2014年05月18日

畠山義統(続き)

(チラ裏シリーズ)

さて、前回の『チラ裏人物記』畠山義統回の続編として
もう少し畠山家の事について語りたいと思います。

ではまず
宗家能登畠山家が分かれた時点から
『応仁の乱』を経て『明応の政変』までの時期をクローズアップした
畠山家抜粋家系図です。


c畠山家系図
(2015.8.26 改訂)


赤字が『応仁の乱』世代、青字が『明応の政変』世代
両者にまたがる政長義統は二色刷りとなっています。
破線(- - -)は、異説です。


満家(みついえ)と満慶(みつのり)は
本サイト『2-5』で、足利義教信任厚い兄弟として登場しましたが
二人は共に、3代目足利義満から4代目義持6代目義教まで仕え
弟の満慶が、畠山家の守護国のうち能登一国を授かった事で
能登畠山家が誕生します。
彼らは仲の良い兄弟だった様で
『満済准后日記』には
一足早く先立った弟満慶の死を、深く悲しむ兄満家の姿が記されていて印象的です。
そんな宗家能登の密接な関係は、この後も続いていきますので
両家は "兄弟みたいな関係" と捉えてしまっても
割りと間違ってないし、分かり易いと思います。


さて、6代目義教の治世の半ばで、満家・満慶兄弟が世を去り
後をそれぞれ持国義忠が継ぎますが
2人は既に、義教期の初期から幕政に関わっていて
『嘉吉の変』収束後から『応仁の乱』の一歩手前の時期
すなわち、8代目義政
 「そこそこ世の中が何とかなってて華やかだった時代」
での、幕府における宿老的な存在でした。
んで、ご察しの通り
能登の方は、引き続き安定の賢臣ポジションなのですが
宗家の方は、冒険時代に突入してしまいます。


宗家の家督騒動の始まりは
義教期末期の、兄持国から弟持永への家督交替ですが
これは、持国に言わせると
 「俺たち兄弟の間には、何のわだかまりも無かったのに
  家臣が余計な事したからだ!」

という事だそうで
義教が改替を決定したのも(別に理由なき独裁ではなく)
持国「家臣の支持を失った」と判断した為でしょう。
義教は、大名家の家督
第一に「人徳家臣の支持」を求めていましたから。
まあ、確かに
義教も、もう少しマイルドな成敗しろよ、とは思うし
持国自身も、上意に違う事がしばしばあって
それで家臣危機感を抱いた、というのが真相のようですが
少なくとも、一次史料の記述からは
 「義教が無意味大名粛清をしてた」
という解釈を導くのは、理論的無理があります。
無理無理アクロバティックファンタジー
ジェットストリームリムリです。

   ( ゚Д゚)゚Д゚)゚Д゚) <ムリムリ

…あ、ごめん言い過ぎたw
でも、もともと記録が無いならいざ知らず
こんなにも一次史料が残っている恵まれた国
それらを深く読み解けば
"限りなく真相に近い歴史" を描き出せると言うのに
さらっと斜め読みして
"想像で描いた歴史ファンタジー" を膨らませてしまうなんて
もったいないにも程があると、常々思っております。
というか、贅沢だよねw
歴史ってのは、どんなに大金積んでも買える物じゃないんだから
もっともっと、大切にしていかなきゃならんと思います。


とは言え、『嘉吉の変』後、宗家の家督持国に戻り
しばらくは平穏に過ぎていくものの
この一件で
家臣を含めた宗家に、火種が残ってしまったのは事実で
それをみんなが
寄ってたかってパタパタ団扇で扇いだもんだから… ちーん。
ってか、山名宗全・細川勝元もだけど
持国自身も、弟持富を後継者に決めていたのに
 「やっぱり、実子の次郎(のちの義就)に…」
とか、やっちまうから、もう。


まあこの辺の復習は、本サイト『2-7』を参照して下さい。
上の家系図の「政久」
享徳3年(1454)秋頃に、一旦家督についた弥三郎政久(政長の兄)です。
弥三郎政久が担ぎ出されたのは
畠山宗家の家臣の一部が、細川宗家に働きかけた成果のようですが
まだ幼い政久自身は、結構かわいそうだったと思う。
(基本的に、畠山家の騒動は家臣の画策による所が大きい)

『康富記』(中原康富の日記)によると
実子義夏(のちの義就)が家督を外され
父持国は、建仁寺西来院での隠居を決意するのですが
弥三郎政久方は、持国自身の存在は必要としていて、彼を屋形に迎え入れます。
この頃、持国は病が日に日に重くなっていたのですが
一度、不思議に回復して
公方義政のもとに出仕した事があるのです。
その時の様子が
 弥三郎政久義統の二人が、持国の手を引いて」
公方の御前に参ったと。
この時(おそらく)、政久10代前半、義統10代後半
なんか、想像すると泣けてくるw
しかしその直後、義夏+義夏方の家臣の巻き返しで
弥三郎政久方は没落。
しかも政久は―――その後早世してしまうのです。
ますます泣けてくる。
でも大丈夫だ! 政久の後を継いだ弟の政長
伝説のような歴史を残してくれたから!
(というか、政長の性格自体が伝説。)


こうして、その後二転三転大逆転の末
『応仁の乱』を経て完全に2流に分かれてしまった両宗家は
  義就流の畠山を「総州家」
  政長流の畠山を「尾州家」
と呼んで区別されています。
理由は、前者が代々上総介(かずさのすけ)を
後者が代々尾張守(おわりのかみ)の官途を称したから。
まあ、義就流上総介を称した例は少ないと思うのだけど…
まあいいか。
尾張守の方は、代々宗家の家督継承者が任官していて
「尾張守→左衛門督」と昇進するのが常でした。


ところで、かつて人の名は、(いみな。実名)ではなくて
通称官途で呼ぶのが慣わしだった訳ですが
(※名前についての豆知識は本サイト『2-6』の最後の方をどうぞ。)
畠山家の通称ってのが、これまた…
なぜか「次郎」が多い。
義就政長義統も、みんな「次郎」!
ってか、確認出来ただけで
義就以降、政長以降、能登は義忠以降、みんな「次郎」!
だから当時の日記読んでると
 次郎次郎次郎に云々」
とか、たまに訳分からんことになってる。
それじゃあ、幕政上も公式な記録する時困るだろ!とか思うけど
 「いや、大丈夫だ問題ない!
  管領家は名字を記さないから
  "次郎殿" とあったら宗家
  "畠山次郎殿" とあったら能登のことだ!」

とか、大真面目に故実書に書いてある。
職人技のような、次郎鑑定スキルである。



さて、能登畠山の事も少し解説しておきますと
満慶の子、義忠(よしただ)には
義有という嫡男がいたのですが、早くに亡くなってしまい
孫の義統に家督を継承して、後見していました。
政国は、義忠の子または義有の子の2説があって不確かですが
実は、次期宗家家督として義就の養子となっていた人物です。

