2014年05月04日

慈視院光玖

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』です。
ここへ来てようやく朝倉家の登場です。
高らかに朝倉贔屓宣言をしておきながら
全然贔屓がなってない現状を、自分でも疑問に思っていたのですが
そういう訳で、今日は張り切って参ります
慈視院光玖(じしいん こうきゅう)さんです!

慈視院光玖

なんで第一弾が朝倉孝景(たかかげ)じゃないんだよ
…とは、まあ私も思いますけど
光玖さん孝景の弟で、完全なる出家僧です。(つまり、入道ではない)


孝景には、割とたくさんがいるのですが
『応仁の乱』前後の時期の
 「朝倉家存亡の危機から、一気に逆転大躍進!
の裏には
兄であり朝倉家当主である孝景の活躍を支えた3人の弟
経景(つねかげ)、慈視院光玖景冬(かげふゆ)の存在がありました。


この朝倉四兄弟
なんか危なっかしくて見てらんない感じの兄弟が多い室町にあって
間違いなしに安心安全絆の固い兄弟です。
というのも
彼らの父である朝倉家景が亡くなったのは
長男孝景が23歳の時なのですが(祖父は健在)
弟達は、孝景とはかなり歳が離れていて
すぐ下の経景でも10コ下の13歳、光玖さんは未だ11歳でした。
そんな彼らにとって
父亡き後の一家を支え、幼い弟達の面倒を見る兄孝景
父親のような存在であったらしいのです。

そんな訳で、弟達は兄ちゃん大好き!
『朝倉孝景十七箇条』には
親を失った苦境の中で、それでも決して身の修養を怠らず
遂に一国を治めるという大業を成し遂げた孝景
苦労の様が述べられていますが
早くに逝ってしまったものの、父家景は何ものにも代え難い弟達を残してくれた
最高にいい父ちゃんだったのでありました。


さて、『応仁の乱』における朝倉家の動向については
本サイトでは今のところ『2-10』
西軍の孝景が、公方義政と策士伊勢貞親の誘いによって東軍に降ることを決意し
3人の弟を連れて越前国に下ったところまで解説していますが
この3人が、上記の経景慈視院光玖景冬です。

ちなみに、その後の事を簡単に述べておきますと
下向の3年後、遂に朝倉軍は再始動の時を迎えます。
同時に、それまで京都のにいた孝景嫡男の朝倉氏景
西軍諸侯に別れを告げて合流し
越前の最大勢力であり、かつての被官仲間である甲斐との激しい合戦の末
最終的に越前を勝ち取ります。
勝ち取る…と言っても、これは朝倉の独断行動ではなく
公方義政の意向であり、その承認を得ての一国平定です。
ただし、甲斐との幾多の合戦は熾烈を極めるものであり
強いられた犠牲の多さは、双方ともに癒えぬ深い傷となりました。



という訳で、本サイト『2-8』でチラっと述べたこの慈視院光玖こそ
南都の成身院光宣や、美濃の持是院妙椿と同じく
非入道型完全出家僧でありながらパーティ組んでしまう
朝倉家のドラクエ禅僧だったのでした!

幼少期に寺に入った光玖
この頃は、京都の建仁寺あたりにいたらしいのですが
既に『応仁の乱』以前から
兄孝景におつかいを頼まれて、しばしば越前国に下向しては
所領の管理など諸事に携わっていたとは言え
孝景に突然の越前下向を聞かされた時は驚きを隠せなかったろうなあw

 光玖「え…俺も行くんすか?!」
 孝景「うん」
 光玖「そうですか。 …え、俺も行くんすか??!」
   (※大切な事なので、二度聞きました。)
 孝景「うん」
   (…光玖さんの僧侶人生は終わった。)

   (※上の画像は、固まる光玖の図:原題「マジすか」)

まあでも、実際は兄の命令には快諾しただろうし
(というか、進んで付いていったと思われる)
以後の光玖さんの活躍は
戦の大将から政治家としての領国運営まで、兄にも匹敵する優れた才覚を発揮します。
越前平定後の基盤固めに、弟光玖の政治手腕が不可欠だと読んだのだとしたら
孝景の慧眼はすごいと思うw


実は、『応仁の乱』終結の4年後孝景がこの世を去り
さらに、次期当主の嫡男氏景も、その5年後に病により早世してしまい
次に家督を継いだ氏景嫡男の朝倉貞景(さだかげ)は
この時点でまだ14歳(満13歳)
…と、朝倉家の当主は短期間に入れ替えがあったのですが
それでも動揺することなく、初期の不安定な時期を乗り越えられたのは
孝景の弟達、特に慈視院光玖の冴え渡る社交感覚があったからのです。


そう、これまたこの光玖さんこそ
伊勢貞宗との良好な関係を築いて
歴代当主を見事に補佐した、朝倉家隠し玉だったのです。

ただ、光玖さんは、策士と言うよりは
人との関わりにおいてとても誠実
戦での敗者を深く弔う慈悲深い心もあり
各方面の人達…公家朝廷からすらも頼りにされていました。
興福寺の尋尊からは、年貢の事で感謝もされているし
畠山義就とは、その子の代まで親しい関係を続けていた、誠意ある人です。
成身院光宣妙椿もそうですが
パーティ組んでる出家僧に、悪いやつはいない!…ような気がする!



