2014年04月15日

大内政弘

(チラ裏シリーズ)

こんばんは『チラ裏人物記』です。
今日は、前回の畠山回ですっかりスルーしてしまったお詫びに
義就のお友達をご紹介します。
「西国全域俺の庭」大内政弘です。

大内政弘
(2015.6.4リメイク)

大内さんは「余裕」の一言に尽きますね。
 領土、経済、軍事力
 人望、仁徳、統率力

なんかもう夢のような大名です。
どうなってんでしょうか。

『応仁の乱』は、一応東軍が勝者ってことになってますが
どう考えても、大内さんは負けた気配がありません。
ってか、最後の方なんて京文化を楽しみ始めたりしてるしw
ホント、何しに来たんすか。 人生楽しみ過ぎです。


性格の良さでは、畠山政長と似ていると思うのですが
大内政弘室町のNo.1リア充の座を恣(ほしいまま)にしていた一方で
一人せっせとピンポイントで不憫を拾い集める政長
何が明暗を分けたと言うのだ。

ま、器用か不器用かってとこが違うだけで
素直さでは共通する2人ですから
それぞれに心打つ物語を残してくれていたりします。
実は、『応仁の乱』の主要メンバーでありながら
『明応の政変』においてもキーパーソンとなるのが、この2人なのです。
(ただし、政弘は政変当時、周防国に在国していて
 大内軍の大将として在京していたのは
 まだ十代の嫡男、義興(よしおき)です。)



『明応の政変』は
『応仁の乱』終結の約15年後に、畿内を舞台にして起こった事件で
一般には

 「日野○子と細川○元がクーデターを起こして将軍をすげ替え
  以後幕府権力を掌握し、将軍は傀儡となった」

と理解されていますが
どうやら、真相はかなり "別の顔" をしているようです。
基本的に「勝者=正義」史観だと

 「人々は、不当なクーデターの勝者を
  何の疑問も無く正当な権力者として受け入れた」

という事が、当然の前提になってしまっていますが―――
果たして、当時の人々は本当に
その手段の善悪を問わず歓迎するほど、間抜けだったのだろうか?



歴史と言うのは、往々にして現代の価値観を用いて評価されていますが
当時の人々の声を無視した解釈は
結局は、現代版歴史ファンタジーでしかありません。
しかし幸いな事に、『明応の政変』に関しては
当時の人々の切実な叫びが、様々な形で史料に残されているのです。

大内政弘も、それを残した者の一人。
彼の偉大な業績の一つに

 『新撰菟玖波集』誕生における最大の後援者だった

という事が挙げられます。
この連歌集は、足利尊氏の時代に編纂された『菟玖波集』に続く
ただ2つの准勅撰連歌集であると同時に
『菟玖波集』は『観応の擾乱』の
『新撰菟玖波集』は『明応の政変』の
  "数年後に誕生した"
と言う共通点を持ちます。

そして、前者との性格の違いを追及するとそこには
『新撰菟玖波集』の完成に奔走した人々(※)が
この連歌集に何を託し、何を訴えたかったのかが見えて来るのです。
 (※…その一人が前出の連歌師宗祇

勝者が綴る歴史は描かれた幻想
当時に生きた人々の声に耳を傾けて初めて、歴史は本物になる。
それが、本サイトのコンセプトの一つでもあります。



あーそれにしても、大内政弘は偉大だw
文化活動でもPKO-uchi活動でもいい話残し過ぎ!
性格いいリア充とか、無敵過ぎて人気出ない理由が分からない!!

あれですか、やっぱりみんなちょいワルが好きなんですか?
でも義就までいくと、テラワルですよ。
しかも、そんな義就と普通に友達やってる大内政弘だって
涼しい顔して、ホントは何考えてんのか分かったもんじゃないですよ。
フフッ

あ、そうだ
大内さんにはもっとぶっ飛んだ友達がいたんだった。



posted by 本サイト管理人 at 01:36| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年04月18日

伊勢貞藤

(チラ裏シリーズ)

こんばんは『チラ裏人物記』です。
今日は、『応仁の乱』でうっかり誕生してしまったなんちゃって幕府
ムロミー☆ウエスタン
政所頭人っぽい事をしていた西の才媛、伊勢貞藤(さだふじ)です。

