2014年04月22日

伊予の国から

(チラ裏シリーズ)

こんばんは。
なんとなく、ブログってのは頻繁に更新した方がいいのかと思いまして
『チラ裏ウマー日記』を始めることにしました。
ま、どうでもいい日々のネタなんて、食いもんくらいしかないしね。


という訳で、愛媛県は西宇和から「せとか」が届きました。

せとか

「はじける甘さ、濃厚でジューシーな味わいが自慢の
 おいしいえひめのニューフェイス!!」
だそうです。
ぬおーーーっっ! なんて美味そうなんだ!!
この溢れるフルーツ感、そして実際美味い! もぐもぐ


さて、存分に「せとか」の宣伝をしたところで
愛媛県すなわち伊予国と言えば…河野通春!
伊予の河野通春と言えば…
寛正5、6年、細川勝元がしでかした職権濫用討伐作戦!

みなさん、覚えていますか?
あの、大内教弘による華麗なブーメランを。(復習はこちら→『2-7』
伊予国から
「うるあぁぁぁーーーーwwwww」と笑顔で投げ返したブーメラン
京都の細川勝元に見事にめり込むんですよ。
こんな面白い話、なぜもっと知られないんでしょうか。

という訳で
これから伊予のみかんを食べるときは
550年前の甘酸っぱいブーメランの思い出に、心を馳せてみて下さい。

ブーメラン



posted by 本サイト管理人 at 02:07| Comment(0) | ★チラ裏ウマー日記

2014年04月24日

義持状態

(チラ裏シリーズ)

こんばんは。
『チラ裏ウマー日記』では、本サイトのコンセプトを踏襲して
出来るだけ「室町や日本の宣伝になるもの」を取り上げたいと思います。

と言う訳で今日は
何でも美味しい京都の老舗和菓子屋、『鍵善良房』

鍵善良房

「鍵もち」です。

鍵もち

甘くて白いやわらかなおもちに、きな粉がまぶされた
もちもちふわふわな、昇天系和菓子です。

それでは、早速頂いてみます。 もぐもぐ

ウマーーー(゚д゚) もちウマーーーー!!
こ、これは、紛れもなく…義持状態!!
(※義持によるもち攻めについては
 本サイト『2-11』の最後の方の「偏諱」の話を参照して下さい)

この「鍵もち」、単なるきな粉もちではなく
もちでありながらふわふわという、不可能を可能にしたお菓子です。
全会一致で、室町公認の義持マークを授与したいと思います。
え、余計なお世話ですか?
まあ、私も薄々そんな気はしています。

しかし、しかしですよ。
京都はもっと、室町時代を思い出さないといけないと思います。
室町の、上品斬新高尚研ぎ澄まされた伝統
日本文化の頂(いただき)を見たそのクオリティ
もう一度呼び起こすべきだと思います。

   目を覚ましてくれ、京都の本気はそんなもんじゃない!

という訳で
もちもちしたもんには、片っ端から義持認定していきたいと思います。
「室町クオリティ推進運動」です。
おもちの神様も、嬉しそうです。

もちもち



posted by 本サイト管理人 at 23:58| Comment(0) | ★チラ裏ウマー日記

2014年05月01日

伊予の国から2

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏ウマー日記』です。
今日は、またまた伊予の国から "みかん便り" が届きました。
愛媛県は西宇和の、甘さ一番「デコポン」です。

デコポン

デコポン
ポンカン特有の良い香りと、清見の甘さと風味を合わせ持った
新しいタイプの柑橘で
 "フルーツランドのニューフェイス"
だそうです。
いつまでニューなんだろうか…
とか言う疑問はさて置き、早速頂きます。もぐもぐ。

ウマーーー(゚д゚)ーーー!!
ポンカンの感動と、きよ侍のような清見の清さ
同時に心に押寄せる!!
フェイスはニューなのに、甘酸っぱさは、まさに
 550年物のオールドヴィンテージブーメラン!!
美味い、美味過ぎる!!


うおーーーっっ 気合ゲージ満タンになって来ました!!
この勢いで、大内&河野の連合デコポン軍反撃いきまーす!!

細川勝元軍なんて、デコボコポンにしてやんよ!!