この経緯については、『応仁略記』に詳しいのですが
当時、能登畠山の義忠
毎度天下の無為に功績のある "幕府の三賢臣" の一人だったそうで
(後の2人は、三宝院義賢細川持賢(持之の弟))
で、宗家の家督騒動の収束にも尽力するのですが
家督が義就に戻った時、再発防止策として
 「自身の子(or孫)の政国義就の養子にすれば
  もう公方様の気まぐれによる家督改替劇は起こらないだろう」

と考えたのです。
(※『応仁略記』は軍記ですが
 当時を良く知る人物によるものらしく
 他の日記と比較しても、特に畠山家の記述は正確です。)
しかし、賢臣宿老 義忠の願い空しく
その後もっとこんがらがって行く、ってゆう。
ま、そんな訳で
能登畠山義就流宗家と近く
『応仁の乱』では、共に西軍に属することになるのです。


ただ、ただし
畠山政国は、悲しい最期を迎えます。
文明2年(1470)10月5日
義就と不和になった養子の政国
(おそらく能登越中に下向する途中)
越前国で、義就の要請を受けた朝倉方の手の者に
討たれてしまうのです。
義就に実子が出来た事で、政国と不和になったらしいのですが
うーんwどうなんだろうこれは、義就よぉぉ!
まあ、その後
能登畠山家との関係が悪化した、という様子はないようですが
政国は義就方として結構頑張っていたから
何か政国に非があったとしても
(ってか、あんま無いような気もするが…
 でも単独で下向したのは、裏切りになっちゃうのかな、うーん)
やっぱり悲しい結末だ。


ただ、この件で実は一番気になるのは
東軍に降るべく、越前に下向していた朝倉孝景
「義就と連絡を取っていた」と言う事実。
この時は、まだ旗色を明確にはしていないとは言え
東軍化はほぼ既定路線でしたから
 「おい、なんで西軍普通に連絡取ってんだよ!」
とか思うけど、これも
 「西軍諸侯は、朝倉孝景越前下向の真相を知っていた」
と解釈すれば、何の不思議も無い訳です。
ってか、本当に西軍仲間を騙した裏切りだったら
すぐ怒る短気な義就が、軍事的報復に出ない訳が無いww

まあ、朝倉東軍化 "裏切り" と考えてしまうと
その後の色んな話の辻褄が合わなくて、ちんぷんかんぷんもいいとこなので
早くこの説が訂正されて
全国のちんぷんかんぷん状態が解除されて欲しいと思います。
ってか、なんで今まで
この "裏切り説" は放置されてきたんだろw
矛盾の多さに、誰も疑問を感じなかったのだろうか。


まあつまり、歴史の研究というのは
ただ「史料の字面を読む」という単純作業ではなく
史料からかき集めた個々の事実(点)
一つの理論(線)で繋げる、という
なかなか高度な直感と思考力を要する作業です。
都合の良い数点だけを、適当に繋げるなら簡単ですが
無数の史的事実(点)を、最大数網羅する理論(線)を見つけるのは
結構な難易度ですし
新たな一点が加わっただけで
理論がひっくり返ってしまうこともある厄介さ。
しかし、ちょっと見方を変えるだけで
全ての点が一直線に繋がって、あらゆる謎が一瞬にして解ける
という瞬間もある、実に楽しい学問ですので
どうぞみなさんも、「一次史料からの歴史探究」を始めてみて下さい。
特に、『明応の政変』の "点" は矛盾に溢れていて
"繋ぎ甲斐" があります。



さて、長々と畠山家の解説を続けて来ましたが
これは単に
歴史の知識を楽しんでもらいたい、という為ではなく
この事実を元にした "史実妄想物語" である本サイト『黎戦記』
予備知識となるからです。
ここで、紹介しているのはみな『黎戦記』の登場人物です。
彼らはそこできっと
『明応の政変』の真相を語ってくれると思います。たぶん。



posted by 本サイト管理人 at 13:41| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年05月27日

持是院妙椿

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』です。
今日は、待ちに待った持是院妙椿(じぜいん みょうちん)の日です。

美濃国守護代斎藤家の出身である妙椿
もとは、幼少期からの完全出家僧なのですが
兄の斎藤利永が長禄4年(1460)に亡くなった後
兄に代わって国の政務を受け継ぐ事になりました。
(ただし、斎藤家の家督自体は
 利永嫡男の斎藤利藤(=妙椿の甥)だっと思われます。) 
しかし、7年後の『応仁の乱』の頃には
すっかり天下の裏ボスと化していた、っていう。

妙椿
(2015.2.28リメイク)

妙椿については、本サイト『2-8』の初登場以降ちょくちょく言及しているので
どんな人物か、だいたい妄想はついていると思いますが
(※妙椿東常縁の有名な和歌の話
 本サイト『2-11』です。)
美濃守護土岐家家臣であると同時に
公方の直臣でもある、という特殊な身分に加え
持って生まれた天下規模の思考回路ロックな精神
あちこちの困ったさん達の面倒を見ては
数々のぬくもる話題を提供してくれる
すさんだ世界の救世主、にこにこ妙椿でありました。
にも拘わらず
その無敵過ぎる実力から、世間ではめっぽう恐れられていた、ってゆう。


まあ、確かに
『応仁の乱』中は、美濃周辺に遠征しては
ちゅどーん、ちゅどーん、てへ☆
とやっていたのは事実ですが
しかし妙椿の行動は、大局的に見ると
その目的が、仲裁だとか調停だとかいったものが多いのです。
つまり、「ちんけな領土争いしてる分からず屋には、ぶっ放すよ!
という世直し介入をしているだけで
それ故、「言う事聞けば、殲滅はしないよ!
という優しさにも溢れているのです。


しかし、東軍であるべき公方の直臣 妙椿
公然と西軍として振舞う恐怖
東幕府からしたら並大抵のものではありませんから
当然、「妙椿治罰!」という事になります。
という訳で早速
公方の密使が(治罰の)御内書を携え、周辺国にGO!!
…したところ
三河国で、あっさりと30余人ほどが捕らえられてしまい
妙椿治罰計画がばれてしまいました。 東幕府、ちーーーーん
  妙椿「…よろしい、ならば――― フフフッ」

しかもその頃
京都の幕府の失策により、全く以て収拾がつかなくなっていた関東問題
対峙する「堀越公方 足利政知」と「古河公方 足利成氏」の双方から
「どうにかなんないっすかね」と相談を受けていた妙椿
ついに
 「一天下の事、申し入るべし」
と、公方にもの申す準備に入ったのでありました。 義政、ちーーーーん
(※以上『大乗院寺社雑事記』文明5年10月11日)


ってか、公方にまでダメ出しロックオンww
まあでも、ここでの注目は
妙椿は確かに西軍ではありますが
東軍西軍という枠組みではなく
「天下」という視点で世の中を見ていた、と言う事で
これは、西軍の大内政弘や、実は畠山義就にも共通した考え方でした。