伊勢貞藤

あ、すみません。 貞藤伊勢貞親の弟です。
彼は、ウエスタン公方こと足利義視(よしみ)に仕え
西の猛獣達と仲良く暮らす事になる訳ですが
別に、東幕府の足利義政や兄の貞親に喧嘩売っていたのではなくて
『応仁の乱』終結後は
伊勢家当主の伊勢貞宗(貞親の嫡男で、貞藤の甥)とは非常に関係が良く
どうやら彼らは協力して
持是院妙椿と共に美濃国に下った義視
京都の義政との間を、取り持っていたようです。
そして晩年は、かなりほのぼのした日々を過ごしていたらしい
…という、まあ、そんなに変哲も無さそうな人物なのですが
ただ彼は… 芸術の極地に達っせんばかりの美学を持っていた
ってゆう。


伊勢家については
本サイトの『2-4』 『2-6』 『2-10』あたりで話題にしていますが
政所頭人を務めた貞親流の宗家だけでなく、いくつもの庶家
将軍の近習、かつ政治・経済・武家故実のプロフェッショナルとして
室町幕府そものものを支えていました。
そして彼らは、それらの膨大な知識(故実)を脳内に格納するだけでなく
書物として書き残してくれたので
現在、群書類従『貞丈雑記』の中に
彼らの生きた室町の証を、見ることが出来ます。
(※『貞丈雑記』…江戸時代、伊勢貞丈が、自家に伝わる数多の文書を編纂した故実書)

要するに、「室町の礼法・作法・殿中儀礼」
伊勢家によって大成したと言ってよく
その "知と美の結集" である伊勢故実
室町幕府の斜陽をも力強く生き抜き
戦国期の諸国の大名家から江戸幕府の徳川家に至るまで
多大な影響を与えることになるのです。

…の割りに、知名度に欠ける、というか
現在、礼法と言えば「小笠原」オンリーって感じですよね。
うん、まあそれはなぜかと言うと
江戸時代に大衆への浸透を目指した小笠原流に対して
伊勢ってのは
 「これが室町の美学だぁぁぁーーーーー!!!」
と言わんばかりに、あくまで硬派一徹オレの道を貫いてしまったかららしいんだ。
(※参照『貞丈雑記』)
(ただし小笠原流も、硬派な武家系と、大衆系は別らしいが)



そんな、どっか弾けたところがある伊勢家ですが
貞藤の美学を知った時、私、目が点になりました。

貞藤の記した故実書といえば『御供故実』がありますが
もう一つ、著者不明とされていますが間違いなく貞藤の作だろう『故実聞書』があります。
これはどうやら『御供故実』草案だったらしく
走り書き的で意味が取りづらい部分も多いのですが
両者に重複する記述や
「れんし、伊勢の貞親」(連枝=兄弟)という一文から
貞藤認定はOKで間違いなさそうです。

さて、それによると
京人たる武家の嗜みとは―――

   「絵に描いた女のように振る舞うべし」 

( ゚д゚)
(  Д ) ゚ ゚ ポーン

京人の仕草は「柳の風に従う」が如くしなやかに!
男気丸出しのバキバキ折れる榎が如き振る舞いは、無粋と心得よ!
 by貞藤!!
…って、おーーーーーい

しかし、これを以て「貞藤はナヨナヨしたおとこおんな
などと誤解してはなりません。
貞藤の美学はこんなもんでは終わらない。
外見は、美人画さながらに振る舞えども

   「男は、内にて鬼神をねじ挟むべし!!」

( ゚д゚)゚д゚)゚д゚)
(  д ) д ) д ) ゚ ゚ ゚ ゚ ゚ ゚ ポポポポーーーーーン

ちょっと中性的とか、密かに男らしくとか
そんなマイルドなもんじゃあ、断じてない。
は、女どころか、女以上の女を目指し
は、男らしくどころか、荒れくる鬼神をねじ挟む。
両方向にメーター振り切ってます。
貞藤さん…ド変態っすわ。
ってか、「ねじ挟む」ってwww
ま、"男らしさ" くらいだったら "秘める" で大丈夫でしょうが
"鬼神" じゃ、きっちり挟み込んどかないと
いつ暴れ出すか分かりませんからね。