ところで、伊勢家の家宰蜷川親元『親元日記』
基本的に、主家の日々の政務を記録したものなのですが
日記の中で、主人である伊勢家当主が何と呼ばれているかと言うと…
「貴殿」ですよ、「貴殿」www
貴殿、どこどこへ行く」とか
「誰々から貴殿へ贈り物」とか
たまに、「(来客があって)貴殿、酩酊」とかw
まあ、普通に二人称で使う場合は単なる敬称ですが
日記で三人称的に使われていると、なんかコーヒー吹きますよ。
しかもこの「貴殿」、なんと更に活用形があって
場合によっては「貴殿様」となります。

って、それはあれか?「さかなクンさん」みたいなつもりなのか?
こんなアホな敬称のインフレさせてんのは誰だよ!
とか思ったら… 朝倉でした orz


蜷川親元への、光玖氏景の書状で
伊勢貞宗のことを「貴殿様」と呼んだものがあるのですが
そこは普通、伊勢守殿でいいんじゃないのか?
(※伊勢守は、伊勢宗家代々の官途。
 政所頭人伊勢家当主=伊勢守、と覚えておこう)
まあ、単に「貴殿」と呼んでいるものもあるのですが
なんで、朝倉まで内輪の呼び方をしているのか、謎です。
(ただ、他がどうなっているのかちょっと自信ないので
 今度、改めて『蜷川家文書』とか調べてみるつもり)

(※↑これについて、ざっと調べてみましたが、うーん…
 他家からの書状の類では見当たらず
 伊勢家に伝わる故実関連の文書で(つまり、身内の者から)
 伊勢貞陸(貞宗の嫡男)が「貴殿様」と表記されているものが
 2つほどありました。 ―――2015.4.3追記 )



まあ、被官クラスだった朝倉
いきなり守護級のデビューを果たしちゃった訳ですから
幕府との関係では、伊勢貞宗の尽力が人一倍必要だったので
実際、感謝してもし切れません。
「貴殿様様」どころか「貴殿様先輩ちぃぃーーーっす」です。


ちなみに、(私の)貞宗の肖像画
直垂(ひたたれ)の色が桃色っぽいのは
別に、なんか妄想が炸裂している訳では決してなく
きちんと根拠があって
「梅染」(うめぞめ)の色をイメージしているのです。
 (※直垂…当時の武士の一般的な着物)

「梅染」とは、梅の樹木を利用した伝統的な染色技法
染め方によって様々な色合いが出るのですが
美しく染められたものは
梅の花のような艶やかな色に仕上がるそうです。
是非、受け継いでいって欲しい、そして今後もっと人気が出て欲しい
伝統の日本の色です。
みなさんも一度、「梅染」または「梅染め」で画像検索してみて下さい。



さて、『親元日記』より…
ある日、光玖さんは、貞宗梅染の帷子(かたびら)を3枚贈った。
 (※帷子…下に着る単(ひとえ)の衣)
その約1ヵ月、今度は朝倉家当主氏景から、貞宗梅染の帷子が20枚届いた。
……。
つまり、これはあれか?
まず光玖が、貞宗の好みを内々に確認してから
貴殿様、お気に召されたようですね、では…」と
改めて朝倉家当主から正式に進上したってことか?
(もしくは、思いの外気に入った様子だったので
  「ピコーン!じゃあ当主名義で追い討ちを!」というサプライズ)

光玖さん、なんという貞宗キャッチャー
貞宗が気に入ったくらいだから、きっと梅よりももっと梅色
美しい帷子だったに違いない!
つまり、貞宗梅染のような色の着物が好きに違いない!
…という、やや飛躍した理論により
私の中では、貞宗梅染色になってしまいました。



という訳で今日は
"室町一の安心できる兄弟" のお話でした。
なんかオチがない上に冗長ですみません。
朝倉家の話は、油断するとどんどんマニアックになって
誰も聞いてないよ状態になってしまう。

ちなみに、光玖さんは『明応の政変』で
かなり気になる行動を取るのですが
これが、この事件の真相の鍵の一つであると、私は踏んでいます。
(この時の朝倉家当主は、孝景の孫で氏景の子の朝倉貞景。)


なんか、『明応の政変』の鍵
あっちにもこっちにも散らばってって、今のところ意味不明でしょうが
最後にはきっと、きれいに一本の線を描くはずですのでお楽しみに。
ちなみに、私の話には、過度な妄想が含まれますが
歴史的事実の究明に関してだけは、断じて
一次史料をこよなく尊重する実証主義であり
天に誓って、妄想完全ガードを貫いています。



posted by 本サイト管理人 at 03:48| Comment(21) | ★チラ裏人物記

2014年05月06日

朝倉景冬

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』は引き続き朝倉特集です。
今日は、朝倉四兄弟の末弟、朝倉景冬(かげふゆ)です。

朝倉景冬

末弟と言っても
実際は朝倉八兄弟でして、景冬の下にまだ2人の弟がいます。

長男孝景、次男経景、その下に早世した三男
 四男慈視院光玖、六男景冬
 五男、七男、八男の3人は出家僧で
 ドラクエ化することなく僧侶人生を全うしています。)


いやー兄弟多くて楽しそうだなあー
…いや、その前にこのキャラデザについてなんか言えよ
ええ、私もかなりどうかと思っています。
あっ、いや、キャラデザとか失礼な事言わないで下さい!
あくまで、綿密な考察を重ねた結果の肖像画です。


実はこの朝倉景冬
『応仁の乱』での派手過ぎる活躍から、噂大好き京童(みやこわらわ)たちに
「朝倉の小天狗」と呼ばれていたのです。

『朝倉始末記』より
 「孝景の弟に、朝倉景冬という大剛の勇士がいて
  豪侠にして軽捷なその身のこなしから
  ついたあだ名が朝倉の小天狗 @京童」


(※大剛…非常に強いこと。 豪侠…心猛く男気のあること。
  軽捷…身軽で素早いこと。)

