2015年06月20日

六月になったので第六編の話

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、気付けば六月です。
お待たせしておりました『チラ裏観応日記』
開演したいと思います。

(※『チラ裏観応日記』は
 尊氏直義時代の真相に迫るカテゴリです。
 これについては前々々回の「かんのう日記予告」を。)


遅っっせーーよ!!とか、自分でも思いますが
始める前に一応
大日本史料第六編の該当部分を通読しておかなきゃなー
と思って、しばらく苦行を積んでおりました。



大日本史料については
本サイト『2-5』「歴史の調べ方」で紹介しましたが
既刊分はデジタル化されていて
東京大学史料編纂所のHPのデータベース
いくらでも閲覧出来るのわ、キーワード検索も出来るわで
めっちゃ便利 & ありがてぇ事になっています。

なので
個々の事案をピンポイントで調べる時や
特定人物の関連事項を漏らさずチェックしたい時などは
非常に効率良くて捗るし
今まで不可能だった研究を可能にさえしてくれるのですが
しかし、全体像を探りたい時はやはり…

 本の状態で、頭から時系列に沿ってざっと通読
 → 関連箇所抽出・再読


という苦行を経ないと、話が先に進まないのです。

(※通読段階では、一言一句読んでいる訳ではなく
 非関連箇所は、綱文(見出し)と注釈のみですっ飛ばしです。
 全部読むなんてしてたら… 成仏してしまいます >< )


なぜって…
"点" で見る歴史と、"流れ" で見る歴史は
本っっ当ぉぉーーーーーに
全く以て別物だから。



"点" で見ていると
前後の因果関係人間関係時代背景や、当時の慣習・常識
という最重要事項がほとんど把握出来ず
そうすると人は
「なぜそうなったか?」を
無意識のうちに勝手に妄想解釈してしまって
その上、その妄想が
"現代人の常識" を根拠としているもんだから
当時の現実(=歴史の真相)とは、かけ離れた答えが導かれてしまう…
それなのに、その説が
なんかすっごい正しいものだと "錯覚" してしまう…
という
歴史のスペシャルトラップに引っかかってしまうのです。
\(^o^)/ナンテコッタww

(※この辺の歴史考察注意点については
 本サイト『2-9』「歴史を見る目」で語っています。)


もちろん
大日本史料に目を通したからと言って、すぐに真相が見えて来る訳ではなく
あくまで、史料の網羅は歴史研究の当然の前提
こっからが本当の戦いだぜ!!
という事です。


特に…
当時の世界を、可能な限り現実に近付けて描き出すには
当時の記録を "当時の言葉"
しかも、時系列順に読む必要があります。
 (↑これをすると、当時の日常というものが
  本当にあざやかに再現されます。)
普通、歴史を知りたいと思って最初に手にするのは
歴史の概説書ですが
これは、当時の出来事を "現代の言葉" で記述したものなので
そこから得られる世界観は
やはり実際とは、やや隔たりのあるものになってしまうのです。
(それが悪い事というのではなく
 ただ少しもったい無い事かな、とは思います。)



ちなみに
一般向けの概説書歴史解説
既存の概説書の情報をまとめた "間接" の又々概説
であることが多いので
史料からの "直接" の考察である学術論文専門書とは
実は…かなり言っている事が違いますw

フィクションノンフィクションくらいの差があって
一体、今まで知っていた歴史とは何だったのか…と
そのギャップにショックを受ける訳ですが
まあでも、そこがスタート地点になるので
悪い事ではないと思います。

概説書を導入として
 もし、歴史にさらに興味や疑問を持ったとしたら
 その後は、学術論文専門書も臆せず読んでみると
 また新たな楽しみが広がるのでお勧めです。)

(※ちなみに、一般向けの概説書と一言に言っても
 専門書に近いものや、論文にも高頻度で引用される名著
 それから、最近多いタイプの
 「現役の研究者が最新の研究成果を直接反映させて書いたもの」
 (つまり間接焼き直しではないもの)
…もあるので
 そういうのは、どんどん紹介したいと思います。)



ま、とにかく人の脳というのは
一つ二つの知識から、膨大な妄想をしてしまう器官な訳ですが
知識が浅い段階で膨らませてしまった妄想的錯覚
実際の史料に触れて、知識を増やしていく事で訂正され
世界観が変わって行く、という事です。

(現代的価値観に基づいた妄想による "錯覚"
 "当時の現実" に軌道修正してくれるのが
 歴史史料や専門書の重要性です。)


私も、初期の無知な頃と今とでは(もちろん今もまだまだ未熟だが)
全っっ然、見えてるものが違います。
振り返ってみれば、史料を網羅していない段階での考察は
かなりの部分で非現実的妄想だったorz …訳ですが
無知な頃は、それ(=自分の感じ方・錯覚)が
なんか合ってるっぽいと思ってしまっていました。
 (脳のご都合プログラムは本当に恐ろしいです、はい。)





さて、そんな訳で
大日本史料第六編についてですが
これは
元弘3年(1333)5月の、北条得宗家終焉 &「建武の新政」開始〜
明徳3年(1392)10月の、3代目義満期「南北朝合体」までの
約60年間(59.5年間)を範囲としていて
現在、約4分の3の48冊(43.5年分)が既刊となっています。
 (※第六編之一が刊行されたのは、明治34年。)

ちなみに、どんな本かと言うと
以前のものは一冊1000ページ前後の書籍で
途中からその半分程度の厚さになった、という
見るだけでヘビー級の本なのですが
今回の
「室町創生期」探究に必要な1〜28冊(34.5年分)は
そこまでがちょうどヘビー級時代のもの、ってゆう。
ごく稀に800ページ切ってるものがあってオアシス…みたいな。

(でも、1000ページのうち
 たった1フレーズでも直義関連の発見があると
 この苦行も一瞬で報われるので、問題ないです。)


さて、この第六編28冊のうち
『観応の擾乱』部分の4〜5冊分は既に苦行済みで
それ以外の部分は
東京大学史料編纂所HPのデータベース
論文、学術書等での探究で済ませて
これ以上は深く踏み込むまい…と思っていたのですが
あまりに、衝撃的な真相がざくざく出てくるもんだから
ああんもうやってしまえ!と
今回、それ以外の部分の通読を終えました。
これからまた再読が必要ですが
まあ、もう大き過ぎる見落としは無い…と思う、たぶん。


ちなみに、『応仁の乱』に関しては
大日本史料第八編(応仁〜明応あたり)の
既刊分42冊(『応仁の乱』開始年〜『明応の政変』の1年数ヶ月前)で
同じ事やってます。
なんか適当にふざけた事言っているようで
実は、結構ちまちま涙出る苦行してるんですw





ところで
室町幕府(or 室町時代)が後世の学術上
「室町」と呼ばれるようになったのは
本サイト『2-3』冒頭で解説したように
3代目義満が『室町殿』を御所とし
以後、歴代足利家家督が「室町殿」と称されるようになった事に起因しますが
現時点での大日本史料第六編の既刊分(48冊)は
永和2年(1376)の終わりまで、つまり
幕府の本拠地が『室町殿』に移る永和4年(1378)3月10日の
1年3か月前までなので
第六編の既刊分に関しては、未だ幕府は "室町ではない" のです。


……。
どうでもいいよ、んな事!!
とか言われそうですが
でもちょっと不思議な気がしませんか?
初代の尊氏直義は、自分達の時代が「室町」と呼ばれるようになるなんて
思ってもいなかったんですよ。
現在の学術上では
"便宜的" に、尊氏直義時代から(遡って)「室町」という呼称を用いていて
それはもちろん、研究成果として的確な表記なのですが
 (だから私も、問題無くそう表記しています)
ただ…
ただ、尊氏直義時代を深く知るにつれて
(この時代には)何となくしっくり来ない名前かな…と
少しだけ感じるようになりました。




ちなみに、尊氏2代目義詮は(特に義詮は)
当時「鎌倉殿」と呼ばれていました。

(※「鎌倉殿」とは、もと、鎌倉幕府の将軍の呼称。
 ただし尊氏に関しては、むしろ「鎌倉殿」は例外で
 「将軍」と表記される事が圧倒的に多いですが。)

その時代を生きていた人々にとっては
実は、"時代" "幕府" としての「鎌倉」と「室町」って
全くの別物ではなく、あくまで延長線上にあったもので
武家政権の長=「鎌倉殿」だったのです。
 (極端な話、幕府の中身は
  北条得宗家以外ほとんど変わってない、とすら言える。)


時代とは、例えどんなに移り行こうとも
あくまで繋がっているものであって
「時代の区切り」というのは
後世の人間が、後から設定してしまった "錯覚"
という一面もあるのです。

(※現代の私達の感覚だと
 鎌倉幕府室町幕府(もしくは時代)に
 明確な線引きをしてしまいがちで
 それゆえ一般に…
  「鎌倉」=古くて否定されたもの
  「室町」=鎌倉という前時代を排除したもの
 という価値観で
 歴史解釈がなされてしまっていますが
 これは、非常に危険な落とし穴なので、要注意です。)



歴史を考察する上の注意点として
 「新しもの=優れたもの」
という固定観念は持たないようにする事が重要です。
これが為に、ほとんどの歴史が正しく解釈されていない
と言っても過言ではない…
もちろん、逆もまた然りで
「古いもの=必ず良いもの」ではありませんが
臨機応変に、時代を見抜く事が肝要です。


例え話をすると…
もし人類が
(智慧・知能的に)右肩上がりに進化していると仮定すると
じゃあ何で
未だに釈迦孔子孟子を超える思想が生まれないのか?
或いは、既に至高の思想は完成されていて
現人類のほとんどは
未だにそこに到達出来ていないのではないか?
…という反証に突き当たります。

必ずしも歴史上
(あらゆる面で)現代が最も優れている訳では無い
もしかして人類って
思想的には退化…もしくは
一進一退を繰り返しているんじゃ…という可能性も
常に意識して、歴史を見る必要がある訳です。




以上を尊氏直義時代に当てはめれば
二人が始めた時代は
「鎌倉」を引き継いだものであって
「北条得宗家専制の修正」と「過去の善政の再生」という
鎌倉幕府の建て直しを掲げたものでした。
"新しさ" ではなく
"正しさ" を求めて始まった時代だったのです。

従って
一般には「直義 "鎌倉的" だった」と言われますが
それは、現代的な発想で
 "古い" 鎌倉に固執していた」
と(否定的に)解釈するのではなく
 「原点に立ち返った普遍の道理に基づく政道で
  天下泰平を目指していた」

と解釈するのが
当時の現実を反映した正解となります。

(鎌倉を "古い" とするのは、あくまで現代人の錯覚であって
 尊氏直義にとっては
 20代後半までを生きた "現代" に他なりません。
 彼らは、古い・新しいではなく
 正しい正しくないかという価値観で動いていた訳です。)


そして、同じく一般に

 『観応の擾乱』は、直義の "古い" 政道の終焉であり
  擾乱を経て確立した "新しい" 幕府体制はより良いものだった」


と捉えられていますが…
これもまた―――
現代の "錯覚" なのです。







という訳で、今日はここまで。
このように、この先『チラ裏観応日記』は
取り留めも無く、半分感想文な話を、締りの無い構成で展開していきますので
ご了承下さい。
 (※これまでのブログ記事では
  一応、構成を考えて
  全体のテーマ、伏線の配置&回収、オチまで抜かりなく
  を心掛けていました。 …え、気付かなかっただと?)