ところで
大内家は代々京文化に興味津々、強い憧れを持っていて
周防国山口小京都、いやほぼ京都にしちゃったくらいの
文化大好きっ子だったのですが
京の礼法について、伊勢家の者によく諮問していた記録が残っていて
親しい付き合いがあったことが分かります。
在京中の大内政弘も、伊勢貞藤と近くの寺に紅葉を見に行って
和歌なんぞ詠んでいたようです。(『拾塵和歌集』)
ってゆーか、一応「応仁の乱中」なんですけど。
まあ、終盤はだべってただけらしいですが
紅葉きれいだ(*´・ω・)(・ω・`*)ねー
とかやってたんでしょうか。 ホント何しに京都来たんすか。


ま、そんな伊勢故実ファン大内さんの事ですから
西軍にいる間に、大いに貞藤の美学に感化されたに違いない!
「これが京人の作法だよ政弘君、フフッ」とか言われて、心に鬼神を…
…って、そ、そんな! 
あんな涼しい顔した政弘が、そんなワイルドなものをねじ挟んで…!!


まあ、顔は私の妄想ですが。
そんな訳で、私の中ですっかり「美の菩薩」となってしまった貞藤ですが
やはり、妙な気概を内に秘めていたらしい事も史料から伺えます。
『2-9』で紹介した『応仁記』の記述は
割と信憑性が高いと思うのですが
あれなんか、討ち死に覚悟で御所にとっ込もうとしてますしね。
ってか貞藤さん鬼神丸出しになっちゃってるよ!!
しまって!しまって!!


いや〜それにしても、「室町の美学」って前人未到の域に達していたんですね。
ところでこの美学、貞藤が独自に編み出したのではなく
彼が薫陶を受けた「美の師匠」がいたそうです。
それは意外にも…やつの父上だったりする。 ぬえーーーっっ!!?


さて、伊勢貞藤を紹介したからには
あの兄に言及しない訳には行くまい。
まあ伊勢ですからね、彼も美学は極まってるんですよ。うん。



posted by 本サイト管理人 at 02:05| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年04月25日

伊勢貞親

(チラ裏シリーズ)

こんばんは。
今日の『チラ裏人物記』は、予告通り伊勢貞藤のあの兄
室町幕府の頭脳にして
公方の為なら、全諸大名を相手に戦い出す恐れを知らぬ大胆策士
伊勢貞親(さだちか)です。

伊勢貞親

まあ、おっさんのビジュアルはどうでもいいのですが。
ちなみに、兄弟と言っても、貞藤貞親の15歳下の
実は、貞親の嫡男の伊勢貞宗(さだむね)との方が歳が近いのです。
貞藤は、貞宗の12歳上。ついでに言うと、義政の3コ上)
それにしても貞親め、いやらしい顔しよって! 何を企んでいると言うのだ!

まあ、顔は私の妄想ですが。
でもきっと、みなさんも大体こんなイメージだと思います。
ただ、本サイトでも繰り返した通り
貞親義政の「御父」であり、公方の為、延(ひ)いては幕府の為
その策謀フルスロットルで一心に働いた股肱の臣である事は
認められるべきだと思います。
何より…
『文正の政変』だけでなく、本サイトでこの後述べる "最後の時" も)
貞親引き際が潔い!
引き際が良い男に、悪いやつはいない!(たぶん!)



まあ、そうは言っても、貞親に対しては
「御父」の立場を利用して幕政を私物化した!けしからぬ!
という印象の方も多いでしょうし
斯波義廉&朝倉孝景好きの私が、なぜか妙に貞親を擁護している事に
意味不明感を抱かれている方もいると思いますので
今日は、そんな方々のために
本サイト『2-7』で軽く触れた

  『為愚息教訓一札』 (またの名を『伊勢貞親教訓』

を紹介したいと思います。
これは、父である貞親
ちょうど元服する頃の十代半ば息子貞宗に宛てて書いた訓戒なのですが
処々に伊勢貞親 "硬派な美学" が光る、名『教訓』なのです。
(私の中では。)
たとえば…


一、侍は、先ず第一に弓馬の稽古を心掛けよ、次に
  その他猿楽などの芸能は、人に優れる必要なし!

一、衣装についても、人より目立つは浅ましき事である!
  侍たる者、人に勝っていて見事と言えるものは
  軍陣での手柄高名のみと心得よ!

一、身なりや上辺の言動を飾って、心は卑しい人間にはなるな!
  を内に秘め、身は低く謙虚に保つこと!

