2015年11月03日

直義の年齢(その2)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、という訳で
『チラ裏観応日記』「直義の年齢(その1)」の続きです。


さて、直義の年齢がはっきりしてすっきりした所ですが
尊円親王による「冥道供」の記録には
もう少し興味深い話が続きます。

(※以下、出典は『大日本史料』貞和4年正月18日の
 『門葉記』(もんようき)の記録。
 『門葉記』は、『青蓮院門跡』に伝わる平安以来の寺務記録を
 尊円親王が編纂した書。)



貞和4年(1438)正月18日から20日まで
三夜に渡る修法を終えた尊円親王
翌日、施主の直義へ巻数(かんず。祈祷の報告書)を贈ると共に
治天の君である甥の光厳上皇(こうごん じょうこう)へも
"内々に"(=こっそり)
直義の厄年の為に行った「冥道供」についての報告をしました。

(※治天の君(ちてんのきみ)…
 院政において、実権を持ち実際に政務を執り行う上皇のこと。)


これはなぜかというと…
 「甚深旨趣 定叶時宜歟之間 進上之」(『門葉記』)
つまり
 「(直義の抱く)祈祷の旨趣(=心中の所存)が
  とっても深いものなので
  きっと上皇のお気持ちに添うだろう〜」
と思ったから。


では、この祈祷に際し
直義が心中、どんな思いでいたかと言うと…


「今年は自分の厄年ではあるが、祈祷は決して
 (自ら進んで)こいねがうものであっては、ならないと思う。
 本来は、精一杯 "無私" の心でいる事が大切で
 に味方するのならば
 そうする事でこそ冥助(=神仏の助け)が得られるのだと思う。
 もしまた、不徳の身天心(=天子の心)に違(たが)うのならば
 その時はいよいよ、願い求める事をしてはいけない。
  …(中略)…
 そういう訳で、今度の祈祷では
 天下静謐
 禁裏(光明天皇)と仙洞(光厳上皇)の宝祚(=皇位)が
 長く続く事
 これを以て、私の所願円満としたい」



( ゚Д゚) <…

直義ぃぃーーーww お前はどこまで清いやつなんだよ!!www
厄年の祈願なんて
普通に考えて、個人の安全と幸せを願うものなのに
なぜか天下の幸せを祈り出すきよきよ侍足利直義
毎度、凡人の発想をいとも簡単に突き破ってくれる
予測 超 不能な所があって、尊氏とはまた別の意味でミステリアス
しかも「の願いを叶えたいなら、無私に徹する事!」
とかいう、常人にはパラドックスでしかない事を真顔で言ってのける
尊円親王もこれには

 「願念無私令感心者也」 ( "無私" の願念とは感心した!)

と感想を記していますが
実は、直義はこのように

 個人的な願いを、天下への祈りに昇華してしまう

という、天性の菩薩気質があるのです。
(他の事例は後日紹介しますが
 直義は本当に、驚くほど根っから清いです。)



この心の綺麗さには、もう史料を見るたび泣けて来ますが
なんか…
直義には "私" の概念がそもそも無かったんじゃないか??
とか疑いたくなってしまうw
人間離れし過ぎていて
(私も含めて)心の汚れた現代人には、そうそう理解し得ない性格かも知れませんが
しかし、直義の行動原理を解明する上で、極めて重要な一次史料的論拠となるので
よくよく心に留めておいて下さい。


例えば、『観応の擾乱』では
 「直義は、自身の覇権の確立という "私的な野心" を抱いて
  兄尊氏から幕政の全権限を奪う事を目標としていた」

といった説がたまにありますが
直義がこのような考えを抱くという考察は
一次史料の事実に反する非学問的・非論理的なものです。
学問における考察には
史料に立脚した論拠が無くてはならないし
史料の事実と矛盾しない、精緻な論理立てが無くてはなりません。
ただ一般論で通常の人間が抱く欲を、直義に当てはめても
真相を得る事は不可能
という訳です。






ところで
この一連の「冥道供」エピソードで
もう一つ特筆したい点があって、それは…

 祈祷目録が、将軍尊氏の自筆だった」

というものです。
おそらく、依頼の際にそれを見ただろう尊円親王
 「これはただ事じゃないなり〜 (´・ω・`) 」
となったと思われますがw
直義の「重厄」の祈祷に際し
尊氏がわざわざ自筆を染めた理由は偏(ひとえ)に…

  直義心配だったっから

そういう事になります。
な…、なにその良い話ww (´;ω;`)ブワッ



しかし、貞和4年(1348)といえば
『観応の擾乱』が始まる貞和5年(1349)の前年
一般には
 「尊氏派直義派の対立が年々悪化して
  遂に二人は決裂『観応の擾乱』の勃発となった」

との解釈が主流ですが
なんか…すごい矛盾する…??


直義の厄年なんだから、もし幕府が
尊氏派直義派なるものに分裂していたのなら
祈祷の諸事には直義側の人間しか関わらないだろうに
思いっ切り尊氏が首突っ込んでる…って
どう考えてもおかしいでしょ!!
しかもなんで準備段階から把握してんの!!
…と言いたいとこですが
実は、おかしいのは従来の説だった、ってゆう。



つまり、以前
「暑中御見舞い申し上げます」述べたように
幕府が分裂したから『観応の擾乱』が起きたのではなく
『観応の擾乱』が起きたから幕府が分裂してしまったのであって
「擾乱以前の幕府の分裂」という現象は
実は… 存在しません。
解釈の誤りによって生まれてしまった幻想です。

局所的には、意見や方針の対立はあっただろうし
気が合わない…なんてのも大いにあったでしょうが
結局その程度であって
基本的に幕政は、直義頂点に構築されていました。

(しかもこれは尊氏の意向であり、直義は…
 実は、それを望んでいなかったのです。
 それでも、兄尊氏が望むのならと
 全身全霊で政務に励む直義
 なぜ尊氏は、直義が頂点に立つ事を希望したのか?
 直義本心で望んでいた幕府の形とは―――
 この辺はかなり泣ける話なので詳細は後日 (´;ω;`) )



『観応の擾乱』の原因は、幕府の分裂ではなかった

というと、かなり衝撃的で
ただのインパクト目当てトンデモ逆説
…にしか聞こえないと思いますが
しかし、一から史料を読み直して純粋に論理的な解釈を施すと
本当にこの結果が導かれますw

と言うのも…
『大日本史料』をはじめとするこれまでの研究成果
膨大な史料の収集・分析・解読
計り知れない労力を費やされた非常に価値が高く素晴らしいもので
私も多大な恩恵を受けており、感謝しきりなのですが
(特に、古文書・古記録翻刻&解読は…
 あれは人間業じゃない、拝みたくなる凄さww)
ただ…
それを元にした一部の解釈では
どうも "現代の" 一般論感情論を当てはめ過ぎなものがある…
というか、史料からの推論ではなく
 「人間はこういうもの!」(権勢欲金銭欲が第一!)
という画一的な価値観で全てを説明しようとしてしまっていたり
(人の性格はそれぞれ違うので
 史料から慎重に読み解く必要があります)
あるいは…
 「野心に燃えて、旧来の道徳秩序を破る覇者こそ
  理想の存在

という一部の現代人的な願望
当時の人物に "投影" して歴史を描いてしまっているので
史料そっちのけで想像が先走り
フィクションに近くなっている…のがある…


もちろん、厳密に史料に準拠し
高度に論理的な思考、あるいは鋭い慧眼
当時の真相を見抜いた見事な考察は少なくないのですが
(これらの考察には、私も多くのヒントを貰いました。
 早く全部紹介したいです)
しかし な ぜ か
そういうものの方が埋もれてしまっている!!
…ような気がする。 なぜなの??ww


人は、目の前の静寂な真実より
例えば○○史観のような喧騒の虚構
魅せられてしまうものなのだろうか?
(ってか、実際そうだよねw
 ○○史観って、人を変な興奮状態にさせて正常な判断力を奪う。
 恐るべし、恐るべし… )



まあとにかく
考察の上で重要なのは
 「道理を見失わない」(=当たり前の事を当たり前に考える)
という事だと思います。
歴史解釈に、現代人特有の想像を持ち込んだり
人の行動原理を
理性を排除し、合理性だけで説明しようとするのは
道理に外れています。
特に…
 「近親者は絶対憎しみ合い血みどろの争いをするもの!」
という骨肉史観(…とでも言おうか)は、うーーーんww
かなり歪んでいると思います。
他者には分からない深い情愛というものも
存在するのですよ。




あらやだ.*:.。.:*・゚(n‘∀‘)η゚・*:.。.:*☆話が逸れたわ〜〜!!!!!




さて、だいぶ話が斜めって来たので元に戻しますと
「冥道供」を終えた尊円親王
"内々に" 光厳上皇に事の次第を報告した翌日
早速、上皇から御返事が届きました。
内容は、尊円親王の報告にとっても喜んだ事
そして…


「(祈祷に際しての直義)旨趣(=心中の所存)は
 誠に "無私清潔の至り"
 天下の為にこれほどの喜びはありません。
 "天下は元来、天下の(ための)天下であり"
 それゆえ武家の安寧は、天下安全の源であると
 私は偏(ひとえ)にそう思い続けていましたが
 彼趣(=直義の思い)もまた互いに相通じたものでした。
 ならば、(今度の祈祷の)冥感が得られない事が
 どうしてあるでしょうか。
 本当に、心から嬉しく思います。」

(※冥感(みょうかん)…信心が神仏に通じること。)


…… (´;ω;`)
って、なにそのスペシャル良すぎる話!!!
つまり
 「我が心が天心(=天子の心)に違(たが)うのなら
  神仏の助けは得られない」

と考えていた直義に対して
 「私も常日頃から(天下武家に対して)同じ思いでいました」
と、言葉も交わさず心を通ずる奇蹟の君臣
もう (´;ω;`) (´;ω;`) (´;ω;`) なんなの!!


しかもこれ、光厳上皇直義の直接のやり取りではなく
尊円親王を介したものなので
お世辞や社交辞令ではないのですよ。
そもそも光厳上皇に伝えたのは、尊円親王独断ですから。


こっそり粋な事をする尊円親王かなりグッジョブ!!な訳ですが
(ちなみに、尊円親王
 わりと歯に衣着せない感想を記していて面白い御方です)
実はさらにこのあと
直義との間で取次ぎを担当している僧光惠に書状を遣わして…

「先日、(直義の旨趣の)話を聞いて
 めっちゃ感激したから、内々に上皇に伝えたら
 こんな御返事が届いたよ!
 この勅報を "密々に" 進覧するから
 頃合を見て(直義に)伝えてあげてね〜」

と、さらにグッジョブを重ねる尊円親王でありました。
この続きの記録はありませんが
光惠から話を聞かされた直義は…
たぶん、一晩中泣いちゃっていたことでしょうw




菩薩帝☆.*:.。.:*・゚(n‘∀‘)η゚・*:.。.:*☆キタワァ〜〜!!!!!




それにしてもどうですか
この光厳上皇卓越した思想は。

 「天下は元来、天下の為の天下であり
  武家と力を合わせて天下泰平を実現したい」


朝廷の優越性とか朝家の権威高揚とかそんなんは二の次で
天下万民の幸せが一番に大事だと
その為には、武家との協力が何よりも大事だと
そう悟られている訳ですよ。


さすが、花園帝から史上最高の帝王学を受けた帝は次元が違う…
と言わざるを得ませんが
(※花園帝が皇太子時代の光厳上皇に授けた『誡太子書』については
 当ブログ「畠山義就(その6)」の前半で少しだけ触れています)
実は、光厳上皇
自身がどんな凄惨な苦境に陥ろうとも
本当に最後まで自分以外の "すべての民" を優先した
"無私" の極地をゆく菩薩帝なのです。

(それなのに、事績が全然知られていないって…
 ちょっとかなりどうなのよ (´・ω・`)
 ちなみに、この "すべての民" には… 尊氏も含みます。
 『観応の擾乱』の際の、北朝に対する尊氏の行動は
 かなり酷いものだと思われていますが
 これもすべて、真相は別のところにあります。
 詳細はこの先少しずつ。 これまた涙腺崩壊案件です。)



当時の日本のトップは、日本一心の綺麗光厳上皇直義だった
とかもう、なにその奇蹟ww (´;ω;`)
いや、わろてる場合じゃなくて
本当にそんな時代があったんですよ。




現代の一般的な歴史認識では
 「朝廷武家は、天下の支配権をめぐって対立するもの」
という
万民そっちのけの "天下私物化" 的な解釈が支配的で
それゆえ
 「武家朝廷から天下を奪ったとか
 「天下天皇のものだから、武家から取り返さなければならない
とかいう
低次元な論争(おっと言い過ぎたw)になっている訳ですが
しかし、当時の北朝武家の考え方は
文字通り 次 元 が 違 う 高尚なものだったのであり
これが本来の日本の有り方なのだと思います。


そもそも、当時の武家民衆から圧倒的な支持を受けていて
将軍ってのは(特に尊氏は異常にw)民から愛される存在でしたから
武家の排除という考え方は、もろ民意の逆を行く圧政な訳で
それを正当化するって… 民の事全然考えてないよね、ってゆう。


