2014年10月06日

リビジョンアップしました

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏日記』です。
つまり、今日も話は前に進みません。

さて、先日『チラ裏総目録』を作成したついでに
本サイトの方も、全面的に見直しをしてみましたので、お知らせです。
とりあえず、『二、室町幕府雑学記』の『2-1』から『2-5』まで終わた。
まあ、所々、言い回し変えたり
うっとうしい文章を書き直しただけですが。


あと、申し訳程度に「小見出し」を付けてみました。
あまりに、読み難い長文でしたので。
…うん、分かっているんだ、自分でも。
3行で済む事を、30行にしてしまっているのは。
でも、室町幕府の前中期という時代は非常にマイナーなので
基礎知識ゼロでも、わりと深い所まで理解出来るように構成しているつもりなのですが
どうでしょうか?
改善点がありましたら
室町初心者からプロムロマーまで
様々な視点からのご意見を頂けると、有り難いです。


ちなみに、『2-5』の足利義教の話は
いくつか具体的なエピソードの解説も追加しました。
小見出しで言うところの
「日記が語る真実」の最後と
「義教が目指したもの」の最後の方です。
ああ、また長くなってしまった…けど、これでもまだ話し足りないw
しかも、日記読み直していたらまた良い話に気付いてしまいました。
義教さんのポケット、マジ四次元


なんというか、義教
脳内シミュレーションを尽くしてから行動するタイプ」だったようで
すべて「…計画通り(ニマリ)」みたいなところがあります。
まあ、義教と、尊氏弟の足利直義の2人は
実際、相当に頭良かったと思いますよ。
歴史上の他の偉人と比べても、ちょっと異次元な頭の良さです。
だから理解され難いのでしょうが
義教は、マジで結果出してる有能公方だし
延暦寺の件なんて、本当は「本尊救出」の為に尽力しただけなのに
「延暦寺を攻撃した!!」とか
今でも誤解されて叩かれて…しどい話(´;ω;`)ブワッ

歴史の誤解ってのは
一度広まると、なかなか解けないので本当に大変です。
(まあ、これは室町に限らず、ですが。)
どんなに頑張って本当の事を叫んでも、虚構の前に掻き消されてゆく…
だから、つい長文になってしまう、と。

うん、でも
延暦寺根本中堂の御本尊「薬師如来様」だけはきっと
それから、青蓮院門跡「青不動明王様」だけはきっと
すべての真実をお見通しであられるに違いない!!
そうに違いない!! ってゆうか、そうであってお願いww


ところで、なんでいつも
うっとうしい長文の上に、話がとっ散らかり気味なのかというと
実は、その目標とする所が
「室町の推進&応援」だけに留まらず
本サイト『2-4』の「これからの武家政治」の最後でもチラッと述べましたが
究極目標が、「日本の取説作成」だからです。(※取説…取扱説明書)
ズコー
なんか、余計な事しているかもしれませんが
しかし
「日本の歴史」というものを
太古の古代史から現代まで、"一連の流れ" として巨視的に探った時
そこに
何かしらの『因果律』が存在しているような気がしないでもないような気がしないでいられるような人は、たぶんいないと思います。

それに、この究極の取説があれば
完全体になった挙句ボーナスステージ来たコレで
テッテレッテレーてぃろてぃろぴろーーーん、ですよ。
…それなのに
今、世の中がちょっと(いやだいぶ)おかしな事になっているのは
誰もこの取説の存在に気付いてなくて
間違った使用法で日本を運営してしまっているからに違いない!!
くっ、なんて事だ!!(妄想中)

まあでも
義教とかのレベルだと、既に取説持っていそうですけど。


足利義教


何を… 何を納得しているというのだ!!

(※天台座主(てんだいざす)…延暦寺の一番えらい人。
 ※青蓮院義円(しょうれんいん ぎえん)…義教の正体。)

ってゆうか、わりと薄っぺらな感じですが
こんな、マザボの取説みたいなんで大丈夫なのでしょうか。

でも、この世界の最大の謎である「宇宙の法則」なんてきっと
A4の紙一枚にも満たないと思いますよ。
最高に複雑なのに、最高にシンプルに表現出来る、だから
「宇宙はエレガントである」と言われます。

ああ私も、言いたいこと3行で表現できるように訓練しよ。



【今日のまとめ】

こんばんは
本サイト
ちょっと修正しました



posted by 本サイト管理人 at 00:32| Comment(0) | ★チラ裏日記

2014年10月15日

リビジョンアップ続報

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏日記』です。
本サイトの手直しが終わったのでお知らせです。
『二、室町幕府雑学記』の『2-6』から『2-12』まで
小見出しが付きました。
『2-2』見出しも少し改良しました。
これで、だいぶ読み易くなった…は、はず。

文章の方は、少々うっとうしさを改善したくらいですが
ついでに所々、微妙にトーンダウンしています。
まあ、日本史はどうしても触れ難い話題があって
チキンにはつらいよね!
情けなくてごめん(´・ω・`)



さて、この時代は
登場人物が京都オールスター状態でごちゃごちゃしている上に
みんな見事に知名度が低いので
人間関係を把握するのが大変だと思いますが
嵌るとなかなか楽しい時代ですので、是非頑張って攻略して下さい。


特に、『2-6』 『2-7』 『2-8』辺りの
『応仁の乱』開幕前後の時期は
それぞれの言動の「意図」「思惑」を掴まないと
なんでこんな展開になったのか、全く意味不明ですので
登場キャラの人物像を把握する事が
ある意味、一番重要な「鍵」になってきます。

例えば―――
『2-6』の頃の時期だと
畠山持国、山名宗全、細川勝元の性格は、それぞれかなり違います。
みんながみんな「覇権を狙って、権力争いしてた」
という単純なものではなく
山名宗全は間違いなく血気盛んですが
もう既に十分な地位にある畠山持国
 「あーもうそういうの面倒くさいし…俺、優雅に行きたいし」
くらいの気分だった訳です。
ま、その後めっちゃ面倒くさいこと起きちゃうんだけどね!


