2014年04月03日

足利尊氏と足利直義

(チラ裏シリーズ)

あーさて、このブログは本サイト『戦国黎明記』への
コメントの場として用意したのですが
本サイトがまるでβ版状態なので、その間に合わせとして
ここで「チラ裏シリーズ」を展開することにしました。

では早速、プロト『三、室町人物記』としての『チラ裏人物記』
第一弾はもちろん、室町幕府の創始者、足利尊氏足利直義です。


足利直義     足利尊氏
(2015.3.9リメイク)


ビジュアルにつきましては
確かな史料を元に考察した史実の人物像に基づいて
割と真面目に妄想していますので、ご安心下さい。

ま、写真の無い時代の人物の "本当の容姿" を知る事は不可能ですが
ただ、尊氏は結構、肖像画や木像が残っていて
特に、京都『等持院』の木像や、尾道『浄土寺』の肖像画
当時の面影をよく留めていると思います。
この人は、確実に史実でたれ目のおっさんですよ。間違いない。


直義の方は残念ながら、その姿を伝えるものは残っていないのですが…
…と、ずっと思われてきたのですが、
実は最近になって、最も有名なあの画が…
あの、肖像画の最高傑作ともいえる凛々しい武士のその本当のモデルが…

   直義かもしれない!!

という隠された事実が明らかになって来ました。おお!
…と言っても
まだ完全にその説が浸透した訳では無く、反対意見も無い事はないのですが
ただしこの説は
よくある「流行りの定説否定」とか「逆説カッコイイ☆」 の類で無い事だけは
断言しておきます。
きちんとした実証的な考察を重ねた、信憑性の高い学説なのですが…
まあ、今はこの辺で止めておきます。
 (うん、まあそのなんだ、ヒントは…神護寺三像…)


まあしかし、この肖像画一つ取ってみても
なんで足利将軍はこんなにも
歴史の中に忘れられた存在になってしまったのだろう、と思う。
室町幕府創設時に掲げられた『建武式目』
天下泰平を願ってやまなかった尊氏直義の諸政策を見れば
彼らがどんなに人々を愛していた将軍だったか
すぐに分かりそうなものなのに。

特に直義は、日本の美学を詰め込んだような最高の武士です。
直義を生み出した足利家は日本の栄誉だと思う。(あ、尊氏ごめんw)

(…と、これまでは
 その不可解さから(それから、私が直義好きなのもあって)
 やや尊氏を、正しく理解&評価出来ていなかったのですが
 最近、実は尊氏こそ
 常人の想像を超えた、奇跡的な将軍であるという事に気付いてしまいました。
 (もちろん、直義の素晴らしさには変わりはないがw)
 これまで謎に埋もれていた迷宮将軍尊氏の真相については
 なるべく近いうちに披露したいと思っています。
 ―――2014.11.28追記 )



尊氏直義という「二人の将軍」、そしてそこから始まった「室町」
これまで一番誤解されてきた幕府ですが
今一番思い出して欲しい本当の時代であり
これから永遠に誇れる本物の将軍です。
どうか真実が広まって欲しい、そればかり考えています。


ところで、尊氏直義のような人物がこの時代に生まれたのには
実は理由があるようなのですが…
 (ピンポーン)
おや、こんな時間に誰だろう?………



posted by 本サイト管理人 at 23:46| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年04月05日

足利義教

(チラ裏シリーズ)

『チラ裏人物記』第二弾は
ありとあらゆる意味で最強の6代目将軍、足利義教です。

足利義教
(2015.5.23リメイク)

なんか目が不敵に青いのは、
別に魔晄を浴びたソルジャーだとかいう訳ではなく
私は史実妄想主義ですので、きちんと根拠があります。

義教といえば…『青蓮院門跡』
そして『青蓮院門跡』といえば…国宝、青不動明王!!
だから、青!!