(この「天下は天皇のもの」「武家はそれを奪った逆賊」
 という捉え方は、つまりは
 近代以来の思想「○国史観」な訳ですが
 江戸時代終焉以降、つい70年前までの一時期
 この国ではこの思想が正しいものだとされていました。
 (そしてその結果、大変な事になりました。)
 今一度
 本当に道理人道に適った正しい考え方
 歴史の中から探し直す必要があるでしょう。
 万民の為の天下を願って力を合わせた北朝室町幕府
 「無私清潔の至り」(『門葉記』)である理念が
 今こそ見直されて欲しいです、はい。)



ちなみに、「天下の天下…」というのは
『六韜』(りくとう)の「文韜」にある言葉です。
(※『六韜』については
 本サイト『2-9』「愛読書は、『六韜』『三略』」をどうぞ。)

「天下は一人の天下に非ず、すなわち天下の天下なり
 天下の利を同じくする者は、則ち天下を得
 天下の利を擅(ほしいまま)にする者は、則ち天下を失う


(天下は君主一人のものでは無い。
 天下万民の天下である。
 天下の利益を万民と共有する君主は、その地位を保ち
 天下の利益を独占する君主は、その地位を失う。)


過去の賢人から学ぶ事の大切さを
当時の正しい為政者は知っていた、という訳です。





では折角なので
さらにイメージを膨らませてもらう為に
北朝室町幕府が歩みを始めた建武3年(1336)から
12年後のこの貞和4年(1348)での各人の年齢を列挙しますと…


光厳上皇 24歳 → 36歳
光明天皇 16歳 → 28歳

足利尊氏 32歳 → 44歳
足利直義 30歳 → 42歳

花園法皇 40歳 → 52歳
尊円親王 39歳 → 51歳

夢窓国師 62歳 → 74歳


(※夢窓国師以外はそれぞれ兄弟、上から…同母、同母、異母です。)
(※花園帝・尊円親王の異母兄が後伏見天皇(建武3年(1336)崩御)で
 光厳上皇・光明天皇兄弟の父上です。)
(※花園帝は、この年の11月11日に崩御。)


光厳上皇直義の年齢を見てもらいたいのですが
とにかく、若い!!のですよw
あまりに無私菩薩なもんだから
二人ともどんだけ人生経験積んだ仙人なんだよ…とか思いきや
これですよ。
若くて清くて正しくて、美しいほどの信頼関係を持つ
この治天の君幕府のトップが新しい時代を担っていた…って
なにその綺麗過ぎる話www
どうです、史実妄想が捗って仕方ないでしょう。

光厳上皇は、尊氏直義より年下…とか
 光厳上皇が薫陶を受けた花園帝は、16歳上でしかない
 とかも、わりと意外な点かと思います。)


もちろん、主君を支える重臣には年配者がいたでしょうが
やはり、彼らの親世代である夢窓国師
政治面でも精神面でも、実際親のように二人を支えていたようです。
まあこの辺の話は、また追々。
室町幕府創生期というのは
あらゆる方面の美しさが詰まった魅惑の時代です。





ところで、尊円親王
伏見天皇の皇子で天台宗の僧であるだけでなく
入木道(じゅぼくどう。=書道を極めた能筆家でもあます。
いわゆる「青蓮院流」の始祖であり
実は、今も昔もこっち方面での顔が頗る有名です。
そしてその関係で
これまた尊氏直義が絡む
スペシャルエピソードの記録を残してくれているので
楽しみにしていて下さい。
一見ハートフル、しかし尊氏直義の心の奥を覗くと
胸が締め付けられるような話です (´;ω;`)ウッ…





直義妄想☆.*:.。.:*・゚(n‘∀‘)η゚・*:.。.:*☆ラストターボよ〜〜!!!!!





さて、気になる点をもう一つ。
この直義42歳の「冥道供」
その詳細な記録を見ても
相当万全の体制で臨んだものだっただろう事が想像されますが
しかし―――
尊円親王が依頼を受け取ったのは… なんと予定日の3日前だったw


この当時、尊円親王は京都の『青蓮院門跡』ではなく
近江国の坂本(比叡山の東側の麓)に滞在していて
「冥道供」もそこで行われたのですが
これは、その頃紀伊方面で南朝との軍事衝突が再燃していて
座主門主は、天下静謐の祈祷に勤しむ為にも
安全な坂本へ移動するよう、幕府から通達があったからです。

僧の光惠が幕府に呼ばれて
京都で依頼の内容を聞かされたのが正月14日
その光惠から、坂本尊円親王に書状が届いたのが15日の昼過ぎ
そこから初日となる18日の夜に向けて
急遽準備が始まった訳ですが(※18日は幕府側が指定した日)
16日の夜に支具物が到来し、そっから壇所の用意…
とかいうスケジュールで
その様子を聞いた尊円親王も思わず記録に書き残す…

 「卒爾至極也云々」(『門葉記』)
 (※卒爾(そつじ)…にわか、出し抜け、突然なこと。
  軽率、軽はずみなこと。)

つまり
 「ちょ、なにそれ(あわただ)しいなの〜 (´・ω・`) 」

って、そらそうよねww




それにしても、3日前とは
直義にしては計画性に欠ける…ような気がしますが
これはどうやら、こういう事だったようです。



上記の(祈祷に対する)「直義の旨趣」をよくよく読んでみると
そもそも直義は、自身の安全を祈願する「重厄」の祈祷
あまり乗り気じゃなかった(本当言うと嫌だった)事が窺えます。
根本が "無私" の直義にとっては
"私" の祈願は、どこか恥ずかしく罪悪感が伴うものなのでしょうw


この(半ば弁解に近いw)「旨趣」
決して自分の利益(りやく)を期待した祈願では無い事を
(書状ではなく)口頭で詳しく伝えたいがため
坂本の尊円親王のもとへ
18日の祈祷初日(※夜開始)の昼過ぎ、つまり直前
京都から遙々(はるばる)光惠を遣わせて、直接告げたものでした。
曰く

「元来、冥助を望むなら無私でなくてはならない。
 不徳の身なら、祈願するにも及ばない。
 しかし、将軍(=尊氏)から自筆の祈祷目録を賜ってしまったので
 その命を黙止する訳にもいかず
 思案の末
この度の祈祷では、天下の安泰を祈りたい」

(※上述の「直義の旨趣」の「…(中略)…」部分に
 尊氏の自筆祈祷目録の話が入ります。)


つまり
今回の「冥道供」は初めから尊氏の勧め(というか命令だった
という事になります。

おそらくは…「重厄」の祈祷を勧めても
あくまで渋る直義に対し
尊氏が日時を指定し、祈祷目録を自筆に記して
将軍命令で半ば強引に遂行させたので
こんな慌しい事になったのではないかと。

(※前回「直義の年齢(その1)」で紹介したように
 尊氏の42歳時の最初の「重厄」祈祷が
 前年末から年を跨(また)いで行われたものだった事を鑑みると
 直義は… 相当渋り続けたと思われるw )



"自分の幸せ祈願" をとことん嫌がる直義かわいいw
とか思ってしまいますが
(しかも、どうしても嫌でギリギリまで一生懸命考えた挙句
 「そうだ!天下と帝に捧げよう!」とかもう、なんなのww
 「重厄」関係なくなってんじゃんwww )

しかしそれよりも
尊氏の熱意に目を見張るものがある、と思います。




尊氏というのは
これは尊氏好きならよく知っている事だと思いますが
直義に強く言われると… 断れないんですよw
いつも「…うん、分かった」ってなっちゃうんですが
ただし、これを以て
 「尊氏は意志が弱いとか
 「直義は、人の良い尊氏を振り回していた
とまで言われている事がありますが
それは違います。


実は、直義の知らない所では
独自に現状を察知
すべて自らの意志で指示を出していた(ただし良い意味で)
というくらい、しっかりした意志の持ち主です。
尊氏は、戦時の先読みに優れた軍師兼任将軍ですが
一方平時でも、いわゆる "方便" を使って
"誰にも気付かれないように"、事を円満に解決してしまう
 (…これは、誰も傷つけたくないが為です)
という特殊能力を秘めた将軍だったのです。 (;゚Д゚) !!!???

(それゆえ尊氏は、情報にも敏感で
 常に最新の情報を得て
 誰よりも正確に、広範囲の状況を把握しています。
 いわゆる「すべてお見通し」というやつです。)



一般的な尊氏のイメージでは…

政道を直義に譲ってからは
それらの事に無関心で、問題が起きても無責任
(誰にでも優しい…から)気が弱い
大らかで細かい事を気にしない…つまり)物事深く考えない
人が良い…ので)乗せられ易く騙され易い

といった感じだと思いますが
 (※注意…カッコ内は本当です)
これは、尊氏の "表の顔" にまんまと惑わされていた訳で
 (でもそれは尊氏の思う壺なので、悪い事ではないですw)
実際は
すぐに嘘を見抜いてしまうので誰にも騙せない
 (ただし騙された振りはするw 優しいから)
極めて鷹揚で、何事にも動じない強さを持ち
そして "裏の顔" も、その才能を悪い企みに使うんじゃなくて
良い企みに発揮していたのだから
こんなに天下万民に有益な将軍はいないですよ、ってゆう。


(実は、幕府開始から『観応の擾乱』までの13年間
 平穏が保たれ、直義が幕政に専念出来たのも
 尊氏が裏で手を回して気を配っていたからなのです。
 直義みたいに心が綺麗過ぎると、人を疑う事を知らないので
 清濁 "濁" に対して、余りにも弱いですからw
 具体的事例はこの先紹介していきますが
 尊氏が一見、なんか間抜けっぽい(失礼w)イメージだったのは
 まさに…
  「大賢は愚なるが如し」
 (非常に賢い人は知識をひけらかさないので、一見愚かに見える)

 だったから、という訳です。
 つまり…頭良すぎなんですよ。 この尊氏の本性に気付くと
 『観応の擾乱』の真相解明が一気に加速します。)




あーさて
気を抜いたら尊氏情報にターボがかかってしまったので
話を戻しますと
つまり、そんな意志の強い尊氏がいつもつい
直義の言う事に折れてしまうのは
私が思うに
 「嫌われたくなかったから」
なのでしょうw
ちょっとくらいの不都合は、裏でいくらでもフォロー出来ますから。
 (直義がやる事は、正しいのだが大胆過ぎるのでw)
だからこそ、直義自身の安危に関わる事では
今回のように、決して譲らない強引さを見せるのではないかと。

(…と、いう事は
 直義の希望に反して
 直義が幕政の頂点に立つ事を、尊氏が決めたのは
 これもまた "直義の安危" に関わる… おっと、今はこの辺で。)




と言っても
直義が尊氏を「本気で嫌いになる」なんて事は有り得ないんですが
(これはまあ、色々と大量なエピソードが示している事実)
しかし、どうやら…
(絶対信じられないと思いますが)
子供みたいに(す)ねる事はあったようです。 た、直義がww

あの天上界の住人の如く精神の超越した菩薩侍直義
心を乱している…!??

みたいな、信じられない一次史料的事実(これ自体は有名です)があって
その理由を徹底的に探ったら… 原因は尊氏だった
という衝撃の案件がありますので
今からお茶飲んで心を落ち着けておいて下さい。





この「重厄」祈祷の一件でも
あんだけ嫌がってたのに
尊氏の自筆祈祷目録であえなく服してしまったように
直義は最初から最後まで
徹底して尊重していました。

それから前回の「直義の年齢(その1)」で少し触れましたが
直義の養子というと
ちょと立場が特殊な直冬だけが有名ですが
(※直冬が直義の養子となったのは、おそらく少年期以降
 一般には、尊氏の同意が無かったとされる(が…))
しかし、もともと尊氏は
なかなか子供が出来ない弟のために
ごく幼少期から、基氏だけでなく女の子まで養子に出していた
というのは、二人の肉親としての深い繋がりを示す
注目の事実です。



つまり…
直義がより自分を優先するような事は本来有り得ず
尊氏もいつもはひたすら甘いのに、安危に関わる時だけは厳しい。
幕政の支配権なんぞでひびが入るような関係の兄弟では無い訳です。
(それは、何も知らない他者の安易な誤解です。)




まあ、直義に関しては
『観応の擾乱』最中での
観応元年(1350)から観応2年(1351)早春にかけての戦で
尊氏派に大勝したのに、尊氏を完全ノーペナルティで許した
…それどころか
懇(ねんご)ろな饗応(=酒宴でおもてなし)で大歓迎したw
という不思議な事実があって
(ただしこれは、この戦の真相を知れば当然…というか
 許す許さないの問題ですらないのですが。
 ちなみに「夏休みの宿題(その4)」中盤余談で話した戦の事です)
この一件から

 「直義心から慕っていた

との解釈を導いている論説はわりと多いのですが
(…ただし「にも関わらず尊氏は、その次の戦で勝った時
 直義を許さず毒殺したので冷酷」と続くものが大半ですが)
実は他にも
これを上回る "直義従順エピソード" があって
これがまた…w



これは、史料自体は
知っている人は知っている…くらいの知名度の
文化方面のもの(しかも錚々たるメンバーの一級品)で
今の所、これに考察を加えた優良論文が2つほど
ただし全容解明はされていないので、私もそれらを参考に
この "詩" の意味&背景をうんうん考えていたら―――
初めは感動に堪えなかったのですが、最後のオチで茶ぁ噴いた。

 世の中に、こんなに可愛い弟がいていいのだろうか??