まあそんな時代ですので
文章だけだと、意味不明で飽きてしまうでしょうし
視覚的にも訴えた方が取っ付き易いかなーと思って
登場人物をにしてみた訳ですが
実は…本当にすみません(見れば分かりますが)超初心者です。
この為だけに絵を描き始めたので
服は、和服(しかも直垂)以外描けない… 女の子もほとんど描けない
デッサンもなってないし、時間はかかるし
塗りとか、自分でもなくらい下手。
いや〜絵って難しいなー ってか舐めてた(´;ω;`)ウッ…
今は全力で反省している。

という訳で、心を入れ替え
今、一生懸命上手い絵を参考に見ていますので
もしかしたら、これから上達するかも知れなくもな…
まあ、見てるだけじゃダメなんですが。


うん、まあとにかく始めの頃は安易だった。
ところで、安易といえば
 「朝倉教景(=宗滴爺さん)が主人公」
とかいう当初の設定も
結局どうでも良くなってしまっている訳ですが
一番最初にイメージが出来上がったのは、この朝倉教景です。


朝倉孝景(たかかげ)の嫡出の末子である教景(のりかげ)については
本サイト『2-10』「戦国の成立要件」で軽く触れましたが
この人は、割りとかなり超人的な逸話を多く残す人物ですので
 「一番くせのあるキャラだから、ビジュアルはふつーが良いよな」
とか思って
なんら特徴の無い、最もノーマルな外見にしたのですが
その後、じっくり室町研究を進めたら
なんか他の人たちのがもっと凄かった、ってゆう。(´・ω・`)
あの教景が、すっかりエア主人公になってしもた。
いやー始めの頃は安易だった、うん。


朝倉教景入道宗滴


79歳で他界する直前まで、武者奉行として前線に出ていた教景
生涯現役どころか生涯全盛期の驚異的な爺さんだったので
一般的にはすっかり
「生まれた時から爺さん」みたいなイメージで通ってしまっていますが
でも、私に言わせると
教景が一番輝いていたのは
『明応の政変』とその後の15年+そのまたその後…辺りの時代
朝倉家の当主、朝倉貞景(さだかげ。教景の甥で4歳上)に仕えて
目覚しい活躍を遂げていた
20〜30代の頃です。


『応仁の乱』の最中(さなか)
越前平定という大業を成し遂げた、父朝倉孝景や兄朝倉氏景
孝景を支えたその兄弟(つまり教景の叔父)や家臣たち…と
勇者ぞろいだった時代の立役者が去った後の
しかし、まだまだ駆け出しの朝倉家越前を次の時代に繋げる為
当主朝倉貞景と若き日の朝倉教景
人知れず重ねた苦労は数知れず
しかしだからこそ
この「明応世代」の越前には「物語」があり
しかもそれは
越前という枠を超えて
遠い分国の大名たちと、そして諸国を流浪中wの将軍足利義材
"天下" で共有された壮大な「物語」でもありました。
地味な時代ですが、とても好きな時代です。


越前朝倉家というと、全盛期を築いた
朝倉孝景(朝倉家10代、越前4代)と
朝倉義景(朝倉家11代、越前5代)が有名ですが
(※教景も、朝倉義景(よしかげ)に仕えていた爺さん時代が
 一般によく知られています。)
しかし、その繁栄は
一つ前の時代の
朝倉貞景(朝倉家9代、越前3代)が守り抜いた越前の平和の上に
成り立っていたという訳です。


ちなみに、この朝倉孝景
『応仁の乱』で飛び下馬していたOC孝景(朝倉家7代、越前初代)とは
別人です。
(※OC(オーシー)= オーバークロック
 詳しくは、本サイト『2-8』「応仁の乱 ― 本 戦 開 始 ― 」をどうぞ)
半ば伝説と化した偉大な曽祖父の栄光にあやかろうと
オマージュとして同じ諱(いみな)を名乗っていたのです。


ってか、この孝景は朝倉家一の超絶勝ち組ww
時代は、全国的に戦が絶えない戦国の入り口にありながら
越前だけは、公家も行き交う泰平の楽園最盛期!!
京都や隣国から義兵を要請されれば
朝倉教景がすっ飛んでって絶対勝って帰って来るから
生涯スーパーイージーモード!!
てめぇーーwww
曽祖父の飛び下馬孝景がたどった人生の凄まじさはなぁ…凄まじさはなぁ…

あっそうだ
まだ『チラ裏人物記』でOC孝景の紹介してなかった。
こんなところでイージー孝景の話をしてる場合じゃない。

(※まあもちろん、イージー孝景
 幕府、将軍、隣国大名たちと、良好親密な関係を築き
 越前の民に幸福をもたらした見事な名君ではありますが。
 やつのコミュ力(こみゅりょく)の高さは半端無いですよ。
 つまりリア充大名。 てめぇーーーwww)


という訳で
『応仁の乱』『明応の政変』の時代というのは
本当は、良いやつ沢山いて良い話満載なので
どうぞ期待して下さい。
私が、無謀にもビジュアル化を試みたくなってしまった理由が
分かってもらえる日が来ると思います。
彼らの為にも、ちゃんと絵の練習頑張ろうと思います、はい。



posted by 本サイト管理人 at 00:55| Comment(0) | ★チラ裏日記

2014年10月21日

画像修正しました

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏日記』です。

ここ最近のリビジョンアップ祭りに便乗して
当ブログ「足利尊氏と足利直義」
直義の画像をちょっと修正しました。(尊氏の方も少し)

(※その後2015.3.9完全リメイクを施してしまいました。
 なので、以下↓のネタが意味不明になってしまいました。)


まあ、あんま変わってない気もしますが
従来の拙(つたな)さはそのままに
「おいこれ、どう考えてもおかしいだろ」
って部分だけセルフ添削してみました!