一、神仏を敬いなさい。
  例え身分は低くとも、出家僧には特段の敬意を払うこと。

一、侍たる者、に贅など尽くすな!
  座敷を飾り立て、高価な絵画を求めるなど、武士の嗜みに非ず
  例え藁葺きの粗末な家に住まうとも
  馬具武具を立派に揃えていてこそ、真の武士というべきである。

一、若くとも、常に生死の覚悟を持って生きよ。
  世の無常の理を知り、慈悲を専らとし、天地の真理を悟らんと欲す
  これ則ち、武道に生きる者の覚悟なり。

一、人付き合いにおいて好き嫌いをするな、ただしは選べ。
  人は、によって成長する。 良き友を大切にせよ。

一、侍たる者、召使いに対してさえ無礼な事があってはならぬ。
  因果の理で主従となっただけで、もとより皆、性は一つなのである。

一、我が伊勢家は、天下の鏡たらねばならぬ!
  武家の世継ぎたる者
  その心に、月を映す水の如く澄んだ揺るぎない信念を持て!
  これ最も肝要なり。

                   (…以上、抜粋かつ意訳)


って、やだ貞親かっこいいーーっっwww キャーーー
しかも極めつけは、

侍は、家と命と女と三を忘れよ!!
(侍は、家と命と女、この三つを忘れ去れ!!)

(※ここでの「家」とは、家族ではなく「家財」のこと)

ぬおーーー!!かっけぇぇぇーーーーっっ
貞親かっけぇぇーーーー  ……って、え、…え??
うえっ!!?
お、おまえ…、確か魔女な艶妻に絆(ほだ)されて
天下ひっくり返してたよな?
あれ、なに?
あの数年ほど前までは、こんなかっこいい事言ってたの??…マジで?
ええ、マジです。
他にも…

 「仕事で御所に出向いても、若い女中と親しくするんじゃないぞ
  無実の科(=不倫疑惑)を負わされるぞ」

とか言ってる訳ですが
もうお分かりでしょう。
私がどうしても、貞親を「まんまとハニトられた色ボケ野郎」だとは信じたくない理由
それは―――
この名言を台無しにしたくないから!!
だって

  家財への執着を断ち切り、を顧みず、をも忘れて生きる
  それが侍たる男の道である!!


って、こんなかっこいい武士道精神、古今東西存在しないですよ!
戦国期とか江戸時代の武士道も、この鋭さには適うまい!!
ああもうこの言葉、現代日本の一番目立つとこに
でかでかと掲げるべきです!!

…では皆さん、最後にもう一度唱和を

侍は、家と命と女と三を忘れよ!!

どうもありがとうございました。



ちなみに、この『教訓』
「表面的な体裁、他人からの評判ばかりを重視している」
…といった "老獪な処世術" と解されている事がありますが
それは伊勢貞親への極端な悪評が生んだ誤解です。

伊勢家当主の役割と言うのは
ヒャッハーな諸大名から我侭な近臣たちまで
厄介さんだらけの幕府…のみならず
公家社会禅林界、在地の国衆たち、などなど
幅広い人脈円滑にまとめることにあった訳で
その点を考慮に入れて、もっと公平な目で評価すれば
この『教訓』で語られているのが
卑しい保身などではなく、頂(いただき)に届かんばかりの美学であることが
分かってもらえると思います。
ただ、最終的に自分が魔女に嵌ってしまい
自身が『教訓』と化してしまった
というオチが玉にキズですが。 …てへ、ズコー(略して、てコー)
しかし! これも "様式美" という意味では、やはり美学です。(キリッ☆


…って、なんでこんなに貞親擁護してんのか、自分でも訳が分かりませんが
まあとにかく、伊勢ってのはみんなどっかしら突き抜けていて
時代が追いついて来られなかっただけなんだよ!
分かれよ!

うん、まあ、投げやりになって来たので
そろそろ今日はこの辺で。


ところで、世話の焼ける養君義政の為に東奔西走した「御父」貞親ですが
実の息子にも、その少年時代には相当頭を抱えていたそうです。

息子の貞宗と言えば、知っている人は知っていると思いますが
父貞親をも凌駕する政治手腕を持ちながら、極めて高い人格を備え
故実はもちろん和歌馬術仏教にまで精通し
多岐にわたる膨大な天下の諸事を一人、その頭脳内で演算処理していたという
隠れた最強スペック超人的人物なのですが
その貞宗に…一体、父貞親は何を悩んでいたと言うのでしょうか?