って内容だったからwww
もう、泣いていいのか笑っていいのか分からない (´;ω;`)ww

(直義はあまりに真面目過ぎて
 一周回って面白くなってしまっている
 というのが、私が極度に直義好きである理由の一つです。)




おそらく、あれに気付いた人間はまだ誰もいまい… しめしめ
(たぶんw わりとかなり難解なカラクリなので。
 詳細は例の如く後日ですみません。)

それにしても
なんでここまで??…と思わずにはいられない従順さなのですが
私は初め、直義の性格から察するに
「長幼の序」をあくまでも厳密に遵守、という
"礼節" の一環なのかなー
と思っていたのですが
それにしてはちょっと度を越えているんですよ。
理屈じゃ説明付かないこの愛着の正体は一体…
そこで思った。 ピコーン
子供の頃、相当尊氏に可愛がられたのではないかとw




一般に、武家の兄弟と言うと
育った場所が別だったり、兄弟が多かったり
あるいは乱世の為に安住が叶わない、という環境に育ったりで
なんとなく "疎遠" なイメージが強いかと思います。

例えば、鎌倉幕府の初代源頼朝のように
多兄弟で、幼少時に『平治の乱』を失い
残りは流罪出家隠遁で兄弟ばらばら
そのまま20年の年月を過ごし
治承の挙兵、いわゆる『源平合戦』では
心を共にしつつも、それぞれの地に戦いそれぞれに討死し別れて行く
…という悲し過ぎる境遇が良い例です。 (´;ω;`)ウッ…


しかし、尊氏直義の場合はと言うと…かなり状況が違うのですよ。
子供の頃は、大きな戦が起こる事も無く
鎌倉でごく平穏な日々を過ごしていた訳で
(もちろん、"大人の世界" では
 神経すり減らす毎日だったでしょうがw)
北条一族が仕切る幕府の中で上手く生き残る為に
足利家と他の一門家臣達は団結していたでしょうから
彼らの子弟達も、極めて良好なほのぼの関係だったと思われます。
(これは、倒幕挙兵以降の強い結束力に表れています。)



そして、歳の離れた異母兄の高義(尊氏の8歳上)の他は
たった二人の兄弟で
しかも高義は、尊氏13歳・直義11歳の時に早世。
さらに―――
ここで、将軍となってからの尊氏の世評を思い起こして欲しいのですが
敵すら我が子という寛大さで
慈悲の深さは果てしなく
人の嘆き無しに天下が治まる事が本望(『梅松論』)
という
老若男女あらゆる人々を "愛さずにはいられない"
天下丸ごと溺愛将軍だった訳ですが
しかしそんな将軍尊氏も…
ごく幼少の砌(みぎり)は
自分より小さくて弱くて守れるものって、弟だけだったのですよ。

つまり、子供の頃の直義は
のちに天下に椀飯振舞される事になる尊氏の無尽蔵な愛情

 たった一人で一身に受けていた

という事になります。




そろそろ☆.*:.。.:*・゚(n‘∀‘)η゚・*:.。.:*☆まとめよ〜〜!!!!!




という訳で、ここでようやく
前回の「直義の年齢(その1)」で予告した

 「年子より2歳違いくらいの方がネタ的においしい

という私の妄想研究成果が生きて来る訳です。
1歳違いだと、あまり兄弟の差って実感出来ないのですが
子供の頃の2歳違いはかなり大きいですから
の立場がいい感じに… はっきりする!!
これは間違いなくネタ的に (゚д゚)ウマーーー!!

という訳で
直義の年齢がめでたく最終確定した記念の一枚です。


尊氏直義


1308年、満年齢で尊氏3歳直義1歳の頃
…のつもり。

ちょっと妄想が過ぎるんじゃないのぉ〜??
と思われるかも知れませんが、だ、大丈夫です。


史実妄想主義の第一人者である私が
 (↑もっとすごい方いたらすみません)
去年のちょうど11月に、"直義の最期の謎" の一端に気付き
そこから『観応の擾乱』攻略冒険に旅立ってから1年
出発当初は躊躇(ためら)いのが遥かに大きかった "この結果"
確信が持てるようになりました。

真相と反する妄想というのは
その人物の気持ちを無視する事になってしまうので
私はどうしても出来ません。
だから必死に史料&文献を漁って史実を追究しています。


つまり "この結果" とは
幼少期のみならず、この関係が大人になっても変わらなかった
という事を意味する訳ですが
『観応の擾乱』の真っ只中
尊氏は実際、直義をどう思っていたか?…という事について
現代の解説ではほとんどが
敵意憎しみ冷たさで語っていますが
一応、直接言及している史料があって

「おなじ御兄弟ながらも、あはれなる御志どもにて…」(『難太平記』)
 (同じ兄弟でいながら、愛情深くいらっしゃったので…)


これはまあ、前後の文脈も重要な部分ではありますが
尊氏自身の発言をもとにした今川了俊の証言なのに
なぜか全く考慮されていない…
なぜ?ww でもこれ核心突いているんですよ、うん。



ちなみに尊氏は…可愛いものめっちゃ好きなんですがw
そうするとおそらく
ちっこい直義は、毎日ぐるぐるに可愛がられていたに違いない…
そりゃあ、尋常じゃない(なつ)き方するよなぁw ってゆう。






建武2年(1335)12月
一度は出家を決めた尊氏が一転
直義の救援に立ち上がった時の言葉

「若し頭殿命を落とさるる事あらば、我又存命無益也」(『梅松論』)

直義が死んじゃったら、俺生きてる意味ねぇぇーーーーー!!


(※頭殿…左馬頭殿(さまのかみどの)、つまり直義のこと。)
(※前後の事情は本サイト『2-2』「さよなら、俺らの聖地鎌倉」を。)


これは、当時の二人の強い絆を示す記録として有名であると共に
その後の決裂と毒殺という悲劇の結末から
結局は過去の、"消え去った愛情"
と捉えられていますが
しかし実際は―――
この言葉にこそ、すべての真実が凝縮されていると言ってよく
本当に、最初から最後まで何も変わる事はなかった、つまり…
 「尊氏は生涯、直義の為に生きていた」
あるいは
 「尊氏の人生の意味そのものだった」
とも言えるでしょう。



いやだから妄想が過ぎ…と思われそうですがw
でも本当に、すべての史料を繋ぎ合わせると
この結果が現れるのです。 (というか私が一番驚いたわw)
それに私はM式考察法の第一人者でもあるので
 (↑もっとすごい方いたらすみません)
これを認めるまでには、自分に反証を課し続けました。

(※M式考察法
 人間はほっとくと、都合の良い事実だけを拾い集めて
 自分の理想に添った結果を導いてしまいがちなので
 敢えて、理想とはの可能性を優先して検討する事で
 考察に穴が無いよう万全を期す苦行の一種。 私が考案した。)


もちろんこれは、ほのぼの兄弟愛…というより
宿命に近い愛なのですが
それに気付いて「室町創生期」の歴史を読み直すと…
これまでとは全く違う本当の物語が始まります。




【今日のまとめ】

直義、2コ下で、 (゚д゚)ウマーーー!!




posted by 本サイト管理人 at 00:58| Comment(0) | ★チラ裏観応日記

2015年11月29日

室町的鎌倉旅行記(その1)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏観応日記』です。

現在、引き続き本サイトの新コンテンツ『三、室町人物記』
挫けそうになりながら作成中なのですが
全然完成が見えなくて、蒼ざめて来たので
せめて心だけはぬくぬくしようと思い
本サイトのTOPページ「冬仕様」に更新しました。
背景の雪の結晶レースのブラシ素材は
いつものやつです。
クオリティ高過ぎでちっこい直義もご機嫌です。



という訳で、今日もブログはお茶濁し回で
『チラ裏 "外伝" 観応日記』をお送りします。
何が "外"(そと)かって…
なんと、私です!!
先月の事なんですが、鎌倉に行って参りました。


夏頃のブログ「暑中御見舞い申し上げます」
鎌倉『浄妙寺』の話をして
暑くて冒険とかマジ無理だから、まで待とう… とか言ったのは
実は単なるネタで(適当な事言って本当にすみませんでした)
行きたいなぁ〜とは思いつつも
別に計画を立てていた訳ではないのですが
しかし、秋が始まった頃にたまたま
10月18日まで開催している「鎌倉国宝館」の企画展で
めっちゃ見たいものが展示されている!
という事を知り
すっ飛んで行きました。



そんな訳で今回の室町的鎌倉旅行の攻略ルートは…

『鶴岡八幡宮』
 ↓
大蔵山『杉本寺』(すぎもとでら)
 ↓
功臣山『報国寺』(ほうこくじ)
 ↓
稲荷山『浄妙寺』(じょうみょうじ)
 ↓
『鶴岡八幡宮』「鎌倉国宝館」


な、なんて室町マニアにとって贅沢極まりない行程!!


(ちなみに、3年前に鎌倉に行った時は
 『長寿寺』(鎌倉の尊氏の菩提寺)
 『浄光明寺』直義との関連いっぱい)
 『瑞泉寺』夢窓国師、それと足利基氏の思い出たくさん)

 を回ったので、今回はお預けです。
 でも、あの頃はまだ尊氏直義にはまりたて初心者だったから
 また行きたい… )



さて、それでは出発です。
…(中略)…
鎌倉に着きました。 わーい!!


鎌倉駅


10月半ばで、まだ紅葉には早いからいいかな〜と思ったのですが
やっぱり混み混みです。
というか、のはずなのにみたいに晴れた日で景色が綺麗でした。


何はともあれ、まずは『鶴岡八幡宮』に参拝です。
室町好きが高じて、すっかり八幡様マニアになってしまったので
うきうきです。
『鶴岡八幡宮』への参道である「段葛」(だんかずら)を通って…
と思ったら
工事中でした (´;ω;`)ブワッ

どうやら来年の春まで整備中らしい。
ふっ、まあいいか。
…(中略)…
『鶴岡八幡宮』に着きました。 わーい!!


鶴岡八幡宮

境内を奥に進んで行くと…

鶴岡八幡宮


途中、結婚式の行列に擦れ違ったり
さらに本殿の手前では…
小笠原流弓の実演が行われていました。


鶴岡八幡宮で弓術


鶴岡八幡宮で弓術


鶴岡八幡宮で弓術


おお!これは参考資料に有り難い。

(※人物写真を掲載するのは失礼な気もするのですが
 判別出来ない程度に配慮しましたので
 伝統文化の紹介の為にどうぞお許し下さい m(_ _)m )




ところで、ここでちょっと装束の話を。
写真の方達が着ているのは中世武士の正装「直垂」(ひたたれ)ですが
「直垂」の「胸紐」(むなひも)の付け根は
一般にハート型の装飾的な形状となっています。(下図の写真)
しかし、私はいつもふつーの紐として描いている…(下図



直垂胸紐

(※「胸紐」は通常、前でリボン結びするものですが
 左の写真のように、動作の邪魔にならないよう
 袴の帯に挟む場合があります。)



これは別に、描くの面倒くさいから…なのではなくて
「胸紐」の付け根がこのような形状になったのは
どうやら中世より後の時代のようで
室町時代の肖像画を見ると
シンプルに襟の部分から出ているだけなのです。

参考までに…

足利義教

(※足利義教画像(妙興寺所蔵)
 【川岡勉『人物叢書新装版 山名宗全』(吉川弘文館)2009】
 …の、p.21から引用)



こんな所で6代目将軍足利義教がw

そんな訳で、私はいつもふつーの紐で描いていますが
決して、めんどいから手抜き…していたのではなく
時代考証の結果であった、という弁解でした。
…でも「菊綴」(きくとじ)はほとんど省略してる、めんどいからw

(※菊綴…直垂の縫い合わせの数箇所(背中)に
 補強装飾を兼ねて付けられている "もの字" の紐飾り。)



さて、さらに弓の隣では…
本殿前の「舞殿」挙式がまさに始まるところで
(左から順に…)
(しょう)篳篥(ひちりき)龍笛(りゅうてき)雅楽隊
演奏しながら登場です。


笙、篳篥、龍笛

(装束は同じく「直垂」です。)


おおう! これは貴重な遭遇!!
なぜって…
「笙」といえば――― 尊氏だからです!!