単に、『応仁の乱』が諸大名の利害対立の問題だったら
両軍の領袖の細川勝元山名宗全が和睦すれば
一応は乱は終結するはずで
実際、乱開始5年後の文明4年(1472)から交渉が始まるのですが
難航した挙句、翌年2人は相次いで他界
その1年後
それぞれの跡継ぎの間で、ようやく両家は和解に至るものの
それは、「東西軍の和睦」ではなく
細川家山名家の「単独の和解」、もっと言えば
「山名家の東軍帰参でしかありませんでした。

(※これは、石見の益田家や越前の朝倉家のパターンとは違い
 西軍との関係を "清算" した上での東軍化です。
 参照…『大日本史料』文明6年7月7日、26日など。)


では、残った西軍の彼らは何に拘っていたかと言うと
まあ、この辺も本サイトで概略は述べましたが
「義政と義視の和解」が、絶対条件だったのです。
(『大乗院寺社雑事記』文明6年閏5月15日)
畠山義就大内政弘なんか
日頃から内々に公武和議をかけあっていたらしい。
(『大乗院寺社雑事記』文明4年2月26日)
彼らは、両公方の和解がなるまでは
自分達だけ和睦で「いち抜けたっ」はするものか!
という固い「本意」を持っていたのです。
(※大内政弘の「本意」は、本サイト『2-11』の真ん中辺で。
 畠山義就の「本意」は、『大日本史料』文明6年4月19日
 祇園社に納めた願文で誓っています。)


「東軍打倒!」のために義視を担いでいただけなら
そもそも2人の和解なんて望まないどころか
対立していてくれた方が都合が良いはずですし
もし彼らの目的が「幕政の掌握!」のための権力争いだったなら
軍事的に圧勝して義政に退位を迫り
勝者として義視を将軍にする形を選んでいたでしょう。

まあ、自分達の利害が全く頭になかった訳では無いでしょうし
義就大内政弘ほど善人では無いけれどw
なんだかんだで
 「やっぱり公方の幸せを願ってしまう」
と言う
なんとも武士らしい、意固地素直な "こだわり" だと思います。



私が、これまで東軍目線でのみ語られ来た『応仁の乱』を
西軍目線で解説しようと試みているのは
実は、『応仁の乱』の真相というのは
西軍の立場に立って初めて見えてくるからです。
どうか、彼らの「本意」が知れ渡り
歴史の誤解が解けて欲しいと、願う日々であります。


(ちなみに、『明応の政変』とその後の15年も一般に
  「京都のクーデター政権側である新将軍と細川政○目線」
 で語られていますが、それだと
 「義政目線で語る『応仁の乱』」の如く
 問題の核心が見えてきません。
 この事件は
  「旧将軍と、それを応援する天下の連合勢力目線」
 で見る必要があり
 そうする事で、謎が一直線に解けていきます。
 例えるなら
 京都を中心に天下が回っている」"天動説" ではなく
 天下から見た京都という "地動説" の立場に立つという事です。
 つまり、地球は…
 宇宙の片隅の銀河系の片隅のそのまた太陽系の片隅の
 "ちんまりした惑星" だったんだよ実は!!
 という、コペルニクス的 (  Д ) Д ) Д ) ゚゚゚゚゚゚ ポーーーーン
 なのです。
   「目を覚ませ! ここは世界の中心ではない!!」
 …おっと
 訳が分からなくなってきた、そろそろ自重しよう。)



さてそんな訳で
東西両軍の大名頭、細川勝元山名宗全が表舞台を去り
翌年両家が和睦して、大乱当初の大問題の一つが解決
乱開始3分の2を過ぎた所で
いよいよここから、西軍の「本意」"のみ" をかけた
『応仁の乱』3rdフェーズが始まるのです。


ああ…、またリニューアルか。
ラスボスの次にラスボスがエンドレスで続くRPGのようですが
彼らは至って本気です。
ちなみに、こっから妙椿も完全に西軍ラスボスとなります。
まあもちろん、西軍には足利義視(義政弟)という公方がいますし
畠山義就大内政弘軍の存在感は、東西を超えて圧倒的ですが
向かうところ敵無しのこの2人にすら
 妙椿の意向に従いまーす!」
と言わしめる妙椿
本来、公方細川山名が主役だったはずの『応仁の乱』を
 「東西軍の命運は、妙椿の一存で決まる」
という、全く以て意味不明なフェーズに移行させてしまい
日本史上の「七大珍歴史」の一つを刻んでしまったのでした。
(『大乗院寺社雑事記』文明6年4月19日)


と、あんまり妙椿のイメージが恐怖化してしまうといけないので
いい所もアピールしておきますと
妙椿は、決して仲間を見捨てない!!
大乱末期、畠山義就が分国の河内に撤退するに当たり
安心して下向出来るよう
美濃・尾張・近江3ヶ国の軍勢300騎を上洛させて
京都の 危険 安全を図り
大乱終結後は、西軍公方の義視美濃でお世話し続け
そして、一足早く尾張国に退いていた斯波義廉については
大乱後に至っても、旧東軍に攻められれば
華麗に援軍を指揮して、さらっと撃退しまうのでした。


ん…斯波義廉といえば
元被官の朝倉孝景が気になるところですが
この辺も、色々とエピソードがありますのでお楽しみに。



ちなみに、文明3年(1471)明確に東軍化を表明し
越前で、元同僚甲斐との合戦の道を選んだ朝倉ですが
ほぼ朝倉優勢が固まってきた頃の文明6年(1474)6月10日
ななななんと、西軍妙椿
「 数 千 騎 」の軍勢を率いて、越前に進攻して来たのです!!
きゃーーーっ孝景逃げて〜!
妙椿が歩いた後はペンペン草も生えないわよ〜!!
…と心配したい所ですが
しかし、妙椿は両者に「和解するように」と言いつけて
4日後には、颯爽と去ってしまいます。
何しに来たのかと言うと
越前の無為を実現し、寺社本所領の違乱を止める為だったのですが
普通に考えたら
西軍の甲斐を支援して、東軍の朝倉を2秒で撃退しそうですよね
妙椿なら。
でもこの行動は、どう考えても朝倉にとって「超有利」でしかない。
実は…
西軍諸侯は、朝倉を討とうとする甲斐
思い留まらせようとしていたのです。
(『大乗院寺社雑事記』文明6年閏5月15日)
つまり、間接的に
 朝倉の越前支配を後押ししていた」
ということです。
従来の「朝倉裏切り説」では説明のつかない
『応仁の乱』の真実の一つです。



という訳で今日は
ロックな妙椿ぬくもロールなお話でした。
それから、視点を変えることで
真実がその姿を現す歴史もある、ということです。
例えば、これまで「南朝 対 幕府」で語られてきた
鎌倉から室町への激動の時代は
 「花園天皇、夢窓国師、足利直義」
このお2人+1侍の視点で語ることで明かされる時代の真相
少なからずこの国の未来を変えることになると
わりと本気で思っています。


(※2016.3.26追記―――
 室町創生期、尊氏直義の時代については
 さらにもう一次元上の真相が存在していた事に
 後になって気付きました。
 うん、まあ尊氏の真相という事になる訳ですが…
 本当にミステリアスな将軍であります、はい。)