ああ、それにしても
こんなにも高き美学の侍貞親は、たった一人の女で
人がすっかり変わってしまったのだろうか。
この『教訓』をしたためた頃の貞親は、もういないのか?
…しかし、私は見つけました。 最後の条文のこの言葉

 名ある武家を継ぎし者
  千人から嘲(あざけ)り謗(そし)られる事があれば
  幕政に携わり、所領を有していたとて、何の役に立とうか。
  その時は速やかに上表(辞職)せよ

つまり、最後に見せた貞親の引き際の良さ
あの頃からの一貫した信念だったと言う事。
やっぱり、何も変わってなんかいない。
あのハニトラは、色に溺れた男の失敗ではなく
公方の為に、敢えて近づいた戦略的人脈に過ぎなかったのだ!

(…と、思う。たぶん。 自信は半分くらいしかない。)



posted by 本サイト管理人 at 23:34| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年04月28日

伊勢貞宗

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、今日の『チラ裏人物記』は伊勢貞親の嫡男
室町の張良(ちょうりょう)こと、伊勢貞宗です。

張良とは、前漢の高祖・劉邦に仕えた漢の三傑の一人で
その冴えわたる知略を帷(とばり)の中に廻らし千里の先に勝利を得る
という頭脳派軍師の代名詞であり
張良なくして、劉邦の天下は実現しなかっただろうと言われる
極めて優れた「王佐の才」(王を補佐する才能)を発揮した人物ですが
貞宗は、この張良に良く例えられているのです。

伊勢貞宗

なんかちょっと髪型がきのこっぽいのは、まあ気のせいです。
ただ、大乱後の室町幕府がこの先生きのこるには
貞宗の政治手腕が不可欠だった…ってか
"全室町の命運" は、貞宗の双肩にかかっていたので
貞宗きのこる先生だったのは事実です。
(※きのこる先生…世紀末感漂う過酷な時代の中で
 この先、生きのこって行くにはどうしたらいいかを教えてくれる先生。)

それゆえ、彼は「社稷(しゃしょく)の臣」とも言われています。
(※社稷の臣…国家の安危・存亡を一身に受けて事に当たる国家の重臣)


『応仁の乱』後の、「どう考えても詰んでるだろ」と言う時期の幕府を建て直し
在国化した大名たちを(京都に居ながらにして)手なずけ
やる気のない義政を献身的に支え
問題ありな両親を持って奇行の目立つボンボン義尚(9代目将軍)を
「御父」として養育しつつ
奇跡的にも室町の継続を可能にしたのは
貞宗の政治的才覚およびその人格の高さにあったと言えるでしょう。

(貞宗の事績については、本サイトで追々詳述する予定なので
 ここでは、出典史料の明記は省略しますが
 とりあえず当時の世評なら、『大日本史料』永正6年10月28日を。)


ちなみに大乱後、義政の『東山殿』(=銀閣寺)が完成したのは
実は、貞宗の手腕によります。
もっといえば―――
義政亡き後、遺言によって『慈照寺』となった東山殿ですが
実は驚くべき事に、とある事件に巻き込まれて
破却の危機に瀕したことがあるのです。  な、なんだってー
しかし、それを救ったのも貞宗
つまり、現在私たちが
銀閣寺という "室町の美の結集" に触れることが出来るのは
全部貞宗のお蔭! みんな貞宗に感謝!  義政「……。」



それから、伊勢の十八番「美学」について
貞宗もやはり、武家故実全般に極めて造詣が深かったのですが
ただ、本人が記した書は、馬術に関するものが少しあるだけです。
まあ、日々の多忙さを思えば、もの書いてる暇も無かったのでしょうが
伊勢関連の故実書をつらつら読み漁ったところ
どうやらこの人は…
御所に祗候する女房達の、礼儀作法をも掌握していたらしい。

『室町殿』の上臈(じょうろう)と言えば、あなた
当時の最上流階級、女性達の頂点ですよ。
そんな高貴な女性の指南役と成り得るって
どこまでを極めていたんだって話ですよ、奥さん!