意味不明な特技を色々と持ち合わせている将軍ですが
「笙」が吹けるとか…
音楽方面まで抜かり無しですよ。
もちろん、人前で余裕で演奏出来る腕前なのですが
それどころじゃなくて
尊氏の時代における笙の最秘曲「陵王荒序」を相伝している
つまり "皆伝" している
という、本物のプロなのです。

って、なんだそれwww
もう、尊氏さん引き出し多過ぎで付いて行けないww


まあでも、お茶吹いてる場合じゃなくて
この「尊氏の笙関連エピソード」
かなり深い話を秘めた歴史的 超 重要案件だったりする訳で
既に「尊氏の笙」に注目した興味深い論文がいくつかあって
素晴らしい示唆を与えてくれていますが
ただ、尊氏にとっての笙の意味については
未だ最終的な核心には至っていないようです。
というのも…
これは、尊氏の性格をかなり正しく把握しないと
正確な答えが得られない問題なので。

(※当時、楽器というのは非常に高い教養の代表格であり
 それと同時に、朝家における「琵琶」のように
 象徴権威と不可分に結びついた存在でもありました。
 この事から、尊氏もまた
  「自身の権威付けの為に笙を学んだ」
 という意見が現時点では多いようですが、しかし… )



基本的に
 「尊氏は将軍の座 "積極的に" 狙っていた」
とか
 「将軍としての自分の権威を高める為に
  "示威行為" "喧伝" を自ら進んで計画した」

という誤解をしているといけません。
尊氏は、そんな安物っぽい(失礼w)存在ではないのです。


普通の人間の発想だと
 将軍の座は誰もが好んで望むものだ」
と思うだろうし
 他を蹴落して将軍の座を手に入れた者は
  自分を圧倒的な存在に見せる為に、虚栄を最大限 "演出" するだろう
  (覇者が考える事はみな同じ)」

と思うのが一般論だと思いますが
しかし…
これは尊氏には全く以て当て嵌まらないのです。

(そもそも尊氏
 覇道に走る覇者ではなくて、王道を目指した王者です。
 王道覇道については…
 本サイト『2-9』「愛読書は、『六韜』『三略』」を。
 尊氏(&直義)の王道志向については
 その言動や諸政策から明らかですが
 直接的な史料的証拠なら…
 『2-4』「始まった場所」の『等持寺』の開建理由を。)



つまり、どういう事かと言うと
(かなり衝撃の事実ですが)本当の尊氏というのは…
将軍になりたくなかったんですよ。
これはもちろん
 「別に望んでなかったけど、なっちゃったならまあいっか☆」
…程度のものではなくて
ある理由により「どうしてもなりたくなかった」
しかし同時に「ならなければならない事も知っていた」

という、それくらいの重過ぎる話です。
(その理由というのは…
 実はここに、直義の秘密(ただし本人は何も知らない)
 が関わって来るのです。)



そしてまた、自分を権威付ける必要なんて無かったんですよ。
(これはなぜかと言うと… そんな事しなくても
 尊氏は初めから "本物" だったから。)

「(この将軍は)人々に仰ぎ見てもらおうなどとは思っていない
 人々の方から、自然と仰ぎ見られる存在なのだ」


…とは
夢窓国師による、尊氏の人柄を詠った漢詩の言葉ですが
(※この漢詩について詳しくはまた後日。
 参照は…【柳田聖山『日本の禅語録 7 夢窓』(講談社)1977】
 または【柳田聖山『禅入門 5 夢窓』(講談社)1994】)

この言葉にある通り
尊氏は…

虚栄で飾るという事をしなかった」(その意図必要も無かった)

というのが歴史的事実です。

「笙」の他にも
 "尊氏の権威付け" と捉えられている事例がいくつかありますが
 それらもみな、別の観点から再考すると本当の理由が見えて来ます。)



つまり…
初めから誰も適う者の無い、なるべくしてなった天性の将軍
足利尊氏という人であり
その "天性" とは―――

 "本当の意味で" 天性だった

というのが尊氏最大の秘密です。


尊氏の言動には、時に
未来に対して非常に後ろ向きな所があるのですが
出家を望んだり、和歌だけがこの世の望み…とか悟ってみたり
 躊躇(ためら)いも無くすぐ自害しようとしたり、とかw)

これまで
躁鬱の "鬱" だと時空診断されて片付けられていたこの傾向も
実は、「選ばれし者」であるが故のだったのです。

(※時空診断…時空を隔てた人物に診断を下すエスパー医療行為。)


「本物」が背負うもの、その目に映る未来というのは
目を背けたくなるくらい重いものだったという事です。
それでも表面明るく振舞っていた(というかアホ面気取ってたw)から
真相を知るほど泣けて仕方ないのですよ、尊氏は。
もうなんて (´;ω;`) ナキワロス将軍なの…



…と言っても、もちろん以上は
室町好きだから尊氏を過大評価している…訳では決してなく
私は基本が超絶直義ファンなので
尊氏に対してはむしろ、マイナスから入ったくらいですが
それでこの結果ですよ。 もうこの将軍どうなってんのよwww

日本の歴史上
天下を取った覇者や、政権を握った権力者は数いますが
正直、それらとは全く比較にならない存在です。

 尊氏だけは、本気で次元が違う

というのが、実は "日本史の" 最大の秘密です。




あらやだ☆.*:.。.:*・゚(n‘∀‘)η゚・*:.。.:*☆ネタバレが過ぎたわ〜〜




てゆうか、気を抜いたらまた尊氏語りが始まってしまったw
鎌倉旅行中だったのを忘れてた、いかんいかん。


まあそんな訳で、
さらっと、衝撃の事実ももらしてしまいましたが
この "尊氏の笙ネタ" がなぜ重要かと言うと
これまた『観応の擾乱』の真相に絡んで来るからです。
尊氏は自分のの技術を
直義亡き後の1年半ほどの期間に)
尊氏の実子かつ直義の猶子初代鎌倉公方となる
足利基氏に継承するのですが
 「なぜ基氏に(そしてその時期に)託したのか?」
というその本当の理由こそ
『観応の擾乱』の解明によって初めて解ける秘話であり、かつ
尊氏の心の奥を映し出した、"決意" そのものなのです。




ま、だんだんややこしい話になって来ましたが
「尊氏と笙」については一言で言えば…

 「尊氏にとってのとは、泰平を叶えてくれる楽器だった」

これでOKです。



ちなみに「笙」
その形状が、鳳凰が翼を休めている姿に似ている、あるいは
鳳凰の鳴き声を模して作ったという伝説から
「鳳笙」(ほうしょう)という美称を持つ管楽器です。
 (それ故、「天の声」を表しているとも言われる。)

そして「篳篥」は縦笛、「龍笛」は横笛で
雅楽ではこれらの管楽器が合奏の主旋律を担います。
(特に篳篥。 笙はむしろ
 「合竹」(あいたけ)と呼ばれる和音によって
 全体を包み込むような広がりのある音を奏で
 合奏の背景となる楽器で、また
 笙の音は、音律の絶対的な基準となり
 他の管弦楽器の音を調整する際も、が基準音とされます。)


その他、雅楽で用いられる基本的な楽器には
弦楽器である「琵琶」(びわ)
「箏」(そう)あるいは「和琴」(わごん)
打楽器である「鞨鼓」(かっこ)「太鼓」などがあります。


以上の知識は、「室町創生期」の『観応の擾乱』"以前" の
ほのぼの時代のエピソードに関連してくるので
覚えておいて下さい。
ちなみに…直義も関わって来ますw  Σ(゚Д゚;)!!!??



(みながそれを基準とし
 広げた鳳凰の翼のように
 すべてを包容する「天の音」を奏でる「笙」という楽器は
 なんか、将軍尊氏の存在そのものに重なる…
 と思うのは私の妄想かも知れませんが
 人知れず苦悩を抱えていた尊氏にとって
 "毎月25日"
 みんなが一つにまとまる泰平の瞬間
 この上ない安らぎを感じられる幸せの瞬間だったようです。)




ありし日の .:*☆.*:.。゚(´;ω;`) ゚・*:.。.:*☆*:. 泰平




さて、本殿にたどり着く前に
色んな遭遇を楽しんでしまいましたが
いよいよ、大銀杏 "若木" の成長を眺めつつ大石段を上り…
(※大銀杏についてはブログ「南無!八幡大菩薩!!」の冒頭を)
本日一回目の参拝です。

  南無八幡大菩薩!!

後は、気になる摂社に2つほどお参り…してたら
おお!こんな所に二つ引両が!!


白旗神社

『白旗神社』の御賽銭箱)

か、かわいいw

ちなみに、『白旗神社』とは
初代鎌倉将軍源頼朝を祀る社ですが
現在ここでは、3代目源実朝(さねとも)も共に祀られています。
(※ "白旗" とはもちろん、源氏の白旗のこと。
 八幡宮境内を出て少し北東の「源頼朝のお墓」の手前にも
 同名の神社があります。)



鎌倉幕府の源氏将軍、頼朝、頼家、実朝については
三代で途切れてしまった悲運がなんとも遣り切れませんが
特に、2代目源頼家3代目源実朝(※頼朝の子で同母兄弟)の最期は…
うーーーーん
と、誰もが絶句する陰謀度合い。


2代目頼家については
独裁に走ったから排除された」とか伝わっていますが
あれ常識的に考えて酷い誇張ですよね。(ややイラ)
どう見ても御家人北条の政争であって
頼家父頼朝の後を継いでたった3か月後に合議制が敷かれた
というのは
(独裁する間も無く)先手が打たれたって事な訳で
頼家勢力北条に都合悪かったから
失脚・幽閉・暗殺…とかいう徹底振りで消したのだろうし。
頼家の政治に問題があったのなら、伊豆幽閉だけで十分だろうに…)

それから、3代目実朝を暗殺した公暁(※2代目頼家の子)は
叔父実朝は、殺された父頼家の仇」だと信じて行動し
しかし直後に公暁(くぎょう)も討たれてしまう訳ですが
「公暁は次期将軍の座を狙っていた」とか『吾妻鏡』にはあるけど
そんな計画性のあった行動とはとても思えず
これも、実朝を消す為に
公暁の純心を利用した上、口封じで葬った黒幕がいた訳で
実朝はもちろん、公暁も本当に可哀相過ぎる。(もろイラ)

その上、2代目頼家の他の男子3人(つまり公暁の兄弟)もみな
権力抗争に巻き込まれて非業の死を遂げる訳ですよ。
政敵排除の為なら、血の繋がった(あるいは)でさえ
こんなにも淡々と犠牲に出来るのか…
(※北条は源頼朝の外戚。 頼家実朝の実母が北条○子
 その弟が執権北条義時、この姉弟の父が執権北条時政。)





…というか
実朝を討ち、そのを持って逃走したはずの公暁
同日中に討たれているのに
 「実朝の首だけは見つからなかった」
というのは不自然過ぎる。
そもそも、武士層に大した味方も無い僧侶公暁
雪の夜に、『鶴岡八幡宮』での右大臣拝賀の行列の中
将軍暗殺を簡単に成功させるって…
しかも、犯行は石段の "下" で行われたのに
いつの間にか公暁石段の "上" に移動してて
自ら名乗りを上げ「父の敵を討った!」と悠々と宣言
そしてを持って華麗に逃走って…
参列者行列を成している石段を?
 どうやってを抱えて駆け上る?
 なぜ逃げる前に、正体居場所をわざわざ知らせる?
 それなのになぜ簡単に逃げられる?
 あるいは、この『吾妻鏡』の記述は
 「石段上での "宣言後" に駆け下りて犯行」とも読めるが
 それでは益々人間業ではなくなってしまう… )



話が出来過ぎ、怪しいにも程がある。
(さらに怪しいのは、当日不自然な欠席をした北条義時
 しかも、自分の代わりに参列させた源仲章がなぜか犠牲に…
 「源仲章は、北条義時と間違われて暗殺された」
 との説があるが無理がある、どう見ても初めから標的…)

この演出し過ぎたシナリオ
これはごく当たり前に考えれば―――

 真犯人は公暁に変装した "複数"
 一人は石段の "下" 実朝を暗殺
 仲間が周囲を撹乱する中、首を持ってすぐさま逃走
 一人は石段の "上" から公暁の名を叫んで逃走
 また別の一人が、他の場所にいた(何も知らない)公暁を討ち取り
 「公暁の意図は父の仇討ち&将軍職狙い」だと話をでっち上げる。
 すべての罪を着せて犯人に仕立た公暁を葬り、真相と化す
 という描き過ぎた筋書き―――


…って可能性が一番高い訳ですよ!! (激イラ)


(「公暁が持って逃走した」と見せかけるため確保した実朝の首
 「公暁討伐時に発見」と演出できなかったのは
 意思疎通に齟齬があったか?
 それとも、"主犯者"
 共犯者の裏切りを封じる為(あるいは忠誠を試す為)に
 わざと証拠を抱え込ませたか?
 (実朝の首塚が、鎌倉から不自然なほど離れた地に存在する理由は
  失敗による隠匿か? 共犯者への呪縛か? )
 いずれにしろ
 完全犯罪に泥を塗る大失態だよ、残念だったな、フフ… )