…いや、拙さとか残しておかなくてもいいから。
とはまあ、私も思いますが
あんまり修正しちゃうと、尊氏の方とバランス取れなくなってしまいますからね。

(※2人の肖像画が、一対のものである事の意義については
 当ブログ「源八幡太郎義家」をどうぞ。)
(※2015.9.27追記…
 詳しくは「GW企画 国宝『神護寺三像』」をどうぞ。)



だから―――
尊氏直義の肖像画は、意地でも「対」(つい)にする!
あの "一対の肖像画" が、二人のものだと認められるまでは!!
私は、このお絵描き魂を、史的レジスタンス活動に捧げたのだ!!!


…まあ、本当は
今の画力じゃこれが精一杯ってだけの話ですが。
でも、直義が一番ってくらい好きなのに
これじゃあんまりだから、ちっと直したw



直義については
調べてると止まらなくなるし、語りたい事もわんさかあるし
自分でも、割りとかなりマニアだと思いますが
しかし「直義通」を自称するまでには達していません。
…というのも
直義については
著名な歴史学者でも、ファンだと言う方がいらっしゃるそうで
私の知識では、足元にも及ばないからです。
つまり
本当の歴史に精通している本物の歴史学者を虜(とりこ)にするくらい
直義というのは
めちゃめちゃ誠実で、奇蹟の清々侍(きよきよざむらい)で
知れば知るほど、史上に並ぶ者がいないのです。



例えば、建武4年(1337)
室町幕府が誕生したばかりの時期のこと
直義たちが『建武式目』を掲げて
「公正」「道理」に則った政道への一歩を踏み出したものの
未だ世の中は夜明け前ヒャッハーの余韻でカオスだワッショイ!!
だった頃ですが
そんな中、関東で統治に当たる上杉憲顕(のりあき)の分国だけは
素晴らしく良く治まっていたそうで
その功労を讃えた、上杉憲顕宛ての
「直義の自筆書状」が残っているのですが
それによると…

 「諸国の守護の非法ばかり耳にする日々の中
  貴方の分国の素晴らしさは、皆が賞賛していて
  本当に、喜ばしい事この上ありません。
  忠節比類無く、国を良く治めていた父上(上杉憲房)が
  去年、討死してしまった後は
  ああ、もう終わた(´;ω;`)…と悲嘆に暮れていましたが
  当国(上杉憲顕の分国)の様子を聞いて
  まるで、父上が生き返られたかのようで、本当に嬉しいです。
  貴方父子の忠功に適う者は、誰もいません。
  諸国の守護の惨状を聞くたび、心苦しい思いをしていましたが
  貴方の分国の話を聞いて、なんとか生き延びています


 (※『大日本史料』建武4年4月16日
  「上杉憲顕宛て、足利直義書状」の一部、意訳)


婆娑羅(ばさら)な武士たち
建武の新政の、欲に飲まれた近臣らにより
完膚無きまでに秩序の崩壊した、真夜中のような世界の中で
唯一、直義「生きる力」を与えていたのは
金でも権力でも女でも娯楽でもなく

 「道理もとに、正しく治まった国」

だったという訳です。

…って、清(きよ)過ぎるwww
非法には、消え入りそうなくらい胸を痛め
正しき政道には、生き返るほどの思いを抱き
信じても苦しいだけなのに、それでも明日を見続けている―――

な、なんという完全無欠のムロマチスト(=室町のロマンチスト)。
なんか良く分かんないけど
恥ずかしくて赤面してくる。(聞いてるこっちが)
こういう事を、素で言ってしまえる所が
脅威の清侍(きよざむらい)たる所以(ゆえん)であります。


以前、当ブログ「畠山義就(その2)」の最後で
民の苦しみに思い悩む「直義の和歌」を紹介しましたが
ここまで純粋に、を憂いを憂い
一途(いちず)に公正道理秩序を愛した、という点で
直義を超える人間は、他にいないと思います。

しかも、こんなにも高い人格を備えながら
人生経験を十分に積んだおっさん…という訳ではなく
『建武式目』を掲げた時点で
まだ数え30歳、満年齢では20代ですよ。(※尊氏は数え32歳)
直義…なんて恐ろしい子なのww



ちなみに、上記の父上上杉憲房
尊氏・直義兄弟の母の上杉清子の兄弟で、2人にとってはおじであり
子の上杉憲顕は2人の従兄弟で
特に、直義憲顕の信頼関係は厚く、わりと泣かせるものがあったりします。
ついでに言うと、憲顕
室町中期の関東管領、上杉憲実(のりざね)の曽祖父に当たります。
 ※上杉憲実については本サイト『2-5』「鎌倉のこと」をどうぞ)
どうやら上杉家ってのは
代々、誠実さを受け継いでいるようです。

(※ちなみに、有名な戦国期の上杉謙信は、上杉家ではなく長尾家出身ですが
 父ちゃんの長尾為景が「明応世代」と絡みがあって面白いw)



ただ…ただ
このカオスの闇夜に覆われた時代では
直義のように、あまりに真っ直ぐ純粋過ぎる人間は
それが…命取りになってしまう事があるのです(´;ω;`)ウッ…

「正義には魔物が潜む」という残酷な現実については
本サイト『2-5』「正義の代償」で、6代目将軍足利義教の話をしましたが
まあ、直義義教ではややケースが異なるものの
実は、直義
 善根(善い行い)に心を傾け過ぎる余り
  それが却って、政道の妨げになり
  世の中をうまく治められなくなってしまうのでは無いか」

と、薄々自覚していたのです。


その事を、直義夢窓国師に相談したやりとりが
『夢中問答集』に記されています。
直義の「問い」に対する夢窓国師の「答え」は、とても長いものなので
要点だけ述べますと

 「鎌倉幕府の滅亡以来、世の中は荒れ果て
  戦で命を落とした者達の無念、巻き込まれた人々の悲しみ
  秩序が失われた社会で、日々に苦しむ民の嘆きは計り知れない。
  そしてそれらは
  (宿命として)すべて為政者である貴方の罪業となる。
  それなのに、未だ仁義の恵みある政道は行き渡らず
  世の人々の愁嘆が重なるばかりなのは
  善根が足りないからである。
  どうして、善根に心を傾け過ぎることが問題になりましょうか」