まあ、これはいわゆる軍記の記述ですが
しかし、『朝倉宗滴話記』によると
あの百戦錬磨の宗滴爺さんこと朝倉教景(のりかげ)に戦い方を仕込んだのは
叔父に当たる、この景冬であることが分かり
彼が戦に長けていた事が裏付けられるのです。
(※『朝倉宗滴話記』については、本サイト『2-10』をどうぞ。
 宗滴(そうてき)は、教景の入道後の法名です。)

まあ、兄孝景の強さも
畠山義就を感服させ、公方義政から指名買いされるくらいですから相当なものですが
朝倉軍の強さの裏には、小天狗景冬の存在があった
という訳です。
確かに、おっさん一人ではしゃいでるにしちゃあ、強過ぎると思ったよ。


ついでに、朝倉教景の復習をしておきますと
彼は、孝景の嫡出の末子で
(ちなみに、異母兄の氏景とは28歳も違うw)
その比類無い仁徳の高さと、驚異的な勝率
人々から惜しみない賞賛を受けた、朝倉家の名武将です。
その血統から、普通に考えたら指揮に徹する大将であるべきなのに
この人は、自ら前線で刀を取って戦っています。
その強さの秘密は
 「父孝景の血を色濃く受け
  叔父景冬に、"応仁仕込みのガチ戦闘術" を叩き込まれたから」

教景の強さには、ちゃんと理由があったのです。



ところで、彼は爺さんになってまで豪快な勝ち戦を続けていたので
すっかり "宗滴爺さん" として親しまれていますが
既に若い頃から、目覚しい働きをしています。
私が、"宗滴爺さん" と呼びたいのをぐっとこらえて
教景と呼び続けているのは
爺さんイメージを払拭して、あわよくば若武者イメージの定着を…
と企んでいるからです。 しめしめ

「越前朝倉家最後の当主、朝倉義景(貞景の孫)の忠臣にして長老

として知られている宗滴爺さんですが
実は、彼の最初の主君、朝倉貞景(孝景の孫)に対する忠義は並々ならぬものがあり
しかも、若き教景は、時の当主朝倉貞景と共に
『明応の政変』のその後の物語の登場人物でもあるので
要チェックです。

ちなみに2人は、教景が叔父、主君貞景が甥という関係ですが
教景のが4歳年下…っていう、中世によくある風景w



…おっと、今日は景冬の話をしていたんだった。

ところでこの景冬
なんか単なる戦(いくさ)バカみたいに思われるかも知れませんが
そうでもありません。
彼は、越前国の要所の一つ、敦賀(つるが)の郡司として
分国の統治に携わっていただけでなく
『明応の政変』の数年前から始まった "とある訴訟" の担当者として上京
越前に在国の兄慈視院光玖と連携して事に当たっていた、という
割と知的にも役立つやつなのです。


『応仁の乱』を契機に越前国を治めることになった果報者朝倉家ですが
実は、乱後10年も経ってから、その地位をめぐって
非常にめんどくさい訴訟に巻き込まれます。
すなわち―――
かつての越前守護を自称する義敏方斯波家から
越前返せーーー!!」と難癖つけられてしまうのです。
(ちなみに、『応仁の乱』開始時の越前守護は
 西軍の斯波義廉であり、斯波義敏ではありません。
 まあでも、気持ちは分かるw)

ってか、義敏てめぇぇぇーーーーwww おめーも本当にしつこいな!
まあ、この頃は義敏自身はすっかり引退して
京都で公家とお花を愛でる日々を送っていたのであり
訴訟の相手は、義敏の子の斯波義寛なのですが。

…とは言え
朝倉越前平定するまで、どんだけ苦労したと思ってるんだよ!
(当時、同じく東軍だった義敏は、戦闘には関与せず
 それどころかちょっと邪魔しに来た。そして義政に怒られた。)
だいたい
朝倉が越前の守護的地位についた全経緯を知っている伊勢貞宗がいる以上
おめーに勝ち目はないだろう!
と言いたいところですが
シャレにならんほど際どい所まで追い詰められました。
朝倉\(^o^)/オワタ寸前です。 参った参った。


ところで、この訴訟に関して
『明応の政変』の真相に関わるかもしれない
ほんの一言ですが、非常に興味深い記録が残っています。


  あの政変は、本当は誰の為だった?
  伊勢貞宗は、一体何を知っていた?



ああ、また『明応の政変』の鍵が散らばっていく。
きのこる先生の闇は深い…



posted by 本サイト管理人 at 23:41| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年05月09日

朝倉経景

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』朝倉特集、まだまだ行きます。
今日は、朝倉四兄弟の次兄、朝倉経景(つねかげ)です。

朝倉経景

まあ、経景まで紹介されても流石に困ると思いますが
地味に鍵を握る人物でもあるので、我慢して下さい。

さて、簡単に経景の説明をしますと
『応仁の乱』途中で兄孝景と共に越前下向し
越前平定後はそのまま在国を続け、他の弟達と共に兄を補佐していた
…らしいのですが
慈視院光玖朝倉景冬に比べて、その事績があまりはっきりしません。
朝倉家における地位は高かったようですが
そんな訳で経景に関しては、やや憶測混じりの話となります、耐えて下さい。