じゃあ真の主犯者は?といえば、こういう事件は
「結果的に誰が一番得をしたか」で考えれば答えは簡単…



(※ちなみに、「三浦義村黒幕説」とかありますが
 どう見ても三浦義村は生涯一貫して北条義時与党です。
 つまり、動くなら北条義時の指示通りに動くでしょう。
 (なお、実朝首塚を供養したのは三浦義村の家臣…)
 それから、「後鳥羽上皇」とかいう説は有り得ません。
 実朝と良好な関係にあった後鳥羽上皇
 この件で最も不利益を被った一人です。
 この事件では上述のように
 実朝と同時に源仲章も暗殺されているのですが
 二人の共通点は、京都の朝廷と深い関係にあったという事。
 つまり…  )




…とか考え出すとピキピキして来てしまうので
この辺にしておこう。 ふう。
まあ、私は鎌倉時代の事にはまるで詳しくないのでw
あまり偉そうな事は言えないのですが
ただ、武家の歴史…もっと言うと「武家源氏の歴史」について
最近考える事があって
もしかして、壮大な流れで見た場合
この鎌倉幕府初期の凄惨な歴史も
予定されていた避けられない "定め" だったのかも知れない
だとしたら
無闇に誰かを責めるのは、間違った正義感かもなぁ
…と
一方ではそんな風にも思えてしまう様になったのですが
これも「室町創生期」の
とある "不思議な将軍" 秘密のせいだったりします。


(ちなみに、北条時政と義時の次代の北条泰時は素晴らしいと思う。
 てゆうか、泰時がいたから北条の名は持ち直した、と思うw )






さて、実朝暗殺の舞台となったのは
当時、実朝の右大臣拝賀が行われていた『鶴岡八幡宮』
健保7年(1219)正月27日の出来事です。

御神木の「大銀杏」
公暁の "隠れ銀杏" の伝説が残るのはこの為ですが
 (ちなみに公暁は当時、鶴岡八幡宮別当でした)
ブログ「南無!八幡大菩薩!!」の最後でつぶやいたように
大銀杏は倒れてしまったけれど
もう "隠れる場所" は無くなって
すべての物事が明らかになって行く時代が訪れたのなら
せめて公暁の汚名は晴れて欲しいなぁ…と期待したいです。

 「大銀杏に隠れていたのは、公暁じゃなかったんだ」

あと3年、800年の時を迎えるまでにはきっと。


大銀杏

(現在、大石段の脇に、だけ残るかつての大銀杏
 右奥には、注連縄に囲まれた若木がすくすく成長中です。)






ところで
源頼朝の家紋って、実ははっきり分かっていないようなのですが
 (笹竜胆(ささりんどう)というのは、後世の説らしい)
『白旗神社』の御賽銭箱に足利家二つ引両…なのは、はて?
「奉納」ってあるから、足利さん関連の禅寺とかからだろうか?
うん、まあかわいいからいっか。

白旗神社

『白旗神社』遠景。(夕方に撮影したもの))


『鶴岡八幡宮』は、本殿の参拝者はとても多いのですが
少し脇に逸れると途端にひっそりします。
静寂に包まれた瞬間、そこには
鎌倉室町が相互リンクする異空間の扉が… 出現しません別に。




さて、なんか好き勝手話していたら
長くなり過ぎました。
続きは「室町的鎌倉旅行記(その2)」に、という事で
今日はここまで。
てゆうか、まだ『鶴岡八幡宮』しか終わってない
一体私はどんな余計な話をしまくっているんだ…


まあでも、鎌倉時代の「源氏の話」…というか
源義家以来の「武家源氏の話」
室町のなぞなぞ将軍尊氏さんの全容解明の為には
必要不可欠な要素ですので
頑張って聞いて下さい。

数え54歳の生涯のみの研究では
決して解明出来ない正体不明将軍、それが我らが尊氏さんです。
全国の(数少ない)室町ファン大歓喜、わーい!!

って、私はなんて厄介な将軍に興味を持ってしまったんだ…



posted by 本サイト管理人 at 01:27| Comment(0) | ★チラ裏観応日記

2015年12月25日

室町的鎌倉旅行記(その2)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏観応日記』です。
という訳で、前回の「室町的鎌倉旅行記(その1)」の続きです。
続きもののくせに、またとんだロングパスですみません。

何をしていたかと言うと
先月末からパソコンにちょっとばかし問題が生じて
瀕死で格闘しておりました。
PC関連の非常事態って
なんでこんなに精神ダメージ感半端ないんですかね。
いろいろ遠回りして、結局今んとこ
データ用のHDD(ハードディスク)を換装しただけなのに
一時期すっかり心身ともに萎(しお)れていました、げっそり。


というか、今回グラボの換装も考えていたのですが
数年前のマザボじゃ
今のグラボ挿しても動かない可能性のが高い
ってお店で言われて
「うん、まあグラボは別に問題ないし、このままでいっか」
と納得して
OSの不具合だろうから(…と思っていた、この時点では)
システム用にSSD買って来てクリーンインストールまで試みたのに
どうやらグラボが関係する問題らしい…という事が判明して
手も足も出なくなりました。
そりゃあ、システムの復元しても直らなかった訳だよ (´;ω;`)

それでも、折角だから心機一転するか、と思って
そのまま作業を進めたのですが
な ぜ か
アンチウイルスソフトが何度やっても上手く機能してくれない。
という訳で―――
出戻りました。(元の環境の落ち着き感ぱない。)


ちなみに(元環境で)グラボのドライバをアップデートしたら
DVIで接続しているモニタだけ色がおかしくなって慌てて元に戻した
とかもうなんなの!
まあでも、戻せるならいいんですよ。
今回、元に戻せない事態にも遭遇し
ああ… ほんの数時間、ほんの数時間でいいから過去に戻れたら
と、天を仰いで真っ白になるという
「虚無化」を体験しました。 (  Д )


まあ実は、何だかんだ言って大した不具合では無いので
なんの支障も無いと言えば無いのですが
 (つまり、この一連の無駄な苦労は一体…)
切っ掛けはどうあれ
PC本体の掃除HDDの換装を終えられたのは良かったです。
静音快適!!
…てゆうか
ファンもヒートシンクも埃でモコモコし出していたのに
2年以上掃除さぼってた。
その上、だいぶ前からHDDは不良セクタが発生してて
動作音もそろそろやばい域に達していたのに
いや、まだだ、まだ戦える…!! ってギリギリ感を堪能してた。
すまぬ、すまぬ… (´;ω;`)
そりゃ、PCも不機嫌になるがな。


なんか今回は、摩訶不思議なくらい
色々とちっさい試練が重なって
それに一個一個半虚無状態で対処していたら
妙な境地に達してしまったような気がするんですけど
もしや、何者かが私を輪廻から解脱するよう導いて―――
…というのは痛い妄想ですが
それにしては、この意味不明な不可抗力現象…
もしかしたら
HDDが自らの死期を悟って
完全に逝ってしまわれた後でギャアァァぁぁーーーーー!!!
と大惨事になる前に換装を終えられるよう
私を動かしてくれたのかも知れない…
とかいう妄想はよくしてしまいます、はい。


まあ何はともあれ、ひと通り過ぎ去ってしまうと
あんだけ絶望していた自分がアホでしかないのですが。


そんな訳で
半月前までは何度も「あの日に返れたら…」と虚無った私ですが
もう後ろは振り向かない事に決め
この先にどんな(大した事ない)試練が待っていようとも
このまま突き進む事にしました。
今のPCすごく気に入っているので、まだまだ何年も使うつもり。
不具合も含めて愛します。 キリッ☆




ところで、関係ないけど
尊氏って(少なくとも現時点でのイメージでは)
不具合いっぱいな将軍だけど
なんか史実無視のアクロバットな美化とかする事なく
なぜかみんなに不具合ごと愛されているよね (´・ω・`)
尊氏の事を少しでも自分で知った人なら。ってか研究者からもw)
こんな愛され方される歴史上の人物って一体…



ちなみにこの不具合
…特に『観応の擾乱』時のものは
一見、OS(将軍)の問題に見えますが
実際はその他のアプリケーションドライバ達の問題です。
(それらの内、ごく一部に生じた不具合が全体に飛び火した。)
その大問題を
OS尊氏さんが一人すべて肩代わりしようとして頑張ったのが…
『観応の擾乱』です。

人の嘆き無くして、天下治まらん事本意たる…」(『梅松論』)
 (人の嘆き無しに天下が治まる事が本望

…なので「誰も罪人(つみびと)にせずに事態を収拾する」
という離れ業をやってのける為
持ち前の "方便" を使いまくったから
非っ常ぉぉーーーに分かり難い擾乱になってしまっているのです。
つまり尊氏こそ…

 誰よりも天下を不具合ごと愛した将軍

だったと。
げ、解脱している… 確実に解脱している… (´;ω;`)



ついでに言うと
尊氏は幕府立ち上げまでは冴えまくっているけど
『観応の擾乱』以降、晩年はグダグダ…
とか思われているOSですが
それどころか、実際はその逆で
晩年こそ、強力なSP(サービスパック)がリリースされ
大幅な更新を遂げているのです。

私の脳内リリースノートによると…
 SP1 が観応元〜2年(1350-1351)の、擾乱第一期最盛期
 SP2 が観応3年(1352)直義没後の、擾乱第二期開始時


特にSP2インストール後の尊氏は
別人…というくらいの変わりようで
本気本気出しますので、心の準備をしておいて下さい。

(その時期なら南朝旧直義派に対して?
 …と思われるかも知れませんが
 実はそうではなく… Σ(゚Д゚;)!!!!??? )

なんて事だ…
Windows Me がいきなり Windows 7(SP1)に…!!
…って
不安定フリーズ(出家)とか言わないで下さい ><


いつもの↓

Windows比較AA





与太話☆*:.。.:*・゚(・∀・)゚・*:.。.:*☆終わり





という訳で、前置きで話が逸れ過ぎました。
旅の続きに移ります。


さて、今回の旅の切っ掛けである「鎌倉国宝館」
『鶴岡八幡宮』の境内にあるのですが
ここは最後に取っておく事にして
次の目的地に向かい、ひたすらへ進みます。


金沢街道


歴史ある金沢街道です。 わりと狭いです。
しかし、こっち方面は
源頼朝時代の幕府の中心であり
さらに進めば
鎌倉時代の足利家の本拠地であり
室町時代には鎌倉公方「御所」として政治の中心地だった
『浄妙寺』周辺に誘(いざな)ってくれる訳で
これほど室町マニアの気持ちを逸(はや)らせる道はありません。
うきうき、わくわく。
…(中略)…
『杉本寺』に着きました。 わーい!!


『杉本寺』

『杉本寺』の苔むした石段。
 現在は安全の為通行止めなので、時が止まって一層情緒深い。)



『杉本寺』はなんと奈良時代に遡る「鎌倉最古仏地」
「十一面杉本観音」と幟(のぼり)にあるように
3体の十一面観音像を本尊とする天台宗の寺院です。
そして、かつては『大倉観音堂』と呼ばれていました。

(この辺りは、西の源頼朝時代の幕府の地だけでなく
 さらに東の『浄妙寺』辺りも含め
 大倉(大蔵)と呼ばれていたようです。)


光明皇后(聖武天皇の皇后)の御願に始まったといわれ
長らく信仰を集めて来た観音堂ですが、しかし…
鎌倉時代最初期の文治5年(1189)11月23日の夜
隣屋の火災の延焼により本堂が焼失してしまいます。
そ、そんな…

だがしかし! 燃え盛る炎が迫りくる時
3体の観音様は…
自ら境内の大杉の下に避難していて無事だったw
セーフセーフ
以来、「杉の本の観音」と呼ばれるようになったそうな。

(´・ω・`)助かったね。(´・ω・`)うん。
でも本堂焼けちゃったね。(´;ω;`)うん。
…とか話していたんだろうか。

(『吾妻鏡』によると
 本尊を救出したのは、炎の中に飛び込んだ僧侶
 その際、僧衣がほんの少し焼けただけで
 体は不思議と無事だったそうな。)


その後、本堂の再建は進んだのか進まなかったのか
2年後の段階で
風霜に晒されて瓦葺きの屋根は破れ、軒は傾き…
という有様だったそうで
建久2年(1191)9月18日、『大倉観音堂』に参詣した源頼朝
その惨状を憐れんで修理料を寄進(『吾妻鏡』)
さらに運慶作の十一面観音像を納めたと言われ、現在に伝わります。





さて、この『杉本寺』が
どう室町創生期に関わってくるかと言うと
『杉本寺』背後の山は、かつて「杉本城」の要害となっていて
北は『瑞泉寺』まで達していたという広大な城郭だったそうですが
ここで、幕府誕生の建武3年(1336)の翌年
大規模な戦がありました。

その頃、関東では
足利家長(いえなが)を筆頭に
上杉憲顕、憲藤兄弟や桃井直常高重茂などの主だった面々が
尊氏の嫡男千寿王(のちの2代目将軍義詮、当時8歳)を擁して
鎌倉を守っていたのですが
建武4年(1337)8月
南朝の北畠顕家が、奥州から京都を目指して西上を開始
上野国から駆けつけた上杉憲顕(のりあき)が
下野国小山城に押寄せた敵の撃退に成功したものの
 (※『上杉家文書』建武4年9月3日
  直義に褒められる上杉憲顕w )