その代わり、なるべく更新頻度を上げて行きたいと思います。
 (とにかく言いたい事が有り過ぎて
  後ろから、むぎゅむぎゅ押されてる状態。 づ( ゚Д゚) <ムギュウ )



しかも、歴史の見方考え方といった
めんどくさい話も交えて行く事になりますが
これはなぜかと言うと…
本っっっ当おおぉぉぉぉーーーーーーに
尊氏直義時代の歴史は
これまでの解釈との違いが大き過ぎて
というか
真相があまりにあまりに意外過ぎて
たぶん、結論だけ書き連ねても
誰一人として信じてくれないと思うから。
なので
初っ端から「どういう作業を経てたどり着いた結論か」
という、つまらん話になってしまいました。
すまぬ…(´;ω;`)


でも、文句言うなら
こんなに秘密をいっぱい隠していた尊氏に言って下さい!
…と言いたいとこだけど
実は、隠さざるを得なかったのだという
むちゃむちゃ悲しい話ですので
ハンカチ積み上げて待機していて下さい。



そんな物語のような歴史に思いを馳せながら
大日本史料第六編前半の全ページをめくり終えて
なんとなく浮かんだ感想は…
二人が思い描いていた "未来"
本当は、実際にたどる事になった歴史とは
少し違った世界だったのかも知れない
もしかしたら、別の名前の未来があったのかも―――





ちなみに
直義は、幕府創生期に政務を主導していた十数年
主に、左武衛将軍武衛左兵衛督と称されるほか
「室町殿」のように、居所に基づいた呼称としては何と呼ばれていたかと言うと…
「三条殿」です。

(※御所(直義邸)が三条坊門高倉にあったから。
 詳しくは、本サイト『2-4』「始まった場所」をどうぞ。)

そして、この幕府中央本部である直義邸は
『三条御所』と呼ばれていました。
つまり
その時点では「室町」という未来を知らない彼らに
仮に名前を付けるなら
三条時代三条幕府という事になりますか。


足利直義


てゆうか、なんだかんだ言って
絵が一番の苦行…orz
今まであまりに自己流だったから
お手本を観察しながら、割とマジで必死なのですが
こっちは全然レベルアップの気配がしない (´・ω・`)
なんかもう、恥ずかしいので…
開き直る事にしました。
 (…いや、諦めろよ。とは私も思う。)


という訳で
六月第六編の苦行が一区切りついた記念に
本サイトのTOPページ「水無月」仕様に変更してみました。
下の花は、紫陽花のつもりです。
え、何、分からなかっただと?
私もよく分かりません。



ちなみに、直義は(天文学的に純粋なので)
花なら何でも好きだったと思いますが
その中でも、特別愛した花がありました。
それは―――「白椿」

…って
また慎ましい花を愛するやつだよ、ほんとw



posted by 本サイト管理人 at 01:27| Comment(0) | ★チラ裏観応日記

2015年07月07日

七夕

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏観応日記』です。
 「これから更新頻度上げてく」
とか言っときながら
全然上がってなくて済みません。
ちょっと思い立って、古い本を読んでいました。



室町創生期(或いは、南北朝動乱期)というのは
(例えば、明応や応仁に比べて)研究歴が長く深いので
ほぼイメージが確定している感があり
その上、室町時代の中ではわりと知名度が高い方なので
真相を語るにしても
「これまでの通説との比較」という形で
誤解を解いて行く方法がいいかと思いまして。

(たぶん、いきなり真相だけ語り出したら
 おまえどこのパラレルワールドの話してんだよ(怒)
 と思われて終わる。)

という訳で
この時代に対する(現代の)一般の常識・認識を再確認しておく為に
「室町南北朝期」に関する先駆的な概説書に、目を通しておりました。



といっても
この時期の概説書としては、やはり
本サイト『2-2』の最後「始まった未来」でも紹介しましたが
昭和40年(1965)に刊行された

 【佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)1974】

が、現在でも最もスタンダード
以後の同時代研究はほとんどこの本を基礎にしている
と言っても大袈裟じゃない。

(※一般向けに書かれた本ですが
 実証的な分析に基づいた理論的な叙述で、学術的価値が高い一冊です。
 文庫本で、重版を続けていて入手し易いので、入門書として是非。)


まあ、幕府の訴訟制度権力構造などのシステマチックな事に関しては
特にここ最近は、詳細な分析が進んでいて進化を遂げている事と
3代目義満期については、解釈が変わって来ているのですが
建武の新政〜尊氏直義時代
全体の政治史(時代の捉え方、イメージ)については
この本の域を出るものは、未だ無いように思います。

なので
これ読んどきゃ、とりあえずOK
という親切便利な一冊です。

(…というか、この本が暗黙の前提
 みたいな所があるので、これ読んどかないと
 他の文献論文が読み難いw)



そんな訳ですが
今回、もう少し巷の意識調査が必要かと思い
この本(=昭和40年)以前の有名どころを読んでみた訳です。
まあ、以前から
仏教関連では、結構古い文献も読んでいたのですが
わりと昔から
事実を元に純粋な研究を志向する学術界では
尊氏は正当に評価(しかもかなり高評価)されていたんだなー
という印象です。

(かつての学術外での自国の歴史改変体質については…
 もう言葉も出ないがw ( ゚Д゚)アングリ )




ところで、上で
「室町時代の中では知名度が高い」と言いましたが…
どうですかね
どうも年代・世代によって差があるような気がするのですが
というか―――
ちょっと検索した感じでは
知名度が高い人物に、随分偏りがあるようですが
これはどうやら
小説の影響が大きいらしい…
実は私、南北朝期関連の小説を読んだ事がないので
巷の常識にかなり疎かったらしい…
 (古い学術文献読んでる場合じゃねえww)

しかも、小説では
尊氏の描かれ方がかなり千差万別のようで
一体、どんな年代の人がどんな尊氏観を持っているのか
見当が付かなくなって来てしまいました。



一応、私の基本姿勢としては
基礎知識ゼロで
 「尊氏?ああ教科書でちょっと見た、直義?誰それ?」
くらいの
歴史スペック完全初期値な人にも受け入れられるよう心掛け
真に事実に基づいた、正統な史実で歴史を楽しむ
「史実妄想主義」の素晴らしさを広めたいと思っているのですが
でも
趣味で歴史に詳しい人にも、学問的に歴史に接している人にも
実証的なのに味気なくない
物語のように愛せる歴史を提供出来る…と思いますので
どうぞ、先入観を一旦脇に置いて
解脱待機していて下さい。


(例えば、『応仁の乱』では
 どんな少年誌だよレベルの主従とか正義があった事は
 だいたい解説しましたが
  (※西軍の本意を掘り下げた文献は見た事ない…というか
   基本的に『応仁の乱』の西軍スルー対象
   あんま分析されていないw)

 一方『明応の政変』では…
 クーデターに抗うべく計画された
 壮大な一大極秘ミッションが決行された事は…
 どうやら、まだ誰にも気付かれていない模様。
  (※ハリウッドがアップ始めるレベル。私の中で映画化決定した。)
 そして『観応の擾乱』では…
 天と地がひっくり返るレベルww )




まあ、今日のところはこの辺で。
でももう一言、尊氏について申しておきますと
これまでの研究で明かされた
あるいは小説で描かれた尊氏の人物像
未だその全容の一部のようです。

 寛大温厚で人をよく愛し、人によく愛され
  戦では勇敢大胆で、財貨への執着がまるで無く
  時代天下を導く天性を持つ」

…といった部分は
今ではほぼ共通した認識で
これは確かに、実証的に導かれる尊氏像の一部で間違いありませんが
しかし、これでおそらく50%くらい(或いは、実質20〜30%
尊氏の本当の凄さ
見えない所にあった…というか、隠していたらしいw


一般に
 「優しいけど優柔不断、流され易い、気分がころころ変わる」
とも思われていますが
 (ってか、躁鬱とすら言われてる)
これは…
完全に尊氏マジックに騙されていた模様。
 (私ももちろん騙されてたw)
この人は、実はめっちゃ頭の良い人ですよ。
場合によっては、直義以上。
……。
んな事あるかよ!!と思われるでしょうが
私も、気付いた時かなり驚いたw
尊氏のイメージ、むちゃむちゃ変わりました。


(もちろん、良い意味で。
 自身の目的を達成する為には手段を選ばない
  狡猾冷酷な所がある」

 …とも思われている場合がありますが、これは誤解です。
 私は、相当な直義贔屓なので
 尊氏に関しては、むしろ悪い結果も覚悟していたのですが
 全く以て裏切られました。 良い意味でw )


なんと言うか
優しいのは優しいのですが、無責任な優しさではなくて
天下の幸せの為に、裏で相当頭使ってた、ってゆう。



『観応の擾乱』では
 「部下達の内訌に対して、無関心無責任だった」
みたいに思われていますが(私もそう思っていたがw)
実際は
これほど責任感の強い人はいない
ってくらい、悲しいほど一人で抱え込んで
見えない所で頑張ってしまう性格だったようです。
(※この誤解は
 そもそも『観応の擾乱』の原因構造の解釈に、根本的な誤解があった為で
 謂わば、虚構の上の虚構…だったという訳です。)

ま、表面的にはすっとぼけた振りしていたのは事実で
そこが良い所なのですがw


(なぜこの事に気付いたかと言うと
 実は、尊氏の密命を受けて行動していた腹心が、何人かいるのです。
 一般に
 「『観応の擾乱』は尊氏派直義派の抗争であり
  尊氏の腹心は、婆娑羅大名

 …と、これまで思われて来ましたが
 真実は全く違ってた、ってゆう。)





…と、大まかに述べただけでも
かなり信じ難い事ばかりで
パラレルワールド妄想野郎認定されそうですが
本当にこれ、大日本史料やその他文献・史料を読み込んだ上での結果です。
決しててきとーな思い付きではなく
この結論を導くまでに、相当の時間脳みそを費やしました。

なんせ、本人が隠していた事なので
史料を一読しただけでは、まず全然気付かない
史料表面に見える多くの疑問矛盾を残さず拾い上げ
ありとあらゆる仮説を立てて検証し
他の全てを淘汰して最後に残った一説として
ようやく浮かび上がってくる…
という厄介さなので
ああもう、思い出しただけで遠い目になる…。(´ー ω ー`)



ま、あと一つ付け加えておくなら
この人は本当に
味方も、善人悪人も、ありとあらゆる人が好きだった様だw
全方位デレデレ将軍ですよ。
こんな将軍、古今東西地球上どこ探してもいないですよ。
地上の逸材…では足りない、もう宇宙の奇蹟
それでいて
心の中に悲し過ぎるものを隠していた
ってゆうギャップがもう… (´;ω;`)

(これは、上記の "頭の良さ" とか "裏への手回し" とは、また別の話で
 これが、尊氏の一生涯を規定していた…と言える
 最大の隠し事です。)





やっと本題☆*・゚゚・*:。.。:*・゜☆(n‘∀‘)η゚・*:。.:*・゚゚・*☆キタワァ〜!!!!





あーさて、今日は何の話がしたかったかって
七夕の話ですよ。


七夕(たなばた)という習慣は、日本でもかなり歴史が長くて

 大陸から伝わった織女星牽牛星「七夕伝説」
 機織りを司る織女星にあやかって、裁縫の上達を願う
 「乞巧奠」(きこうでん)という風習(奈良時代頃伝来)と
 日本古来の、神代に遡る「棚機つ女」(たなばたつめ)の信仰

これらが合わさって、生まれたものだと言われています。

(※棚機つ女…清らかな水辺の機織り小屋で
 に捧げるための着物を織りながら、神の訪れを待つ乙女)
(※織女星織姫(おりひめ)、こと座のベガ
 ※牽牛星彦星(ひこぼし)、わし座のアルタイル

( "機(はた)を織る乙女" という事で
 織女星棚機つ女が同一視された。)



当時の史料にも
宮中行事として「乞巧奠」「和歌会」が行われていた事
それから、『太平記』には
 「願いの糸をかけ、庭に御供えの果物を並べ…」
とあります。

ちなみに
新暦の今では、梅雨真っ只中で
星の見えない夜空である事が多い七夕ですが
本来、七夕
旧暦(太陰太陽暦)の7月7日の行事ですから
当時の彼らは
 「初秋の夜空を眺めていた」
という事になります。

(※旧暦では、4・5・6月がで、7・8・9月が
 「初秋」は、旧暦7月の異称です。)




さて、現在では七夕と言うと
 「願いをする日」
というイメージですが
当時は…と言うと
 「織姫彦星が、一年に一度だけ逢える日」
という認識が強かったようです。

(※二つの星が出会うことを「星合い」(ほしあい)
 七夕の夜空の事を「星合いの空」とも言います。)


というのも
例えば、「勅撰和歌集」の「秋」の部立の初めの方には
七夕を詠んだ和歌が並んでいるのですが
ほぼ全部、二つの星の逢瀬(おうせ)を詠っている、ってゆう。


しかも、一年に一度なもんだから
夜を待ち侘びる恋しさとか
夜が明けないで欲しいという切なる願いとか
一夜でも逢えた喜びと、逢える夜の短過ぎる切なさ
これらを、織姫 or 彦星になりきって詠んだりとか
おまえらどんだけ妄想力高いんだよ…
ってゆう歌ばかりww



という訳で
一例として、ここで七夕の一首を。


足利尊氏


これは、尊氏が貞和2年(1346)に詠んだ歌です。
 (つまり、京都の幕府が平和だった頃。)

「暮(くれ)ぬ」は、「暮(く)る」+ 完了の「ぬ」
「らし」は推定、「きっと…だろう」
「かささぎの橋」とは
七夕の夜、二人の為に
かささぎがを並べて、天の川にかけ渡すという
想像上の橋。
 (※天の川を渡る方法は、他にもとか徒歩とか色々ある。)

つまり
一年に一度の夜を前にした
七夕の日暮れの待ち遠しさを詠った歌
、という訳です。
妄想力高いですね。


ちなみに、今年の旧暦7月7日
新暦の8月20日です。
という訳で、このブログでは
8月20日まで七夕気分でいられます。やったね!