 (※「善根」とは本来、「善い果報のもととなる善い行い
  という意味の仏教用語で
  この国師の言葉も、仏教の「因果」に基づいたものです。)


夢窓国師の「答え」は
直義強い期待を寄せていたが故の叱咤であり
尊敬する国師にこう諭された直義
迷いを断ち切り
一途(いっと)、善根への道をひた走る決意をしただろう事は
想像に難くありませんが
しかし、その先に待っていたのは… (´;ω;`)

(※『観応の擾乱』については
 本サイト『2-2』「たどり着いた場所」
 『2-4』「夜明けを描いて」などで、軽くですが触れています。)


夢窓国師は、直義の人間性を良く知っていたのですが
(※尊氏直義の人柄を讃えた夢窓国師作の漢詩が、残されています)
その夢窓国師でさえ、直義を救い切れなかったのだと思うと
もうどうしようもなく悲しくなってくる…。

まあ…
直義真っ直ぐさが、あらゆる人間の想像を超えていたのだ、仕方がない。
直義はたとえ
自身の、道理への純粋過ぎる想い
いつか滅びの道に繋がる事を知っていたのだとしても
それでも、信じる道を諦める事は出来なかったと思います。
それを示唆する、ある「直義の花押」が存在するのですが
まあ、この話はまたいずれ。
(※花押(かおう)…かつて日本で用いられていた直筆サイン



――――――――


ところで、この『夢中問答集』の記述に関しては
 「乱世を招いた尊氏・直義への赤裸々な非難だ」とか
 時の権力者に対し、微塵も臆せずその非を一刀両断する国師はスゴイ!」
とか解釈されている事があるのですが
それは、夢窓国師の真意を汲めていない誤解です。

(…というかそもそも
 直義は、国師を崇敬し教えを請う側なのだから
 国師直義を恐れる」という前提はおかし過ぎるし
 しかも、この問答を書き留めたのは直義自身ですが
 もし、自ら世を乱すようなを平然と犯す人物なら
 こんな不都合な非難は、抹消しているはずですが
 しかし後述するように、この書は衆人の目に触れる形で
 版本として刊行されます。)

夢窓国師は、その高過ぎる才能により
鎌倉の執権北条一族から、建武の新政の後醍醐天皇まで
時の権力者に、政道の指南役として招聘され続けていたのですが
国師は本来、その身を隠し人里離れた自然の中で
ひっそりと修行を続ける事を好み、権力への欲が全く無いので
基本的に辞退し続けていました。
(それでも諦めてもらえず、あらゆる手を尽くして招かれ
 結局、歴代政権に貢献する事になってしまった、ってゆうw)
その夢窓国師
尊氏・直義に関しては、その人物を非常に高く評価
相談役として誠意を尽くしていたのは
ひとえに、この乱世を立て直せるのは
「この二人の将軍だけだ」と看過していたからであって
もし、「乱世を招いた張本人は尊氏・直義だ」と思っていたのなら
2人に協力するなんて事は、まず有り得ません。

そもそも、夢窓国師は―――
幕府立ち上げに至った尊氏・直義の挙兵を
「義兵」(正義の為の戦)と言っていて、さらに
尊氏・直義が、武将として万人に仰がれているのは
「宿善」(前世の善根)果報だと言っているのです。
(つまり、将軍になるべくしてなったと。)
2人が罪業を背負っているというのは
これは必ずしも、彼らが "直接罪を犯した" という意味ではなく
この世の因果として
 万人の将は、天下の罪業を背負う宿命にある」
という意味です。

上で紹介したのは、ごく一部ですが
全文を読めば、真意が掴めることと思います。
自身、世の中の惨状に苦しみ悩むと共に
時代の真相を看過していた夢窓国師
 直義を、聖徳太子に準(なぞら)えるほどに期待を寄せていた」
という事を示す
とても胸を打つ真摯な「答え」です。

(※ついでに言うと
 夢窓国師尊氏・直義の関係は
 単なる「政治顧問権力者」や「仏道の師弟」という
 建前的なものではなく
 色々と史料を探ると、実態は「父子に近いもの」があり
 この位の事は遠慮せずに発言出来た、というのが実情のようです。)



――――――――



以上、より深く探究するために
 【夢窓国師(川瀬一馬訳)『夢中問答集』(講談社学術文庫)2000】
をどうぞ。
それから、本サイトでの言及は
夢窓国師については『2-3』「室町の京都が生んだもの」など。
直義については『2-2』全部
特に、「もう一人の将軍」 「列島を駆ける」
「夢を見ていたんだ、きっと…」
とか、まあでも全部。



ちなみに、『夢中問答集』
"仏教の本質・禅の在り方" について問う直義への
夢窓国師「答え」を集積したものですが
単なる手記ではなく
仏道を志すすべての人の為に
直義たっての願いで、「版本」として刊行されたものです。
特に、当時は仏教に触れる機会の限られていた
在俗(=出家していない)の女性の為にと。
(直義…なんて良いやつなのだ (´;ω;`) 優し過ぎるw)

しかし本来、「禅の教え」とは
文字にせず、師匠から弟子へ直に伝えるものですから
書物として刊行する事は、禅の本意に反します。
もともと夢窓国師は、この問答を直義一人の為に行っていたのであって
それ以外の人の為ではなかったので
始めは許可しなかったのですが…(※『夢中問答集』再跋)
しかし、直義の願いを受けて―――

 「何ぞこれをいなまんや」(どうして断ることがありましょうか)

と、この書の刊行を承諾するのです。


「禅の教え」を説いた書物が誕生した、ということ自体
奇跡に近い歴史的事実なのですが
『夢中問答集』誕生の背景には、そんな不可能が実現するほどに
 「国師が、直義特別に信頼していた」
という事を物語る
素晴らしいエピソードが秘められていた訳です。

しかも、夢窓国師からしたら、直義32歳も年下の若造。
…もうなんて良い話なのだw (´;ω;`)