という訳で
本サイトのコンセプトは

西から見る『応仁の乱』   天から見る『明応の政変』

まとめて、みょーちんで語る『ぬくもる中世日本』ガクブル
…という事で、よろしくお願いします。

ちなみに…
ラスボスからして「城より和歌!」というほどに
歌をこよなく愛した室町の彼らが現代に甦ったら―――
  「きっとロックだろう」
というのが
本サイトの史実妄想物語『黎戦記』のメインテーマの一つです。



posted by 本サイト管理人 at 01:36| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年05月30日

斎藤利国

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、今日の『チラ裏人物記』は
前回の持是院妙椿の跡取り、斎藤利国(としくに)です。
跡取りと言っても
妙椿は「パーティ組めども妻帯せず」の完全出家僧ですから
利国は養子で、実際は妙椿の兄利永の子
入道後の法名で「斎藤妙純」(みょうじゅん)としても知られている
妙椿の甥です。

斎藤利国

利国の生年は明らかではありませんが
正室の生年(1456)や、彼女が山名家臣垣屋の一族である事から
婚姻山名宗全存命中の文明5年(1473)以前だと思われ
しかも、今を時めく裏ボス妙椿の跡取りが
30過ぎまで独身…なんてこたぁ有り得ないだろう、という事で
1440年代後半生まれのもろ「応仁世代」と推定します。
(※「応仁世代」については
 当ブログの『伊予の国から2』『朝倉氏景』をどうぞ。)


という訳で、『応仁の乱』でも
養父の妙椿と同様、上洛こそしなかったものの
周辺国では武将として活躍していたようです。

(※伊勢国(←かつて土岐の本国だった)への
 利国ほか美濃勢の出陣は…『大日本史料』文明5年10月29日。
 尋尊によると
 「妙椿自身出陣、数万騎」って…。 数万、すーまん…)


まあ、妙椿の目立ちっぷりのせいでやや存在感薄めですが
利国も劣らず、「随分の弓取り」(by尋尊)であり
統率力もあるなかなか立派な人物で
文明12年(1480)に妙椿が他界した後も引き続き
美濃の斎藤家
『応仁の乱』から『明応の政変』にまたがる時期の
周辺国の旧西軍諸侯をまとめる中心的存在でありました。
もちろん、足利家 "義視" と言う求心力を抱えていたのも大いに影響しているのですが
それにしても、守護家の土岐シースルー感が半端ねぇ…。


しかし、何より特筆すべきは
美濃の斎藤家越前の朝倉家は、非常に関係が深い!
という事だったりします。
(非常に個人的な感想ですみません。)


ところで、「妙椿は、美濃国守護代だったのか?」
という問題ですが
利永没後は、宗家の家督は嫡男利藤が継ぎ
妙椿はその後見的立場だったようなのですが
その有能さと、主君土岐成頼からの信頼
そして、公方義政から直に命令を受ける立場とが相俟って
妙椿に始まる持是院家は、世間からはほぼ守護代と見做されていた
というのが現状だったかと。


まあ、利藤は、利国の実兄であり本来の守護代であるのに
謎なほど全く以て影が薄い訳ですが
しかし、妙椿没後に…
利藤利国の間で合戦が勃発してしまいます。
これは、利国養父妙椿の遺領8万石ほどを
守護の土岐成頼に返還したことに端を発したもので
結局、利藤方の敗北、隠居で終わります。
『大乗院寺社雑事記』には
美濃国に、即刻静謐が戻ったことへの安堵が、歓迎と共に記されていますが
守護土岐成頼の支持があり、家臣にも勇士の多い利国方に対して
利藤方はどう出たかと言うと―――
公方義政を味方につけようとしたそうだ。
この件で尋尊は(義政に対し)
 「また、礼物か! 自分の進退もままならないのに
  人の事に干渉してる場合じゃないだろ! もう!」

全力疾走で完全同意せずにはいられない意見を述べていますが
相変わらずな義政流され易さと、周りに群がる賄賂政治奸臣どもには
本当にうんざりします。
ああ、何で義視次期将軍にならなかったんだろう…

(ちなみに義政は、乱中の文明5年(1473)12月
 9歳の息子義尚に、将軍職を譲ってしまっています。
 この! 約束破りめ!!
 まあ、これは
 義政の御台の誹謗中傷賄賂兄妹の宿望なのでしょうが。
 …おっとすまない、本当のこと言い過ぎた。)


しかもこの時
旧西軍大名で、乱中は大いに妙椿に助けられた近江の六角高頼
なんと利藤方に味方したそうで
尋尊はその振る舞いを「以ての外、悪しく候」と批判しています。
ったく、どいつもこいつも!

(※この時期の六角の振る舞いは、本当に定見がありません。
 まあ、六角高頼自身の不誠実さなのか
 家臣を上手くまとめられなかっただけなのかは分かりませんが
 ホントかなり風見鶏的。
 子の六角定頼は名将だと思うんだけどなあ、うーんw)

(※以上、『大日本史料』文明12年8月27日)


まあ、この合戦はすぐ収束し、再び平穏が続くのですが
しかし、この対立の火種は『明応の政変』後
守護の土岐家の家督騒動が加わって
家臣のみならず
周辺諸国を巻き込んだ美濃の一大騒動『船田合戦』へと発展してしまいます。
そして、この対立の陰には
京都のクーデター政権側による
旧将軍親衛側の「勢力削減」の意図がありました。
(※斎藤利国と周辺の旧西軍諸侯が、旧将軍援護側です。)



さて、だんだんややこしくなってきたので
ここで美濃守護代斎藤家
『応仁の乱』から『明応の政変』の時期をクローズアップした
抜粋家系図を示しておきます。


斎藤家系図
(2015.8.26 改訂)


赤字が『応仁の乱』世代、青字が『明応の政変』世代
両者にまたがる利藤利国は、二色刷りとなっています。
点線は「養子」、二重線は「婚姻」です。


さて、ここで大注目は
利国の娘の「祥山禎公」(しょうざんていこう)です。
なぜなら彼女は…
朝倉孝景の孫(つまり氏景の子)で、教景(宗滴)の最初の主君
すなわち、「明応世代」の朝倉家当主、朝倉貞景の―――
なのです!
おお! にわかに気になってしょうがなくなって来ますね!!
え、来るよね?…ね?
彼女は、数少ない貴重な女の子キャラの一人という事もあって
私の中では全力贔屓対象です。
(※ちなみに最重要女の子キャラは、別にいます。
 楽しみにしていて下さい。)


当時の女性の実名は、記録に残る事が稀で
ほとんどが法名しか伝わらないのが残念ですが
「祥山禎公」の「祥」も「禎」も
「幸い、めでたいこと」と言う意味を持ち、"さち" と読むので
以後、彼女は「さっちゃん」でよろしくお願いします。