ちなみに、不動明王(ふどうみょうおう)とは
仏教において全宇宙を司る大日如来の、その化身であり
姿には憤怒の相を表すも、内心は慈悲深く
「不動の剣」と「紅蓮の炎」で
あらゆる魔障煩悩を断ち切り焼き尽くして下さる、という
おっかな有難くて激しすぎる明王様です。


不動明王
(写真は、平安時代の不動明王立像)


ところで、不動明王が右手に持つ悪魔降伏(ごうぶく)の剣は、
「三鈷剣」(さんこけん)または「倶利迦羅剣」(くりからけん)といい
「倶利迦羅龍」という龍が巻き付いている
…と言われているのですが
実際の彫像や絵画では、意外にも龍が巻き付いた剣をあまり見ない。
うーむ、こうなるとどうしても本物が見たくなる
…と思っていた時に気がついた

  『青蓮院門跡』の青不動明王の剣には、が巻き付いている!!

これはどう考えても降魔力∞無限大ですよ。
スカウターぶっ壊れるレベル。

まあ、『青蓮院門跡』の青不動については、一度公式HPを見てみて下さい。
ちなみに、平安時代の作なので
義教は確実に目にしていると思われます。
 ん?…という事はもしや、
義教の霊剣エクスカリバー「正義の剣」の正体は―――
不動の倶利迦羅剣だったのか!!
なるほど。
どうりで、義教の魔力は人界で許されるスペックを超えていた訳だよ。



……とか、史実妄想はたまんないし止まんないし最高ですね。
でも煩悩はほどほどに。

まあとにかく、不動明王様と同じように
義教も一見激しそうで、その実、内面は驚くほど繊細で慈悲深いのです。
『嘉吉の変』によって
義教が故郷の仏界(ぶっかい)に帰ってしまわれたことで
その後の天下がぶっ壊
とかいう笑えない話は置いといて、義教についてやはり特筆すべきは

    史上最も、主上から厚い信頼を得ていた将軍

だと言うことです。
これだけは、妄想の混じりっ気なし、確実な史実です。
これ以外の今日の話は、大半が妄想です。



posted by 本サイト管理人 at 02:03| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年04月06日

足利義政と足利義視

(チラ裏シリーズ)

こんにちは、『チラ裏人物記』第三弾は
天下お騒がせ足利兄弟、義政義視(よしみ)です。


足利義政    足利義視
(※2015.5.7リメイク)


この二人の人物像については
本サイト『2-6』以降を読んで頂ければ
だいたい想像が付くと思いますので、ここでは省略します。
ま、上の画像だけでも、言いたい事はほぼ伝わっていると思います。


義政は、なんかもうため息が聞こえてきそうですね。
まあでも、無責任だ!と一概に責めないでやって下さい。
公方ってのは想像以上に大変なものなのです。
特に、義政の時代は近臣のドロドロ感がMAXでしたから
ある意味、天下の全ストレスを一手に引き受けてくれていた
とも言えるのです。
だいたい、いきなり今日から義政やれとか言われたらどうします?
嫌でしょ?

 義政「俺もやだよwwww」

とは言え、この "義政の憂鬱"
現在の茶道の作法に多大な影響を与える事になるのです。
な、なんだってーー!!?
ってか "あれ" はお前のせいだったのか!!
ま、続きはまた今度。


さて、義視
正義に目が眩んでいる間は、コケても痛さを感じそうにありませんね。
ってかたぶん
この人は自分がコケたなんてこれっぽちも思ってないですよ。
あんな散々な目にあったら、普通は心が挫けます。
それどころか、コケればコケるほどバージョンアップしていくし。



ところで、この兄弟の構図
ちょっと尊氏直義兄弟に似ていると感じた方もいるでしょう。
尊氏義政は、結構自分の事で悩みを抱える性格だし
直義義視は、自分そっちのけで天下の事しか愛せない
典型的なムロマチスト
しかもコケるのはいつも後者
ただ、尊氏と直義の結末は、"胸が張り裂ける悲劇" なのに対して
義政と義視については
"腹がよじれる喜劇" みたいな所が無きにしも非ずですが。