しかし12月13日
利根川合戦での敗退で、鎌倉の幕府軍は劣勢に立たされ
12月24日から25日には遂に
勢いを増した南朝北畠顕家軍と
鎌倉で決戦を迎えることになってしまうのです。


(※足利家長(または斯波家長)は
 足利高経(たかつね)の嫡男。
 家長は、奥州を含めた関東の統治を任された関係で
 個別に「斯波殿」と呼ばれている事もありますが
 (「斯波」は奥州斯波郡に由来する名)
 足利高経の家系の "家名" として「斯波」が定着するのは
 もっと後の代からとなります。)



大軍の南朝軍を前に、籠城戦ではとても勝ち目は無いと
上杉憲顕たちは、味方の一万余騎を四手に分けて
道々に出合いつつ、その都度馬を駆け合わせて臨機応変に戦う
という戦法で、何とか一日持ち堪えたのですが…
しかし、大将として「杉本城」に向かっていた足利家長
家長は… (´;ω;`)
敵の進軍を防ぎ切れず、『杉本観音堂』にて家臣300余人と共に
切腹の最期を遂げたのでした。
 (※この辺『太平記』情報)


奥州方面の総大将かつ関東執事であった足利家長
当時、数え17歳
斯波家の地位の高さが窺えますが
しかし何より… こ、この若さで (´;ω;`)ウウッ…

『杉本寺』の本堂手前右側には
古い「五輪塔群」があるのですが
これが建武4年(1337)12月25日にこの地で果てた
足利家長たちの供養塔だと伝えられています。


杉本寺と杉本城

(『杉本寺』本堂より、「杉本城」のあった北側の山を望む。)


この写真の右側に、無数の「五輪塔」が並んでいるのですが
なんとなく直接写真に撮るのが憚られてしまって
画像が無くてすみません。
室町ファンかつ高経ファンとして
 「家長ぁぁーーーーっっ (´;ω;`)(´;ω;`)(´;ω;`) 」
と思いながら
現地で心を込めてなむなむして来ました。



この「杉本城」での敗戦で散り散りになった幕府軍
千寿王(義詮)を連れて一旦鎌倉を脱出しますが
鎌倉を占領した南軍北畠顕家
早くも1週間後の建武5年(1338)正月2日には
京都を目指して西上を再開したので
幕府軍は帰還
しかし多くはすぐさま北畠顕家の後を追って
諸国で軍勢をかき集めつつ追撃
やがて彼らが京都の幕府軍と合流し
美濃国「青野原の戦い」から、畿内での大決戦へと
運命の筋書きを繋いでゆくのです。


(※ちなみに「青野原の戦い」では
 『太平記』の記述により…
 南朝北畠顕家軍の大勝! 北朝足利軍の大敗 ('A`)ウッウー
 …みたいに思われていますがw
 しかし激戦だったのは確かですが
 ここで勝ったのは足利軍です。
 北畠顕家軍は足利軍の防衛線を越えられず
 近江から京都への道を諦めて、"已む無く" 伊勢に逃れた
 …というのが実際です。
 「顕家卿已下…青野原被打落、伊勢国落行云々」
  (『鶴岡社務記録』建武5年正月28日)

 2月3日には、戦勝を報じる尊氏の御教書
 鎮西の諸氏に宛てて出されています。
 (『大日本史料』暦応元年2月3日) )





ところで『太平記』では、この鎌倉での合戦に際して
一旦安房上総に退却して加勢を募ろうと提案する諸将に対し
当時11歳(※これは誤りで実際は8歳)の千寿王(義詮)が

「自分は東国の管領(or 大将)を任されて鎌倉にあるのに
 戦わずして退く事は出来ない」(←実際はもっと長い発言)


と、思慮深く道理を尽くして防戦を主張したので
勇将たちはみなこの一言に励まされ、討死覚悟で戦いに挑んだ
…とありますが
これは実際には
関東執事&大将足利家長の発言だったと思います。

満7歳にしては不自然過ぎるこの知的勇ましい発言は
将軍尊氏の若君 "聡明さ" を潤色した
リップサービスなのでしょう。
(あるいは、鎌倉の情報が "伝聞" として京都に伝わるまでに
 どこかで入れ替わってしまったのだと思われます。)

『梅松論』にも似たような若君賞賛記述がありますが
"幼少期" の(あるいは "次期将軍就任未満" の)義詮
それなりに普通に期待されていたんだって事かと。

え、どういう事かって…
(良く知られている話ですが)
尊氏直義はもちろん、直冬(尊氏実子&直義猶子)さえ
気持ちよく褒められている『太平記』
なぜか2代目将軍義詮 "だけ" は
かなり評価が低くて何それ謎過ぎる とされているのですが
これにはやはり明確な理由が―――

…おっと、今はここまで。ふう。




なむなむ☆*:.。.:*・゚(・∀・)゚・*:.。.:*☆なむなむ




さて、いきなり建武4年の思い出に浸ってしまいましたが
もちろん、その前に本堂へのお参りをしっかり済ませています。


『杉本寺』の本堂は、上の写真にあるように
茅葺き屋根のとっても趣ある造りなのですが
中の方も、これがまた
すごいじわじわ来る感じwで雰囲気が素晴らしかったです。

靴を脱いで上がれるようになっているのですが
奥の格子の向こうに秘仏として安置されている
本尊の十一面観音(3体)のほか
源頼朝寄進の十一面観音
それから、地蔵菩薩不動明王やその他様々な仏像が
小さな堂内にみっちり安置されていて
みな直接目の前でなむなむ出来るようになっている
というアットホームさw
本尊のみ、格子戸まで少々距離がありますが
 淡い光に浮かび上がるシルエットが
 なんとも幻想的で良かったです。)




さて、私が『杉本寺』に来たのは
足利家長の追悼をしたかったから… だけではなく
十一面観音様そのものにも興味があったからです。

というのも、尊氏に関する記録で
十一面観音が関わってくるものが一つあるのですが
これが実は
尊氏の謎にめっちゃ深く関係する核心的エピソード
 (…という事を、5〜6か月本気で考え続けた末に知り)
半年ほど前に、この謎の最終結論に達して以来
十一面観音様が気になって気になって仕方なくなっていた
ってゆう。

まあこのエピソードについては
どこか特定の十一面観音という訳ではなく
尊氏の心の中にあった観音様… といったものですが
尊氏が育った鎌倉の大倉にある『杉本観音堂』の本尊は
幼い頃に最も身近にあっただろう観音様な訳で
だとしたら、ずっと心の片隅にあったかも知れない…
…というのまあ
少々妄想し過ぎな気もしますが
 「尊氏幼少期に親しんだかも知れない十一面観音様
との可能性に夢を見て
700年前に思いを馳せてなむなむして来ました。


『杉本寺』

(『杉本寺』の本堂から、南側を望む。
 本堂はかなり階段を上った所にあるので、眺めが良い。)



ところで、このお寺は全体に
すごーく甘い香りが漂っているのですが
お線香がめちゃめちゃ良い匂いさせてるらしい。
本堂の入り口で、100円でお供え出来るようになっているので
私も一本灯して来ました。
是非みなさんも、甘い香りに包まれながら
観音様に、足利家長に、なむなむしに行ってみて下さい。




こっから与太話☆.*:.。.:*・゚(n‘∀‘)η゚・*:.。.:*☆再ターボよ〜




てゆうか、今日はなんの話がしたかったかって
『杉本寺』足利家長と来れば…
父ちゃんの足利高経(たかつね)ですよ!!

これまた半年と少し前に足利高経の真相に目覚めて以来
気になって気になって、そりゃもう気になって眠れなくな…
まあ、ぐっすり眠っていますが。


高経については
ブログ「暑中お見舞い申し上げます」
後半のてきとーなネタバレコーナーの ( ゚Д゚) < その三
で話したように
私は、全国でただ一人だろう熱烈高経ファンですが
(もっとすごい方いたらすみません
 でも今んとこ、気配すら感じません)
なんでそんなに高経なんかに…失礼、高経様
興味が湧いてしまったかというと
それはですね…
私は最近このブログでしょっちゅう
尊氏の秘密がどうのこうの」という話をしていますが
これはその内容の宿命的重さから
当然人に話せるようなものではなく
尊氏にとって心の内をさらけ出せる相手は
神仏だけだったようなのですが、しかし―――


まあこれは、明確な証拠があるのではなく
史料から分析した尊氏高経の言動より導いた可能性
(ただし、ほぼ100%に近い可能性)
…という話なのですが
おそらく足利高経
尊氏が誰にも(もちろん直義にも)話せなかった秘密を

 神仏以外で唯一打ち明けられていた、たった一人の人物

だったと考えられるのです。
(;゚Д゚);゚Д゚);゚Д゚) ななな、ぬわんだってえぇぇぇーーー!!???



つまり、高経こそ
尊氏がすべてを信頼していた本物の腹心であり真の友だった
という事
これで興味が湧かないでいられようはずが無い!
しかも初期スペックめちゃ高なのに妙に影薄いとか
わたし的どストライク!!
…まあ、私の性癖はどうでもいいのですが。

(私がしつこく「尊氏と高経は同い年!」と告知していたのは
 この関係があったからです。 ネタ的においし過ぎる!!)




というか、南北朝期の幕府方の人物の人気度って
尊氏派の方が圧倒的に高い…ってか
尊氏を一貫して支持した(…ように見える)」って理由が
人気度の最大要因になっているような気がするのですがw
だから
一見尊氏に反抗したと思われている直冬
どんなに正しく健気純粋だってエピソードがあっても
すごく評価低いし
反対に、どんなに人として間違った事してても
尊氏派だとされる武士は
「道理を破るのは革新的!元気!素敵!」
とかいうアクロバット擁護をしてもらえる
スーパーラッキーポジションを独占している訳でw


…と、いう事はですよ
高経の行動はこれまで
反尊氏派、あるいはどっちつかず
家格で対抗意識を燃やしていたとか、尊氏に疎まれたとか
散々な見解だった訳ですが
これがすべて、尊氏の秘密を知るが故の
真の意図を隠した意味ある行動だという事が知れ渡ったら…

当然それは、尊氏の指示によるものであって
尊氏高経は疎遠どころか、重過ぎる秘密を共有し
固い信頼で結ばれた関係だったって事が知れ渡ったら…
知れ渡ったら…

ぬおおぉぉぉぉーーーーー!!!
ってくらい、色々となんかもう大変な事になる訳ですよ!!!




すみません、だんだん錯乱して来ました
でも気持ちは分かってもらえるかと思います。




というか、みなさん足利高経なんて
これまで完全ノーマークだったでしょうから
いきなり登場されても
これまでの世界観崩れまくって大変困るでしょうが…
なんたってもし
『太平記』…が描いている時代を "青春群像小説" にするのなら
本来その最大の裏主題は…

 「尊氏高経友情物語

これが本当の『太平記』なんですよ?
目ん玉飛び出すどころの事態じゃねぇ
てゆうか、そんな南北朝小説ねえよwwwww 却下!!
とか思うよね、うん思うよね… (´;ω;`)

(※もっと言うと、尊氏高経に加えてあと2人
 主人公レベルがいます。 一人はもちろん直義
 というか、この二人の友情
 一つにはもちろん天下の為なのですが
 突き詰めれば結局は "直義の為" だったりする。)


まあ、現時点では
まごう方なき空気虚無な高経ですから
この先の道のりが果てしなく遠いだろう事は覚悟していますが
本当の『太平記』が知れ渡るまで
高経ファンたぶん筆頭の私としては責任を持って
高経を全力で持ち上げまくって行く所存です。

(私の脳内では既に、「the truth in 太平記」という
 痛いプロジェクト名まで付いています。)

という訳で
今日は足利高経の記念すべき肖像画第一弾を発表します。


足利高経斯波高経


って、消えそうwwwwww
まあ、そりゃ "虚無" ですから。


ちなみに、「七條殿」(しちじょうどの)というのは
一時期、高経邸七條東洞院にあった事に由来する別称
「玉堂」(たまのどう、ぎょくどう)というのは
東山清水坂の邸宅にいた時の別称です。

(※この東山の邸宅は、のちに高経の子義将によって
 絶海中津を開山に招き『玉泉寺』という寺院に改められています。
 (今はもう残っていないようですが。)
 この義将も、父に倣って「玉堂」を別号としていました。)



てゆうか、「玉堂」(ぎょくどう)ってもともと
「玉で飾った美しい殿堂」あるいは
「他人の家の尊敬語」って意味なんですがw
東山は洛外なので
通りに由来する邸宅名が付けられなかったからだと思いますが
それにしたって、洛外の山荘的邸宅だろうに
「玉堂」とか呼ばれ出しちゃう高経って一体www

(※『斯波家譜』には
 「東山玉泉寺に住していたから、諸人に玉堂と呼ばれた」
 とありますが、実際は上記のように時系列が逆で
 「高経が住んでたから玉堂と呼ばれた邸宅を、禅院に改めた」
 となります。)



このように「居所に由来する呼称」が色々残っている
というのは
世人から見た斯波家の家格の "特別さ" を表していると言えます。
(朝家や公家以外の)武家でこの傾向が顕著に見られるのは

