(↑つまり、直義は現状に不満で全く納得出来ないでいた)
特別大事な神社なので(ひどい事した)高師直の施行状を上書き…
というのは考え過ぎかも知れませんが
ただし、再発給なのに、前回発給分の高師直施行状についての言及が無いので
一見再発給に見えない…というのは
(前回と宛所も違うしたまたまかも知れないけど)ちょっと気になる…
という事は
「御」を付けずに「寄進状」とした(してしまった)事と合わせて考えると
この施行状の宛所が他ならぬ直冬、というプライベート感から
(といっても施行状は最終的に下文拝領者である「忌宮神社」に保管されるものですが)
尊氏への不満やその他諸々を素直にぶちまけてしまった(というか、その為の施行状だった)のではないかと。
(↑つまり、直義は相っっ当にぷりぷりしている)

(同時期、直冬の花押の形状が、直義の変形花押に類似する事からも
 直義はこの時の心境を、備後国鞆にいる直冬へ伝えたのだと思われます。
 ただしこの後、『観応の擾乱』が本格的に開始した段階で
 直冬は「両殿(=尊氏と直義)」の為に戦うと宣言している事から
 直義から尊氏への不満というのは、決して嫌悪や憎悪だったのではなく
 (好きなのに)分かってくれないイライラだった、と言えるでしょう。)

すなわち、これらの事実に上述の背景を総合して考えると
この「忌宮神社」の書状の件は
「"天下の執権直義" が将軍尊氏の寄進状に「御」を付けなかった」という
社会的立場からの尊大な行為だったのではなく
「"子供直義" が当て付けで「御」を付けなかった」という
兄尊氏への、弟直義のぷんぷん行為だったと捉えるべきかと。

そして、この推測が確かならば
先ほどの「若王子神社文書」直義裁許状もやはり、穏やかならぬ心境の直義が
裁許状作成の途中で、左武衛将軍から弟に戻ってしまった…
という可能性が最も高いのではないかと。(なんか有り得ない話ですが)

(これらの書状や花押は、尊氏が直接目にするものではないとはいえ
 その話は(常に情報収集を怠らない)尊氏の耳に入っていたのは確実で
 直義としては、自分の話を真面目に聞かない尊氏に
 どれほど怒っているかを分からせてやりたい、くらいの気持ちはあったかとw
 そう考えると、あそこまで特異な花押を書いた直義の心境も納得です。)

どうも直義は、いつもは誰よりも超越した聖人で大人なのに
尊氏の事となると、時々すごく子供っぽくなってしまったり
信じられないような力を発揮してしまう所があったようです。

建武2年(1335)11月に新田義貞相手に鎌倉から挙兵を決行したのだって
当時既に新政権が末期状態で、誰かによる政道の建て直しが求められ始めていて
天下の為、万民の為という決心があったのは事実とは言え(※「浄土寺法楽和歌」)
よくよく考えると、必ずしも勝算があったとは思えない…というか
実は一か八かのとんでもなく大胆な行動だった訳で
これは、尊氏誅伐を強弁する新田義貞に対する「弟直義の臨界マジ切れ」を考慮しなければ、説明がつかない現象かと思います。

直義って、基本的に真面目で冷静沈着というイメージが一番好かれている理由かなぁ…
と思うので、こういう意外な面はあまり好まない人もいるかも知れませんが
でも私としては
"あの" 直義が唐突に無敵の子供パンチ繰り出す(しかも対尊氏)…とか
すごく好き過ぎるのですが…。(本人はそんなつもり全然無いんでしょうが。)

以上、またもう少し細部の解釈が変わりそうな気がしますが
(というか大きな間違いもあるかも知れない… )
とりあえずこれが現時点での私の解釈です。
直義の性格は簡単…とか言ってしまいましたが、やっぱりかなり難しいかもです。

(※すみません、終わりと言いつつもう少し↓)
Posted by 本サイト管理人 at 2016年08月07日 23:25
(↑さらに上の追記です 4/4)

ちょっと直義の子供っぽさを強調し過ぎてしまったので訂正です。

直義がこの特異な花押を用い始めた切っ掛けは
『観応の擾乱』の開始となった貞和5年(1349)閏6月2日晩の騒動ですが
この時はもちろん、直義だけでなく幕府(=直義邸)に祗候していた武士達も
特に直義に近い人間は騒動の実態を知っていた訳で
直義が怒っていた事も、この花押を記す気持ちもよく理解していただろうし
そもそも、彼らも一緒に今回の事件には憤っていたでしょうから
「直義が個人的に、私的に尊氏に不満を抱いていた」という言い方は
少々語弊があるかも知れないな…と思い直しました。