逆襲のシャア

あーすっきりした。

…しかしみなさん、思い出して下さい。(忘れた人はこちら→『2-7』
この出陣の最中、大内家当主の大内教弘は病に倒れ
帰らぬ人となってしまうのです。
享年46歳。
父に先立たれた大内政弘は、この時まだ20歳(満19歳)。
気丈にも、そのまま大内軍の大将を引き継ぎ
父の冥福に資するべく、見事勝利を収めるとは言え…
つらかったろうなぁ。

大内政弘

西瀬戸の海に沈む夕日に、亡き父を偲ぶ政弘であった。


さて、本サイトのメイン期間である
『応仁の乱』から『明応の政変』、そしてその後の逆転物語では
割とたくさん、父と子の良いエピソードがあったりします。
というか
ちょうど『応仁の乱』の主要メンバーの子供達が活躍するのが
『明応の政変』 "その後の15年の物語" となっていて
この2つは、「父と子との関係にある」と覚えておくと
人間関係が理解し易いのでお勧めです。

例えば、大内家に関して言えば
"応仁" 世代大内政弘
 (政変当時は在周防、48歳)
"明応" 世代大内義興
 (政変を目の当たりにする、当時17歳(満16歳))
となります。


それから、『明応の政変』は
明応2年(1493)の政変という "点" で完結する事件ではなく
それから15年を経て京都を取り戻すまでの、"長編物語" です。
つまり、政変は「始まりに過ぎない」という事も
よく覚えておいて下さい。
当時の日記を注意深く読むと
 政変後、重く薄暗い雲に覆われ続けた京都
 旧将軍足利義材たちの15年後の "凱旋" で明るさを取り戻す様が読み取れます。)

  
今のところ、本サイトでも当ブログでも
『応仁の乱』の話題が中心となっていますが
実は、どちらかと言うと、本サイト(のメインの『黎戦記』)では
『明応の政変』以降に活躍する子供世代「主役」に想定しています。
彼らは、『応仁の乱』の親世代に比べても
さらにマイナーな顔ぶれですが
知れば知るほど魅力に溢れた、最高に頼もしい英雄達です。



さて、畠山家の場合は
畠山政長が応仁世代で、『明応の政変』により他界、享年52歳。
(※ちなみにこの時、義就は既に故人)
そして、父政長と共に19歳(満17歳)でこの事件に遭遇しながら生き延び
その遺志を継ぐことになるのが
明応世代の主役の一人、畠山尚順(ひさのぶ)です。

明応世代では、大内義興の事績ももの凄いですが
この畠山尚順の人生も
絶望感動が想像を超えた、物語よりももっと物語な一生です。
しかも畠山尚順は、どんな人物だったか?…を一言で言えば
義就政長を、足して2で割ったような感じ。
心は清い人生が修羅…って、そんな事可能なんでしょうか。



では最後に、今年の牡丹(深見草)を
大内教弘畠山政長への、追悼の花に代えたいと思います。

儚い花の美しさは、悲しみの中の希望によく似ています。

大内教弘

畠山政長

大内教弘

畠山政長



posted by 本サイト管理人 at 03:36| Comment(0) | ★チラ裏ウマー日記

2014年05月20日

茶道のあの謎

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏ウマー日記』です。
今日のおやつは
京都の真言宗総本山「東寺」の近くにある和菓子屋さん
『東寺餅』で売ってた落雁(らくがん)、『季のおとずれ』です。

東寺餅

まあでも、『東寺餅』の基本は本来おもちでして
銘菓の『東寺餅』(一見大福のようでいて、ムニムニ感がまるで違う)
も食べたんですが
写真も撮らずに、一人でもちもちウマーしてしまいました。

さて、東寺といえば、大永7年(1527)足利義晴が布陣し
公方の要請を受けて上洛した朝倉教景軍
大勝を収めた戦いが思い起こされますね。
教景京都でも大活躍!!
宗滴爺さん未満でも勇名を馳せる!!
まあ、この時はもう50ですから、おっさんですが。

あ、いや、今日はお菓子の話だった。
では早速、中身を拝見。

落雁

おおっ!!なんとうきうした落雁でしょうか!
心にハッピーが沸き起こる、ゆるふわかわいい系スイーツです!
(すみません、褒めています。本当に褒めています。)
あやめに、ピヨピヨまでいますよ。
右下にはも見えますね。
…ん? と言えば、伊勢貞藤


伊勢貞藤


呼んでません。すっこんでいて下さい。
まあでも、貞藤さんは、心に鬼神飼ってますからね
あんまり怒らせない方がいいですよ。
(※貞藤については、当ブログの『伊勢貞藤』をどうぞ。)