ところで
直義の追いかけた理想を表現するフレーズとして
私はよく
 「夜半の日頭」(=真夜中の日の出)
という言葉を使っていますが
(※本サイト『2-7』「描いたのは、真夜中の日の出」の最後とか
 当ブログ「晩夏の香り」の最後とか)
これは
『夢中問答集』の最後を締めくくる夢窓国師の言葉なのです。


 「如何(いかん)がこれ、和尚真実に人に示す法門」
  (国師が私に示す真実の教えとは、何でしょうか)


という、直義の問いに対し

 「新羅夜半に、日頭明らかなり」
  (新羅の夜半に、日の出が明らかである)

と、夢窓国師は答えます。


「真夜中」なのに「日の出」というのは、正に禅問答
言葉での明確な解説は難しいところですが
 「夜半のような時代の暗闇の中でも
  貴方(直義)なら、その目に夜明けの光を見る事が出来る」

と、そういったニュアンスだと思います。

(※ちなみに、禅宗で重視される『碧巌録』という
 の時代(※日本で言えば平安後期)の書物に
  「半夜日頭出、日午打三更」 (第86則)
  (夜中に日が昇り、真昼に深夜の鐘が鳴る)
 という言葉があります。)


ところで
太陽はから昇るのに
日本の西にある、しかも室町時代では
とうの昔に滅びている新羅(しらぎ)とは、ちょっと意味不明…
と思われるでしょうが
これもおそらくは
「夜半の日頭」と同じように
地理的にも、時間的にも "有り得ない事" という意味で
 不可能にさえ囚われない」
のが、仏道の真理だと
そういう言葉なんじゃないかなぁ… と思うのですが
もう一つ考えられるのは
禅宗の始祖の達磨大師(だるまだいし)から見た場合で
達磨大師は南インドに生まれ
6世紀初頭、教えを広める為に大陸の
そこからまたに渡ったのですが
その時代・場所なら、新羅は実在することになります。

うーん…
後者の方が納得が行くような気もしますが
夢窓国師の言葉
『夢中問答集』や国師の「語録」を読んでみると分かるように
極めて巧みに意味が込められているので
現代人には難しくて何ともw

(※以上、"(※ちなみに…" 以降
 2015.8.18、さらに9.12加筆修正。)




という訳で
現代にも通じるよう、私が勝手に一部改変を加え
半分だけ難解さを取り除き、かつ
ワールドワイドな感じにさせてもらいました。
今日からこの言葉は

極東夜半に、日頭明らかなり」

これでどうだ!!
(わりと、自信満々)
きっと、夢窓国師もお許し下さるだろう…と、思う。たぶん。


足利直義


夢窓国師にこの言葉を授けられた直義
以来ひたすら
遠い夜空に一人、を探し続けたことでしょう。
例えば
誰もが思い描く "権力者にとっての頂点" といえば
勢力拡大、領土拡大、或いは世界へ…
といった、物質的なものであることが大抵で
まあ、それが現実というものだと思いますが
しかし、だからこそ
 「見えない朝に、誰も知らない日の出を探す」
なんて、これ以上大きな夢は無く
そんな夢を、本気で描いていた者がいたなんて
ちょっと、心が震えてしまいそうな歴史だと思います。



直義どんな未来を見ていたのだろう
それはどんな色だったのだろう―――

…とか妄想し出すと止まらなくなるので、程々にしますが
尊氏直義への誤解を解きたい一心で
私が、歴史学的レジスタンス活動に勤(いそ)しむ気持ちが
少しは伝えられたと思います。


うん、まあ、全然気合足りてないけどね。
今日も、極東のどっかのレジスタンス酒場・バーボン室町
駄弁(だべ)ってるだけだけどね。 ういーっす

それでも―――
この言葉は、「今」にこそ蘇って欲しい
670年ほど前、史上最も果てしない夢を見た直義の思いと共に
そして、今度こそ叶えたい
…と、極東の片隅で細々と願う夜なのでありました。



posted by 本サイト管理人 at 01:06| Comment(0) | ★チラ裏日記

2014年11月02日

室町絵師ランキング(第5位)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏日記』です。

2回連続で絵の話してたら、気分が乗って来てしまったので
『チラ裏人物記』で連載途中の「畠山義就の話」そっちのけで
今日は

  室町絵師ベスト5!!

を発表したいと思います。

…ただし、「絵師」といっても
雪舟とか狩野正信とか土佐光信とかの "専業プロ絵師" は除きまして
 「プロ絵師じゃないのに、絵画スキルがあった高スペックな人
という魅惑のランキングです。



では、早速
栄えある「室町画伯第5位」に選ばれたのは―――
「明応世代」の越前国国主

  朝倉貞景です!!

おお!いきなり朝倉家からのランクイン、おめでとうございます。
朝倉貞景(さだかげ)については
前々回の「リビジョンアップ続報」で軽く触れましたが
若き日の朝倉教景(宗滴爺さん)の主君で
朝倉孝景(「応仁世代」の方)の孫に当たる人物です。


さて、そんな朝倉貞景ですが
『宣胤卿記』(※公家の中御門宣胤の日記)によると

 朝倉(貞景)は、よく絵を描いていた

と。 そして、それを聞こし召した後柏原天皇

 四幅一対の絵(※)を下された」

と。(※…子昭(=盛懋)作の楼閣を描いた唐絵で
幅が一間(約1.8m)に及ぶ長大なものだったそうだ)

しかも貞景

 よき絵師(=プロ絵師)を囲っていた」

と!
どうです、この絵に懸ける情熱の熱さ!!
(※以上、『宣胤卿記』永正元年12月9日、10日)