足利家の「三条殿、三条坊門殿、室町殿、北山殿、東山殿…」
 (直義は三条殿の他に「錦小路殿、高倉殿」)
斯波家の「七条殿、玉堂、勘解由小路殿」


くらいですから。


つまり…
高経のサラブレッド指数って、マジで半端ないんですよ。
重要度最弱とか言ってネタにしてますけど(というか私がw)
実際は、本当に格が違い過ぎる貴公子な訳で
 (つまり、それを上回る尊氏直義って一体…)
家格も相当なもんですが
当然それに見合って、教養もむちゃむちゃ高い!
…という事を示す高経の筆跡
折角なので紹介したいと思います。


足利高経斯波高経法楽和歌

(斯波高経筆法楽和歌 忌宮神社所蔵
 『大日本史料』第六編の28 …の、p.182-183の間より引用)


めっちゃ達筆!!
こういう強弱のある筆遣いすごく好きw
思った通りの洗練された筆跡
私これ見た時、高経愛にターボがかかりました。

ちなみにこれは、ブログ「夢想の結果」で紹介した
尊氏直義自筆法楽和歌と同じものですので
見比べてみて下さい。
(どれもみんな良いですが。もっと大きい画像のがいいかな?)
内容については
詳細な解説が必要な重要史料なので、また後日。



(ついでに言うと、上記の「玉堂」とは
 大陸の「翰林院」(かんりんいん)という
 唐代以来の官庁で、儒学者文学士が集った学士院の
 別称でもあるのですが
 おそらく、それを知っていた禅僧あたりが
 高経の尊貴性博識をかけて
 「玉堂」と呼び始めたんじゃないかな〜 と思う。)





しかし、このような特別な地位にあったにも拘わらず
幕府誕生 〜『観応の擾乱』以前の京都安定期では
高経の存在感は不自然なくらいに薄い…というか
今となっては
高経の事はあまり知られていないが
高経がいるんだかいないんだか分からない事はよく知られている

という注目度最弱キャラで
実際当時も、幕政に直接参加していた兆候がない…
 (他の足利一門はみんな参加してるのにw)

一方で、直義とは親しげなエピソードがいくつかあって
この事と、以下に述べる「鬼切鬼丸」の件から
 高経尊氏から疎外されていた」
みたいに言われていますが
しかし―――
本来、直義の片腕になっていてもおかしくない高経
この時期幕政から距離を置いていたのは
決して高経が一人でつんつんしてたとか、嫌われてたとかではなく
これこそが、尊氏の意向を反映した "策" であり
二人の間には、いわば約束事があった
…という結論に達した時は、流石に私も震えが来ました、はい。

(というか、それ以前に
 あの性格の尊氏が「人を好き嫌いで疎む」とか
 どう考えてもしないと思う。)


つまり…
高経の虚無性先天的なものではなく
 「尊氏に虚無ってるように言われたから」
という、後天的なものだった訳ですよ!!

なにそれ (  Д ) Д ) Д ) ゚ ゚ ゚ ゚ ゚ ゚ ポーーーーン


(すみません、話がすっ飛び過ぎて来ましたが
 とりあえず結論だけ先走って
 (本当の)高経のイメージを最初に確立させておきたいので
 よろしくお願いします。)


実際、高経は『観応の擾乱』以降は存在感上げて来ますし
尊氏亡き後は、幕政の中心に立つ事になりますからね。
あ、あの高経がw 遂に虚無のヴェールを…

そうつまり、『観応の擾乱』以前の高経は
虚無被ってたんだよっっ!!
だから見えなかったんだよ!!!
…という図解↓


斯波高経…というか足利高経の虚無被衣

(※(棒)…棒読み。)

なんか、未来のアイテム的な。
いや、過去だからロストテクノロジーか…



ちなみに「被衣」(かづき、かずき)とは
女性が外出時に、顔を隠す為に被ったです。
中世では主に、(ひとえ)や小袖が用いられました。
女性の他にも
男性がどっかに逃げる時に "女性に見せかける為" とか
高貴な稚児(ちご)なんかも
人目を偲ぶときは被(かず)いたようです。(『芦引絵』)

(※被(かず)く…頭に被ること。)




ところで、上記の有名な「鬼切鬼丸」の話ですが
これは『太平記』の記述で
『観応の擾乱』以降、高経はほぼ
いわゆる反尊氏派として戦っていたのですが…

もともと高経は一族の中でも忠戦比類なく
将軍もそれを特別賞賛して、世間でも重んじられていたのに
なんで将軍に背いてんの?? なんか理由あんの??
マジで意味分からんのだけど???
…と疑問に思った『太平記』の筆者が
その訳を調べたところ
(幕府誕生の翌々年の)建武5年(1338)閏7月2日
高経軍が越前国で、南朝の新田義貞を討ち取った時
高経は、新田義貞が倒幕以来所持していた
「鬼切・鬼丸」(おにきり・おにまる)という
二振(ふたふり)の太刀を入手したのだが
これは「源平累代の重宝」という宝刀であったので
尊氏
「これは末々の源氏が持つ代物じゃない
 嫡流のうちが相伝するから急いで進上するように! OK?」
と催促したところ
それを惜しんだ高経が(ふ…渡してたまるか)と内心企み
太刀を預けておいた時衆の道場が炎上して
 太刀も一緒に焼けちゃいました!」
と言って
予め用意しておいた同じ長さの太刀二振を
わざわざ丸焦げにして尊氏に差し出してまんまとやり過ごし…
…たと思ったら、その嘘は後で見事にばれてしまい
将軍ぶち切れ、しかも高経逆ギレ
以来関係は悪化
『観応の擾乱』で反尊氏派と化す高経であった、マル。

…という話なのですが。



てゆうか!! これはどう考えてもてきとーな作り話です!!

だいたい、斯波家は源氏の末流どころか
当初は"ほぼ足利" だった訳で
本当は高経の家系が足利宗家を継いでいた可能性も
めっちゃ高かった
…という事情をよく知っていただろう尊氏
当時まだ足利を名乗っていた高経
「末々の源氏」なんて言い方するって…
不自然にも程があります!


しかもこの話は
冒頭では
「(これまで)将軍高経の忠功を特別賞賛していたのに…」
と言っているのに
鬼切鬼丸の話の後では
「怒った将軍は、高経に忠功に見合った恩賞を与えず
 建武5年以来そんな事が重なって、それで高経が逆ギレた」
と言ってて、矛盾してんじゃん! ってゆう。


極めつけはあれですよ
その後、「鬼丸」(=鬼丸国綱足利将軍家
「鬼切」(=鬼切安綱
高経の弟家兼の子、兼頼の家系の羽州探題最上家
それぞれ伝来しているんですよ。
それってつまり…

 尊氏高経半分こしたってことじゃん!!
 なにそれ超仲良いじゃん!!!

もし『太平記』の通りなら、二振とも斯波家に伝わっているはず。



という訳で
「鬼切」「鬼丸」の件で
高経がせこい嘘付いて独り占めしたとか


超てきとーな作り話です!!


まあおそらくは、『太平記』の筆者の作り話ではなくて
当時の超てきとーな噂話
そのまま書き留めてしまっただけだと思いますがw


『太平記』は、明らかに事実と異なる話も多いのですが
 悪意のある捏造はない…と思う。
 この「鬼切鬼丸」の話も、噂の出どころがあったとしたら
 それは、足利高経の話ではなく
 新田義貞の話だったんじゃないかな〜と思います。
 鎌倉幕府倒幕後に、鎌倉にあった源平累代のこの太刀を
 新田義貞が自身のものにして所持していた事は
 有名だったようで
 『太平記』にも度々描かれていますが
 倒幕後、すなわち建武政権期
 「尊氏太刀の受け渡しを求めたら
  新田義貞はあれこれ理由をつけて拒否った」

 という可能性は大いにあると思うww
 (この時期には他にも、『太平記』に
  「義家の二つ引両の旗」という似たような話があるし。
  流石に「焼けた太刀を進上…」は嘘だと思うがw)

 当時、足利新田では、社会的に明確な家格差があって
 この倒幕でも、新田義貞はあくまで
 足利軍の指揮下にあったそうなので
 これなら、尊氏の要求も正当なものと言えますし
 実際、二振とも新田義貞が所有し続けていますし。)




つまり、普通に考えて
高経戦果報告と共に太刀も一緒に進上しただろうし
たぶん、尊氏から高経「鬼切」をプレゼントしたのでしょう。
(それを高経が、文和3年(1354)の
 弟家兼奥州下向時に持たせてやったんじゃないかな、と思う。)

そう考えると、この「鬼切鬼丸」の話は
実は、めっちゃ良い話…という事に (´;ω;`)



(※2016.1.4追記―――
 「鬼切」を相伝する事になった羽州探題最上家の祖
 足利兼頼(かねより)

 高経の弟家兼次男で、高経のに当たる訳ですが
 高経の長男家長(※兼頼にとっては年上従兄弟
 関東執事を務めていた頃
 まだ幼少の兼頼(※当時は幼名竹鶴)は
 家臣に支えられて陸奥国の大将として現地に赴き
 家長東国統治の一翼を担っていました。
 (…以上参照は
 【小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館)1980】
  …の、p.379、p.385注(2) )

 つまり兼頼は、従兄弟家長
 東国での任務で深い関係があったのですが、この事から
 「鬼切」の伝来は
 伯父高経 → 父家兼 → 兼頼 という間接ではなく
 伯父高経 → 兼頼 と直接伝わった可能性のが高い気がします。
 (前者の場合だと、なぜ家兼の長男直持に伝わらなかったのか?
  …という疑問が残ってしまう。)

 高経は、当時家長に従って東国〜奥州にいた甥の兼頼
 17歳にして世を去った長男の面影を見ていたのかも知れない…
 …というのは、妄想し過ぎかも知れませんが
 かなり(というか圧倒的にw)形勢不利だった越前の対新田義貞戦
 奇蹟的な逆転勝利を得られたのは
 前年の12月に亡くなった家長助けがあった為だと
 感じていたのは確かだと思います。)




まあ、傍(はた)から見たら
尊氏高経の間に秘密があったなんて知る由もありませんから
なんか一人で虚無っぽかったり
そうかと思えばいきなり将軍噛み付き出したり…
とか意味不明な行動を繰り返していたら
強引な詮索をしたくもなるだろうし
妙な噂がこじつけられてしまうのも理解出来ます。

これも元はといえば…
二人の関係を隠してすっとぼけていた尊氏に責任がある!!


斯波高経ってゆうか足利高経


(ところで前回
 うっかり自分から「菊綴」の事に言及してしまった手前
 描かない訳には行かなくなって、頑張って描いてます。)



という訳で
初登場で目出度くキャラが固まったところで
今日の与太話はこの辺で。



てゆうか
鎌倉旅行中なのにどこまで高経で引っ張るんだよ!
とか思われるでしょうが
まあでも…
高経も、尊氏直義と同じように
20代後半までを過ごした故郷は鎌倉ですので
「室町的鎌倉旅行」には不可欠の妄想分です。


ちっちゃい頃、みんなで遊んでたのかな〜(夢見)とか
裏山に秘密基地作ってたのかな〜(口半開き)とか



すみません、色々と緩み過ぎました。(脳とか口とか)
でも高経って
調べれば調べるほど、本当に尊氏忠実なのですよw
信じられないかも知れませんが、忠誠度トップレベルですよ。
おそらくこれは
幼馴染として過ごした子供時代があってこその
信頼関係だったんじゃないかなぁ〜と。
尊氏にとっても、理屈抜きに心を許せる相手だったように思います。


将軍に忠実な上に
虚無高貴ロステク高経様マジやんごとない!!
…とかいって人気が出る日を
心待ちにしています。



posted by 本サイト管理人 at 23:54| Comment(2) | ★チラ裏観応日記

2016年01月01日

正月奉納連画2016 第一弾

(チラ裏シリーズ)

明けましておめでとうございます。
新春『チラ裏観応日記』です。

去年一年間
この場末の室町ブログを飽きずに読んでくれた皆様
本当にありがとうございました。
室町ファン尊氏直義ファンが一人でも増えるよう
今年も一層
全力で "室町" を語り尽くして行く所存ですので
どうぞよろしくお願い致します m(_ _)m



さて、今年も一年の祈願を込めて
正月三箇日連続企画「正月奉納連画」
必死で作成しましたので
武家源氏の氏神にして大画伯菩薩であらせられる
我らが "八幡大菩薩" に謹んで脳内奉納し
新年の御挨拶に代えたいと思います。

(※「正月奉納連画」とは
 中世武士が神仏に「願文」を納めて祈願する慣習に準えて
 「連歌」ならぬ「連画」を奉納して新年の「本意」を祈る伝統行事。
 去年思い付きで始めた。)





ちなみに、去年の本意は「源氏元年」だったんですけど
何かが眠りから覚め…!!?
…たかどうかは知りませんが
でも、室町南北朝関連の
 「本格的でありながら一般向けに書かれた書籍(※)」
の類が
なんか色々誕生していたような気がしないでもないような気が…する。

(※…これまでの
 既存の説をまとめた歴史概説書や歴史系読み物とは
 かなり内容の質が異なり
 学術書を出している研究者が
 「最新の研修成果を一般向けに書き直してみた」みたいな
 読み易いのに論文レベルの本、の事です。)


まあこれは、近年の傾向であって
去年に始まった事でもなんでもないのですが
でも、今後も益々期待して
今年も引き続き「源氏二年」でよろしくお願いしたいと思います。

是非みなさんも、新しい本を色々と読んでみて下さい。
楽しいですよ。





さて、2016年の「奉納連画」に参りたいと思います。
第一弾は、新春にして初登場の―――

上杉憲顕(のりあき)です!!