では、最後にもう一首、尊氏の和歌を。


足利尊氏


これは、彦星の気持ちになって
織姫(棚機つ女)との別れの悲しみを詠ったのでしょう。

こんな風に、七夕の夜はを見上げて
切ないことばっか考えていたんだろうかw


表面では
天下の将軍として、天の川の如く輝きながら
心の内に流れていたのは、涙の川だったのかも知れない

…とか
史実妄想し出すと、涙の川がに (´;ω;`)ブワアアァァァァッッッ




 暇つぶしmission
上の画像で、デネブアルタイルベガを探して
「夏の大三角」を作って下さい。




posted by 本サイト管理人 at 20:45| Comment(0) | ★チラ裏観応日記

2015年07月26日

忘れられた歌

(チラ裏シリーズ)

こんばんは『チラ裏観応日記』です。
梅雨も明けてすっかりになってしまいました。
(υ´Д`)ゞ アヂー


さて、前回は
室町創生期(南北朝動乱期)に対する巷の意識調査の為
ちょっと古い文献に目を通してみた
という話をしましたが
いや、古いんじゃなくて最近の動向探れよ
…と、以前から自分でも薄々気になっていたので
近頃の概説書について
概観を述べてみたいと思います。



…ちなみに
研究の基礎となる "史料" については
大日本史料第六編の該当部分(ここでは一応、1〜28冊)が
明治34年(1901)〜昭和12年(1937)に刊行済みなので
かなり早い段階で
主要な史料は出尽くしている」と言えます。

(※ただし、それ以後に発見された史料で
 一点で戦闘力百万兆、くらいのものもありますが。(私の中で)
 『神護寺三像』の再発見も、その真の制作意図を探ると…
 実は、そんくらいの威力があります。)

そして
昭和30年(1955)には
それまでの史料をほぼ網羅し
鋭い洞察力、かつ実証的な考察で時代を解き明かした
『足利尊氏』と題する書籍が発表されていて
マクロな尊氏研究は、一応の到達点に達した感があります。

(※この本は、初版から11年後(昭和41年)に
  【高柳光寿『改稿 足利尊氏』(春秋社)1966】
 として改版されています。
  (この改稿版で、全500ページ超。)
 尊氏以外にも、様々な人物に視点を置いて
 南北朝期という深遠な時代の本質を探った傑作で
 尊氏をめぐる個々の史実については
 今でもこれが一番詳しい…ような気がする。)



さて
その後、近年にかけては
細部にスポットを当てたミクロな研究が深化を遂げていて
特に、裁許状下文(くだしぶみ)などの
「古文書」(こもんじょ)の分析から
幕府の機構訴訟手続きといった
"制度面" の解明を試みる研究が盛んです。

(※つまり、近年の歴史学研究は
 極めて "科学的" になっている、という事です。
 (研究者によって異なる主観を排し
  客観的事実を是とする、という意味で。)

 これは、一昔前の
 (あまり信憑性の高くない)軍記講談によって描いた歴史や
 特定の思想(もろ主観w)を前面に押し出した偏向史観的歴史とは
 隔絶したものと言えます。
 もちろん、ずっと以前から
 こういった姿勢を貫いてきた歴史学者は
 本当は少なくないのですが
 歴史学は、近代以降
 信じたくないくらい不遇な時代が続いたのでw
 正しい事実を追究する研究は、すっかり日陰に立たされていた、と。
 はあ、まじで…はあ (´・ω・`) )


だがしかし!
これら近年の研究成果が、あまり…
マクロな政治史に反映されていない、と思う。
特に、尊氏直義の関係とか
もっと見方変わってもいいはずなのにw


実は、前回紹介した
 【佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)1974】
 (※初版は昭和40年(1965)
  この本は、その当時の最新の制度史研究を踏まえた
  画期的な南北朝時代史です)

もそうなのですが
それ以降の、近年の南北朝の概説ものは、基本
「全○巻の "日本の歴史シリーズ" の一冊」
といった種類の本で
その他、特定の人物テーマに特化た視点から
南北朝動乱期を叙述したした本も多く出ているのですが
これらはみな、一般書という性格上
"全体の流れ" については、これまでの研究を踏襲しているようです。
 
なので仕方ないのですが…
率直な感想としては
最新のシステマチックな研究成果を紹介しつつ
一方で、政治史が従来の説のままのなので
なんか噛み合ってない…気がする (´・ω・`)???
 (失礼なこと言って本当に済みません。)

まあつまり
室町創生期の、特に尊氏関連のあれこれについては
謎が謎のままの、永年迷宮状態なんだなー
といった感じです。
ちなみに、今年は尊氏生誕710年なので
710年間不落の宮殿です。 ぐるぐる。
 (生まれた時から迷宮かどうかは知らんが。)



(※ちなみに…
 知名度ぶっちぎり(下から)ナンバーワン☆室町ですが
 最近はわりと、一般向けの書籍が続々刊行されています。
 (南北朝期に限らず、室町中後期など幅広く。)
 しかも、筆者の多くは、歴史ライター…とかではなく
 論文や専門書を出している現役の学者です。
 鎌倉・室町って、実は
 日本史上における歴史的重要度は、最も高いと思うのですが
 (日本の一番深い部分を形成している、とでも言おうか)
 にも拘わらず
 知名度は絶望的に低い…
 しかも、酷い時代だとかいう誤解さえされている…
 という現状に
 本職の学者は危機感を抱いているんじゃ…
 と、私は勝手に思っているw
 ま、でも、知れば知るほど愛せる時代ですよ、うん。)




とは言え
それぞれの筆者(歴史学者)によって
様々に時代の解釈が試みられているのが印象的で
示唆に富む考察も沢山あり
そして―――
ここが重要な所ですが
良心的なもの(知識のある筆者が書いているもの)は

 「(複数の説 or 支持の高い通説を紹介しながら)
  史料にはこうあって、その真相(真意)は不明だけど
  こう考えられると思う。  
  …でも実際のところは分からない(今後の研究がまたれる)」


といった感じの書き方をしていて
どこまでが一次史料的事実
どこまでが分かっていて、どこからが分かっていないのか?
を、明確に区別してあります。
 (つまり、とても客観的。)


なぜって…
実は、突き詰めると本当に「よく分からない」のですよw

(※例えば、尊氏が政務のほとんどを直義に委譲した理由や
 『観応の擾乱』時の尊氏の不可思議な言動の数々ww)




上記の良書『足利尊氏』でも
一応の論理的解釈は施されているものの

(『観応の擾乱』初期の)尊氏の態度「どうも解し難い」
とか
複雑な経緯をたどるクライマックスでの
 貴族の日記に記された風説(=一次史料における当時の実況)が
 あまりに入り乱れているので)
「どれがほんとうで、どれがうそか、さっぱりわからない
 (…と、当時の者達も思っていただろう)


とか、明言してあって
個人的にちょっと感動しましたw
これこそ正統な学問ですよ。
この時代について、正確な知識最大限に持っている筆者ほど
 「よく分からないという事を分かっている」
のであって
それ故、こういう書籍&筆者は信用出来る、という訳です。



(※『論語』の孔子の言葉に…

 「知之為知之。不知為不知。是知也」(為政第二)
 (知っている事を知っているとし、知らない事を知らないとする。
  それが、知っているという事だ。)


 …とあるように、本当の知者とは
  「知らないという事を知っている
 分かり易く言い換えれば
  「現時点で判明している全情報正確に把握している」
 という事です。
 例えば、一般の感覚では
  「神とか仏とかオカルトだろww 今どき有り得ねぇwww」
 と、全否定するのが
 科学的な思考だと勘違いされている場合がありますが
 世界の第一線で活躍する物理学者なら
  「神や仏が非現実かどうかは、(現時点では)分からない
 と答えるでしょう。
 現代科学が解明した現実は、未だ宇宙の極一部でしかない
 それを知っているかどうか、という事です。
 だいたいあれですよ
 この世界の96%ダークマターダークエネルギーで出来ていて
 元々なんだかよく分からない…  Σ(||゚Д゚)ギャアアァァァ
 おっと、宇宙の話はそこまでだ。)




さて、一方で
かなり断定的な書き方をしているものもあると思います。
例えば…
 「この時の尊氏の意図は(根拠は無いけど)こうだった!」
 「この時代の人々の認識はこうで確定!」
 「『観応の擾乱』時の尊氏の狙いは、間違いなく○○!!」
みたいな。
(つまり、(少なくとも)現時点では諸説の可能性がある部分を
 主観で断定してしまっている。)

こういう論調のものは
残念ながら、ライトな入門書系に多いような気がしますが…
うーん
脳は断定される事に弱いので
(その方が気持ち良いし、すぐ信じちゃうw)
こういう論調の方が読み易いのは確かですが
しかし、やはり歴史の書籍を読む時は
(良い意味で)穿(うが)って読むと、得るものが多いと思います。
このスキルは、史料を読む時にも大いに役立つので
訓練しておいて損はありません。




…と、そんな訳ですので
前者のような良心的な書籍を読めば
ちょっと勘の良い人なら
 「え、この時こうしたのは、どういう意図からなの?
  なんか尊氏の言動、めっちゃ矛盾してね??
  ○○だろうって、書いてあるけど
  むしろ△△って可能性のが有り得るんじゃね?」

などなど
山のような疑問が怒涛のように脳内に押寄せてくると思います。
…で
 「はあ? なんか全然腑に落ちない。意味分かんない!
  ちょっと自分で一次史料見てくるっっ」

となって
大日本史料のデータベースを駆使し始める、と。
 (※一次史料漁りはマジで面白いのでお勧めします。)


そこで、多くの不可解な史実を目にする事でしょう。
紛れもない当時の証言・証拠にも拘わらず
従来の説とは整合性が取れなかったがゆえに
こぼれ落ちてしまった史実の欠片(かけら)の多さに
しばし (  Д ) ゚ ゚ ポーーーーーン と放心していると
どこからともなくページをめくる音が… ペラ…ペラ…

 「あれ、今俺が見てるの、ネットの大日本史料なのに…?」

Σ(||゚Д゚)ヒィィィィ


夏なのでちょっと怪談風に…って余計な事しました。
まあでも、闇の中で眠り続けている史実たち
誰かの迎えを待っていると思いますよ。
聞こえて来ませんか? ページの間から、彼らのが。

―――そして、気付いてしまう訳です。

 「この忘れられた史実、すべてのを拾い集めたら
  現時点での通説のほとんどは…
  成り立たなくなってしまうんじゃないか―――?」


ギャアァァァァ━━━━━━ Σ(゚Д゚|||)━━━━━━!!!!!!