さて、もう一つ重要なのが、利国の正室でさっちゃんの母上の
「利貞尼」(りていに)(※これも法名)です。
彼女は上述したように、山名家臣の垣屋の出身で
『大乗院寺社雑事記』によると
公家の甘露寺親長養女になっていたそうですが
一説に、利貞尼一条兼良の娘とも
(※一条兼良は、尋尊の父上で
 妙椿と親交が深かった博学多彩な当代随一の学者。)
また、甘露寺親長の養女ではなく、親戚だという説もありますが
まあでも
妙椿利国、そしてさっちゃん公家社会での顔の広さから
いずれにしても、公家と関係の深い女性だったと思われます。

(ちなみに、妙椿には「細君がいた」という説もあるのですが…
 うーん、還俗した様子は無いので何かの間違いかとw
 あと、この斎藤家
 のちの戦国大名の斎藤道三とは、血縁的つながりはありません。)


という訳で
朝倉貞景斎藤利国婿である」という関係から
上述の『船田合戦』では、朝倉軍斎藤利国方として大活躍し
(「朝倉高名なり」by尋尊)
圧勝に近い勝ちを収め、優勢のまま終わるかに見えたのですが―――
しかし、しかし、この合戦の結末には…
利国の戦死が待っていたのです。 うう、さっちゃん&貞景ショックorz

これは
長引く戦況に、双方に厭戦気分が漂い、「和睦」が成立した後の事で
近江の寺院に布陣していた斎藤利国軍が、開陣したその直後
そこを狙って、六角方の馬借が襲い掛かってきたのです。
(※近江の馬借は、延暦寺の僧兵と同じく
 一揆を得意とする武装集団
 六角方馬借はこれ以前から出陣していたが
 動き出したのはこの時です。
 …『大乗院寺社雑事記』明応5年10月19日、12月10日、12日)

数万人とも言われる六角方馬借の急襲で
利国をはじめ、多くの一族(おそらく嫡男利親も)
そして家臣が多数自害
一瞬にして壊滅的な最期を迎えることになったのです。

……。
うーん、何とも後味が悪い展開。
これを、「合戦を続けてきた因果」と見るか
和睦を装っただまし討ちという「道なき戦いの卑怯さ」に嫌悪するかは
それぞれだと思いますが
これ以降、美濃は騒乱の絶えない地となって行きます。

土岐成頼は、乱中は西軍諸侯の主要な一人で
在国するようになった乱後も
斎藤持是院家共々、幕府とは関係も良く
そして斎藤家の代々の武将は
「民を治めてがあり、清廉とか器量の男」などと言われ
文芸にも秀で、分国に京文化をもたらしたように
立派な人物を輩出する武家であっただけに
正直、無念でなりません。



ところで、上述の利国の正室利貞尼
夫の戦死を期に尼となったそうですが
彼女は、現在の京都の『妙心寺』に、多大な功績を残します。
すなわち、『妙心寺』のために広大な土地を買い求め
寄進したのです。
これにより、その寺領は二倍ほどになったとか。
つまり、『妙心寺』が現在の規模になったのは、彼女の功徳によるのです。
そして、『妙心寺』と言えば実は…
私が全力で尊敬する花園天皇が、その離宮を禅院にしたことに始まる
「歴史」非常に深い寺院なのです。
さっちゃんのお母様、なんたるグッジョブ!!

利国の戦死という悲劇の悪縁
500年後の現在に繋がる善縁をもたらしたのだとしたら
それはもしかしたら―――
"良い事" なのかも知れない。

そういう訳で、上図の斎藤家系図には
特別に利国の正室、利貞尼を明記しているのです。



 物は否を終えず悪事転じて善事と成る。
  法は定相無し、逆縁却って順縁となることを。
  此れ其の禍福同源冤親一体なる所以の者なり」
 
 (すべての物事は、最終的に(ひ)では終わらない。
  は転じてとなる。
  この世の条理は定まった形を持たず、逆縁がかえって順縁となのは
  禍と幸せ、怨みと親しみは
  その生ずるところを同じくする、本来一つのものだからである。)




これは、室町幕府創生期夢窓国師の言葉です。
不可抗力の運命の中で逆臣となってしまった足利尊氏
そして足利直義
先帝後醍醐天皇の菩提を弔う為に
夢窓国師を開山として建立した禅院『天龍寺』
君臣の悲劇が、禅の教えを広め人々を教化する "善" に転じた」
そう言っているのです。

繰り返される戦乱
多くの犠牲が積まれてゆく現実の冷酷に対峙しながら
なお、それを "否" で終わらせまいともがく当時の人々の強さ
乱世の悲しみの中で見出す
未来への希望の眩しさが込められた言葉です。


夢窓国師の言葉は続きます。


 古来、兵革は世を乱し続けて来た。
 或いは王位を取り合い、或いは逆臣を誅し
 その一負一勝
 ただ(ごう)を重ね、怨みを増してゆくだけであった。
 (この『天龍寺』のように)悪縁を転じて善縁に変えた例は
 今日まで聞いたことが無い。



足利尊氏が、先帝の逆鱗に触れ逆臣とされていった切っ掛けが
佞臣の怨みによる讒言であった事
それゆえの戦であっても、彼らがその罪を強く悔いていた
そして、戦乱の終結太平の世を、痛いほど心から望んでいた事が
夢窓国師の言葉が語る「歴史の真実」です。

(※以上、より詳しく知りたい方は…
 【柳田聖山『日本の禅語録 第七巻「夢窓」』(講談社)1977】
 上記の言葉は「陞座」のごく一部と、その意訳です。)


室町幕府創立へと流れ着くことになった "時代の真相"
乱世に生きた人々が『天龍寺』に込めた "切実な願い" とが
当時のままの姿として現代に甦る時
この国は、本来の過去と、本当の未来を取り戻す事になると
そう予言します。


室町幕府、そして足利尊氏が受けた過去の非難は
凄惨な悪縁だったけれど

    「物は否を終えず」

この言葉を信じて、これから来るだろう善縁
ワクテカしていたいと思います。



posted by 本サイト管理人 at 04:20| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年05月31日

斯波義廉

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』です。
今日は、足利一門「御一家」渋川家出身の斯波家家督
『応仁の乱』開幕前後の室町幕府管領にして西幕府ナンバー2
…という圧倒的な初期値を示しながら
極めて上品な権勢欲で、すっかりレアキャラと化してしまった
渋川義廉改め、斯波義廉(しば よしかど)です。

斯波義廉
(2015.6.4リメイク)

義廉については
本サイト『2-6』上から3分の2辺りで初登場
『2-7』「文正の政変」に至る幕府のドタバタ劇
『2-8』の最後の方で
義廉家臣達の涙出る話、気丈な義廉母の逸話(『文正記』)
『2-9』真ん中より少し下
斯波義廉邸を死守する家臣達の奮闘(『応仁私記』)
『2-10』最初の方、「斯波、渋川、足利」の関係、先祖三兄弟のこと
そして、同じく『2-10』真ん中以降の
義廉管領罷免、被官朝倉孝景の離京」
…以上が
今のところの、本サイトでの主な登場箇所です。


まあ、こうして見るとエピソードが少なくも無い。
しかも、どれも重要かつ胸打つ物語を秘めている。
さすが義廉!!
…とまあ、私は義廉大プッシュ派なのですが
一般の評価が低い、というか気にされていない。