(※ただし、「自分の事で悩みを抱える…」と言っても
 尊氏が抱えていた悩みは
 ちょっと想像が付かないほどの大きな悩みです。
 それを隠す為に「自分ひとりで抱え込んでいた」、という感じです。
 どうやら尊氏は、相当重い「天命」を背負いながら
 天下の為に生きていたらしい…
 という事に、最近気付きました。
 少なくとも、義政と性格的に似てるって事はありませんでした。
 ごめんw
 ―――2015.4.1追記 )




ちなみに、直義の最期についてはいくつかの説があって真相は謎であり
人によって見解が分かれています。
私の思う所は、またいつか改めて述べる予定ですが
ざっと結論だけ言っときますと

 「直義の服毒も、それを隠して表面上は病死としたのも
  すべては尊氏と直義の合意があってのものであり
  それは、それが擾乱を終わらせる唯一の方法だったから」

だと考えています。
あーもう、この辺は考えるだけで泣けてくるからもう嫌だww

(…と、これまでは思っていたのですが
 最近、真相はそうではない(というか全然違うw)
 という事に気付いてしまいました。
 近いうち解説したいと思いますが
 事実は小説よりも…百倍悲しかった (´;ω;`)
 ―――2014.11.18追記 )



最後に、義教はどっちタイプか?と言う事ですが
おそらく…両者が融合しています。
一見、直義義視属性のようでいて、
花押の書き方(デザインではなくて)に尊氏との共通点があったり
(この花押の話はまたいずれ)
それから、義政の『東山文化』は
実は義教によって基礎が築かれたものなのです。
文化センス抜群ですよ、義教は。

足利家の将軍ってのは、一人の人間として生まれてくると
スペック高過ぎで常人の理解を超えてしまうらしい。
それじゃあ、次は兄弟で…と改善策を講じたら
時代がすっかり天狗化してたばっかりに
義政義視も、もはや天狗展開を避ける事が出来なかった。
ああ、義教の結界さえあればこんな事には! くっ!(妄想中)


ところでこの兄弟、実は重要なのがもう一人加わります。
次回、足利三兄弟!!
もうこれ以上笑わせないで下さい。



posted by 本サイト管理人 at 15:27| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年04月07日

足利三兄弟

(チラ裏シリーズ)

やあ (´・ω・`)
ようこそ、バーボンハウスへ。
この将軍御用達「天野酒」はサービスだから、まず飲んで落ち着いて欲しい。

うん、「また」なんだ。済まない。
仏の顔もって言うしね、謝って許してもらおうとも思っていない。

でも、伊豆堀越の空を見たとき、君は、きっと言葉では言い表せない
「ときめき」みたいなものを感じてくれたと思う。
殺伐とした室町の中で、そういう気持ちを忘れないで欲しい
そう思って、足利成氏討伐をお願いしたんだ。

じゃあ、反省会を始めようか、兄さん。       義政




…という訳で今日は
 「また騙されて関東に飛ばされて来た訳だが」
足利政知(まさとも)です。
 (※ちなみに上記の元ネタは「バーボンハウス」で検索!)

足利政知
(※2015.5.7リメイク)

政知義視と同様、義政のアホ政策の被害者ですが
(※政知については、今のところ本サイト『2-6』の真ん中辺と
 『2-10』の真ん中よりちょい上辺りに登場しています)
しかし彼は
文句も言わずに真面目に堀越公方としての職務を全うします。
なんたって、23歳まで天龍寺の香厳院で門主をしてた還俗公方ですから
徳が高くない訳があろうはずがないに違いない!