次回、甦った史実の逆襲が始ま…りません、別に。






という訳で
前半は理屈っぽい話が続いた上に
「実はよく分からない」って…
じゃあ、結局永久に分からないのかよ!!
てめー期待させやがっててめーーー怒怒怒
…とか
激おこされかけたかと思われますが、まあ落ち着いて下さい。
私も当初はそう思っていましたが
既存の研究(つまり、先人が描いた地図を片手に
史料を一からとことん分析し直すとこれが…
「分かる」のですよ。


まあ、本来客観的事実 "たった一つ" な訳ですから
諸説ある」という段階は
まだ「研究途上である」ことの証でもある訳で
研究途上なのに、主観で断定してしまうのはよく無い例ですが
研究が尽くされた暁には、事実は一点に収束します。

(例えるなら、物理や数学の定理
 諸説あって人それぞれ…なんて有り得ない(有っちゃいけないw)
 事と同じです。 歴史学科学も、本質は変わりません。)

攻略のコツとしては
一見矛盾する種々の史実を
不都合だからと切り捨てスルーするのではなく
「 "全て" 繋ぎ合わせて成り立つ説を探る」という事ですが
ただし、それにはかなり…
変態的なくらいマニアックに突き詰める必要があります。
私は、脳みそ擦り切れました。



ま、それくらい不落の迷宮将軍な訳ですが
しかしそもそも―――
(数百年前の残っている史料だけ、という
 限られた手掛かりとは言え…)
これだけ、現代の歴史学者を悩ませ続けた迷宮将軍なら
当時の人たちからしたって
尊氏の考えている事は、よく分からなかったんじゃね?
とか思いませんか?

実は…その通りなんですよw
足利尊氏、心の一首


足利尊氏


これは貞和2年(1346)
すなわち、幕府誕生から10年が経ち
京都が平穏に包まれていた頃の和歌です。


人望は最強、武運は天下一
を余るほど備え
礼節を知り、文化的教養に溢れ、は良く、しかも若い
 (幕府誕生時で数え32歳。 満31歳になった年。)
何よりも…
みんなが鎌倉時代中、待ちに待ち望み続けた源氏の将軍!!



そんな、どストライクな人々の期待の星、奇蹟の将軍尊氏
なぜに―――

政務のほとんどを弟直義に譲って遁世生活に片足突っ込んでんだよww wwwwwwwwwwwwwww

って、そりゃみんな思うよね (´・ω・`)
本人も、噂されてんの知ってた、ってゆうw


(…てゆうか、尊氏って改めて考えると
 作り話かよ!ってくらい信じられない逸材だと思う。
 普通に考えたら、こんなスペック有り得ないよね? ふざけてるの?)




だがしかし!!
この歌で、一番気になって気になってしょうがないのは
他でもない
みんなには秘密にしていたらしい「我が心」の存在ですよ。


つまり、尊氏直義に政務を譲ったのには
「明確な理由があった」と。
しかし、それはどうやら
何か「悩ましい事」だったらしい…と。



(※尊氏が政務を譲った背景については
 これまで、憶測の域を出ませんでしたが
 一応、主流となっている説は…

 「尊氏が、"戦略的" に一部の権限を(あえて)委譲し
  (いわゆる)二頭政治が確立した。
  しかし、それが(裏目に出て)結果的に幕府を二分する事態を招き
  『観応の擾乱』という避けられない内紛に発展してしまった」

 という、尊氏の政略&失敗だと捉える考え方ですが
 しかし…
 もしそれが、積極的な政治構想に基づくものだったのなら
 少なくとも幕府関係者には、その意図は明かされていたはずで
 つまりこれは―――
 かなりの部分で再考を余儀なくされてしま… Σ(||゚Д゚)ヒィィィィ )





ちなみに、この歌がなぜ
尊氏の将軍としてのあり方について詠った歌だと分かるのか?
と言うと…
この歌と同時期に詠まれたもので
同じように、当時の尊氏の意味深な)心境をよく表している歌が
他にもいくつかあるからです。(後日紹介します。)

これらの歌(※上記の一首以外)は
ほとんど「勅撰和歌集」に入選していて
そこそこ知られているのですが
しかし―――
この歌だけは
今のところ誰にも注目されていない…ようだが、はて??w
でも私はこれ知った時
目ん玉飛び出しかけました。
(  Д )  ゚ ゚ んっポーーーーン って。

やっぱりか!
やっぱり何か隠してたんか!
…って思うよね? ね?


(※2016.3.3追記…
 すみません、この和歌は普通に有名だった事を
 今になって知りました。ってゆうかネットで知った (´・ω・`)
 これまで読んだ尊氏関連の研究書等では見かけ無かったので
 てっきりスルーされているのかと思い込んでいたのですが
 ネットで検索すれば出てくるとか、なんたる盲点… orz
 本当にすみません。重ね重ねお詫び申し上げます m(_ _)m
 一応、考察に関しては
 新たな観点を提示出来ると思いますが
 全然忘れられてない歌でした。誠に面目ないです、はい。
 では続きは『バーボンMuromachi』「忘れられてなかった」で。)





という訳で
ちょっと手掛かりが見えて来た所で、今日はここまで。


忘れられた時代の、忘れられた
遠い記憶を呼び覚ます
色褪せた地図が示すのは
青い夏の雲と、その先の迷宮―――


…とか
史実なのに冒険ファンタジーになってしまう室町創生期
マジ日本史の奇蹟です。
どうです、無駄にワクワクしてくるでしょ?  Σ(||゚Д゚)ギャアアァァァーーーーー



夏なので
今日は無駄に怪談仕立てにしてみました。 Σ(゚Д゚|||)キョエェェェェェ━━!!!



posted by 本サイト管理人 at 00:21| Comment(0) | ★チラ裏観応日記

2015年08月05日

暑中御見舞い申し上げます

(チラ裏シリーズ)

こんばんは『チラ裏観応日記』です。
ますますが本気出して来ました。
暑さに負けそうです。


さて、ここまで観応日記は
前置きばかりでいまいち目標が見えない…と言うか
霧中でぐるぐる気分だったので
ここらでそろそろ
"時系列" に沿った概観を提示して
「観応攻略計画」の見通しを立てよう ピコーン!
…かとも思ったのですが
しかし、ここ数回の話だけでも
この時代について多少なりとも知識がある方は

 えっ!? ちょ、何言ってんの?? あ、え、うぇうぇ

と、混乱されているかと思います。
ただでさえ寝苦しい熱帯夜なのに
気になって気になって眠れないモードで、すっかり睡眠不足に…
って、そんな人別にいませんね、はい。
まあでも
いいから先に結論さらせやゴラァ!!
と、イライラがMAXな方はいると思いますので
今日は、夏の特別企画『観応 "夏" 日記』といたしまして
従来の説と大幅に異なる部分を
ちょっとだけ先にネタバレしたいと思います。


ちなみに…
もし「自分で大日本史料を読み込んで謎解きしたい!」
と考えている方がいましたら、今日の話はスルーを奨励します。
ただ、ノーヒントだとちょっとハードモードですので
ノーマル 〜 イージーモードでの迷宮探検を希望の方は
攻略ヒントとしてご活用下さい。 それではどうぞ↓



(…と、出発の前に私からの餞別です。
 初期装備として、『観応の擾乱』についての概説を。
 これは、幕府誕生の13年後
 政治的対立から起こったとされる内部抗争
 それまで幕府の実質主導者であった直義の失脚と復帰
 幾度かの和睦の模索を経る過程で
 擾乱は収束拡大を繰り返し
 勃発から3年弱の後に、一方の大将である直義
 "鎌倉" で急逝を遂げます。
  (狭義の『観応の擾乱』は、ここまでですが…)
 しかし、その頃には既に
 幕府の内部問題を超えていた擾乱は
 南朝勢力をも巻き込んだ――― "天下崩壊への序奏"
 という新たな局面を迎えていました。
 尊氏の奮闘により、3年の後には大方の趨勢は決定し
 それから他界までの3年間は、京都は束の間の静謐を保つものの
 燻(くすぶ)る火種は再燃
 幕府が、かつての泰平への回帰を誓って
 ようやく再出発の朝を見たのは
 そこからさらに5年
 直義亡き後から、実に11年の月日が経った頃でした。)



  ☆☆☆という訳で、今度こそどうぞ↓ (`・ω・´) GO!!☆☆☆




まあ、何と言っても一番訂正を要するのは
尊氏直義の関係だと思います。
これは、非常に仲の良い兄弟だった」
という事を示す有名な史料(※)があるので
 「もともとは、良好な関係だった」
としている説は多いものの
(※…『梅松論』のあのエピソード
 「直義が死んじゃったら、俺生きてる意味ねぇぇーー!!」
 「清水寺の願文」が双璧、でしょうか)

一方で
 「最後は決裂し、の手では殺された」
と考えられているので
その結果から "逆算" して
 「もとからそこまで仲良くなかった
 「権力争いは必然その程度の関係」

といった論調が主流となっている訳ですが
しかし―――
もし、「尊氏直義を殺した」
という説自体が誤りだったら…?

これは、相っ当ーーっっに衝撃的な理論修正を要求される
ガクブル((((;゚Д゚))))あわあわ事態となる訳ですよ。
私の観応攻略の旅も、ここから始まりました。



(ちなみに、「直義の死因」を伝える一次史料は無く
 毒殺説を記しているのは『太平記』のみです。
 (「(黄疸)による急逝と発表されたが
   世間では毒殺だろうと噂された」という書き方。
  つまり、『太平記』の筆者の自説という訳ではなく
  当時の人々の間での(おそらく実際の)風聞です。)

 従って、本来真相は不明
 それ故、この事に関して、南北朝関連の概説書では
 極めてあっさりし記述しているものもあるのですが
 やはり、多くの研究者は
 『太平記』の毒殺説支持しているのが現状です。
 (『観応の擾乱』真っ只中の当時の状況を考えれば
  人々が意図的な "何か" を疑うのは無理も無いので
  噂自体があった事は、私も事実だと思いますが…)

 この、ほぼ確定した通説
 一次史料からの論理的推理で覆せるか? という事ですが
 これが…覆せるのですよw)



と言っても
私も元々、尊氏による毒殺説が覆せるなんて夢にも思っていなかったし
他に直接の史料が無い以上、真相は永遠に謎なんだろうなぁ…
と初めから諦めていた口なので
決して、覆そうと思って覆したのではなく
ひょんな事から、あれ?っと思ってもう少し調べたら
え、ちょ、うぇうぇwwww  …となっただけであって
初めて気付いた時は、そりゃもう
飛び出しそうな目ん玉押さえるのに必死でした。

それを切っ掛けに
『観応の擾乱』周辺の史料を調べ直したら
「非毒殺説」で理論構築した方が
圧倒的に辻褄が合う…というか
『観応の擾乱』自体が、これまで考えられていたものとは
割とマジで根本から別物の事件だったもんだから
そこでついに、 (  Д )  ゚ ゚ ポーーーーーン ですよ。



(※『太平記』の毒殺説
 (根も葉もない噂ではなく)「おそらく事実だろう」
 と支持されている理由の一つは
 『観応の擾乱』が
 "一見" すると、尊氏派直義派の分裂と衝突に見える事から
  「尊氏直義の(相手の排除を目的とした)対立
 …だと考えられているからですが
 しかし、これが「違ってた」となると―――
 そっから従来説の連鎖崩壊が始まって、一旦更地まで行って
 気付けば目の前荒野ですよ ( ゚Д゚)ポカーン )


(※それから、もう一つの大きな支持理由に…
  毒殺の日が(尊氏派とされる)高師直の命日だったから」
 というものがあります。(つまり、報復だったと… )
 (※高師直(こうのもろなお)は、尊氏(足利家)の執事
  『観応の擾乱』勃発の原因となった人物で
  政敵を私的に殺害した報復で、1年前に誅殺されている。)

 この日付の一致については
 当時の鎌倉在住者の記録で
  「高武州滅亡月日云々」(高師直と同じ月日…)
   (『鶴岡社務記録』文和元年2月26日)