さて、食べるのがもったい無いほどの落雁ですので
折角だから、抹茶でもあるといいのですが…
もちろん、そんな気の利いた準備はない。


ところで、茶道で頂くお茶には
「濃茶」(こいちゃ)と「薄茶」(うすちゃ)があるのはご存知ですか?
一般的に馴染みが深いのが「薄茶」
よく、お寺で「庭を眺めながらどうぞ」と、500円くらいで頂けるあれです。
一方、わりと気軽な「薄茶」に比べ
「濃茶」というのはより格式が高く、作法も少し違います。

「濃茶」は、見た目も名前のまま、濃ゆい緑の粘性高めなお茶
「薄茶」「点(た)てる」と言うのに対し
「濃茶」「練る」と言い
亭主が、客の人数分入れる「薄茶」に対し
「濃茶」は…、亭主が一つの茶椀に人数分の濃茶を練り
客みんなで「回し飲み」するのです。

え、なぜ??と誰しも一度は思う作法ですが
 「その席に居合わせた客みんなが、一体感を味わうため」とか
 「人数分練ってたら、時間がかかって客を待たせてしまうから」
とか、色々解説が試みられていますが
しかし、茶会ってだけで心は共有出来てるだろうし
落ち着いた時を楽しむお茶の席で、時間節約って…
牛丼屋じゃあるまいし。
しかも、この作法
 「(戦国期に)千利休が始めたとされる」
と一般に言われていますが
実は…実は、それも違うのです。



あー、それにしてもが欲しいなあ。
…とそこへ、公方義政がおもむろにお茶セットを構え始めた!

足利義政

!!?
なんと! 自ら茶を点て始めたぁぁーーーー!!
しゃかしゃかしゃかしゃかっっっっっ
!!!?
その場に居合わせた近臣たち、驚きの余り
(  Д ) Д ) Д ) ゚゚゚゚゚゚ ポーーーーン


説明しよう!
当時、というのは
「茶坊主」という "お茶いれ係" が用意するものであって
将軍自ら点てる(練る)なんてことは、有り得なかったのだ!

現代の「茶道」では
「亭主が、客をもてなす」という意味合いが強く
お茶を点てる人の「お手前」、すなわち「作法」の良し悪し
重要な要素の一つですが
しかし、元をたどるとその始まりは「貴人を囲んだお茶会」であり
だからこそ、自然と「儀礼」「作法」が付随して行ったのであって
「作法」は謂わば、主眼ではなく "前提" だったのです。

室町の日常は、会食、酒宴、面会から、日々の衣食住まで
 あらゆる動作に「礼節」がつきものでした。
 「美」を意識しない瞬間は無かったのではないか、と思うほどw)


さて、なぜ義政をいれ始めたかと言うと
『応仁の乱』を経て『東山殿』(※現在の銀閣寺)に移り、半ば隠居生活を始めた義政
実はちょっと…寂しかったw
その慰みに「あ、そうだ自分でお茶点ててみよう!」(ピコーン)
気まぐれな事をし出したのですが
「はい、どうぞ!」と差し出されたところで、近臣たち
「はい、どうも!」と頂ける…訳が無い!
なぜって、将軍御手ずから点てたお茶なんて
畏れ多くもったいなく忝(かたじけな)さ過ぎるから。
かくして、近臣たち
「あわわわ…」と、一椀のお茶を
一口ずつみんなで回して頂戴したのであった。
(…おしまい)


つまり…
これが「濃茶回し飲み」の知られざる真相だったのだ!!
ってなんだそれ!!
時代が下り、回し飲みの慣習だけは「作法」として残ったけれど
その始まりの由来を知る者がいなくなって
すっかりと化してしまった、と言う事です。

(元は飲む側が主役のお茶会だった「茶の湯」
 現在の「茶道」では
 客(飲む側)より主人が主役っぽいのも
 その「お手前」が注目され、賛美の対象となっているのも
 義政が茶を点て始めたことによる逆転現象なのではないか…
 と、ちょっと思うw)


ちなみに、『東山殿』時代の近臣ですから
確実に伊勢貞宗はいたと思いますw
貞藤は、『応仁の乱』後はしばらく美濃義視(義政弟)の所にいて
後を息子に託して京都に戻ってからは、隠居していたようですから
その場にはいなかったでしょう。