まず、確かなところから話しますと
経景の2人の息子、祖心紹越朝倉景職がそこそこ著名です。(私の中では。)
弟の朝倉景職(かげもと)は
朝倉教景(宗滴)と同時代に活躍した武将で
7歳年上の従兄弟の教景とは、わりと近い関係にあったと思われます。
そして、歳の離れた兄で出家僧の祖心紹越(そしんしょうえつ)は
知る人ぞ知る、一休宗純和尚の弟子です。
京都大徳寺には、一休さん縁(ゆかり)の塔頭(たっちゅう)
「真珠庵」がありますが
祖心紹越はその塔主(たっす)を務めていた事もあり
それゆえ、父の経景自身も(というか朝倉家自体)
大徳寺一休和尚とは、けっこう縁が深いのです。

真珠庵
(※大徳寺「真珠庵」は、普段は一般公開されいません。
 なので、入り口だけナムナム)


祖心紹越の生年は不明ですが
文明13年(1481)に88歳で入滅した一休和尚の弟子だったので
まあ、1460年代初め頃の生まれでしょうか。
『応仁の乱』開始時は、まだまだ幼い喝食(かっしき、かつじき)だったと思われます。
(※喝食…幼少で禅院に入った、まだ有髪の小童のこと。)




さて、ここから憶測をぐいぐいねじ挟んで行きます。
"一休さんの弟子の父ちゃん" 経景
『応仁の乱』開始前後の時期、京都で何をしていたか?
結論から言うと
幕府の奉公衆を務めていたと推測されます。


みなさんは『見聞諸家紋』(けんもんしょかもん)をご存知でしょうか?
これは、『応仁の乱』の頃に成立した
様々な武家の家紋の "図案" を記録したもので
中世の武家家紋を視覚的に伝える、非常に貴重かつ興味深い史料です。

見聞諸家紋
(※群書類従23武家部『見聞諸家紋』より引用)


作者については不明ですが
家紋のほとんどが、東軍側の武家のものであり
しかも、評定衆奉行衆、奉公衆などの幕府役人の記述が詳細な事、そしてその構成から
『応仁の乱』開始間もない頃(おそらく伊勢貞親の上洛後、幕府出仕以前に)
(味方である)東幕府側の武家を判別する為に
政所頭人伊勢家の家宰の蜷川親元によって作成されたのではないか
と推測されています。 間違いないと思います。

そして、この『見聞諸家紋』には、こんな記載があるのです。

二番朝倉下野守
(※群書類従23武家部『見聞諸家紋』より引用)


「二番」とは、奉公衆の五ヶ番のうちの二番のことです。
これが一体
 「どこの朝倉の誰であるか?」
と言う事ですが(※当時、越前以外にも朝倉はいた)
『文安年中御番帳』や
『常徳院殿様江州動座當時在陣衆着到』の
"奉公衆名簿" との比較などから
どうやら、奉公衆の二番の朝倉
代々越前の朝倉家出身者が務めていたらしい、と言う事と
「下野守」という官途は、経景が名乗っていたものであると共に
朝倉家(越前)では、しばしば当主が名乗っていた官途なので
それなりの地位の者以外が無闇に名乗る事はないだろう、と言う事から
この「朝倉下野守」
朝倉経景と見て間違いないのではないか
…と思うのですが
この事を指摘した本なり論文なりを見たことがありません。


おそらく、家紋が朝倉家「三つ盛木瓜」とは似ても似つかないので
スルーされているのだろうと思うのですが…うーんw
しかし、実は
江戸時代に編纂された家系図集『寛政重修諸家譜』を見ると
越前朝倉家の同族で、この家紋を使用していた家系が
少なくとも二流、存続していたことが分かるのです。
(※宗家は室町末期に途絶えているので
 それ以前に分かれた庶流と思われます。)

つまり、越前朝倉家の基本的な家紋は
三つ盛木瓜(もしくは一つ木瓜)だが
 奉公衆二番隊に所属する場合は、上図の家紋を使用していた」
のではないかと。

…ってゆーか、そんなマニアックな話どうでもいいよ!
とか思われるかも知れませんが
この推測が正しいと仮定すると
これまたまたまた『明応の政変』
関わってくるかも知れなくもないかも知れないのです!!



話は飛びますが、小田原の後北条家の初代
北条早雲こと伊勢新九郎盛時東国進出の切っ掛けが
『明応の政変』であったことは
近年、だいぶ周知が進んできていると思います。
 (※本サイト『2-10』の最後の方で、少しだけ触れています)
伊勢新九郎盛時は、全然素浪人なんかじゃなくて
伊勢貞宗と同じ、幕臣の伊勢一族だった訳ですが
ただ、そんなにしっかりした出自にもかかわらず
後世、様々な説が乱立するほど
本人は生前、自分の事を周囲に話さなかったのは事実でしょう。
それはなぜか?
隠したい事があったから。 …ですよね、普通に考えれば。


現在、一般的には
 「伊勢新九郎盛時東国出陣
  政変で新将軍の座に就いた足利義澄(堀越公方足利政知の子)
  による "幕命" であり
  当時、伊豆の堀越御所父政知の後を継いでいた
  義澄の異母兄(義澄母の仇とされる)を討伐する為だった」

とされていますが
しかし、幕命ならば何も隠すことは無いし
むしろ、「京都公方の御敵討伐!」と大々的に主張した方が
軍勢を効率よく集められます。
 (もし、不意打ちを狙ったのだとしても
  討伐成功後は、それこそ全てを明かして問題ないはず。)
それなのに
判明している援軍は、駿河国の今川氏親くらいだし
当時の数々の日記(京都周辺在住の者達による)の中で
京都から東国への出陣に関して記しているものが一つも無い
というのも、どうにも不審です。