しかし、斯波義廉斯波義敏とでは
よくよく史料を読むと、家臣の忠誠度が全然違うのですよ。
斯波義敏はホント、「こりゃ嫌われてもしょうがないわ」
としか思えない振る舞いが非常に多い。
なんと言いますか
幼稚な嫌がらせとか、地位や所領への執着とか
"ちっささ" が目立つんですよ、斯波義敏はw
でも、幼稚ゆえに敵としては問題外…ってか
いつもあっさり負けてくれるので
義敏てめぇーーーーwww」と笑っていられる
そんな
"ムカつくけどそんな嫌いじゃないかも…まあでもどうでもいいか"
というポジションです、私の中では。
ちなみに、肖像画は…まあどうでもいいか。


一方、義廉
 「己の保身で名を穢すくらいなら、潔くフェイドアウト
みたいなところがあって
 「武士に有らざる振る舞いが無い」
という流石の品格を見せてくれます。
ただ、貴種特有の生存欲の低さが如何ともし難い、ってゆう。
まあでも、義廉は相当育ちが良いですよ。
それでいて、ボンボン特有の我侭、奇行、妙な自尊心がない!
(…おっと、ボンボン将軍義尚の悪口はそこまでだ)
 
(※ただし、義尚父義政に比べれば
 自ら家臣を率いる気概ある、武家らしい将軍だったと思います。
 しかし、その血統に気負い過ぎたのか
 不養生もあって25歳で早世。
  「義尚は死んだ、なぜだ!」 「坊やだからさ」
 …いや、違うな
  「君は良い将軍であったが、君の父上がいけないのだよ」
 …って、本当のこと言わないで下さい><
 ってか、誰なんだよシャアは。 …そんなこと知りません>< )


まあ、義廉義敏の違いは
御一家渋川家(義廉)と斯波家の分家(義敏)という
家柄のせいもあるかも知れませんが
義廉については、やはり
山名家出身の母の影響を、多大に受けていると思います。
なんたって、義廉母
『文正記』によると
 小刀、長刀、脇差を肌身離さず、合戦で潰える事あらば
  いつでも自害する覚悟を定め持つ」

という
"武士の何たるか" を完全に理解した女性で
保身執着とは対極にいるので
もし義廉が弱音でも吐こうものなら
たぶん一緒に腹切りかねませんよ、この母上はw


そんな訳で、『応仁の乱』での義廉
その高尚な気概ゆえ
西幕府ナンバー2の管領でありながら… 話題に上がらない。
西軍公方となった義視を自邸に迎え
御所として同居していたはずなのに… 動静が聞こえてこない。
そして、第一の被官、朝倉孝景越前下向を決意した時も―――

…とそこが、義廉&朝倉孝景好きにとっては
『応仁の乱』最大の "気になって気になって不眠ポイント" な訳ですが
結論から言うと
義廉朝倉孝景の越前統治に同意し
別の道を進む自由を、尊重したと思われます。


まあ、ちょっと綺麗事過ぎるようですがw
しかし、『文正記』にある
 「渋川家の "譜代の家臣" と、斯波家の "被官" の違いを
  明確に捉えていた」

という義廉母のエピソードを鑑みれば
この時も義廉は、"最も主君らしい振る舞い" をした
と考えられますし
当ブログ『朝倉氏景』で触れた
「朝倉へ。 おい、西軍に戻って来い」の書状
義廉西軍諸大名の連署で来ているので
決して「裏切り」「下克上」主従を断ち切ったのではない事が裏付けられるのです。
(※参照『朝倉家記』)


まあ、そういう意味では
朝倉孝景にとっては、報いるすべも無いほどの
多大な恩を被った主君と言えます。



さて、ここで
斯波家の被官について復習しておきますと
甲斐、朝倉、織田の3家で
甲斐越前遠江の守護代、織田尾張の守護代
朝倉は越前を本拠地としていましたが、守護代ではありませんでした。
ただ、甲斐朝倉公方の直臣でもあるので
3被官の中では、甲斐朝倉の存在感が目立ちます。

と言っても、もとは甲斐のが優勢で
朝倉が並ぶようになったのは
自己中義敏が越前をかき回した『長禄合戦』が切っ掛けです。
(※『長禄合戦』については
 本サイト『2-6』真ん中以降をどうぞ。)
義敏の自滅&孝景一人勝ちで終わったこの騒動の後
寛正2年(1461)に、義廉斯波宗家の家督につくのですが
既に述べたように、この時朝倉孝景
 公方義政から、越前守護代の任命について相談を受けた」
のです。
(『大乗院寺社雑事記』寛正2年10月17日)
しかし、それは実現しませんでした。
まあ当然、甲斐が承諾しないでしょう。
それでも、甲斐との関係が険悪になった様子はありませんから
朝倉孝景は、別段不満の色を見せることなく忍耐したようです。
おそらく―――
地道に誠意を重ね、実力を蓄える事で "その日は必ず来る"
確信していたからでしょう。

(※これは決して、私の理想的妄想ではなく
 『朝倉孝景十七箇条』や『大乗院寺社雑事記』の記述より
 孝景は、道理に対する強い信念を持っていて
 厳しいくらい誠実に任務を遂行する人物であると
 想定されるからです。)


そして、"その日" というのが
『応仁の乱』での、義政からの「東軍への勧誘」だった訳です。

つまり、朝倉孝景が主君義廉と袂を分かち
強い未練をも断ち切って西軍を去ったのは
 甲斐対峙しなければならなかったから」
であり
西軍諸侯が背中を押したのは、『長禄合戦』の頃から既に
 越前を治めるべきは朝倉であると、誰しも予感していたから」
であり
しかしそれは、余りに突然な訪れで
孝景にとっては、必ずしも望んだ方法ではなく
抗う余地のない運命に近いものでした。

(※なぜなら、甲斐との決着が "合戦" という方法になった事は
 意外かも知れませんが、朝倉は後ろめたく思っていたようで
 朝倉家の関連軍記には、その痕跡が見て取れるのです。)

しかし、決めたら最後
その道を貫くのが武士というもので
駆け抜けるような戦の月日の果てに、朝倉孝景は見事、越前に明日を勝ち取ります。
敗れた甲斐は文明7年(1475)2月、東軍に帰参し
(※この時、遠江守護代のみ安堵される)
以後、義敏方斯波の被官として
越前の朝倉との対立を、続けていく事になります。



と、ここで「どっちがで誰が対決してんのかイミフ…」
になって来た訳ですが
この時点で、甲斐朝倉東軍です。
しかし、甲斐は、東軍の斯波義敏を主君としたのに対し
朝倉は、東軍帰参当初から一貫して
同じ東軍でありながら、斯波義敏を主君と認めていません。
実は…
朝倉孝景東軍の勧誘を受けた際に示した
絶対に譲れない条件、それが
 「斯波義敏だけは、主君として認めない」
というものだったのです。
それでも、どうしても朝倉の帰参を望む東軍側
最終的にそれを認め
公方義政から斯波義敏に対し
 「越前で朝倉が合戦を始めても、手を出さないように」
との上意が伝えられました。
しかしもちろん、斯波義敏にとってそれは不満であり
(だから、途中で邪魔しに来るw
 そして義政に怒られ、孝景によって丁寧に京都に運搬されるw)
それゆえ、同じ東軍となったにもかかわらず
甲斐+斯波義敏とは、激しい敵対関係が続く事になるのです。