ってゆうか、義政ぁぁぁーーー!!
お前だったのか!
あの「謎作法」の始まりはお前だったのかーーー!!
本当に厄介さんだな!
ま、でも
将軍と言うのはそれ程「愛され敬われる存在だった」
という証のエピソードではあります。

(この点は
 「日本の伝統的社会の構造」「武士の精神性」「文化や慣習の源流」
 を探究する上で、とても重要です。
 将軍とは、打倒すべき邪魔者でも嫌われ者でもなく
 愛され尊ばれる存在だからこそ
 独特の高尚な武家社会や文化が生まれ、発展した訳です。)



さて以上は
江戸時代に伊勢家の末裔の伊勢貞丈
代々自家に伝わる膨大な故実書を編纂した『貞丈雑記』の記述です。
おそらく、室町の儀礼・慣習の全てを知る伊勢家の関連故実書には
翻刻され「群書類従」に収められたもの以外にも
まだまだ埋もれているものがわんさかあると思います。
室町好きとしては、翻刻コンプリートが待たれて仕方ありませんが
しかし、翻刻済みのものでも
見落とされている記述があるようで
上記のブログ記事『伊勢貞藤』で触れたように
『御供故実』は確実に伊勢貞藤による書ですが
『故実聞書』の著者が伊勢貞藤だと指摘している人は―――
今のところ知りませんw
「濃茶」の回し飲みの由来が、義政の戯れだったことも
ちょっとググった感じでは、どうやら知られてないようです。
(んー、意図的にスルーされている可能性はあるのかな?
 まあ、分かりませんが。)

うん、でも
きっと伊勢は、まだまだ誰も知らない室町を隠してる!に違いない!
そしてそれは、これからの日本文化・精神のヒントになる!と思う!
室町を彩った "伊勢の美学" は、現代にこそ甦るべきなんだ!!
ただし、貞藤の以外!




ところで、そもそも "茶" というのは
平安時代に大陸から日本に伝わったのが最初ですが
全国に "習慣" として喫茶が広まったのは
鎌倉時代に、と共に再度 "茶" が伝わった事に始まります。
つまり本来、喫茶とは
禅の修行の助けであり、学びの為であったのですが
やがて、修行を忘れて
すっかり "茶" 自体が愛されるようになってしまい
南北朝の動乱期には、「闘茶」(賭ける利き茶)でどんちゃん騒ぎ!
とかいう婆娑羅なことにもなっていました。
まあでも、その頃には既に
喫茶習慣として定着していた」と言う事でもあります。


しかし本来、とは切っても切り離せない "茶" ですから
禅宗大好き室町幕府において
「茶の湯」「茶事」というものは一層深化する事になります。
すなわち
各界の人々が有機的に行き交う足利将軍家のもとで
これまた室町の十八番「礼節」エッセンスにより
より格調高く、より禅の精神深く心と品格を備え
今日の「茶道」の源流を創る事になるのです。
それに最も貢献したのは…
まあ、一般的には8代目義政が有名ですが
義政はどちらかと言うと「興隆、開花させた」と言った感じで
その「萌芽」は6代目義教のセンスの賜物です。
(※この辺の事は
 【永島福太郎『茶道文化論集 上巻』(淡交社)1982】参照)


このように、「茶の湯」に限らず
室町将軍家周辺で育まれた文化が
やがて人々の間に広まり
そして更なる進化を遂げていった、という例は多いのですが
その初めの室町が忘れ去られてしまったばっかりに
由来意味や、込められた心が分からなくなり
いわば「形」だけになってしまった文化が、実は少なくないのです。


日本文化は確かに素晴らしい
最近では海外でも人気だし、その評価は日に日に高まっている。
でも―――
私たちは、自分達の文化の「意味」と言うものを
考えた事があるだろうか?
日本人は、海外に誇れるほど、自分達の文化を理解出来ているのかな?
もしかして「外国人から見た日本文化」くらいの知識しか
持って無いんじゃないだろうか?
と、この頃切に感じます。


かつては人々の営みそのもので、いつも隣にあった文化が
気付けば、近寄り難くお高いものになってしまっていて
 「いつからこんなに距離が出来てしまったのだろう」
と考えながら歴史をたどっていると
やはり、文化歴史から切り離されてしまった事が
最大の原因のように思います。