そもそも、政変の直前まで天龍寺の僧侶だった新将軍義澄
いきなりそんな権威を振るったと考えるのは不自然だし
実際、「政変で担がれた将軍」ということで
実はあまり…ってゆうか、かなり
幕臣たちの忠誠心が低かったことが、一次史料の記述から分かるのです。

(まあ、あんな政変起こされたら、そりゃ、みんな白けてしまうわな。
 何も知らずに将軍になった義澄
 本当に可愛そうな立場だったと思う。)


つまり、伊勢新九郎盛時が東国に進出したのは
正式な(少なくとも表立った)"幕命ではなかった"
しかしやはり、『明応の政変』に関わる "何か重大な秘密を抱えていた"
それは、自身の半生を捨てなければならないほどの
"重い覚悟を強いるものだった"
そして…それを裏付けるかも知れないかも知れないのが
上述の仮説
 「奉公衆二番隊の朝倉は、越前の朝倉出身者
  宗家とは違う家紋を使っていた」

なのです。

なぜなら、幕命では無いとは言え
政変当時、"奉公衆" だった伊勢新九郎盛時の出自を考えたら
それに付き従った者達の中には
少なからず、京都の幕府関係者が含まれていただろうし
伊勢新九郎盛時が出自を隠したなら
彼らもまた、同じく過去を捨てたはずです。

実は、上述の『寛政重修諸家譜』
(宗家とは別の家紋を使っていた)朝倉家のうちの一流は
初代は義政に仕えて戦功があり
この頃、越前を離れて駿河の今川氏親、のちに後北条家に仕え
しかし、その経歴にどこか取り繕った感じがあるのです。

(ちなみに、この一流が「越前の朝倉僭称していた」
 …という可能性は、ほとんど無いと思います。
 なぜなら、当時、越前の朝倉小田原の後北条家の間には
 連歌師宗長や、伊勢家の者が行き来していた間柄なので
 そんな嘘ついたら一瞬でばれてしまいます。
 宗長と仲の良かった朝倉教景(宗滴)は、伊豆の早雲の話を常々聞かされていて
 どうやら密かに尊敬していたらしい。)


…つまり、憶測全開で申し訳ありませんが
『明応の政変』当時
奉公衆二番隊を務めていた朝倉(ただし経景の系譜とは別)は
自身の出自を隠して伊勢新九郎盛時に付き従った
…言い換えれば
あの東国進出では、伊勢新九郎盛時の他にも
 「過去を捨てる覚悟をした奉公衆がいた?」
のではないかという事です。
彼らはなぜ、そこまでしなくてはならなかったのか…



…と、まあ、『明応の深淵』に切り込み過ぎて
疲れて来たでしょうから
今日のところはこの辺でw
とりあえず今は
 伊勢新九郎盛時の東国進出は、想像以上に深い闇を隠している」
と言う事だけ、知っておいて下さい。
そして、そこにはおそらく…
伊勢新九郎盛時の従兄弟に当たる、伊勢貞宗が関わってきます。

 あの東国進出の建前は、真の目的は、そして彼らの政治的立場
 …本当は何だった?


…ってゆうかまたか! また貞宗か!! このきのこめっ!!



ところで、前回の朝倉景冬回
 「あの政変は、本当は誰の為だった?」
との疑問を呈しましたが
当然の事ながら、「朝倉の為」ってんじゃありません。
ただし、『明応の政変』が起きた事で
あの "厄介な訴訟" が有耶無耶になって、すっかり命拾いしたのは事実です。
ってか、『長禄合戦』も『応仁の乱』も『明応の政変』も
どれも当事者の為になっているとは言い難い
「誰得(だれとく)事件」ですが
なぜか全部、結果的に「朝倉得」なっている、ってゆう。
いやーやっぱり正直に生きていると人生違うね!!

(その結果、約100年に及ぶ朝倉統治時代越前一乗谷
 乱世の中の楽園となりました。
 あと、大内さん周防山口「夢の小京都」状態。
 田舎を小馬鹿にしていた京都の公家が、一瞬で改心するレベルw)

あ、でも『明応の政変』自体には、朝倉は賛同していません。
(その逆で)追い出された旧将軍応援団の一員として
"その後の15年の物語" で、脇役ですが登場します。
ちなみに、この踏んだり蹴ったりな旧将軍
このブログの冒頭で、いつも
おいしそうにぬる酒を飲んでいる足利義材です。 切ねぇww


あーそれにしても、今日は話がとっ散らかり過ぎた。
よくぞここまで耐えてくれました。
最後ですので、朝倉経景に話を戻します。

経景は、『応仁の乱』開始当時は幕府の奉公衆だった」
という仮説が正しければ
彼は東幕府御所の警備に当たっていたはずですが
そうすると
西軍の兄孝景たち盛大な戦いぶりを、どんな目で見ていたんだろう
…と思いながら描いた上の肖像画のイメージは


朝倉経景


という、引きつった笑顔。



posted by 本サイト管理人 at 00:05| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年05月11日

朝倉氏景

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』の朝倉特集が続いております。
今日は、ようやく当主級の登場
越前国主朝倉家2代目朝倉氏景(うじかげ)です。

朝倉氏景

「2代目」といっても、これはあくまで
"越前国主" としての朝倉家当主「2代目」、と言う意味で
実際は、朝倉家の八代目となります。


朝倉家は、元をたどれば
但馬国(現在の兵庫県北部)の古代豪族であり
(うじ。本姓)は「日下部」(くさかべ)というのですが
まあ、この辺の事については今は自粛して
但馬から越前へと本拠地を移した初代朝倉広景から話しますと
元弘3年(1333)、足利尊氏が丹波の篠村八幡宮で旗揚げした際
馳せ参じたのをすべての始まりとし
以後、室町幕府の一員として
その家門絶えるまで、足利家に仕え続けました。