実は…
貞藤「美の菩薩」とは言いましたが
貞藤が菩薩なら、貞宗はぶっちゃけ「美の如来」です。
貞藤はどちらかと言うと、内心
 「ぷっwww俺言ってる事テラアホすww」
とか思っていそうなのですが
(なんせ、入道後の法名が「瑞笑軒常喜」。現代語訳すると「テラワロス」)
一方で、貞宗の美の場合は
「常時、素で涅槃(ねはん)」といった次元です。


上述の『大日本史料』の貞宗関連史料は
義政の『東山殿』に出入りしていて
貞宗とも直接交流があった禅林の僧たちによる法語画賛なのですが
それによると、貞宗「金粟如来のよう」だったらしい。
(※金粟如来は、維摩居士の前身。
 維摩居士は、在家の釈迦の弟子で『維摩経』の主人公。
 他の釈迦の弟子が誰も適わないほどの、悟りの奥義を極めた逸材)

意外にも貞宗は、晩年まで入道した形跡が(たぶん)無いのですが
父貞親の死を境に、なんか悟りの境地に片足突っ込んでしまったらしく
「有髪の僧」などと言われています。
なんか、日常的に解脱(げだつ)していたようで
法衣をまとった姿は「陶弘景のよう」だったとか。
(※陶弘景は、六朝時代の博学多才なすごい人。眉目秀麗だったそうだ。
 ちなみに張良も、「婦人好女の如し」(美しい女性のよう)
 だったと言われていますが…まあ、いいか。)



さて、そんな感じで
こぞって貞宗を讃える禅僧達には
君ら本業で水をあけられてるのに、感心してる場合じゃないでしょ!
と突っ込まずにはおれませんが
どうですみなさん
そろそろ貞宗の魅力に目覚めてしまった事でしょう。
しかし、これほどの人物でありながら、貞宗はあまりその活動が目立たない
それゆえ、ほとんど知られていない…むむ。
それは、まさに張良の如く帷の中で全てを片付けてしまうタイプであり
一次史料を丹念に追って、ようやく貞宗の関与が見え隠れする
と言った具合で、その地味さゆえ
これまで表立って研究対象にされる事が少なかったのが一因ですが
ああ、それにしてももったいない!
しかも、この貞宗
『明応の政変』最大の鍵を握る人物でもあるのです!
別の言い方をすれば、貞宗の行動を上手く説明出来ないから
今以て『明応の政変』の謎が、イマイチすっきりしないのです。



さて、そんな "なんかとんでもないらしい" 貞宗ですが
更にもう一歩踏み込んでその魅力に迫るべく
ここで再び、父貞親『為愚息教訓一札』『伊勢貞親教訓』
を取り上げたいと思います。


この『教訓』、実は
伊勢家伝来の "汎用な" 家訓」と言うより、あくまで
貞宗に宛てた "私的な" 手紙」という性格が強いのです。
ですから、この『教訓』から読み取れるのは
「家としての訓戒」だけでなく
「少年貞宗の性格」であり、これが非常に興味深いw

注意して読むと
「簡潔な条文」と「やたら具体的にくどくど説いた条文」
とが混在している事に気付くと思いますが
まさに、前者が「伊勢家の理念」で
後者が「少年貞宗へのお説教」なのです。


では、この『教訓』を分析した結果判明した
少年時代の貞宗の性格とは…

 「とにかく引っ込み思案で、人見知りが激しく
  表に出ずに、女の子が居る家の奥にばかり引っ込んでて
  そのくせ、ちょっと利口ぶった生意気な所がある内弁慶
  内輪の家臣と馴れ合うばかりで、同世代の若い友達は無く
  父から見ても、能無し
  武士が好むべき力技を嫌い、弓馬の稽古も怠りがちで
  朝夕と無く寝てばかりいる
  二度とない輝かし青春の日々を、友と思い出を作ることもなく
  とにかく無駄に寝っこけている

…って、おめーはのび太かよ!!!


『教訓』の最後に添えられた末文より
 「あー心配だ、我が子が心配でまた早朝に目が覚めてしまった
  仕方ない、この悩ましい心の闇を、ありのまま言葉にしてしまおう」

と、暁の薄闇にむくりと起き上がって筆を取る、不眠貞親
『教訓』の中で、貞親がしきりに
「人から悪く言われないように」と強調していたのも
伊勢家の方針が「上辺重視」だったという訳では無く
 「おまえは何の才能も無いんだから
  せめて人から悪く言われないように心掛けてくれよ
  はあ…(貞親、欝で不眠)」

という、悲痛な親心だったのです。


それにしても、なんという絵に描いたようなのび太
天下の潤滑油たる伊勢家の次期当主がこれじゃ
そりゃ、父親も頭抱えちゃうわなww

しかし、上述の通り
伊勢貞宗は、少年期ののび太属性を見事に脱し
後には張良と見紛うほどの人物へと成長します。

彼を変えたのは、一体何か!?
…まあ、この先は割と私の妄想となるのですが
『教訓』の中にヒントがあります。
父貞親が、伊勢家に有るまじきのび太な息子に対して
繰り返し説いた言葉

    「良い友達を持ちなさい」

つまり貞宗は、良い友達に出会えた事で
脱☆引き篭もり&無能を達成したのではないかと。
では、貞宗 "張良への一歩" を踏み出させた友とは?