「茶道」をはじめ、中世の文化はみな禅の心が融合しています。
そしてその文化こそ、日本を洗練させて来た原動力です。
しかし、室町という時代が忘れ去られて久しく
そこで誕生した文化もまた
「生まれた時の心」を、もう誰も覚えていない。
点てる抹茶を失って、飾り物になってしまった茶せんのように
悲しく佇(たたず)んでいる。

「茶道」を、日本文化
その根本の禅の心から呼び起こすには
日本的「禅」の創始者であり、それゆえ日本精神の原点である
「夢窓国師の教え」からたどる必要があります。


日本人は、日本の一番大事な歴史や偉人を忘れ過ぎている。
それを思い出してもらう事が、本サイトの最大の目的です。



とりあえず、茶せんだけあった。

茶せん



posted by 本サイト管理人 at 02:33| Comment(0) | ★チラ裏ウマー日記

2014年05月25日

初瓜献上

(チラ裏シリーズ)

こんにちは、『チラ裏ウマー日記』の今日は
一足お先にのお便り
熊本よりやって来た…西瓜(スイカ)です。

すいか

おおっ!なんと雄雄しく輝いていることか!
まだ5月だと言うのに、堂々と「夏」を宣言している!!
こんなにも強い主張を持ったスイカを、私は知らない。
それでは早速、今年の「初瓜」(はつうり)、いただきまー……

おっと、待ったぁぁ!!
「初瓜」はまず、公方様に献上しなくてはならんのだった。


室町幕府では
諸大名寺社から公方様への「進物」が、年がら年中ありまして
特に、八朔(はっさく。旧暦8月朔日(1日)のこと)や歳暮の贈答は
一大イベントでしたが
初夏を告げる「初瓜」の献上も
それと並んで毎年恒例となっていました。

まあ、日本人は昔から縁起の良い「初もの」は大好きだったようで
他にも、初鱒(ます)、初鮭初鱈(たら)、初雁…などが
当時の記録に見られます。


これらの「贈答儀礼」は、幕府の年中行事のメインの一つとして
室町の日常を彩っていた訳ですが
もちろん、武家社会だけでなく公家社会でも贈答の慣習は盛んですし
公家武家、そして主上将軍の間のやり取りも頻繁で
さらに、朝廷幕府に集まった進物は
"貰いっぱなし" なのではなく、再び家臣などに下賜され
天下をぐるぐる回る事で、社会の円滑化に役立っていたのです。
初代足利尊氏の、豪快な
 「貰った贈り物、片っ端から全部みんなに配っちゃう」属性
は有名ですね。
ちなみに弟の足利直義
 「貰い物をする事自体を好まなかった」
という、アホみたいに潔白なきよきよ侍です。

(…ただし、その一方で、ひたすら財物を溜め込み
 社会の円滑・健全化を妨げる超お金好きもたまにいて
 そういう人は、当時の日記で方々から非難されています。
 まあ、○○様とか。 あと御○様とか○台様。
 おっと、今はこの辺にしておこうw)




さて、公方様への進物
政所頭人(まんどころ とうにん)である「伊勢家の当主」を通すのが慣わしでしたね。
という訳で、伊勢貞宗の出番です。

伊勢貞宗

あ、あれ、寝てる…。
おかしいな、のび太だったのは少年時代までであって
政所頭人時代は、張良もとい社稷の臣もとい金粟如来(こんぞくにょらい)への道を
ひた走っていたはずなのに…
どう見てもこれでは、眠れる森のきのこ
(※「伊勢貞宗きのこ説」については
 当ブログ『伊勢貞宗』で考察しています。)
これでは政所頭人どころか、いいとこにゃん所頭人ではないか。
ああ、また父貞親が絶望してに走ってしまう。
(※私自身は、無駄な抵抗と知りつつも
 「伊勢貞親、実はハニトられた訳じゃないんじゃないか説」
 を提唱しています。
 詳しくは当ブログの『伊勢貞親』をどうぞ。)

まあいいか、んじゃもう先に食べちゃおう。
んーーーーーっはい、ぱっくり!

スイカ切ってみた

んぬおーーーーー!! この夏の色! 吹き抜ける夏の風
その一口で、まだ見ぬ夏を甘く切なく染め上げる ―――
美味い、美味過ぎる!!
熊本グッジョブ!! GJ熊本!!
(※『応仁の乱』での「熊本グッジョブ!」は
 本サイト『2-11』の、西軍大内政弘に味方した
 肥後国守護の菊池重朝と、国衆の相良為続です。GJ!)