幕府創生から『応仁の乱』までは
将軍の直奉公分(直臣)の自覚を持ちつつも
足利一門斯波家を直接の主君と仰ぎ、その被官として
京都越前を行き来する日々に時を過ごし
そして、『応仁の乱』での予期せぬ展開の果てに
思いがけず、越前の空二度目の朝を掴むのです。
(※斯波家との被官関係については
 正確には『明応の政変』の数年後まで続きますが
 この話はまたいずれ。)


さて、室町時代と共に始まり、一足早く先立つも
そのほぼすべてを足利将軍家の歴史と共に綴った
朝倉家の240年間の歩みは

 初代広景、二代高景、三代氏景、四代貞景、五代教景、六代家景
 七代孝景(越前国主初代)
 八代氏景(越前国主2代)
 九代貞景(越前国主3代)
 十代孝景(越前国主4代)
 十一代義景(越前国主5代)


…つまり、七代目の朝倉孝景
一族大躍進の奇蹟を起こした朝倉家の "中興の祖" という訳です。
以後、100年に渡り
盛大な城下町が栄えることになる本拠地の「越前一乗谷」
もともと七代目孝景 "以前" から、朝倉の領するところの土地でした。

(※福井県の「一乗谷朝倉氏遺跡」
 現在、国の特別史跡として整備され、保存・発掘・研究が進められています。
 是非是非是非、一度訪れてみて下さい!
 目を閉じれば甦る、あの輝ける日々!
 妄想が捗るぞ、色々とな、うん。)


それから、朝倉孝景
下克上の典型と誤解されていることがありますが
『応仁の乱』の時代は
まだまだ幕府権威家格と言った「武家社会の秩序」は健在ですから
その秩序の中で掴み取った、あくまで "公方公認" の正統な地位であり
その後の越前統治においても
乱れ行く世にありながら、きっちり約束を守り道義を貫いた
稀少な一族です。
ピンチに近い運命を、チャンスに変えたのは
意外(?)にも、野心に突き動かされた猛進ではなく
誠実に生きた末の結果であったことは
孝景自身
 「いや〜、まさか国執ることになるとは思わなかったわー
  不思議だわー」

という『朝倉孝景十七箇条』の言葉に表われています。


それと、この歴代当主を見ても分かるように
朝倉家の嫡男は、先祖と同じ諱(いみな)を名乗ることが非常に多く
もう、何がなんだ分かりません。
その中でも、断トツの登場回数を誇る
「 "教景" の謎」についてですが…

あーいや、今日は氏景の話だった。



さて、孝景の嫡男、朝倉氏景
『応仁の乱』の頃は、既に父の右腕として活躍していたのですが
どうにも…影が薄い。
まあ、父孝景亡き後の治世がわずか5年
病により38歳と言う若さで他界してしまった
と言うのもあるのでしょうが
しかし、越前朝倉家の基盤が未だ不安定な時期
孝景の3人の弟達と力を合わせてよく乗り切り
戦も強く、法語によると天性より武を好み卓越した勇気を持つ
父に劣らぬ立派な武将だったそうなのです。
まあ、強烈なインパクトの先代を持つ「2代目」の影が薄いのは
仕様ですかね。

(※法語とは、法要の際に読み上げられる、故人を讃えその事績を記した漢詩のことで
 縁のある僧によって作成される事が多く
 その故人の人柄を伝える貴重な史料となっています。)


そんな、エピソード少な目な氏景ですが
その中でひと際印象的なのは
朝倉軍が、遂に東軍への帰参を明らかにし、西軍との別れを告げる場面です。

孝景が、3人の弟達を連れて越前に下向してからの3年間
氏景だけは少数の手勢と共に、西軍として在京を続けていました。
そして遂に、越前から "孝景東軍帰参" の報が入り
程なく、京都の氏景公方義政に直に謁見、御剣を拝領して越前に下る日を迎えます。
その前日の夜
氏景は、西軍大将山名宗全の屋形で大酒を飲んだ後
東軍の陣に馳せ入ったと、『大乗院寺社雑事記』は伝えています。

この朝倉の東軍帰参が「西軍への裏切り」ではないことは
本サイト『2-10』で先走って述べた通りですが
そうすると、この夜の別れ
どれ程つらいものだったのだろう…と考えてしまいます。


本サイト『2-11』
西国石見の益田家が、長野庄の帰属の関係から
西軍在国大内家家臣達
以後も変わらぬ同盟を誓った上で東軍に帰参した
という話を解説しましたが
実は朝倉にも
東軍にならなければならない "とある理由" があったのです。
だから、この夜の「大酒」
「誓いの酒」だったのだろうし
"別れ" と言っても
それは、輝かしい明日の為の "門出" だったはずですが
それでも―――
共に戦った者達との別れのつらさを消し去るべく
大酒くらう朝倉氏景、この時23歳(満22歳)。
人生最初の、涙の酒となりました。(たぶん。)


ちなみに、後になって
その "とある理由" が思いがけず解消されたので
西軍諸侯から
 「おい、もう大丈夫だ、戻って来いよ!!」
と誘いを受けていたりするw
ただ、朝倉としては
 「え、ちょww 公方様謁見しちゃったし
  無理、流石にそれは無理www」

という訳で、お断りしたのですが
でも西軍の彼らとの親密な関係は、乱後も変わらず続きます。



では、ここで
『応仁の乱』から『明応の政変』の時期をクローズアップした
朝倉家抜粋家系図を示しておきます。


朝倉家系図
(2015.8.26 改訂)