 と記したものがあった事から
 研究者の間では、早くからよく知られていました。
 まあ、冷静に考えると
 「人を怨む事を知らない尊氏が、怨みを晴らす為に
  日付まで指定する執着ぶりでを殺す…?
  だとしたら、より高師直のが大事で
  復讐・見せしめで弟殺して満足した…ってこと??
  しかも、この2か月前の戦の結果
  二人は和睦しているのだから(※この時の勝者は尊氏
  じゃあ尊氏は、命日を殺す為に
  わざわざ付いて和睦して延命させたってこと???
  …え、何その陰険さ。 普通に考えて尊氏じゃ無い……」
 といった感じで
 両者に因果関係を見出すには、あまりに疑問が多過ぎるし
 上記の記録の筆者も、「人為的な毒殺を疑った」というより
 "偶然の一致" に「(中世の共通認識である)仏教的な因果」を
 想像したのだと思いますが
 「全く同一日」というインパクトの為に
 現在は、毒殺説を補強するものと捉えられいるようです。
 しかし―――
 高師直は、一般に "完全な尊氏派" だと思われていますが
 史料を慎重に読み直すと…
 いや、それを脇に置いたとしても
 この "インパクト" を上書きする "インパクト"
 実は存在するのです。
 つまり、この支持理由もまた… 瓦解 (  Д ) ゚ ゚ スッポーーーーン )




ちなみに、毒殺を実行(命令)したのは
尊氏ではなく、高師直派の誰か(もしくは義詮
だと考える説もありますが…
(ただし、この説には史料的根拠はありません。
 でも、尊氏の人物像を深く探究した研究者ほど
 「どう考えても、やつに直義は殺せない
 との考えに至るのは、至極尤もだと思います、はい。)

要するに…
いずれにしても、毒殺ではなく
尊氏と直義の合意の上での服毒…でもなく
偶然過ぎる唐突な病死…という可能性も限りなく低く
 (つまり、『太平記』の伝えるように
  「病気」という発表は、やはり建前だと思います)
一次史料が示す僅かなヒントを組み合わせると―――

あーいや
今日は経緯をすっ飛ばすネタバレ回でしたね。
では結論だけ
直義は… 全部自分で決めて逝ってしまったのですよ。

推理の過程は、また後日。



(※ちなみに
 「直義は自ら命を絶った」との説を提言しているのは
 今のところ
 【田辺久子『関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏』
  (吉川弘文館)2002】

 …のみでしょうか? (他にあったらすまんw)
 当時、尊氏直義と共に鎌倉にいた足利基氏(もとうじ)は
 尊氏の実子かつ直義の養子で、初代鎌倉公方となる人物ですが
 この基氏と、養父である直義の関係や
 直義の死(2月26日)が
 基氏の元服(2月25日)の翌日である事など
 これまで盲点だった素晴らしい指摘がなされている本です。

 ただ、直義の最期については
  「直義の死が、高師直の命日(2月26日)と同日ならば
   尊氏による毒殺と考えられる」
 という主流の立場に立たれていて
 しかし、尊氏による毒殺を疑問視する観点から
 (数種の史料の比較分析の結果)
 直義の死が、基氏の元服(25日)の "翌日" ではなく
 同日の "直前" で、偶然の出来事だった可能性の指摘
 (事前に日取りが決まっていた元服(吉事)の前に
  毒殺を実行するとは考えられないから。ただし
  これは史料の誤記の可能性のが高いとされています)
 或いはまた
 直義の死を25日とも、26日朝とも記す史料があることから
 当時の日付変更の概念(午前0時夜明け時の2通りがあった)
 に鑑みて
 実際は、25日〜26日をまたぐ深夜(真夜中過ぎ頃)の出来事で
 直義基氏の元服を見届けて覚悟の死を遂げたのかもしれない」
  (…原文引用、p.29より)

 といった論旨です。
 
 しかし、この辺もう一歩踏み込んでみると…
 これが、尊氏による毒殺では無い事の、もう少し強い証拠
 この頃の尊氏直義の関係
 (一般に「直義は幽閉(冷遇)されていた」とされていますが…)
 それから、直義の心境など
 謎に包まれた最期の日々を、より具体的に知る事が出来そうです。)





ところで、私は常々公言しているように
自分でもアホかと思うほどの直義好きですので
もしかしたら、ちょっと私情が入って
 「直義が、尊氏に殺されたと思いたくない
  (仲の良い兄弟でいて欲しい)」
との願望から
無意識の内に贔屓目な推理しちゃってんじゃないのぉ? ああ??
…とか、やや疑われてそうですが
 (ってか、私が自分を疑ったw)
しかし、この当時の状況をリアルに探ると
 「たとえ、尊氏
  兄弟としての愛情が1ミリも残っていなかったと仮定しても
  直義を殺す事は(戦略的に)有り得ない

という結論が導けるので大丈夫です。


(※「尊氏が直義を毒殺したのは、擾乱を終わらせる為
 或いは『観応の擾乱』は、直義の死によって終結した」
 との説がありますが
 実際は、直義の死後の方が戦乱は劇的に悪化するので
 後者は明らかな事実誤認で
 (むしろ、2か月前の和睦〜直義急逝までの方が
  一時的にしろ小康状態にあった)
 また前者は、比較的(ってか最も)メジャーな考え方ですが
 しかし後述するように、尊氏は唯一
 当時の各勢力の状況を正確に理解していた傑物なので
 (つまり、直義を失ったら
  戦乱は収束ではなく悪化する事を知っていた)
 従って、これも実は180度逆の誤解だった
 という事になります。 はい、 (  Д ) ゚ ゚ ポーーーーーン )


それに、一般的には『観応の擾乱』では
 「尊氏は、直義を排除しようとしていた」
と考えられているので
やはり、この圧倒的な先入観を乗り越えるのは
たとえ私情を挟んだとしても
そう簡単な事ではなく
その上私は、贔屓目に見てしまいそうな時は
予防措置として
望まない方の説を優先して考慮するようにしているので
 (…M式考察法とでも言おうか、まさに苦行ww)
初めの頃、まだ核心が見えずに模索していた頃は
そりゃもう、常時ぶち切れモードで苦労しました。

「どーせ直義が死んでも、何とも思わなかったんだろう!」(# ゚Д゚) ムッカー
「そんなに自派の大名息子がかわいいか!!」(# ゚Д゚) ムッキー
「あんだけに尽くしたに、よくもそんな冷淡になれるな!!」(# ゚Д゚) ムッホー

とか、見えない敵と戦ってた。
(※ちなみに、ここで言う息子は2代目義詮(よしあきら)のこと。)


今思うと、見事に全部はずしていた訳ですが。
実際は「何とも思っていない」どころか―――
まあこれは、直義亡き後
尊氏が生きた6年間の行動の "真意" を追うと見えてくるのですが
(つまり、表面からは見えない、だから誰にも知られていない)
悲し過ぎて言葉を失う… (´;ω;`)(´;ω;`)(´;ω;`)






ところで
『観応の擾乱』という迷宮事件を解明するには
主要登場人物の言動の "真意" の解明が、最重要事項となる訳で
それには各人…特に尊氏直義の性格を
的確に分析する必要があります。

直義の性格は分かり易いものの
(なぜって…本当に人間離れした正直者で素直過ぎるので
 なんにも隠し事が出来ないタイプだからww
 とにかく、清くて正しくて優しくて思いやりがあって賢くて
 謙虚で献身的で慎ましいけど、意志は強くて真っ直ぐで…

 ってまあいいかw )
しかし、尊氏の方はというと…
めっちゃめちゃめちゃ分かり難い性格で
(直義と違って隠し事が出来る超ポーカーフェイスw)
最善から最悪まで、色んなパターンを想定しながら史料を読み返し
最も理論的に成り立つ性格を模索しなければなりませんでした。


( "理論的に成り立つ性格" って意味分からんな。
 でも、それくらい
 尊氏の言動は(一見)矛盾マジカル☆ワールド
 これまでは、"精神不安定" とか "躁鬱" とか
 "イミフ" とか "カオス" とかで片付けられていました。
  (もしくは、見なかった事にされていたw)
 まさかそこに、一貫した人物像が隠れていたなんて…
 諦めなければ、宇宙の謎は解けるんだなぁ…と思いますた。)



ま、結果を簡単にいえば
この兄弟は
似てるようで似て無いようでやっぱりそっくりなのに違うけど似てる
一言でいえば
 「違うけど同じ」
みたいな感じですが、私は以前は
尊氏はもっとてきとー
あんまり物事深く考えない性格かと思っていました。
尊氏wwwww ワロスwwwwwww
とか思っていた自分を殴りたいです。 ゴフ…


戦に強いのも
意味不明な運の強さによる "棚ぼた的" 勝率…かと思っていたら
(もちろん、人知を超えた武運の存在は否定しないが)
実は、並外れた状況判断力情報処理能力先読み能力による
必然的な結果だった、てゆう。

(本当に、軍師要らずの有り得ない将軍なのですよww
 それを極力表に出さなかったので分かりづらいのですが
 『観応の擾乱』を詳細に分析するとバレバレです。
 (…でもこれまでバレてないから、やっぱり策士です。)
 特に、南朝勢力と三つ巴になり始めた最も複雑な時期
 誰もが状況に踊らされていたような中で
 日本中で尊氏ただ一人だけ
 天下の状況を正確に把握して行動していた
 …ってくらいの、信じられない軍師将軍です。
 ただし、表面的にはやはり
 ワロス将軍です。)




ところで、前々回のブログ記事「七夕」では
直義ど贔屓の私が
 「『観応の擾乱』での尊氏良い奴
みたいな事を言ったので
もしかしたら、他の直義ファンから
え、何それ、じゃあ直義が悪いって言うの!
てめーふざけんなこの裏切り者がぁぁぁ!!!!!
…とか糾弾を受けて
直義好き界を追放されそうな勢いですが(私の脳内で)
しかし、大丈夫です。
私は今でも、誓って直義ファンです。
(ちなみに『観応の擾乱』では、直義も悪くありません。)


ただし、私は割とかなり…尊氏好きでもあります。
というのも
直義と言うのは、調べれば調べるほど兄に献身的なのですよw
もう泣けるほど一所懸命。

(※『観応の擾乱』では
 直義兄尊氏を超えようとしていた」
 もっと言えば…
 尊氏を退け、自らの元に幕府権力一元化しようとしていた」
 との解釈もたまに見ますが
 これは一次史料的事実に反する誤認です。
 反証は、有り過ぎるほどたんまり有るので、また後日。)

だから、私も
(従来の『観応の擾乱』の通説にも拘わらず)
どうしても尊氏を嫌いになれなかった…訳ですが
二人とも好きという意見は、結構珍しいような??