ところで、と言っても
昔は、甘くて大きいしましまスイカや、なんか高級っぽいあみあみメロン
なんてうきうきした瓜はありません。
当時の瓜と言ったら…まくわ瓜!!
これは、手のひら大のむくっとした楕円形の瓜で
皮は黄色に白い筋が入り、さっぱりした慎ましい味がします。
(知ったような事を言いましたが、私は食べた事がありません。)
これが、旧暦の5月終わりから6〜7月にかけて
「初瓜」献上後も引き続き
一度に数十籠から時に百籠と、籠盛りにして公方様のもとへ届けられたのです。
しかも、の扱い方には儀礼作法まであって
「ヘタからおしりの方に向かって、七つ(正確には六つ半)に皮をむく」
とか
「6月から7月7日の七夕までは輪切りで、それ以降は縦に二つ割り
とか。
みんな、どんだけを愛していたんでしょうか。


まあとにかく、室町の武家故実
当時の武士の「勇」と対為す「美」の部分が垣間見られて面白いです。
特に、伊勢家関連の故実書
 「続群書類従24上、24下」「群書類従22、23」
に多く収録されていますので
たまには、室町の日常をマニアックに楽しんでみて下さい。


さて、京都に進上される
周辺国で採れる大和瓜・近江瓜・丹波瓜が主流で
それぞれその国の守護大名大和の場合は興福寺
その献上者となっていました。

大和…といえば、前回の「茶の湯」の話の続きになりますが
奈良の興福寺を中心に "茶" の文化も独自に大いに発展していて
特に「林間茶の湯」(※林間(りんかん)または淋汗)
という
 お風呂上りに、茶会を開いてみんなで盛り上がる夏の風物詩
が有名です。
主催者は、大和国人で興福寺衆徒の古市胤栄(ふるいち いんえい)で
奈良で最もノリのいい貴人経覚を招待して
目一杯工夫を凝らした会場が用意され
を何瓶も生けて彩り
はもちろん、お寿司、果物、お菓子など、ご馳走をたんまり用意し
湯壷(湯船)は、側にを立てたり
水舟とか勇士のフィギュアとかとか作って飾り立てるもんだから
 「風呂荘厳、甚だ美麗なり!!」by経覚
という状況だったそうだ。
みんな、どんだけ風呂を愛していたんでしょうか。
(※当時の様子は、『大日本史料』文明元年雑載をどうぞ。)



まあ、こうしてみると、「茶の湯」というのは
当時はかなり自由な楽しみ方をされていたようです。

義政時代殿中の「茶の湯」にしても
本来、お茶を点てるのは茶坊主の仕事で
茶会の主役は、"点てる側" ではなく "頂く側" だった訳で
今のように
そのお手前(茶の点て方)を褒めたり注目したりするようになったのは
やはり、義政「気まぐれ茶坊主体験」が発端のようです。
(それ故、伊勢貞丈
 「もともと、茶の点て方自体には法式なんてない」
 と、言っているw)

それにしても、現在の茶道
 亭主が巧みなお手前で茶を練り、が厳かに回し飲みする」
という濃茶の作法
 公方義政が点てた茶を、近臣たちが一口ずつ頂戴する」
という構図の再現である
と言うのは、軽く茶道界が震撼しそうな事実だな…
と、前回のブログ記事を上げてから改めて思ったw
まあ私は、それはそれで
むしろ面白くも尊い歴史だと、気に入っていますが
うーん…w どうだろうか?
一般的には、茶道の原点戦国期というイメージが強いし
千利休が、それまでの慣習を体系付け
発展させた功労者であるのは疑いないところですが
ただ、千利休の全盛期と義政の時代とでは
100年ほどの差があるし
当時の茶の湯の基礎は「殿中での茶の湯」ですから
たまには、義政の事も思い出して下さい…はい。

そこには
室町時代の公方という "特別な存在" があり
さらに遡って、"茶の湯の精神" の根底には
室町初期の夢窓国師「禅の哲学」が秘められていたのです。

…という訳で
「茶を点てる側の作法」だけでなく
「茶を喫する側の精神」についても探究する "これからの茶の道"
密かに期待しています。

(※夢窓国師の茶哲学については
 足利直義との問答『夢中問答集』に記述があります。)

義政の茶


あ、貞宗がちゃんと起きてしっかりしてる。



posted by 本サイト管理人 at 17:20| Comment(0) | ★チラ裏ウマー日記