( ※「天龍寺、夢窓国師、足利尊氏、足利直義」のキーワードは
 室町の超重要チェックポイントです。 忘れずにいて下さい。)


ただし、義政義政
結果的にとは言え、兄弟を還俗バーボン送りにしてしまった事を申し訳なく思っていたようで
政知義視の子息の面倒をよく見ているのです。

(政知の子を天龍寺
 義視の子を慈照寺(銀閣寺)に入寺させています。
 ただし、この優しさが後に裏目に出る…のですが。
 なんてこったw
 しかも、両者とも『明応の政変』に関わってくる、ってゆう。)

まあ、詳しくは本サイトの方で訳を述べますが
政知は○○家の○○と結託して京都の公方の座を狙ってなんかいません。
彼らに降りかかる運命は冷たかったけれど
彼らはそれぞれに兄弟を信頼していたのです。




ところで、政知
義政
が生まれる前年(正確には約半年前)に生まれた異母兄なのですが
と誤解されていることがあります。
(…例えば、当時の記録では『大乗院日記目録』が
 『碧山日録』がとしている。)
これはなぜかと言うと
実は、数え年では、政知と義政は "同い年" になってしまう
と言うカラクリのせいなのです。


「数え年」とは、生まれた年を1歳として
以後(誕生日ではなく)年の初めに年齢を加算していく数え方ですが
当時は "旧暦の1月1日" ではなく
"立春" に歳をとるとされていたようです。
…つまり
太陰太陽暦に基づく旧暦の1月1日と、十二節気に基づく立春
どちらを「年の初め」と見るか?
と言う話ですが
両者には微妙なずれがあり
立春が、1月1日の前後どちらに来るかは、年によって異なります。

  年の内に 春は来にけり 一年(ひととせ)を
     去年(こぞ)とや言はむ 今年とや言はむ


これは『古今和歌集』の最初の一首ですが
1月1日より "前" に立春が来た年の年末に

 「あー春来ちゃったよ、まだ年明けてないけど
  この一年はじゃあ去年なの? それともまだ今年なの?
  どっちなの!!」

という
割とどうでもいいけど気になってしょうがない感を詠った歌です。



…さて以上を踏まえて
政知は永享7年(1435)7月12日生まれで、この時点で1歳
義政は永享8年(1436)1月2日生まれで、この時点で1歳
しかしこの年は、7日後の1月9日が立春だったので
この時点で2人は同時に2歳となります。
つまり、(太陰太陽暦に基づく)生まれ年は違うのに
立春の関係で同い年になってしまい、誤解が生じたという訳です。

(※母の身分差から、兄なのに弟とれていた
 …とする解釈がありますが、そうではありません。
 ちなみに、義政の母も正室ではなく側室です。)



という訳で、本サイトの方でも
政知にはしっかり「足利三兄弟」の長兄として活躍してもらいます。
義政が兄じゃ、頼りないしww
(もちろん、登場しないだけで義教の子息はもっといますが。)

まあややこしい話ですが、義政の年齢については
実質永享7年(1435)生まれとして計算するとらくちんです。




それにしても、生まれて一週間で2歳ってw
しかもこの年は、さらに12月20日も立春だったので
義政はなんと、生まれた年に既に3歳となったのです!
だから、俗に「三歳若君」と言われてて
しかも幼名が「三春」ってゆう。
(読みは "みはる" か "さんはる" か知らんけど
 個人的には後者を支持します。 なんかおもろいからw)


まあちょっと笑ってしまいそうな話ではありますが
当時、公方公方の子息に目出度い事があるってのは、大変な吉兆でもありましたから
人々は大いに喜び合ったことでしょう。

現在、"将軍" つまり武士の頂点と言うと
「武力で勝ち取ったボス猿的地位」というイメージですが
室町の公方様というのは
それとはちょっと(いやかなり)違います。
なんちゅうか、基本的にみんなに愛されているのです。
よく、足利将軍家
武士のトップの割りに「権力基盤が弱い!」と言われますが
それは彼らの失策なのではなく
武力経済力で圧倒しなくても統治が可能だったからに他なりません。
みんなの支持を集める謎のへっぽこ公方様! …失礼。



しかしそれは逆に、公方に不吉な事があれば
人々は天下の災いを予感して恐怖することになる訳で
それが、これまた『明応の政変』の遠因になるのです。

ちなみに、上で紹介した和歌もまた
『明応の政変』の真相の一端を語ってくれることになるので
よく覚えておいて下さい。



…と、目出度い春の話が
『明応の政変』の闇で、暗雲立ち込めて来てしまった。
春の天気は変わり易くていけない。

ところで、義政天気で気分が変わったらしいですよ。
 (↑これ、一次史料(日記)の記述ww)
ま、「春に三日の晴れなし」って言うしね。
…ってそれ、三春ディスってんのかよ!!