というのも
この辺の文献を読んでると
研究者によって
尊氏直義、どちらに正当性を見出しているか?
という緩やかなものから
尊氏派直義派か!?ってレベルで
スタンスがあからさまなものまで色々あって
 「あれ? もしかして『観応の擾乱』始まってる??」
みたいな事になってるからww


まあ、私はこういう場合は
直義派のウェーブに乗り乗りしてしまう方ですが
やはり、現状は尊氏派が優勢のようです。
何か、時代を超えて人を惹き付ける魅力があるのでしょうw
でも、『観応の擾乱』の真相が知れ渡ったら
この争いにも、終止符が打たれる事と思います。
つまり―――
尊氏&直義派の私大勝利wwwww
みたいな日が来る (`・ω・´)しゃきーん!!(はず。)
みなさんも、今のうちに二股派に鞍替えしておくといいですよ。








てゆうか、結局ここまで尊氏直義の話しかしていない…
仕方ないので、他に予定していたネタバレ
てきとーに済ませてしまおうと思います。


( ゚Д゚) < その一

まず、『観応の擾乱』についてもう一言。
これは、一般に言われているような
 「尊氏と直義の二頭政治の過程で
  幕府が(利害関係から)二派に分裂して起きた内訌

…ではなく、むしろ
 『観応の擾乱』が起きたから、幕府が二つに割れた」
と考えた方が妥当です。

いきなり因果関係が全く逆で、おめー何言ってんだ??
とか思われそうですが
以前当ブログ「GW企画 国宝『神護寺三像』」
 天動説が上から崩れ落ちてくる」
と言ったのは、そういう事です。


従来、幕府発足から13年間の幕府の内情
尊氏と直義の、牽制的・対立的な「二頭政治」、或いは
直義派高師直派という「派閥理論」で語られて来ましたが
これが "虚構の天" であったことに気付く必要があります。

分裂は、二頭政治ゆえの必然
という、13年間の幕府そのものに問題を見出す見解
或いは、直義高師直の立場を "対等" 的に捉える解釈は
『観応の擾乱』という衝撃が見せていた "錯覚"
結果からの逆算が生んだ "存在しない原因" だった訳で
この偽りの天を穿つ方法は
「康永三年の謎」(←私が勝手に命名)を解くことにあります。


では、『観応の擾乱』が起こった本当の理由とは?
という事ですが
これは、派閥の対立が臨界を迎えて…といった
"なあなあなもの" ではなく
もっと、明確な故意によって引き起こされた "事件" だった
という事です。


ちなみに、割とメジャーな原因説として

尊氏は、かつて自分から直義政務を譲りながら
 後になって、嫡子義詮に将軍職を継がせたいと心変わり
 (でも前言撤回は出来ないから)密かに高師直と謀り
 クーデター装って直義を強引に失脚させて出家に追い込み
 義詮執政開始を演出した」


という
普通に考えて「あまりにひどい!!!」話があり
あまりにひどい為に、(現代の)尊氏派からは
触れてはいけない事になっている(ような気がする)話がありますが
これは…
史料の誤解釈ですので安心して下さい。
(こういう全く別方向の解釈が可能になってしまう所が
 『観応の擾乱』が迷宮たる所以です。)

もちろん、擾乱勃発の "切っ掛け"
 「直義に対する、高師直のクーデター
であり、その結果
何の罪も無いのに
それまで、天下に歓迎される正しい政道を一心に努めてきた直義
突然政務の座を追われたのみならず、出家を余儀なくされ
当時鎌倉にいた義詮が上京して、執政を開始した
…のは紛れもない事実ですが。


ついでに
高師直が謀反を起こした "理由" については
一説に…
 先手直義派で、高師直の暗殺を企てたから(その反撃)」
と言われていて
これは… 高師直の素行が余りに梟悪淫乱なので
政道を立て直すには、除くしかない
直義の近臣達の間で意見が一致し、直義もそれに同意したので
計画された …とされていますが
普通に考えると、「先手暗殺」というやり方は
直義にしてはどうにも似つかわしくない卑怯さなので
(現代の)直義派からは
一斉スルー協定が結ばれている(ような気がする)話ですが
これも…大きな誤解ですので安眠して下さい。

(※この暗殺未遂説
 『太平記』の記述を根拠にしたものなのですが
 一次史料の記録との妙な "ズレ" に気付くと
 巨大なカラクリが見えて来て、そっから一気に
 すっ (  Д ) ゚ ゚ ポーーーーーン です。
 直義悪くありません!!w )




( ゚Д゚) < その二

次に、直冬(ただふゆ)の事ですが…

(※足利直冬は、尊氏の実子だが正室の子ではなく
 直義の養子となった人物。(上述の足利基氏正室の子。)
 『観応の擾乱』時は、中国〜九州地方にいて
 一般に、直義派一大勢力として
 尊氏派と死闘を繰り広げた、とされていますが…)

直冬は、なぜか
父尊氏に対する怨みだとかコンプレックスだとかいう
憎しみ全開のフィクション要素
勝手にどろどろした感じで描かれている事が多くて
主観入れ過ぎでそれはちょっとどうなの???
みたいな事になってますが…
(これも、「尊氏直義の対立」との説から膨らんでしまった
 誤認…なのだろうか??
 それにしても、かなり激しい論調のものもあって…)

しかし、実際の史料を見ると
『太平記』では
 「政道が正しくて、人々からいよいよ好かれた
と褒められていて
一次史料には
 「どこまでも(尊氏)を慕っていた
という証拠が残る、泣けるほど健気な子です。
まあ、ごく稀ですが
これらの史料から、直冬正当に高評価している文献もあります。
(でも、今のとこ見たの一つだけかもw (´;ω;`)ブワッ )

ちなみに、養父直義には…
めっちゃむちゃむちゃ懐いていた、という一次史料的証拠があるw


ただ…
それなのに、尊氏から(一見)討伐の対象にされ
不遇な戦いを強いられ続けたのは事実なので
(そして流浪の末孤立し、零落して行った
 という、スペシャル不遇な子だと考えられているので)
正直、こればっかりは
救いようのある真相は見つからないだろうなぁ…
と、中盤までは諦めモードだったのですが
("ぱっと見" は本当に
 庶子直冬と嫡子2代目義詮に対する尊氏の待遇には
 ほどの差がある… (´・ω・`) )
しかしこれがまた…
救いよう…どころか、直冬こそ真の勇者!!
くらいの、とんでもない話が隠れていて
ジェットストリーム (  Д ) Д ) Д ) ゚ ゚ ゚ ゚ ゚ ゚ ポーーーーン
してしまいました。
ひっくり返った… (´・ω・`) )


まあ、私でなくとも
 「あの温厚寛大尊氏の性格で、直冬にだけ
  こんな別人のように冷酷になれるだろうか??」
との疑問を抱いていた人は、少なく無いと思いますが
これまで、どうにもこうにも
納得出来ないでいた直冬ファンの方々には
これから大逆転が待っていますので
目ん玉押さえて、待機していて下さい。

従来、怨みや憎しみというフィクションで語られて来た
「直冬の戦った理由」とは、本当は何だったのか?
この解明が全てです。
直冬派、大勝利!! ですよ。

しかもなんと…
尊氏&直義派兼任で大勝利出来ます。 Σ(゚Д゚;)マジデ!?





( ゚Д゚) < その三

それから、あともう一つ。
めっちゃめちゃ秘密を握っていたのが、なんと―――
誰も注目していないであろう…足利高経!!

(※高経(たかつね)は
 足利一門最高「斯波」(しば)の祖で
 現在は便宜上「斯波高経」と表記されていますが
 当時は「斯波」を名乗った事はありません。)


高経は、尊氏の曽祖父のの家系なので
 家格意識が高い為に
  宗家の足利家にライバル心を燃やして、尊氏に疎まれた」

とか言われてて
影薄いどころか、嫌なやつ認定すらされている不憫さですが
高経尊氏の本当の関係に気付いたら…
つまり、上の説の虚妄を見抜いたら
その時君は、真の観応の勝者になっている!! …に違いない。
(ちなみに、二人は同い年。)

というのも
私も高経の真相に気付いたのは
観応攻略の、ホントにホントの最後の段階で
完全にラスボス裏面ラスボスレアボス
最最最難関だったから。
「はあ? 高経なんて重要度最弱空気キャラだろ」
…とか思っていたら
後でひっくり返ってピクピクしてしまう事になります。

(その上、この高経の真相
 実は、あの「管領制創設の謎」にも関わって来るので
 制度研究の面からも、大真面目に再考察する必要があるのです。)


そんな虚無キャラ足利高経ですが
室町創生期からの朝倉家の主君でもあるので
私は、密かに気にしていました。
(それで、たまたま気付いた訳です。)

(おそらく、現時点では私以外一人もいないだろうが)
高経派、大大大勝利!!! ですよ。
もちろん、高経派も
尊氏直義直冬派兼任で大勝利出来ます。 Σ(゚Д゚;)ママママジデ!!???





☆☆ようやく*・゚*:。.。:*゜(・∀・)゚*:。.。:*゚・*まとめキタ〜〜☆☆





という訳で
今日は『観応 "夏" 日記』ということで
言いたい事、言いたいだけ言ってみした。
 (ただし、これでもまだ2〜3%)
なので、予備知識が無いとちょっと分かりづらかったかも
すみません。
というか、予備知識があったら今日の話は
暑さで頭がおかしくなった人の戯言(たわごと)
にしか聞こえないかも ( ゚Д゚) <…


最後の暴露では
もう敵味方関係が、従来の説と比較すると余りにハチャメチャで
 「尊氏直冬高経派兼任ってwwwww
  直冬と高経は直義派で、反尊氏派の筆頭なんだよ!
  こいつ何も分かってねぇwwww」
とか思われるだろう事は、重々承知していますが
でも、天動説が信じられていた時代は
地動説は、頭のおかしいやつの寝言だったのですよ。
ただ地道にを観察していたら
が動いている事に気付いたから
現実をありのままに伝えただけなのに。




尊氏と直義について
 「政治的に対立した」
 「尊氏は、直義政務の座から追う事が目的だった」
という通説には
私は、詳しく調べ始める以前から
(単なる直感的なものですが)違和感があったのですが
どうも、一般には
私曲の無い正しい政道を目指す(古い鎌倉的な)「法治主義」直義に対して
尊氏
婆娑羅大名と呼ばれる武士たちが
私欲を解放して土地や財貨を囲い込む「人治主義」を奨励していた
それが、新しい "武士の世" だ!
(これは良い事で、みんながそれを求めていた!)
…みたいに捉えられていて
どうにも解せないw


でもこれは
『観応の擾乱』から逆算してしまった誤解であって
本当は、尊氏の政道の方針って
 「 "私" あるべからず」(『臥雲日件録』享徳4年正月19日)
とあるように
正に、直義のそれなのですよ。

『梅松論』にも
 「(直義は)御身の振舞いが廉直にして誠実で全く嘘が無い
  "此ゆえに" 将軍は(直義に)御政道を御譲りした

とあるし
今川了俊の手記『難太平記』にも
『観応の擾乱』で(一見)二人が仲違いした時の事として

 「(どちらと決め難いほど二人とも)私曲が無い
  (どっちも良過ぎて選べない!…ってのがみんなの意見)」


と記されているように
(※私曲…よこしま、不義、不正、自己利益しか頭に無いこと) 
やはり、本来の "武士の世" って
「私曲の世」ではなく
鎌倉の北条泰時に代表される「道理の世」であって
それが、尊氏にとってもこの時代の大多数の武士たちにとっても
"良い事" なのだと。

(※激動の時代であった当時でも
 やはり、人々の根底に流れていた価値観というのは
 「"普遍的な" 善悪や美意識」なのであって
 「"古い" は悪い、"新しい" は良い」という表面的な価値観ではない
 …という視点は、歴史考察の際に極めて重要な要素なので
 覚えておくと色々面白いように捗ります。)


という事は…
尊氏は、直義の政道には
反対どころか「心から賛同して満足していた」
と考えるのが自然であって
つまり、直義の失脚は "尊氏の策略" どころか
尊氏にとっては "痛恨の非常事態" だったのではないかと。

(※この発想の転換をすると
 『観応の擾乱』攻略が一気に加速します。
 でもチート級のターボなので
 振り落とされないように気を付けて下さい。)


私としては
詳しい事情を知らない頃からそんな予感があって
尊氏が、憎しみから直義を殺したとはとても思えず
毒殺説を信じていた頃は
 「だとしても、直義本人同意があったんじゃないかなぁ」
と、つまり…
 「切腹では、直義派が弔い合戦に燃えてしまうから
  病死を装う為に服毒を…と
  むしろ、直義から強く申し出たのであって
  尊氏は、擾乱を終わらせる為に苦渋の選択をしたのでは…」
と勝手に想像してました。

(※直義は、天下の為なら
 「自分の命なんてなんとも思って無い」のは
 史料的事実ですが(…2度の討死覚悟とか浄土寺和歌とか)
 しかし「擾乱を終わらせる為」と
 (直義はともかく)尊氏が考えるはずが無いのは
 上述した通りです。)




私は、あくまでも史実妄想主義なので
どんなに仲良くあって欲しいと思っていても
それが史実に反するものならば
妄想の中でさえ、親しい兄弟として描く事が出来ません。
(いや、勝手にしろよ、とか思うでしょうがw
 でもやっぱり、であっては意味が無い… )

だからもし
従来の説を実証的に覆し切れなかったら…
それどころか、本気で決裂した確証が見つかってしまったら…
どうしよう マジ\(^o^)/オワタ
…となる所でしたが
ひと先ず、現時点での結論としては