それは… 室町一の情強、興福寺の尋尊が書き記した日記の中に
見つけることが出来ます。



posted by 本サイト管理人 at 02:09| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年04月30日

畠山政長と伊勢貞宗

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、今日の『チラ裏人物記』は
前回の伊勢貞宗回の続編
惰眠貞宗を更生させ、不眠貞親を救った人物は誰か!?
…って、タイトルでもう言っちゃってますが
まあ、なんか変態ぞろいの室町で
人を良い意味で感化出来そうなやつなんて
政長くらいしか思い付きませんよね。

畠山政長
(2015.3.6リメイク)

室町最後の生き残り、清(きよ)侍です。
2人が友達だった事は
尋尊の『大乗院寺社雑事記』文明10年7月26日の
「知音無双」との記述で知る事が出来ます。
 (※知音(ちいん)とは、よく心を知り合っている親友のこと。
  つまり、知音無双=並ぶもののないほど親しい、と言う意味。)

まあ、この日記の記事自体は
興福寺の松林院(←院主が伊勢家出身者)に
紀伊国(=政長の領国)の所領を安堵する、という話で
その時の、政長・貞宗(の使者)による遵行(=命令の執行)ぶりが
余りにVIP待遇だったもんだから
尋尊が、「あいつら仲良いからって、贔屓だ贔屓!!もう!もう!」
と愚痴っているものなんですがw

ただ、政長貞宗の裁許が理非の正しいものだった事は、他の史料が示していますので
別に、腹黒い事をしていた訳ではないと思われます。
ご安心下さい。

(例えば政長は…
 「(成敗が)廉直」「直き心と慈悲(のある政道)「理非憲法の大名
 とか言われてます。(※憲法(けんぼう)…正しいこと、公平なこと) )



まあ、年齢は政長のが2コ上の同年代とは言え
2人は身分から言ったら、かなりの差がありますので
友達と言うと、ちょっと意外な(変な?)感じがしますが
両家が親しかった事は
伊勢家の家宰の蜷川親元『親元日記』からも、窺い知る事が出来ます。


当時(※ここでは、応仁の乱後の話に限定)
諸大名在地の国人たちからの「公方への進物」
基本、政所頭人の伊勢家当主を通して公方に披露される
という形式だったので
『親元日記』には、彼らからの進物の記録が、細かく書き留められているのですが
ただ、管領家に関しては別ルートだったらしく
斯波家細川家からの進物の記録は、ほとんど見当たりません。
…にも拘わらず
畠山家だけは、毎回律儀に伊勢家を通している
という、なんか笑ってしまう日記です。
(※『親元日記』はかなり事務的な日々の記録で
 本来、笑えるようなものではありません。
 あ、でも、もういっこ笑かす所があった、貞宗の呼ばれ方w)


ちなみに、本サイト『2-3』『慈照寺』の写真の所で少し触れたように
貞宗は、公方義政への忠誠心が非常に高く
義政義政で、貞宗がいなかったらなんも出来ない
ってくらいの股肱の臣でしたから
上記の事情により、政所頭人である貞宗
京都に居ながらにして、在国諸大名の手なずけを可能にしていたのです。
つまり、「言う事聞かないやつの進物は披露しないよ!」っていう。
貞宗、なんというドS政策ww

貞宗は、「道理に基づく公平妥当な裁許を信条とする」
 という人格の高さは確かなのですが
 政長のような
 「最初から最後まで、表も裏も慈悲と廉直で出来ている
 という、高徳生き仏系のお人好しではなく
 治国平天下という目的の為なら、狡猾な手段も余裕で連発する
 涼しい顔して脳内策略演算系です。
 まあ、『教訓』によるとかつては
 割と派手な着物賭け事を好むとか、 家臣への口の利き方が乱暴、といった
 内ワル弁慶要素があったようだ。
 つまり、政長はM系君子、Masanagaなだけにw
 んで、貞宗はS系君子、Sadamuneなだけにww
 …ってどうでもいいかそんな事)