ちなみに、後柏原天皇からを贈られたのは
当時、既に壊滅的な状態だった「越前国の禁裏御料所の年貢」善処&加増の為で
中御門宣胤は、その仲介役を務めていたのです。


(※ところで、この禁裏御料所の年貢については
 朝倉なんかせこい事していた(年貢ちょろまかしてた)
 とか、ひどいこと言われていますがw
 しかし、当時の領国が
 「守護の一円知行ではない」という実態を鑑みれば
 朝倉では「既にどうする事も出来なかった」と言うのが正解で
  (情けなくてごめんw)
 その証拠に、室町前期の額からは遥かに劣るものの
 かつての御料所の代替に「一定の年貢を納め続けていた
 という誠意を示しているのです。
  (※この時期、荘園の年貢
   どこもフェードアウト&消滅の運命だったが
   朝倉は他にも、公家寺社への年貢を「納め続けていた」
   という、律儀な武家だったのです。)

 したがって
 「朝倉は、姑息な嘘でちょろまかす奴等だった」という解釈は
 史実と整合性が取れません。
 ってゆうか、しどいww  まあ、詳しくはまたいつか。)


さらに、もう一つ
京都の市街&周辺を描いた『洛中洛外図』という
現在、国宝or重要文化財級の屏風絵がいくつか現存しますが
文献上に初めて現れる洛中図
なんと―――
朝倉貞景が新調したものなのです! おおう。
『実隆公記』(※公家の三条西実隆の日記)によると
土佐光信の筆による京中を描いた屏風で、とても珍重で興のあるものだったそうな。
(『実隆公記』永正3年12月22日)

残念ながら、現物は残っていませんが
生涯、京都に訪れる機会のなかった貞景
洛中を描いた屏風絵を眺めながら、ニタニタしていたことでしょう。 ムフフ



朝倉貞景は、戦での迅速な判断力が光る「名将」でもありますが
(※この時期、越前では
 国の命運に関わるようなきわどい戦がいくつかあった。
 でも全部切り抜けたw)
しかし、何と言っても特筆すべきは
政道に心血を注いだ「名主君」であったことです。


建仁寺の僧月舟寿桂画賛によると
 その人を見んと欲すれば、その政(まつりごと)に在り」
と言い
 「独り百姓の憂いを問い、そしてただ修身治国に励んだ
という
「仁政」を敷いた「憂民憂国」の名君だったそうです。
(『大日本史料』永正9年3月25日)

日頃から、百姓を思っては(うつ)になる貞景
優し過ぎるww
他にも、まだまだエピソードはありますが
歴代朝倉家当主の中で、私が一番好きな人物です。
(※ただし、越前初代の朝倉飛び下馬OC英林孝景は別格。)



まあ、「室町優しさランキング」でも上位に入りそうな勢いですが
ただ、室町時代
足利直義畠山政長という
自分が損している事にも気付かない天文学的な優しさを持つツワモノとか
強いのにジェントルマンな大内政弘とかいるし
何より、初代足利尊氏
夢窓国師による、「仁山」の道号に因んだ漢詩に
その慈愛の果てしない高さを讃えられているほど
めっちゃめちゃ優しい「仁」の化身みたいな人物だったのですよ、実は。

(※(じん)とは、他者への慈しみ思いやりの事。
 儒学における道徳観念の一つで、最も重視される。)

だから、文武両道の高スペ侍からヒャッハーまで
あらゆる武士に慕われ
本人にあんまやる気がなくても、尊氏の一声で全国の武士が動いちゃった
という摩訶不思議な時代になってしまった…室町創生期
優しい上になんかてきとーハチャメチャな将軍、とか
ちょっと何それ楽しそう、仲間に入れて欲しいww


室町幕府創生期というのは
あらゆる階層、価値観が入り混じった動乱の時代で
その上、他にも名将はたくさんいたので
(例えば、尊氏のライバルとしてよく名を挙げられる新田義貞とか)
それ故
 「尊氏以外の誰かが将軍になっていた歴史もある」
と言われる事もありますが
しかし、「人徳」という点で尊氏を超えられる人物は
やはりいなかったと思います。
強けりゃ将軍になれる、という単純で甘い時代ではなかった。)

「将軍になるべくしてなった」と、夢窓国師も言われるように
定めを負って生まれて来たとしか思えないような
天性の人徳の持ち主、それが史実の尊氏の素顔なのです。
(ああでも、尊氏の話は後でいいか…)



ちなみに、余り知られていませんが
場末のぬる酒が似合うしょっぱい公方足利義材(よしき)も
実は、めっちゃ優しいエピソードがあります。
特に、とある日記の記述は
今のところ他人の話だと誤解されているので
あれが義材である事は、おそらく私しか気付いていまい…
…ような気がしないでも無い。たぶんw
まあ、楽しみにしていて下さい。

いやーそれにしても
「室町優しさランキング」
強敵ぞろいの熾烈(しれつ)で激しい戦いが予想されますね。
恐ろしや ((((;゚Д゚))))



では最後に
伝説の "洛中図発注絵師" にして、戦の強い鬱キャラ朝倉貞景
受賞記念の自画像をどうぞ。


朝倉貞景


嬉しそうですね。
貞景が嬉しいとも嬉しいです。
基本的に、鬱キャラとかかわいそす系全力で贔屓対象ですので。
…まあ、貞景不憫属性はあんまありませんが。


やはり、最重要贔屓ポジションに君臨するVIP(´;ω;`)ブワリスト
他者の為なら自分そっちのけでかわいそす道に突き進んでしまう
無自覚不憫系
足利直義畠山政長… ってしつこいかww



さて、続きまして第4位は…あの御方です!



posted by 本サイト管理人 at 23:10| Comment(0) | ★チラ裏日記

2014年11月03日

室町絵師ランキング(第4位)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは。
引き続き『チラ裏日記』は、「室町絵師ベスト5」の話題です。


では早速
前回の「室町絵師ランキング(第5位)」朝倉貞景に続く
「室町画伯第4位」は、なんと―――

  後花園天皇です!!

おおう、主上にして絵師とは! 流石でございます!!