 「こんなに仲の良い兄弟はいない」

と言えるかと。
というか、常識的に考えても不思議なくらい仲が良いんですよw
(…って、一次史料が言ってるんですよ。)
これにはまた、一層不思議な理由があるのですが
しかし、じゃあなんで
それが良い話で終わらず、(毒殺ではないにしても)
あんな悲しい結末を迎えなければならなかったのか―――
とは、直義好きなら誰もが抱く疑問だと思いますが
その答えを、いま一言でいえば…

 「それぞれがお互いの為に生き過ぎてしまったせいで
  擦れ違うことになってしまった」

みたいな話なんですよ、本当に。
もう、こんなに悲しい話が、この世にあっていいのか??
ってくらい悲しい話で
これが作られた物語ではなく
実話であることが信じられない (´;ω;`)

(特に、上の "不思議な理由"
 尊氏目線で見た場合に関係して来るのですが
 これがもう… (´;ω;`)(´;ω;`)(´;ω;`) )


もし二人に
人間なら誰しも持つ、自分の幸せを求める心が
少しでもあったなら…
と、訪れる事の無かった未来を考えてしまいますが
でも、あまりに劇的過ぎる運命に生まれ
それなのに、あまりに突然途切れてしまった一生だったから
もしかして…
まだ物語は終わっていないのかも知れない―――



もし今、その "続き" が始まったとしたら
今度こそ完結するだろうか。
でもきっと
今はまだ鎌倉京都に隔たって
同じだけど違う空の下にいるんだろうな
そこから、始まるんだろう。
…というそんな妄想で今日のまとめ
夏の絵日記です。


足利直義


足利尊氏

(※クリックすると少しだけ拡大します。500×667px)



鎌倉「浄妙寺」
鎌倉時代初期の創建の臨済宗の寺院(当初は密教寺院)で
中興の開基である足利貞氏(尊氏直義の父)のお墓があり
(貞氏の法号は「浄妙寺殿」といいます)
鎌倉時代以来、足利家の屋敷がこの近隣にあった
という、縁(ゆかり)の深い禅院です。

そして、『観応の擾乱』では
観応2年(1351)12月、尊氏との最後の戦ののち
和睦した二人は、翌観応3年(1352)正月5日鎌倉に入り
直義「浄妙寺」西隣の寺院で
ひと月半と少しの時間を過ごした後
幼少の頃より我が子として育てた基氏の、数え13歳の元服を見届けて
翌2月26日の朝
46歳で、兄尊氏に先立ちます。

直義が最期の日々を過ごした禅院については
「延福寺」(尊氏直義の異母兄、高義が開基)と
「大休寺」(この後直義の菩提寺となる。直義の法号は「大休寺殿」
の両説があるのですが
この2〜3年後の時点で、両寺院は月山希一が住持を兼帯しているので
場所的にも実態も、極めて近接した寺院だったようです。

「大休寺」は、直義の "没後" に菩提寺として建てられた
 とも言われていますが
 『源威集』に、鎌倉入りした直義が「大休寺御座」とあるので
 亡くなる前には既に存在していたように思われます。
 (※『源威集』は後年の記録ですが
  筆者は当時をリアルタイムに知る東国武士
  記録の信憑性の高さが指摘されています。)
 おそらく、出家して慧源(えげん)と名乗っていた直義
 居所となるべく、その頃整えられた寺院なのではないかと。
 だとしたら…
 まあ、この続きの推測はまた後日に。)

「延福寺」「大休寺」
残念ながら廃寺となってしまいましたが
その旧跡は、現在「浄妙寺」境内として散策が可能です。


それから、京都「等持院」
本サイト『2-4』「始まった場所」で紹介した
室町を代表する足利家の菩提寺
尊氏お墓がある、室町好きには基本中の基本の禅院です。



是非、今年の夏の冒険に!
…と、すぐにでも出発したいとこですが
この暑さじゃ、とてもじゃないけど冒険出来ません、マル!

秋まで、妄想で我慢しよう…という事で
本サイトのTOPページ夏空仕様に変えてみました。
よし、これで脳内絵日記完了。 宿題一コ終わた。


それでは最後に

観応夏日記


今日は、これが言いたかった。



posted by 本サイト管理人 at 02:25| Comment(0) | ★チラ裏観応日記

2015年08月31日

夏休みの宿題(その1)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏観応日記』です。
またずいぶん間を開けてしまいましたが
別に、夏休み気分でバカンスしていた…訳ではなくて
8月後半は
全国の小学生恒例の「夏休みの宿題追い込み期間」に便乗して
私も色々とセルフ課題をこなしていました。

気付けばすっかり涼しい毎日で
夏も終わってしまったかのようですが
しばらくは
夏の宿題提出編 "観応思い出夏日記" をお送りします。




では早速
前回の「本サイトTOPページ更新」に続き
夏休みの宿題 "第2段"
家紋シリーズに、新たな2種が加わりました!

その一、上杉家の「竹に雀」(たけにすずめ)です。


上杉家紋


あれ、なんか違う…
と思った方もいるかも知れませんが
「上杉 家紋」で画像検索すると、普通は
九枚笹(三枚笹を三方に配したもの)の家紋がヒットして
現在は、上杉といえば "九枚笹バージョン" で定着していますが
しかし、室町時代はどうだったかと言うと…
『応仁の乱』中に成立した家紋集『見聞諸家紋』では
上杉家の家紋は

上杉家紋
(※群書類従23武家部『見聞諸家紋』より引用)

…となっているのです。
なので、"室町の上杉" ということで
五枚笹×5の "二十五枚笹バージョン" で作図してみました。
ついでに、雀ちょっとでかくしてみた。
片方くち開いてるとか可愛過ぎるからw

(※これは、仁王像狛犬と同様に
 「阿吽」(あうん。万物の初め(阿)と終わり(吽))
 を表したもの。 雀なのに、雀なのに…宇宙を…
 ちなみに
 「竹に雀」の家紋は、他にも色んなバージョンがあります。)




ところで、"上杉" というと
現在は「上杉謙信」があまりに有名過ぎて
一般的にイメージされるのは
室町末期、戦国期の "いち大名家" …というか
"新興の戦国大名の一人" みたいな位置付けがされているような気がしないでもありませんが
しかし本来、上杉家はもっと歴史が深い一族ですし
上杉謙信は、(鎌倉時代末頃から)上杉家の被官だった "長尾家" の出身です。
(※ちなみに、長尾家も歴史は長いです。)


…というのも
私が今さら、ちまちまと上杉の家紋を作図したもの
ここ最近「室町創生期」にどっぷり深入りした結果
"初期室町" における上杉の重要度の高さを、コテンパンに思い知らされたからです。
(当初、本サイト&当ブログでは
 「室町幕府の後半戦」をメインに想定していたので
 上杉の真価を半スルーしてた。 すまぬ…すまぬ… )



室町時代の上杉と言えば
上杉清子が、尊氏直義兄弟の母である事から
一族は、足利一門とはまた別の、特別な存在であった訳ですが
遡れば、上杉家は
もともと勧修寺流藤原氏、つまり京都の公家
鎌倉時代中頃、建長4年(1252)に
後嵯峨天皇の皇子宗尊親王が、鎌倉幕府の6代目将軍となる為
関東へ下向したのですが
その際、上杉重房が随伴していた事から
鎌倉との関係が始まります。

(※"上杉" を称するようになったのも
 この頃、上杉重房が丹波国の上杉荘を賜った事によります。)

(※それから、上杉家の家紋が「竹に雀」なのは
 その出自である勧修寺家の家紋が「竹に雀」(意匠はちょっと異なる)
 だったからです。
 (『尊卑分脈』上杉重房の注釈に「幕紋竹丸飛両雀」とあります。)
 ちなみに…
 現在、武家の家紋で
 似たような「向き合った雀と笹」の家紋をよく目にしますが
 これは、武家となった上杉家が繁栄し
 恩賞や親交の証として家紋を下賜することがあった為
 一族以外の武家にも広まったからです。)




さて、上杉重房の後は

 重房(1) ― 頼重(2) ― 憲房(3) ― 憲顕(4)
(しげふさ よりしげ のりふさ のりあき)(※他兄弟省略)


と続くのですが
このうち
上杉重房(1)の娘が足利頼氏に嫁いで
足利家時(尊氏直義の祖父)を産み
上杉頼重(2)の娘(=清子)が足利貞氏(家時の嫡男)に嫁いで
尊氏直義を産みます。
(要するに、上杉重房(1)から見ると
 足利貞氏はひ孫で、上杉清子はに当たる。
 んでもって、二人の子が尊氏直義。)



つまり、上杉家足利家の親密な関係は
鎌倉時代中期から始まっていた訳ですが
鎌倉時代の足利家は代々
執権北条一族から正室を迎えていて
北条家の母を持つ者しか、嫡男として家を継げなかったのに
上杉重房(1)の鎌倉下向を境にして
上杉家の娘が2代続けて、足利家惣領の側室となった上に
生まれた家時尊氏
"例外的" に家を継ぐ事になった、ってゆう。
しかも
家時と先祖の源義家「御置文」によると
もしかして義家が狙って生まれ変わって来てたくさい
…とかいう、私の脳内疑惑が濃厚な話まである
ってゆう。
(※この疑惑については、1年前のブログ記事
 「源八幡太郎義家」をどうぞ。)




そんな訳で
鎌倉幕府の特別有力御家人足利家の外戚となった上杉家
その後、京都では引き続き廷臣として
主に女院の蔵人を務める一方で
鎌倉では足利家の被官として
武家としての歩みを始める事となります。
(たぶんですが…どうやら兄弟で分業していた模様。)

尊氏直義の伯父である上杉憲房(3)
二人から厚く信頼される重臣であった事は
今川了俊の手記『難太平記』
上杉憲顕(4)宛の "直義自筆書状" に見える通りです。
(※この直義自筆書状については
 当ブログ「画像修正しました」の冒頭をどうぞ。)



ただ、上杉憲房(3)
建武3年(1336)正月27日
京都四条河原の合戦で討死してしまう為
二人の甥による新しい時代の幕開けに立ち会うことは
出来ませんでした (´;ω;`)ウッ…
この合戦は
足利軍の一度目の上洛で、一旦入京に成功した約半月後
再び京都撤退を余儀なくされた決戦で
官軍の激しい攻撃に

 「両大将御馬を進められて
  思し召し尽きたる御気色みえしほどに…」(『梅松論』)


つまり
尊氏直義が "決死の覚悟" をした、というほどの激戦だったのですが
しかしその時

 「勇士ども、我も我もと御前に進みて防戦し」
 「を捨てて、忠節を致しける」 (『梅松論』)

これにより
尊氏直義は、九死に一生を得た
という、スペシャル泣ける奇蹟の一戦だった訳ですが
この "勇士" のうちの一人が
二人のおじの上杉憲房だった、ってゆう (´;ω;`)

直義なんて、心が折れてしまいそうだったろうなぁ…と思う。
 上記の自筆書状によると、その後ずっと
 「(上杉憲房の討死に)万事力を落とし候て、悲歎無極
 だったそうな。)


今川了俊の伝える所によると
上杉憲房は、上杉家だけに伝えられた
(尊氏と直義は知らない)足利家時足利貞氏
とある "思い" を知っていたので

 「殊更、其人(=上杉憲房)骨を折りて河原合戦に討死しける」
 (『難太平記』)


だったそうだ。
歴代主君に尽くした上杉憲房…… 泣ける (´;ω;`)


(※以上は、本サイト『2-2』「西へ」辺りの話です。
 それから、この上杉家に伝えられた秘密
 上記の家時「御置文」
 (↑これは執事の高(こう)家に伝えられたもの)
 とも共通するもので
 他エピソードにも絡む核心ポイントですので
 気にしておいて下さい。)




さて、"室町の上杉" といえば
何と言っても
「関東管領」(※鎌倉公方の補佐役)と
「越後守護」としての顔ですが
これは、尊氏直義のいとこである
上杉憲顕(4)に始まる歴史です。