ま、でも、逆に言うと
貞宗と上手く付き合えば、自国は安心!な訳でして
それで非常に上手く領国運営をこなしていた、超有能な当主補佐役朝倉家にいてだな…



おっと、話が逸れて来た。
そんな訳で、貞宗が生まれ変われたのは
政長との出会いがあったからなんじゃないかなぁ…
と推測してみました。
まあ
父貞親から『教訓』を授かって一念発起した」ってだけ
…とも考えられますが
でも、それまで父を、夜な夜な不安で叩き起こすほど悩ませていた訳で
それに、『教訓』が書かれたのが長禄年間(おそらく長禄3年(1459))
そして、政長が、畠山家の家督を継いだのが長禄4年(1460)
さらに、本サイト『2-7』で軽く考察した
貞親・季瓊真蘂周辺の、政長に対する評価の高さを考えると
当たらずとも遠からずな気はしています。


もしかしたら…
貞親斯波義敏(よしとし)に近づいて(※貞親の魔女は、斯波義敏の嫁と姉妹)
畠山義就の復帰を阻止すべく、斯波義廉(よしかど)の失脚を謀ったのも
もし、私情が挟まれていたのだとすれば
それは、新造(新妻)の誘惑ではなくて
 「息子の初めての友達の失脚を、何としても防ぎたかった」
と言う親心
(と、信じたい。
 無理は承知で、非ハニトられ説を唱えたい。
 しつこいようだが、エロぼけオヤジであって欲しくない!!ww
 貞親は、ハニトラの危険性
 誰よりもよく知っていたはずなんだ!! 理論的には。)


まあ、畠山家家督が義就のままだったら
それこそ貞宗は、一歩も家から出て来なくなってただろうなーとか思うw
『応仁別記』のエピソードに

 「斯波義敏の家督復帰を推し進める父貞親
  貞宗が、天下騒乱のもとになると必死で諫めたけれども
  声は届かず疎遠にされた」


と言う話がありますが
これももしかしたら、親の心子知らず…だったのかも(と、妄想したい)
(ただし、貞宗は以後、 父の教えを非常に忠実に守っていたと思われる。
 特に、見違えるほど社交的になり、人当たりも柔らかくなります。)



まあ、ちょっと妄想が過ぎて来てしまったので
そろそろこの辺で。


しかし、この政長貞宗の関係は覚えておいて損はありません。
なぜなら、これまたまた
『明応の政変』の謎解きに関わってくる(と思われる)からです。
この事件の根底には
『応仁の乱』で結局解決しなかった「両畠山家の家督問題」があり
乱終結から政変までの十数年
2人ともその解決に腐心していたのですが
貞宗が水面下で策略を廻らせ続けていたものの、結局、思うように事は運ばず
いつしか2人の間に疎遠な空気が漂い始め
そしてとうとう、とある事件を切っ掛けに
どうやら彼らは、かなり距離を置くようになってしまうらしいのです。
なんかちょっとショックw
『応仁の乱』の東幕府側での、数少ないぬくもロックな話だっただけに
あんま信じたくないけど、今のところ、仮にそんな結論です。


さて、『明応の政変』はその7年後の出来事です。
この政変の主目的は
クーデターと言う、"法""世論""朝廷"無視した手法
現将軍を退け、新将軍を立てること」であり
一般的には、貞宗は政変に主導的に関わったとされています。
そして、これは事実です。(ただし、主犯格は別です)
そして、政長
大名としては、政変の唯一ともいえる犠牲者です。

私が、「政長はただ負けたのでは無い」と思うのには
当時の状況を伝える史料を根拠にした、いくつかの理由がありますが
その一つが、この2人の関係です。
貞宗の行動には秘密めいた部分が極めて多いのですが
政長の行動にも腑に落ちない所があって
それは、政長なりに
"貞宗の真意" を何かしら察したからなのではないか?
と考えています。
ただ、彼らの間に信頼関係は残っていたのか
というのが問題になってくるのですが。

…いずれにしても、いろんな意味で悲しい事件ではあります。


まあ、細かい部分はいずれ本サイトにて。
今はとりあえず
この事件において、貞宗どんなアルゴリズムで演算処理をしていたか
私の予測を述べるなら、まあこんな感じでしょうか。

伊勢貞宗
(2015.3.6リメイク)

うーんw



posted by 本サイト管理人 at 02:24| Comment(0) | ★チラ裏人物記