(つまり、これまで
 「朝倉(東軍)vs 甲斐(西軍)     義敏(傍観)」
 だったのが
 「朝倉(東軍)vs 甲斐+ 義敏(東軍)」
 となる。)


それにしても
東軍に帰参しながら
東軍の斯波家に仕えない事を認めさせてしまう朝倉孝景って…
とか思うw
まあ、一旦「子々孫々まで家督として認めねぇ!!」
と誓った決意は、どこまでも固かったという訳です。 さすが孝景


さて、この辺はまだまだ語らなくてはいけない詳細がありますが
今はとりあえず置いといて、斯波義廉の話に戻します。
この時点で、主な被官の朝倉甲斐までも失った西軍の義廉
甲斐が東軍に帰参した年の冬
つまり、大乱終結2年前の文明7年(1475)11月に
一足早く京都を後にし
残った被官、織田敏広の守る尾張国へと下ります。


では、その後の義廉の行方は?
気になるところですが、長くなったので一旦切ります。
ちなみに、なんか寂しい事になってしまった義廉ですが
(さすが、畠山政長と双璧を為す室町不憫界期待の王子…)
しかし、義廉には
渋川家 "譜代の家臣" 板倉(いたくら)というのがいて
義廉がどこに流れていこうとも
地の果てまでお供してくれますから、心配は要りませんw

それからもう一つ
斯波義敏を何が何でも認めなかった朝倉孝景ですが
それでは、もう一人の斯波、義廉との関係は?
孝景が越前に立った時、もうその主従
完全に切れてしまったのだろうか?

彼らの行き着く未来がどこなのか
ヒントは、前回のこの言葉

  「物は否を終えず」

"否" では終わらないのが
誠実に生きた室町武士の一生なのです。



posted by 本サイト管理人 at 03:17| Comment(6) | ★チラ裏人物記

2014年06月08日

斯波義廉(続き)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、今日の『チラ裏人物記』は
前回の斯波義廉回の続きです。
甲斐朝倉という斯波家の2大被官を失い
尾張国に退いた義廉(よしかど)は
『応仁の乱』が過ぎ去った世の果てに
どんな空を見る事になるのか―――

…とか、わざとらしく映画の予告仕立てにしなくても
義廉不憫属性を考えれば大体予想はつくと思いますが
期待通りの世界線をたどってくれます。


大乱終結2年前の文明7年(1475)11月
義廉は京都を離れ
守護代である織田宗家の織田敏広(としひろ)が守る
尾張国に下向します。
これは、遠江守護代甲斐が、東軍に帰参したことを受けて
残る尾張を確保する為に先手を打った "妙椿の策" だと思われます。
なぜって、妙椿は養女を織田敏広に嫁がせて
準備万端てへ☆してるからw


さて、1年ほどは平穏な日々が続きましたが
翌年の文明8年(1476)11月13日
突如として現れた織田敏定(としさだ)なる人物が
織田敏広夜襲をかけて去っていきました。
(『大日本史料』文明8年11月13日)

「って、おめー誰だよ! また東軍の刺客か??」
と思うでしょうが
どうやらそうではなく
庶流の一族である織田敏定
宗家の家督を狙って、個人的に事を起こしたらしい。
というのも、この一戦で敢え無く敗退した後
作戦を変更して
京都の幕府に取り入るべく、賄賂攻勢に出たようで
(※『蜷川親元日記』文明10年3〜8月あたり)
そのかいあって
大乱終結の翌年、文明10年(1478)8月20日には
 「尾張国の "凶徒等" 退治のこと
  "守護代" 織田敏定と相談して早よ」
と言う御内書が下されます。 (『室町御内書案』)

ってか、いつの間に "守護代" に…
しかも "凶徒" って。

この"凶徒" とは、尾張を領する旧西軍、すなわち
斯波義廉&織田敏広のことと解されていますが
ただ、厳密にはターゲットは織田敏広
尾張守護代の「争奪」が焦点の、「宗家敏広 vs 庶家敏定」の争いでした。



という訳で、幕府は
美濃の土岐成頼持是院妙椿(大乱終結後に一応幕府に帰順済み)に対し
 「織田敏定尾張入国に協力するように!」
と派兵を命じ、美濃からは
 「がってん、公方様!
との返事が来ました。
(『大日本史料』文明10年9月29日)
…ん、ちょっと妙椿の立場が気になるところですが
まあいいか。

そんな事より、織田宗家大ピンチですよ。
ってか、また礼物か!!
まあ、幕府側も、旧西軍退治に都合が良かったんだろうけど
うーん…なんだかなぁw


さて、10月当初は順調に勝ち進み、入国を果たした新守護代織田敏定ですが
しかし12月4日になって
清洲城に立て篭もる新守護代敏定
妙椿弾幕を背景とした宗家敏広の間で―――
戦闘が始まります。 やっぱりかw

ただし、これは一般には
 「織田敏広婿だったから、妙椿が幕命に背いて味方した」
とだけ解されていますが
しかし、10月に織田敏定合戦・入国を果たしてから
"2ヶ月近く経って初めて反撃" というのがどうにも謎だし
しかも、妙椿城攻め中の12月14日頃
幕府に対して「無緩怠之趣」、すなわち
 「上意をおざなりになんてしてないよ!」
と使者を介して伝えているのです。
そして、12月4日の合戦では
籠城する織田敏定方が利を得るものの
続く16日、21日の合戦では大打撃を受け、落城寸前まで行きますが
最終的には翌月
妙椿が、織田敏定に尾張国のうち二郡を宛て分けて和議が成立
城の包囲を解いて美濃に帰国
(ってゆうか、この時点でもう幕府関係なくなってる…)
以後、尾張は平穏を取り戻し
しばらくは、織田敏広織田敏定は共に尾張に在国しながら
争いも無く過ぎていきます。


つまり、以上を総合的に解釈すると
妙椿は、新守護代入国の幕命には従ったけど
織田敏定が侵攻し過ぎたから
 「おっと、尾張の治安を乱すのはそこまでにしてもらおうか」
と、報復に出ただけかと。
まあ、旧西軍の斯波義廉織田敏広の危機を、妙椿が見過ごすはずはありませんが
それに加えて妙椿
越前でも治安維持出張していたり
興福寺の尋尊には、荘園の年貢の事で相談にも乗っていて
実は、大内さんPKO-uchi伝説に匹敵する
PKmyO 傾向があるのです。
 (※ピーケーみょー=Peace Keeping みょーちん)


ところで、この12月の "妙椿反撃" に驚いた幕府は
急ぎ使者を下して妙椿城攻めを止めようと試みますが
(ってか、妙椿織田敏定入国に駆り出したお前らも
 相当どうかしていると思うぞ。)
公方からのお使いが来たと聞いた妙椿は…