赤字が『応仁の乱』世代、青字が『明応の政変』世代
両者にまたがる慈視院光玖朝倉景冬二色刷りとなっています。


応仁世代明応世代が、ちょうど親子関係になっている事は
このブログの「伊予の国から2」で述べましたが
応仁世代は1440年代生まれ
明応世代は1470年代生まれが、本当によく集中しています。
例えば、応仁世代は…

 畠山政長 1442
 伊勢貞宗 1444
 斯波義廉 1446 or 1447
 大内政弘 1446
 慈視院光玖 1440
 朝倉景冬 1440年代半ば
 朝倉氏景 1449

あと、1430年代も多いですね。
 足利義政 1436
 足利義視 1439
 畠山義就 1437
 伊勢貞藤 1432
 朝倉経景 1438
あとどうでもいいけど斯波義敏1435
細川勝元はギリで1430
でも朝倉孝景は1428で、ちょっとおっさん。

ちなみに、こう見ると「朝倉四兄弟」ってのは
孝景+弟3人(経景、光玖、景冬)ってより、
弟3人+氏景って方がしっくりきますね。
景冬氏景なんてほぼ兄弟
それゆえ、孝景亡き後も団結出来たのでしょう。



ついでに、先走って明応世代も紹介しますと

1470年代
 畠山尚順 1475 (畠山政長 嫡男)
 大内義興 1477 (大内政弘 嫡男)
 朝倉貞景 1473 (朝倉氏景 嫡男)
 朝倉教景 1477 (朝倉孝景 嫡出末子)
1460年代
 足利義材 1466 (足利義視 嫡男)
 伊勢貞陸 1463 (伊勢貞宗 嫡男)


まあ、ややこしい話ですが
この人間関係はよく把握しておくと妄想が捗る…ではなくて
この時代の歴史に強くなるのでお勧めです。
つまり
 「応仁世代」は(30's〜)40's
 「明応世代」は(60's〜)70's
と言う事です。
なんかノリノリです。


ってゆーかこれ、500年プラスしたら
なんか現代に当てはまりますね、色々と。

私が、なんか明応世代を応援したくなる気持ちが
分かってもらえると思います。



posted by 本サイト管理人 at 03:32| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年05月17日

畠山義統

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』朝倉特集
切りが良いので一旦切り上げ、次に進みます。
なんか肝心な人が終わってないような気がしますが…まあいいか。

さて今日は、畠山は畠山でも
「能登畠山」を紹介します。
管領家で、かつ河内・紀伊・越中の三ヶ国守護でもある宗家(義就・政長流)の分家筋
能登国守護を務めていました。
そんな能登畠山の、応仁世代の当主はこの人
畠山義統(よしむね)です。

畠山義統
(2015.6.4リメイク)

またマイナーなところを…。
ってか、ここへ来てなぜ能登?!…と思われるかも知れませんが
実は、能登畠山
『応仁の乱』での「西軍ワールド」でも
それから、『明応の政変』その後の15年での
「旧将軍(足利義材)親衛ネットワーク」においても
割と主要なキャラなのです。


まあ、『応仁の乱』では
他の西軍諸侯が、無駄に目立つやつばかりだったせいで
能登畠山の話題は少ないのですが
本サイト『2-9』「連署の書状」でもしっかり登場していますし
何より畠山義統
『応仁の乱』もそろそろお開き感が強まってきた頃
自身の養女大内政弘に嫁がせて、婿にしているのです。
しかも、養女と言っても
自分の母の一族の娘ですから、実際の血の繋がりもあります。
そんな娘を養女にして
義統の生年は不明ですが)
おそらく自分と10歳も違わないだろう大内政弘の嫁にする…ってww
なんか面白いことするやつらだなぁ、とか思う。


まあ、普通に政略結婚…と思われそうですが
これは、新たに関係を築く為の婚姻ではなく
既に強固な関係にあったが故の縁談ですから
西軍解散しても、仲間だからね!」という意味か
単に、大内政弘がいい年して正室なしだったから
「じゃあ、斡旋するよ!」とかいうノリだったように思う。
たぶん、『応仁の乱』開始年の夏に
すぐ帰るつもりで上洛した22歳(満20歳)の大内政弘
まだ嫁の事など、全く考えていなかったのでしょう。
ただし、直前にとーちゃんを亡くしている事を考え合わせると
もしかしたら義統
父を亡くし、乱のどさくさで婚期を逃していた大内政弘
"父親代わり" という意味で、養女を娶わせたのかも…
と考えられなくも無い。
だとしたら義統、なんて良いやつなんだww

という訳で、能登畠山家大内家の関係は
次の明応世代でも、要注目です。


ちなみに、以上は『大乗院寺社雑事記』の記録です。
こんな妄想が出来るのも
すべては、せっせと独自情報を集め
こまめに書き残してくれた尋尊のお蔭です。
この日記は、本当に珠玉の情強ネタ満載で
中世の日本を、素晴らしい程あざやかに甦らせてくれます。
みんな尋尊に感謝! 『大乗院寺社雑事記』は日本の宝!!
…いやまあ、日本中世の日記はどれも
宇宙遺産認定したいくらい、貴重な存在です。



ところで、能登畠山
畠山家を語る上では、欠く事の出来ない要素でもあります。
と言うのも
何を間違ったのか
宗家がとんでもない傑物を同時に2人も輩出してしまい
畠山家の歴史が、急速にアドベンチャー化していく中にあって
能登畠山は、比較的安心の平常運転だったので
収拾つかない宗家のはちゃめちゃストーリーを緩和してくれる
極めて重要な立ち位置だったのです。
(※ただし、畠山政長は本来
 真っ当かつ無自覚不憫系の地味めな性格です。
 義就のせいで、夢の平凡な人生が歩めなかっただけ、の話です。)