さて、『看聞日記』(※後花園天皇の実父貞成親王の日記)によると
当時、比叡山延暦寺
「足引絵」(あしびきえ)という絵巻物を所蔵していたのですが
この頃禁裏では、これを借り入れて写本の作成を進めていました。


絵巻物とは、基本的に
「絵」「詞書」(絵に添えた文章)で構成された物語ですが
後花園天皇
全5巻のこの絵巻物のを―――

すべて描き写されたそうです。
 (  Д ) Д ) Д ) ゚ ゚ ゚ ゚ ゚ ゚ ポポポポーーーーン
な、なんという画力!!
これは、並大抵の耐久力では、まず実現不可能な事ですよ。


しかしもちろん、持久力だけではありません。
現物を目にした貞成親王曰く

 「絵本不相替、殊勝に被写之条、天性之御器用不可説也」
  (元の絵と変わらない、素晴らしい出来栄え!
   間違いなく天性の才能!!

  (『看聞日記』永享9年2月25日)

その巧みさも確かなものだったと!
しかもこの腕前
趣味で絵を描き続けた末の、晩年の熟練した画力…
とかいう訳ではなく
この時、後花園天皇は御年数え19歳! 満17歳ですよ?
いやはや、あっぱれであります。


ちなみに、貞成親王によると
後花園天皇と同じように
絵の才能が抜群だった "とあるご先祖様" がいらっしゃったそうですが…
どうやら、受け継がれた才能のようですね。
しかし、一体から…


(※以上、『看聞日記』永享9年2月25日、永享10年5月、7月、8月など
 ちなみに、6代目足利義教の時代のお話です。)



―――――――――


ところで、ちょっと余談ですが
「足引絵」(または「芦引絵」)とは
室町初期の御伽草子「あしびき」を絵巻にしたものですが
この「あしびき」とは…
「稚児物語」(という文学の一形態)に属する物語です。


「稚児」(ちご)とは、もともと乳児子供の意味ですが
当時の「稚児」というのは…
公家や武家、寺社などに召し使われる少年、という意味の他
幼少期から寺院に入ったまだ有髪の小童の事
(貴族や上級武士や、そのほか様々な層の子弟がいる)
または、寺社での祭礼や法会に
美装して参列したり、舞楽を舞う子供達
…などの事も指しました。

特に、仏教界での「稚児」
幼少期に寺に入って僧侶に師事し
修行を積みつつ稚児独自の役目をこなしながら
(稚児は「身なりと振る舞いが美しくなければいけない
 という決まりがあり、細かく礼儀作法が定められていたw)
だいたい10代半ばの4〜5年間活躍した後
17〜19歳までに剃髪して出家する
…というのが基本コースだった訳ですが
(※ちなみに禅宗ではこれを「喝食」(かつじき・かっしき)という)
まあその…
「稚児」には特別な意味もありまして
女犯(にょぼん)や妻帯を禁じられていた僧侶にとっての
恋愛対象でもあったと。


…いや、そのネタはスルーしとけよ
とか思わなくもありませんがw
ただまあ、いずれは触れなければならない事なので仕方ない。うん、仕方ない。
つまり「稚児物語」とは
稚児と僧侶の恋愛物語という訳ですが
ただし基本「悲恋系」
「実は、稚児は仏様の化身だった」というパターンも多い
情緒ある大真面目な文学ですので
それほど嫌悪することもない…というか
大いに評価に値する高度に完成された作品です。
(だいたいそんな事言ったら「源氏物語」も(のがw)相当なもんですからね。)


当時の現実としても
わりと純粋切ない片思い的な感じのものもあったようで
まあ、行き過ぎたものには
「うーん、どうだろうw」とか思わなくもありませんが
(とにかく、美少年は大人気だったそうだww)
仏教界については
当時の慣習だし(もちろん、全員って訳では無いが)
別に目くじら立てる事もないんじゃないかと思っています。
まあ、物語にしろ少年にしろ
みんな昔から美しいものが好きだったのだよw うん。


(※ちなみに、この僧侶による美少年への並外れた(?w)審美眼
 後でちょっと重要になってくるので覚えておいて下さい。
 …どういう事かと言うと
 中世戦国含む)の武将では
 一般に「イケメン」といわれている人物が何人かいますが
 しかし、その根拠を尋ねると
 身内や関係者による後世の二次史料の記述だったり
 美化300%の肖像画や、或いは完全に江戸時代の作り話だったりで
 実は、上記のうち「史実イケメン」と言えるのは皆無なのです。
  (夢を壊してごめんw)
 しかし! ここで朗報です。
 恋愛感情やお世辞抜き
 当時の(目の肥えたw)僧侶に「美しい」と称された
 一次史料による確実な「史実イケメン」がいるのです
 応仁 or 明応世代のどこかに。
 …という訳で、誰なのかを予想しつつ楽しみにしてて下さいw)



ただ、この「男色」(だんしょく・なんしょく)の慣習
(※または、江戸以降は「衆道」(しゅどう)とも)
確かに、かなり昔から貴族階級の一部では盛ん(?w)で
戦国期の武家社会に至っては「常識だった」(それどころか「ステータスだった」)
とさえ、現在一般には言われていますが
しかし―――
どうも当時の日記等を見るに
少なくとも室町時代後半 "前期" くらいまでは
(仏教界ではなく)公家や武家の「俗界」での男色
基本的に人目を憚るもので、時に揶揄(やゆ)の対象でもあったようです。
(特に武家ではそこまで一般的ではなく
 やはり人によるといった感じのようですが…? )

つまり、公然とかステータスといったものではなく
そういう文化が水面下で脈々と生き続けていたのは確かだが
本来、密かに嗜む(?w)ものだったと。
まあ、こういう事は禁断である事に美学がありますからね。(たぶんw)
戦国期に大きく流行したのは
「男色こそ上流階級の証だ」みたいな認識が新興大名の間にあった
ってのもあるでしょうか。
(そして江戸以降は、庶民の間にも広まって行ったと。)


このように、「文化」という性格を持つ男色
時代によってその性質に大きな変遷が見られます。
したがって―――
特に室町時代の足利将軍に関して
単なる寵臣を、史料的裏付けも無く片っ端から
"みんな" 男色相手と決め付けている例がありますが
その短絡性にはかなり疑問が残ります。
(※例えば義満とか義政。(もちろん全否定はしないがw)
 義教の話なんて、あれは軍記物の捏造です。
 ただし義尚は "そういう和歌" が残っているから本当w)