  「おお、それはお待たせしては申し訳ない。
   ちょっと待っててね! いま急いで城落としちゃうから☆

ちゅどーん ちゅどどーーーーん(ターボ)

使者「……。
   って、おーーーい!! それを止めさせに来たんですけどっ!」

ちゅどーん ちゅどちゅどちゅどーーーーーん(マッハ)
   
使者「何、俺なんの為に待ってるの? 俺意味あんのこれ??」
  (「御使 無其詮逗留」)

との自問むなしく、城は半落してゆくのであった。

妙椿


(※以上『大日本史料』文明10年12月4日、文明11年正月19日)



ちなみに、この騒動の一連の記録には
義廉の「よの字」も出て来ません。
相変わらずの高ステルス性を見せつける義廉ですが
まあ、なにはともあれ、無事である事は確かなので良かったあよw
…しかし。
そう、しかし。
尾張に平穏が戻り2年半が経った頃、遂に世界線は旋回の時を迎えます。
文明13年(1481)7月23日
織田敏広のまだ幼少の嫡男千代夜叉丸(のちの寛広)が
織田宗家の家督を継ぎ
そして一族は旧東軍方の斯波、すなわち
斯波義良(義敏の嫡男、のち改名して義寛)に帰参
公方義政以下に、代替わり&帰参御礼を進上するのです。

……。
お、お、うえーーーー?!! よ、義廉はいずこ??
実は、この数ヶ月前
3月3日のこととして
万里集九の詩集『梅花無尽蔵』に
 「織田和州(=敏定)凱歌之時也」
と言う記録があり
織田敏定が、何らかの切っ掛けで地位を固めたらしい事が知れるのです。

(※ちなみにこれは
  「織田敏定宗家敏広との戦に勝って覇権を握った」
 とも解されていますが
 しかし、続く10月8日の「御内書の御礼」では
   千代夜叉丸(宗家家督)> 広近(敏広弟)> 敏定
 の順で、三者が共に進物(多い順)を公方に献上していて
 敵対している風も、宗家が極端に零落している風もなく
 その後も、共に主君斯波義寛(義敏嫡男)に従軍しているので
 武力衝突で圧倒的な優劣をつけた、という訳ではなさそうです。)


さて、以上から想定される仮説は
 「文明13年(1481)3月以前に
  宗家当主織田敏広が没したのを期に
  宗家が旧東軍方斯波への帰順を決意し
  義廉は尾張を離れた」

と考えるのが妥当かと。
織田敏広が他界したという明確な記録はありませんが
3月から、7月の代替わり&帰参の時間差は
敏広の百箇日を待ったものだと思われます。
(※当時は、100日間喪に服すのが一般的だった。)
嫡男千代夜叉丸は未だ幼少
庶流織田敏定とは和解したとは言え
いつまた対立が合戦に発展してもおかしくない状況で
当主敏広の死は、相当一族家臣を動揺させたと思います。
義廉がいつ頃尾張を離れたかは不明ですが
これを期に、やや肩身の狭かった庶流敏定の、織田一族内での地位が安定…あまつさえ
宗家の地位を侵食する事になったようです。
以後、両家は半分ずつ尾張を領し
『余目氏旧記』によると、この頃の尾張は「二守護代」がいたということらしい。



それにしても
大乱終結前年に突然現れ、幕府への礼物攻勢と
妙椿のおかげwで尾張二郡を治める事になった上に
ラッキー街道を突き進む織田敏定てめぇーーーwww
ちなみに
『文正の政変』での、斯波家被官織田家のエピソードとして…

京都の主君斯波義廉の危機を聞いた尾張在国中の彼らは
まず、織田敏貞がなり振り構わず一騎にて真っ先に京に馳せ上り
その頃、牢人蜂起があって国を離れられなかった当主織田敏広
織田広成猛勢を率いて上洛させ
しかし、それでも心配でしょうがない当主敏広
更に弟織田広近に同族の武将を何人も添えて無数の兵を追加上洛させた


という
清々しい武士の忠義と覚悟を見せてくれています。
義廉が家督改替の危機を脱し、晴れて幕府出仕を果たした時
千を超える警固の兵と共に、義廉に随従した3騎馬

 先陣甲斐織田広近(敏広弟)、後陣朝倉氏景(孝景嫡男)

義廉母の前で「二心なき旨」を誓った被官たちの、輝ける瞬間でした。
(※以上『文正記』より)
ああ、やっぱり義廉義敏じゃ
家臣の忠臣ぶりと目の輝きが全然違う!
義敏の前では、死んだ魚のような目が泳いでる。 ちゃぷん…



まあ、そんな訳で
斯波被官の織田家は本来(意味深)忠誠心があつく
この時も、「旧西軍の主君斯波義廉に背いた」という訳ではなく
尾張一族の行く末を考えたら
これが最善の結論だったと言えるでしょう。
(しかもこれは、旧西軍の現リーダー斎藤利国との申し合わせがあったと思われる。)

ただ個人的には
誓った忠誠を最後まで貫いた宗家当主織田敏広
一族最高の武将と讃えたいと思います。

(※ちなみに、義敏の嫡男斯波義良(改名して義寛)は
 義敏に比べたら、ずっと気概ある武将ではあります。
 まあ、言いたい事も沢山あるがw それはまたいずれ。)


ああしかし、義廉の行方や如何に…


まあ、義廉に関して現在は一般に
「見捨てられた存在」だとか「傀儡主君」だとか
散々な評価がなされていますが
しかし、まず一つ言える事は
現代人にとっては、義廉はどうでもいい存在かも知れないけれど
旧西軍諸侯にとって盟友
 「決してどうでもいい存在ではなかった」
と言う事です。
彼らは、大乱終結で離れ離れになった後も
互いに(よしみ)を通じ合い
河内国で在国ライフを楽しんでいた畠山アウトロー義就
幕府から追討を受けるとの話が持ち上がろうものなら
自分たちは幕府に帰順し公方義政良好な関係にあれど
やっぱり助けずにはいられない!「どーする?どーする?」
相談を始めたりする、そういう奴等なのです。
(もちろん、これには朝倉も普通に参加しているw)

そしてまた、この時点での義廉
もう斯波家家督に正式に認められる可能性はほぼゼロ
匿えば、下手すると幕府を敵に回しかねない
…という存在だった訳で
利害だけから考えれば、明らかに利点に欠けるのだから
それを「傀儡」にする、と捉える考察は矛盾しています。

…つまり、旧被官たちにとっては
 どんな立場になろうとも、義廉はどこまでも「主君」だった
ただそれだけの話なのです。


もし…
もし、今もまだ諦めていない主従があったとしたら
そして、たとえ非公式にでも、幕府にそれを認めさせてなお
揺るがずにいられる実力信頼を備えた者がいたとすれば
それは―――


越前の明日
(2015.6.5リメイク)


義廉が最終的にたどり着いたその空
あの日、で別れた明日でした。



posted by 本サイト管理人 at 01:12| Comment(0) | ★チラ裏人物記