「この花押や「寄進状」の表記は、社会的地位に基づく政治的意思表明ではない」
という事には変わりはありませんが
(そもそも、直義に尊氏を超越したり否定する意志があったなら
 尊氏の意向に構わず、単独で高師直の処罰に出ていたと思います)
しかしだからと言って、完全に私的な問題だったのではなく
事情を共有していた者達も多い半公然の話で
半分は、彼らを代表する立場で怒っていて
でも心は弟として、兄の同意を求めていたのでしょう。

以上、長々とすみません。まだちょっと詰めが甘かったようです。
当時の実情に迫りたいと、出来るだけ多くのパターンを想定しているつもりですが
細部まで実態を想像するのはなかなか至難の業です。
Posted by 本サイト管理人 at 2016年08月08日 03:27
返信ありがとうございます。
そのようなことがあったのに尊氏が聞いてくれないとなると、直義が怒るのも無理ないかもしれませんが、文書にまで出るのは驚きです。

私の勝手な想像で、全然当たっていないかもしれませんが、直義が尊氏を饗応したことが軽視されがちなのは、桜井英治『室町人の精神』に書かれている「決して恨みを忘れたりしないが、同時に礼節を尽くすことも忘れはしない」という中世人の性質のためではないでしょうか。でも尊氏と義詮の無事を祈ってもらったという記録が無視されるのは一体…?
Posted by ねこ at 2016年08月09日 23:29
>ねこ様
直義による尊氏饗応の件は「本心では恨んでいても(建前では)礼節を尽くした」
と解釈されているのでは?との事ですが、確かに、すごく納得しました!
『観応の擾乱』の特にあの大合戦を「相手の排斥を目的とした尊氏と直義の権力抗争」と捉えるとなると、不都合な史料的事実が多々あって
この辺を総合的にどう理由付けするのだろう…と常々疑問に思っていた所ですが
この饗応の件だけとってみたら、そうドライに考える事も可能ですね。
(「互いに内心ではわだかまりを残した非常に気まずい会合だった」
 …という解釈は、そういえば結構目にする気がします。礼節とするなら納得です。)

とは言え、交戦中に直義が尊氏に「兄上には別心は無い」と書状を送ったり
負けた尊氏がノーペナルティーな上に、尊氏の為に奮闘した武士42人に恩賞を約束…
…といった他の事情を勘案し出すと、整合性が取れなくなってくるし
やはり決定的なのは、観応2年(1351)正月21日の
直義が尊氏と義詮の「息災安穏、帰洛」を願って、尊円親王に修法を依頼した件で
これは建前では説明が付かないと思います。
尊円親王に依頼した修法と言えば、直義の重厄の「冥道供」の他
直義夫人の著帯の儀や安産の為に祈祷が行われた記録があったりして
特別に冥加を期待する時のスペシャルだったらしい…との印象を受けるのと
中世の武士だからこそ、神仏への祈願に嘘や建前を持ち込む事は有り得ない…のに
なぜ見過ごされているのか、私も疑問です。

直義の花押や「寄進状」表記に関しては
右筆を含めた奉行人など周辺の武士達も同じ心境だっただろうとは言え
"あの" 直義がここまでするというのは、しかも一つの裁許状の最初〜中盤と最後で表記が変わる一貫性の無さとか、ちょっと(良い意味で)笑ってしまうのですが
やはりこれは "冷徹な敵愾心" とは程遠い、どう見ても冷静さを失った状態だったかと。
尊氏の事となると情熱が先行してしまうというのは
直義の強さでもあり、弱さでもあり
でも私としては、それこそが直義の直義たる所以なのではないかと思っています。
…とすると逆に
尊円親王へ修法を依頼してまで願った尊氏の無事と帰洛が叶った時の直義の心は
一片の嘘偽りも無く、押さえ切れないほどの嬉しさで溢れていて
それが、心のこもった饗応にありのままに表れたと考えるのが
最も妥当な解釈かと思います。

そして、悲しい事にこの辺の想像を超えた純粋さが
直義がひとり先立ってしまった真相に繋がるのではないかと考えています。
Posted by 本サイト管理人 at 2016年08月10日 22:02
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