室町幕府



posted by 本サイト管理人 at 23:52| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年04月09日

畠山義就と畠山政長

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』です。
今日は…
 「俺が河内だ」自称実質河内守護 畠山義就
 「いやそれ俺の国…」室町不憫界の重鎮 畠山政長です。


畠山政長     畠山義就
(2015.2.27リメイク)


2人は実の従兄弟ですが(義就の父持国と、政長の父持富が兄弟)
持国が生前、政長を自身の猶子にしていたらしく
彼らは義理の兄弟でもあります。
ああ、また厄介な兄弟が…

上の肖像画は、本サイトの解説通りのイメージだと納得して頂けることかと思います。
…って、いや!
政長はこんなおっかない顔しない!
生き仏の政長としたことが、義就の修羅っ気に毒されるなんて!くっ!

では、いつものきよ侍(きよざむらい)に戻ってもらいます。


畠山政長
(2015.5.9リメイク)

これは本サイト『2-4』
歌の解説をした時に例で挙げた連歌の発句ですが
実はこれ、政長が詠んだものだったのです。


この連歌会
当代随一の超有名連歌師の宗祇(そうぎ)が、上京に草庵を新設し
そのお披露目会として開かれたもので
草庵の名前は「種玉庵」と言いました。
(ちなみに、政長の発句に脇句(第二句)を付けたのは宗祇)
日付は文明8年(1476)4月23日
ちょうど深見草(=牡丹)の季節です。
(ただし、旧暦だからちょっとずれるかな)
それから、『古今和歌集』序文の冒頭より…

大和歌は、人の心として、よろづの言の葉とぞなれりける」
 (大和歌とは、人の心を種として生まれてきた無数の言の葉である)

これらを踏まえて―――

  「この新しい草庵でこれから、言の葉の種
   牡丹のように美しく咲き続けていきますように」


という思いを詠んだのが、上の発句なのです。
…って、清いwwきよすぎるww
しかも、憎いほど気の利いた発句!
政長、なんて出来る子なの!!


ところで、牡丹(ぼたん)というと
知っているけど見たこと無いって人が多いような気がするので
参考画像をいくつか挙げておきます。
実は牡丹って、花の中で最も美しいと言っていい程
華やかで艶やかで、正に「魅せられる」という表現がぴったりの花なのです。

畠山政長

畠山政長

畠山政長

畠山政長

畠山政長

畠山政長

ちょうどこれから(4月下旬くらい)が牡丹の時期ですので
是非、お近くの牡丹園に出かけて、実物を見てみて下さい。
日本人ってのは、品種改良が三度の飯より好きなようで
色とりどりの個性ある牡丹が、目を楽しませてくれる事でしょう。


ところで、この連歌には
さらに心温まるエピソードが秘められています。
ちょっと涙出てしまいそうなその話の詳細はまたいつか。
それまでは、頭の片隅に白い牡丹と共にしまって置いて下さい。



…と、春の花でうきうきして来たところでなんですが
美しければ美しいほど…花は儚い。
そして心が清ければ清いほど、それは花のように散ってしまう。
実は政長
『明応の政変』で散ってしまう、美しき花でもあったのです。


『明応の政変』については、今は聞き流してくれて構わないのですが
この事件は、まだ解明されていない部分が多々あります。
一般的には、政長は「敗れた」という事になっていますが
しかし、それには疑問が残ります。
なぜなら
  「政長は、死ななければならなかった訳ではない」
のですから。
  「それではなぜ、政長は自ら自害という道を選んだのか?」
ここが
『明応の政変』の闇を解くスタート地点になりますので
本サイトで解説するその日まで、どうぞもんもんとしていて下さい。


あれ、なんかすっかり義就の事忘れてた。
ま、いっか。



posted by 本サイト管理人 at 01:59| Comment(0) | ★チラ裏人物記