(※その他、関東の上野守護
 伊豆国、武蔵国、相模国なども重要です。
 上杉家は、室町幕府誕生時は
 京都尊氏直義に近侍する一族が一番多かったのですが
 二人の時代が終わった頃くらいから
 山内家、犬懸家、宅間家、扇谷家などに分岐します。
 これらの名字がみな
 鎌倉の地名に由来する事からも分かるように
 室町の最初期以降、上杉一族は "関東" を本拠地とし
 越後国はいち守護国、のちには京都に祗候する一族もいた
 という感じです。)


しかも、この上杉憲顕は徳治元年(1306)生まれなので
誕生年的には
 尊氏(1305)― 憲顕(1306)― 直義(1307)
となって
3人は年子みたいにきれいに並ぶ、ってゆう。

(※ちなみに、私の一押し足利高経尊氏と同い年。
 あ?しつこいだと? でもここ、後で超重要になってくるからっ)




まあ、上杉憲顕からしたら
尊氏直義は、あくまで "主君" なのですが
足利家上杉家は、どうやら家風がとても合ったようで
特に禅宗関連で、帰依僧に共通点が見られる…
というか、ほぼ一体だったんじゃないか??
と言っていいかと。
(※この辺の参考文献と詳しい話は、また後日。)


上杉家は、もともと京都の公家ですし
『上杉系図』には上杉頼重(2)について
「文武達者。歌人」とあることからも
代々京文化に精通していただろう事は容易に想像出来ますが
一方、孫の尊氏は…
これは良く知られた話ですが(それでもやっぱり意外ですがw)
趣味の域を超えたかなりの歌人であった事からも
両家の相性の良さが窺えます。

(ってゆうか、尊氏
 歌に超絶長けてた歌人将軍…どころか
 和歌だけを望みに生きていこう… (´ー ω ー`)
 とすら思っていた事があるっていう。
 なんて切ない将軍なのw)


つまり、足利家にとっては
上杉家は単なる被官ではなく、私的な親交が極めて深い間柄で
特に、直義上杉憲顕
信仰政道に見られる類似性から
おそらく、性格も良く似ていて
小さい頃から気が合ったに違いない…というのは私の妄想ですが
しかし
現存文書の内容をかなり突っ込んで分析すると
上杉憲顕は、相当に直義を慕っていたらしい
という事が改めて判明したりするw
(※これについてもまた後日。)


まあ、二人の信頼関係については
「上杉家文書」が有名なので
既に広く知られた事実で、誰も異論は無いと思いますが
この関係は、単なるほのぼのエピソード
…で終わるものではなく
『観応の擾乱』の真相究明で、超重要事項になって来るので
よく覚えておいて下さい。
上杉憲顕の行動から、直義の真意が読み取れる
 という意味で。)





という訳で
上杉家足利家のちょっと気になる関係について
簡単に述べてみましたが
実は、(わたし的に)最も気になるポイントは
両家の関係が
 「宗尊親王の鎌倉下向を機に始まった」
という点です。


というのも
元弘3年(1333)、鎌倉幕府が終焉を迎えたのは
足利軍が後醍醐天皇の勅命を拝し
執権北条一族に反旗を翻した事による訳ですが
これは
それまでの北条得宗家の専制政治に対し
御家人達の反感が限界に達していた、という事が
直接かつ最大の要因…ではあるものの
遡れば
皇族将軍である6代目宗尊親王足利家
さらには、京都の公家社会足利家の関係を一気に深めた
"上杉家の存在"
極めて重要な意味を持っていたのではないかと。

(※ちなみに、鎌倉幕府の将軍は
 6代目宗尊親王から、宗尊親王の嫡男である7代目惟康親王
 と続きます。)



この上杉家の位置付けを論じたのは

【田中大喜編『下野足利氏(シリーズ中世関東武士の研究 第九巻)』
(戒光祥出版)2013】
…の、第2部W
「田中奈保『高氏と上杉氏―鎌倉期足利氏の家政と被官―』2005」


という論文で、とっても興味深い&素晴らしい指摘満載です。
6代目宗尊親王の王女は
大覚寺統の後宇多天皇の妃となった永嘉門院という女性である事や
(※後宇多天皇はつまり…
 後二条天皇後醍醐天皇の父帝です(母は永嘉門院とは別))
それから
上杉家は代々女院の蔵人(※身の回りの日常諸事係)を務めていて
例えば、上杉重房(1)
式乾門院(四条天皇の准母で、宗尊親王を猶子とする)の蔵人
上杉憲房(3)(もしくは、兄弟の頼成)は永嘉門院の蔵人だった事
…などなど。

…これについては、系図により差異があるのですが
 私の予想では、永嘉門院の蔵人は頼成
  頼成が京都の廷臣上杉家憲房が鎌倉の足利被官上杉家
 をそれぞれ担っていたのでは? と思う。
 (もう一人、重顕という兄弟も京都担当だった模様。)
 理由は…
 上杉憲房は突出して尊氏側近としての活躍が目立ち
 重顕の子息には、京都公家社会との関わり見られるから。)

上杉家は従来
代々の足利家の家宰だった高(こう)家とは
同じ足利家の近臣的被官として
"並列的" に語られる傾向が強かったのですが
上杉は、その意味合いがかなり異なるのではないか
と結論付けられていて、うーんなるほど大納得です。




まあ、室町創生期前後の時期の
足利家にとっての上杉家の "位置付け" については
追究すればするほど
これまで思われていた以上に
『観応の擾乱』に深く関わって来る "実は最大級の鍵"
他にも紹介したい論文があるので
続きはまた後日に。
…という事で
今日は、両家の関係をビジュアル化しておきましたので
復習どうぞ。


上杉足利系図


二重線(=)は婚姻、点線(…)は猶子(養子)です。

上杉家については
上杉憲房は、姉妹の加賀局の子の重能重兼兄弟のほか
もう一人の女子と、加賀局自身も猶子にしています。
(おそらく、加賀局の夫勧修寺別当宮津入道道宏が没した後
 残された母子を、全員引き取って面倒を見たのでは、と思う。)

それから、重行上杉憲房の実子ですが
重顕の猶子となっています。

上杉憲顕の世代では、憲顕のほか
重能朝定(ただし朝定はちょっと若い)が特に重要ですが
この次の世代も含めて、続きはまた後日に。


足利家については
「足利一門の祖」を記入しておきました。
ここには記載し切れませんでしたが
鎌倉幕府成立時の足利家当主は、義氏たちの父の足利義兼
その兄弟の義清が、仁木・細川の祖となります。

桃井の祖については
父の義助が『承久の乱』で討死した後
子の義胤が、祖父の義兼の猶子となって跡を継いだようです。

石橋の祖
家氏の後で、庶長子の義利(石橋の祖)と
嫡男の宗家(斯波の祖)に分かれます。


足利泰氏の子については
本サイト『2-10』「愛しのへっぽこ公方様」の最後で解説したように

 長男家氏(斯波) 次男義顕(渋川) 三男頼氏(宗家足利)

の順番です。
家氏義顕の母が、名越流北条家
頼氏の母が、北条得宗家
…で、長男の家氏が家督に…と思いきや
大人の事情で三男の頼氏が足利を継ぐ、と。
なので
家氏の子孫は室町初期まで
「斯波」ではなく「足利」を名乗っています。
(先祖の官途から、尾張殿と呼ばれることもあった。)

渋川義季は、尊氏より9歳も下ですが
その姉は直義の室で、直義と同い年です。

足利高経は…高経です。


この世代は、年齢の近さといい
最も身分の高い尊氏直義めっちゃ性格良いし
みんな子供の頃から仲良かったんじゃないかなー
…というのは、私の妄想です。



ちなみに、足利義氏の娘が
四条隆親に嫁いでいるのですが
(時期はおそらく、1240年くらい?)
初代〜三代の将軍、源頼朝、頼家、実朝はもちろん
源氏はもともと、公家社会との縁は深い一族ですから
建長4年(1252)に宗尊親王に随伴して東下した上杉重房
不慣れな鎌倉で足利家との繋がりを求めたのも
ごく自然な流れだったと思います。
その時は
80年後の未来に待っている運命など、知る由も無く―――


ところで
ここでもう一言突っ込んでおきたい事があって
"室町幕府創生" というのは
尊氏直義たちの人望と奮闘によるものですが
しかし、その大前提となる
"鎌倉幕府終焉" というのは
これはやはり、後醍醐天皇の存在と行動力無しには
起こり得なかった歴史だと思います。
そして、さらに元をたどれば
後醍醐天皇の討幕の意志と、もっと言えばその帝位・存在自体が
鎌倉後期に始まる
後深草天皇を基点とする「持明院統」と
同母弟の亀山天皇を基点とする「大覚寺統」という
"皇統の分裂" に起因する事を考えると
「室町幕府の誕生」というのは
ここまで因果をたどる事が出来るのではないかと。


上で私は、上杉家と足利家の関係について
「宗尊親王」が最も気になる…と言いましたが
これはなぜかと言うと
なぜかと言うと…
宗尊親王後深草天皇亀山天皇は―――
みな後嵯峨天皇の皇子、つまり兄弟だから!!
(※宗尊親王のみ、母が違います。)


 (;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) な、なんだってーーーーー!!?


ってことは… つまりあれですよ!!
すべてはここで始まっていたって事で
上杉重房の下向も、足利家との出会いも
室町幕府は80年前に描かれていた既定の世界線でしかなく
尊氏直義が生まれた時点というのは
準備の整った舞台に、主役が降り立った "仕上げ" だったという訳で
半世紀の時を経て
整然と噛み合った無数の歯車が一斉に回り始めた
つまりは、「天のシナリオ」でしかなかった訳で―――



…とか考え出すともう Σ(||゚Д゚)ギャアアァァァーーーーー
ですが
まあでもしかし、室町幕府
近代になってから本当に酷い否定のされ方をして来たので
本当は
 「室町幕府こそ、天に定められた運命だった」
という事になれば
この時代を見る目も一層変わるのではないか、と
密かに期待しています。



え、史実妄想主義とか言ってるくせに
妄想分が暴走し過ぎですか?

ところで、みなさんは
未来は決まっていると思いますか?
私は、まあ大まかな輪郭くらいは存在していて
でもそれは、小さな誤差の蓄積で日々描き直されてゆくもの
少し先の未来となると
原型はあまり意味を持たないんじゃないかなぁ
…という凡人の発想でしたが
しかし
「室町創生期」という時代を調べていて思うようになったのは
こんなにも、偶然にしては
あまりに出来過ぎた奇蹟が重なり合った時代が実在したのなら
やっぱり未来は決まっていて
ならば、それを知っていた人間ももしかして―――


…おっと、今日の所はこの辺にしておこう。
妄想解除、妄想解除っと。
まあ、一言だけ先走っておきますと…
室町というのは、思った以上に "本物" ですよ。






さて、「家紋」の話がまだ終わっていませんでした。
では、ちょっと急ぎ足で
その二、八幡宮の神紋「三つ巴」(みつどもえ)です。


八幡宮神紋


「三つ巴」には
"巴" の回転方向が逆の、左巴右巴がありますが
これは左巴になります。
(※『見聞諸家紋』による。)

八幡大菩薩については
本サイト&当ブログでちまちま語っているので
まあいっか、という事で
夏休みの宿題 "第2段" 「家紋シリーズ」追加分の発表でした!
(投げやりで本当にすみません。)



ちなみに、背景の金魚がとってもかわいいですが
これは、私が使っているペイントソフトの
公式HPで公開されている素材
上の「上杉家紋」と「上杉足利系図」の背景にも
同様の素材を使用させてもらってます。
(※主に、ブラシツールや背景パターン素材。)


いや〜クオリティ高過ぎ
毎回コーヒー吹く!!
この場を借りて御礼言っとこ、どもども m(_ _)m
らくがきしているだけで楽しいんですよ、ホント。

ってか、そんことばっかやってるから
宿題が先に進まない、と。
まあでも、今日は何とか
全国の小学生全力疾走の8月31日に間に合いました。

ずさーーー⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡≡≡ーーーーーっっっ



posted by 本サイト管理人 at 23:59| Comment(0) | ★チラ裏観応日記