なんたって、畠山政長の子の尚順の子の稙長(たねなが)が
 「もういいよ!全部能登にあげちゃおうよ!」
とか言って
宗家の家督を丸ごと能登に進呈しようとしたくらい、能登は重要です。
…ってか
確かに稙長の時代は、もうかなりはちゃ極めちゃ状態だったとは言え
丸投げ過ぎんだろww (でも、気持ちは痛いほど分かる)


まあそんな訳で、能登は畠山家のまとも担当!
三色団子で言えば、真ん中の白!
そんな能登畠山のイメージを存分に反映させた上図の義統
長くも短くもない前髪
黒でも茶でもない髪色
右でも左でもない分け目
まさに、能登!!

…いや別に、能登をディスっているつもりはなくて。
基本的に私は、「贔屓はいけないと思いまーす」と言いつつ
足利、畠山(能登含む)、大内、伊勢、朝倉
明らかに贔屓しています。
本当にすみません。
しかしそれは
彼らの行動の根底には、"貫かれた弓矢の道" があって
それ故、個々の史実エピソードに
光る美学が読み取れて、面白いからです。
逆に、自分の事しか考えてない、品の無い者が大嫌い…
おっと、好き嫌いはいけない。
誠に申し訳ありません。
(もちろん、他にもまだまだ
 道理礼節を弁えた正しい武家はあるし
 上記の武家の者でも、個別に問題は大いにあるw)


ちなみに、肖像画は、同族はみな同じ顔になっています。
義就政長義統も、みんな一緒。
違うのは、描いている時の私の気分くらいです。




さて、話を戻して。
畠山義統
『応仁の乱』では義就と共に西軍に属していた訳ですが
乱後は、他の西軍諸侯同様、分国に下向して自国の統治に励み
以後、代々能登国七尾城辺りを中心に
多くの公家歌人達が行き来する、見事な城下町を花咲かせます。
というか
美濃の妙椿とか、周防の大内さんとか、越前の朝倉とか
小京都系 "名君統治" を実現させてんの
元西軍ばっかじゃん…とか思う。
まあ、当主が安定して在国していたから
と言うのもありますが
彼らは、自国の統治のみに没頭していたのではなく
幕府を中心とした武家社会の秩序公方との主従関係も当然に尊重しながら
その上で地方の繁栄を目指した、道義ある名将たちであり
やはり偉いと思います。
(これらは一見、二律背反ですが
 彼らは、持ち前の「私利より公利の武家精神」で
 上手くこなして行くのです)
だからこそ、『明応の政変』でも
個人的感情で世を乱す非道な行為に対しては
勝者正義と認めず、水面下で抵抗し続けたのです。



実は、『明応の政変』という
唐突なクーデターが起きてしまった後
世の無為天下泰平を願って旧将軍の復帰を後押ししたのは
『応仁の乱』での西軍大名が多いのです。
ただし、それゆえ彼らは、戦闘という "手荒な方法" を嫌うので
京都奪還まで15年もかかってしまった、ってゆう。

まあ、『明応の政変』が起きたのは
京都が主戦場となった『応仁の乱』の初期から25年
大名の東西分裂が解消してからは
まだ15年しか経っていない時期ですから
『応仁の乱』リターンマッチだけは、何としても避けたかったのでしょう。
(しかし一方で、『明応の政変』の2人の主犯格のうち
 一人は、京都を火の海にしかけ
 もう一人は、京都以外の各地に全方位テロを巻き起こすのですが。
 …なんてこった)


まあつまり、要点としては
 「『応仁の乱』での繋がりはその後も継続していて
  彼らは、協力し合う関係にあった」

と言う事、それから
 「元西軍大名は、実はかなり真っ当
  権力の独占や無益な敵対を否定し
  和による天下の泰平を志す傾向が強かった」

と言う事。
地味なところですが
この視点は、『応仁の乱』でも『明応の政変』でも
彼らの行動原理を解明し、真相を正す上で重要です。


『応仁の乱』では、それが無意味な対立ではなく
西軍大名は「弓矢の本意」という目的を抱いていた、という事を
本サイト『2-11』の真ん中辺りの
「大内政弘から麻生弘家への書状」で解説しましたが
『明応の政変』のその後の15年間もまた
私的な利害衝突や権力争い、といった単純な話ではありません。
彼らは単に「自己利益から旧将軍側についただけ」
という訳ではないのです。
どういう事かと言うと―――
「旧将軍、京都帰還作戦」とは
なんと朝廷公家歌人まで関わってくる
"天下の一大ミッション" だったのです。

…おっと、話が先走りすぎたw
詳しくは、これから少しずつ解説していきますが
これに気付いている人、どれくらいいるんだろう…とは思う。
(もちろん、それを指摘した論文を見た事は
 今のところ無い。)



まあ、『明応の政変』については
そろそろ、概略だけでもまとめようと思っていますが
今のところは
かつてこの国で、道義ある天下を願う者達が
様々な方面で、それぞれの方法で、しかし一つになって
遂に理不尽な現状を覆したという
輝かしい、しかし未だ知られぬ "映画のような歴史" があった
と言う事を
こっそり知っておいて下さい。


さて、畠山家についてもう少し話が続きますが
長くなったので、ここらで一旦切ります。



posted by 本サイト管理人 at 02:24| Comment(0) | ★チラ裏人物記