あと、基本的に当時の俗界の男色は「両道」です。
ガチというのは、ほぼ聞いたことがありません。
(ただし『明応の政変』は、唯一ともいえる両道じゃない人が関わってきます… )
そして、相手は「若衆」(わかしゅ。若い男子)であり
「同輩」(同等の友達)という例は、中世ではあまり無かったようです。
(※若衆は、単なる若い男子という意味だけでなく
 男色相手という意味もあるので、用法に注意。)

つまり、現代の同○愛とは本質の異なるもので
「男色」とは
  性的指向の問題ではなく、文化の問題である
という点に十分注意しましょう。
(なんか、真面目に分析している自分に疑問も感じるがw)



という訳で、戦国以前から公然の常識だと思っていた方には
残念な(?w)お知らせでしたが
でも、人目を忍んだ関係は大いにあったと思いますし
妄想は自由ですので、何でもありでいいと思います。
…って、余計なお世話かw


―――――――――



さて、ヘビーな話題でした。
HP(ヒットポイント)の残りも少なくなってきたので
話を戻します。


この「足引絵」の写本全5巻のうち
第一巻第五巻については
「詞書」(ことばがき)も後花園天皇宸筆(=直筆)だったそうです。
いやー多才ですね。
(※絵巻物の「詞書」を書くには
 相当高レベルな能書スキル(文字を巧みに書く能力)が求められます。)

後に『応仁略記』に
詩歌、管絃(笙と箏)、入木(書道のこと)、蹴鞠、画図…等々の
才覚に溢れた「近来の聖主」
と称される事となる後花園天皇
10代の頃から既に、その貫禄を現されていたと。


では、室町画伯第4位の受賞記念に、自画像を…
と言いたいとこですが
流石に私も、主上のビジュアル化は自重します。
代わりに
こんな時、真っ先に祝賀に駆けつけそうな人物がいますので
登場してもらいましょう、どうぞ。


足利義教
(2015.5.3ちょっと修正 12.10また修正w)


なんで義教なんだよ!www
とか思われそうですが
実際、義教以外いませんよ、ここは。


後花園天皇義教については
常々、その素晴らしい君臣関係を小出しでもったいぶりながら触れて来ましたが
一般に、君臣関係というと
型に嵌り過ぎて、が置いてきぼり…というか
血の通ったものでない事が、往々にしてあり
多くの近臣に囲まれながらも、一人、主君の心は孤独
と言う場合が多々ありますが
(特に、権威を目当てにした上辺だけの尊皇というのは
 残念ながら少なくない…)
しかし、義教の場合は
単に主君としてではなく
一人の人間としても、主上の事を心から気に掛けていたようなのです。


というのも
御年10歳でかなり異例な即位をした後花園天皇
本サイト『2-12』「その君臣の永遠」で解説したように
実父である貞成親王に、「自由に会うことが出来ない」
という現実がありました。
そんな主上に対して義教
永享6年(1434)と永享7年(1435)の春頃、つまり
後花園天皇が、数え16-17歳(満14-15歳)になられた時期から
学問に励むよう、しきりに勧めていたそうなのです。
永享7年2月1日の『看聞日記』に

 御学問の事は
  室町殿(=義教)から(主上へ)申されているそうだが
  なお、私(貞成親王)からも重ねて申すよう依頼されたので
  主上へ書状で申し上げた」

とあるように
かなり熱心に心配していたそうだ。

君主としても、としても
学問第一に重要である事は
花園天皇『誡太子書』で、繰り返し仰っている通りですが
逆に言うと
学問を勧めるってのは、最も相手の為を思った行為と言える訳です。
権威目当ての臣下なら、主君は傀儡でいて欲しいと願うので
 間違っても学問なんて勧めない。)
おそらく義教は、その劇的な践祚(せんそ)に立ち会った一人として
(というか、ほぼ全て義教たちのお手柄だったw)
天命とは言え
10歳で実父の元を離れなければならなかった主上の境遇を気の毒に思い
親心のようなもの(…と言ったら語弊があるかも知れないが)
を抱いていたのではないかと思います。


(※例えば…永享6年(1434)8〜11月頃
 後花園天皇は重めのを患い、一進一退を繰り返していたのですが
 義教は心底心配し、毎日容態を尋ねていたそうだ。
 (「室町殿被入御心 毎日被尋申」『看聞日記』永享6年9月7日)
 その他にも義教
 色々と諸事を肩代わりしていた様子が見られます。
 朝廷・公家社会における貞成親王の立場向上に必死だったのも
  (もし、主上の権威を独占したかったのなら、
   その実家地位向上なんて絶対に望むはずは無いw)
 それが、道理に照らして正しい事だと
 そして、それが主上の幸せだと、信じての事だったのでしょう。)


…って、泣ける(´;ω;`)ブワッ
なにその良すぎる話ww
本当に、義教ほどの本物の忠臣っていないんじゃないかと
史実を知るほどに、実感します。

(それなのに、恐怖だとか暴君だとか
 この期に及んで未だに室町丸ごと逆賊だとかさ! 意味分からん。
 …って、しつこいかww)



という訳で、主上絵師ランキング入賞
義教ご満悦のようですね、うん、う…?
あ、あれ、よく見ると
わりと若干激怒しているような… ((((;゚Д゚))))
も、もしかして
第4位とかいう微妙な順位に不満が… ((((;゚Д゚))))

すすすすみまんせん。
現物が残っていたなら、また違ったのですが
が存在しない事には、いかんとも…はい。
本当に申し訳ありません、はい…。


ん、という事はつまり―――
そうです、第3位以上はなんと

 自筆の絵(もしくはその模写)が現存しているのです!!

おお!! これは熱くなって来ますね!!



という訳で、次回の第3位はお待ちかね、あの人です!!



posted by 本サイト管理人 at 23:45| Comment(0) | ★チラ裏日記