上杉憲顕

(※クリックすると拡大します。750×1000px )



スズメと戯れています、上杉なだけに。
(※上杉家の家紋「竹に雀」については
 ブログ「夏休みの宿題(その1)」をどうぞ。)

まあ、憲顕レベルだとスズメと会話くらい余裕だと思います。



上杉憲顕については
今の所、上記ブログ記事でチラッと語っただけで
まだ全然解説が足りていませんが
尊氏直義の従兄弟であると共に
『観応の擾乱』の謎解きの鍵を握る重要人物
今年はたくさん出番予定がある、私の中の最注目株ですので
どうぞ御期待下さい。
(さ、最注目って…
 前回登場したばかりの高経様の立場は… ま、いっか。)


確かに主要人物ではあるけど…そこまで重要か?
と思われるかも知れませんが、これがまた
憲顕になりきって憲顕の動向を追っていると… Σ(゚Д゚ )!!!??

ま、とりあえず今は
直義と仲が良い…という事だけ押さえておけば十分かと。


直義超絶マニア目線で相変わらず本当にすみません。
 今年こそはこの偏愛を改めようと
 ただ今苦行を積んでいる最中です。)




てゆうか、なんでスズメとおしゃべり中なのに
背後がイーグル(鷲)なんだよ!!
とか思われたでしょうが…



上杉憲顕に限らず
上杉家は全般に品行方正優等生のイメージがあって
 (…え、私だけかな? みんなもそうだよね??)
実際、"普段の" 上杉憲顕
室町中期(6代目義教の時代)の上杉憲実(のりざね)なんかも
見事に誠実忠実教養も格段に高く(足利学校再興とかね)
特にこの二人は
晴れ渡った空の如くハイレベルに清い
かなりわたし的どストライクなのですが
しかし憲顕というのはこれがまた
可愛いスズメかと思いきや
直義が絡むと容赦なく本気出しまくって来る
…というのは
『観応の擾乱』の見せ場の一つだったりします。
 (つまり、さらに私好みの超絶変化球投げてくる。)



『観応の擾乱』は
貞和5年(1349)に始まって
観応元年(1350)10月から翌観応2年(1351)2月にかけて
最初のクライマックスを迎える訳ですが
"京都" の幕府内での対立・衝突がメインではあるものの
この擾乱はもちろん
"鎌倉" の幕府勢をも巻き込んで進行した一大騒動でした。

(巻き込んだ…は語弊があるかな。
 『観応の擾乱』はむしろ
 鎌倉にこそ、最初の火種がくすぶり育っていた
 …という事に、誰も気付いていなかった
 のがすべての始まりだった
 という事件だったりするので。 Σ(゚Д゚ )!!!?? )

(※↑ちなみにこれは、上杉憲顕は関係ありません。
 (直接の当事者ではない=悪くない、という事。)
 ―――2016.1.23追記 )



…まあ、この辺は
今後詳細に解説していく事になりますので
今日の所は、関連箇所の簡単な紹介だけ。




観応元年(1350)当時の鎌倉は
前年に鎌倉の主君として下向した
11歳の足利基氏(※尊氏実子で直義猶子)と
それを補佐する関東執事
上杉憲顕高師冬(こうのもろふゆ)(※高師直の従兄弟で猶子)
という態勢だったのですが
京都での「直義」「尊氏・高師直」という対立は
鎌倉では、「上杉憲顕」「高師冬」の対決という形で現れます。


ただしこれは
単に "派閥" を背景とした代理戦争…という訳ではなく
前年の貞和5年(1349)の京都での騒動で
上杉憲顕は、実の従兄弟で義兄弟の上杉重能
高師直に殺害されているので
(さらに、上杉憲顕の実子能憲(よしのり)は
 重能の猶子となっていたので、養父を失った事になる)

上杉一族にとっては
弔い仇討ちを兼ねた、鎌倉平定かつ京都への援護射撃であり
そしてその他の鎌倉勢
幕府誕生以来
長らく関東執事として政務を主導して来た上杉憲顕に従う者が
圧倒的に多く
鎌倉でのこの時の騒動は
京都より1か月早く、上杉憲顕方の勝利で決着します。


(※京都にいた上杉重能(しげよし)は
 尊氏の側近であり、直義の近臣でもあり、従兄弟でもあり
 二人にとっては、血の繋がりもあって特別な重臣でした。
 一般には "直義派の重要人物" とされていて
 尊氏との関係に注目した文献は数えるほどしかないのですが
 ここにこそ、真相の一端が隠されていた
 という大注目ポイントですので、気にしておいて下さい。)



というか
観応元年(1350)11月12日
上杉能憲(※憲顕実子で、亡くなった重能の猶子)が
直義派として常陸国で旗揚げした為
12月1日上杉憲顕が鎌倉を立って上野国に向かったところ
12月25日高師冬
足利基氏(※この時点では元服前なので光王御前)を連れて
鎌倉を出て相模国毛利庄湯山に着陣… するのですが
12月26日には、上杉方が基氏を取り返し
3日後の12月29日
上杉憲顕基氏と共に鎌倉に帰還
という、イリュージョン的な早業

その後、甲斐国逸見城に立て篭もった高師冬を討つ為
観応2年(1351)正月4日
上杉憲将(※憲顕の嫡男)が数千騎を率いて出陣し
正月17日に、高師冬が討ち取られて(あるいは自害により)
2週間で決着…


どう見てもスズメの速度ではない…



しかし、問題はこの後で
鎌倉静謐でほっと一息… するかと思いきや
上杉憲顕はなんと
その勢いのままで、京都にとっ込もうとしていたってゆうww
しかも、完全な独断でw
京都では、直義高師直を相手に戦っている最中でしたから。

やつにとって、この鎌倉の一大騒動
準備体操でしかなかったのか…


上杉憲顕の上洛計画を知った直義
この度の戦功を絶賛すると共に…

「じょ、上洛??
 (落居直後で)今大変な時なのに、じょ、上洛???
 (こっちは大丈夫だから落ち着いて!!www)」
  (↑3行目エスパー意訳)

…と、めっちゃ驚いて止めに入った書状↓


直義書状

(足利直義自筆御内書(上杉家文書)
 【上島有『足利尊氏文書の総合的研究(写真編)』
 (国書刊行会)2001】 …の、p.83-84より引用)



これは、直義の自筆なのですが
直義偏愛マニアの私に言わせると
直義にしてはだいぶ字が崩れている…ので
相当焦って記したと思われるw

書状の日付は2月3日(at 京都(※正確には石清水八幡宮)
となっていることから
正月17日の決着後
本当に間髪入れず飛び立つ気だったらしい。
完全にタッチアンドゴー

って、お前はどんな戦闘機なんだよwwww
落ち着けよwwww


という訳で
背景がイーグルになりました。




ちなみに上杉憲顕
この直義の一言で、広げた翼を休める気になったものの
2月8日には
「東国軍勢数千騎」(『園太暦』)を率いた嫡男の上杉憲将
さらに2月15日には
上杉能憲(※憲顕実子で重能猶子)も上洛していますから
あんまり気持ちは静まっていなかったようだw

とは言えこの…

イーグル遷移状態上杉憲顕をコントロール出来るのは
 直義だけ」

という点はよく覚えておいて下さい。
これは、『観応の擾乱』における憲顕の行動を解明する
重要なヒントになります。

二人の最後の別れの… (´;ω;`)
おっと、悲しい話は今日はよそう。




というか、言ってはなんだか
上杉憲顕直義よりも戦強いと思うw
 (いや、直義が弱すぎ… すみません禁句でした)
一見、文武なら文道特化型っぽく見えて
戦で予想外の無双を見せつけてくる意外性キャラ
ってのが、すごく好きなのですが
その上直義マニアとか、もうどうなってんだよ!!
 (師匠と呼ばせて下さい m(_ _)m )
やばい、ほんとやばい!!!
錯乱する!!

…という事が早くみなさんに伝わるよう
今年は

憲顕直義が絡むと
 戦闘機にトランスフォームして見境がなくなる

という「上杉憲顕イーグル説」
大々的に唱えて行きたいと思います。



(…というのも、憲顕はさらにこの後
 これまでとは比べ物にならない覚悟で大空に飛び立ちます。
 だいたい予想は付くと思いますが… 直義亡き後、その直後に。
 ああもう、この辺は涙腺が崩壊するから
 今日は保留!! (´;ω;`)(´;ω;`)(´;ω;`) )





という訳で
「正月奉納連画」第一弾は上杉憲顕でした!

第二弾はお待ちかね…
うん、まあ、明日に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 15:06| Comment(2) | ★チラ裏観応日記

2016年01月02日

正月奉納連画2016 第二弾

(チラ裏シリーズ)

こんばんは。
新春二日目『チラ裏観応日記』です。

という訳で
三箇日連続企画「正月奉納連画」第二弾
前々回の「室町的鎌倉旅行記(その2)」
彗星の如く初登場を果たした "太平記時代" の裏要人

足利高経(たかつね)です!!


足利高経斯波高経

(※クリックすると拡大します。750×1000px )



え、何、もう記憶から消えかけていただと?
まあ、私が
僅かながらも知名度のある "斯波高経"(しばたかつね)と呼ばないで
頑(かたく)なに "足利高経" と呼び続けているから
誰それ状態を誘発してしまっているのでしょうが
 (つまり、とんだ逆効果)
しかし、やはり名前は重要です。



ところで、背景の翼は「鶴」をイメージしたのですが
これはなぜかと言うと
高経の元服前の幼名(おさなな、ようめい)が…

 「千鶴」(ちづる)だから。 (あるいは千鶴丸

なにそれかわいいw
しかも、3歳下の弟家兼(初名時家)の幼名は…

 「千代鶴」(ちよつる)(or 千代鶴丸

ひな鶴兄弟ww


さらに記録が残っているものでは
家兼の次男兼頼「竹鶴」なので
 (※建武3年3月相馬長胤軍忠状に「大将軍足利竹鶴殿」)
おそらく、この頃の斯波家の子弟はみんな
ひよこ時代は "鶴" がついていたんじゃなかろうか…
という事で
私の中で室町最初期の斯波家は
「鶴」のイメージで決まってしまいました。

美しく儚げな感じがぴったりです。



というか、「鶴の翼を描こう」と思って
参考に "タンチョウ" の画像検索をしてたら
タンチョウの舞(いわゆる求愛ダンス)が気になってしまって
YouTubeで動画を探したところ
素晴らしいのをいくつも上げてる方がいて見入ってしまいました。
タンチョウってこんなに美しい鳥だったんだ…と。
本当に芸術品のようです。


(こう思っている人はあまりいないと思うけど…)
私にとっては、尊氏直義が活躍する "太平記時代"
奇蹟のように美しい話にあふれた時代なので
それとタンチョウの舞う姿が重なって
思わず涙が出てしまいました。
なんというか
美し過ぎて届かない…ような思いに駆られて妙にへこんだw
同じ国の、昔あった本当の話なのに―――




…って、高経ネタからの派生で感動してしまうなんて!!
私の中で高経はそんな立ち位置ではない!!

こんな立ち位置↓

千鶴高経


ちなみに右から…

上杉憲顕 徳治元年(1306)生まれ
足利直義 徳治2年(1307)生まれ
足利尊氏 嘉元3年(1305)生まれ
足利高経 嘉元3年(1305)生まれ

です。

(上図はデフォルメしてあって子供っぽいですが
 直垂を着ているので、みんな成人後のおっさんです。)



それから、翼はあくまで背景イメージのつもりで描いたので
高経天使になっているとかいう訳ではありません。
まあでも、高経様はやんごとないので
羽くらい生えていたと思います。

ついでに言うと、高経の髻(もとどり)は
単なるポニーテールではなく
結わいた根本を隠したアップ系です。
なんか… ゴージャスな感じ。






ところで、名前といえば
高経にはもう一つエピソードが。

当時の(広義の)法名的なものには色々あって
在家の仏教徒で言えば
入道後に法体(剃髪&僧衣)となって名乗る「法名」の他
俗人のままでも
帰依していれば「道号」とか「別号」とか名乗ったりしていて
そして、亡くなった後に贈られる「追号」というのもありました。


直義で言えば…
道号が古山、法名は慧源(えげん)、追号が大休寺殿
で、繋げると
「大休寺殿古山慧源」となります。

それから、尊氏の追号は言わずと知れた「等持院殿」ですが
このように
追号は墓所である「菩提寺」の寺号である事が多いです。



で、高経はと言えば
道号が日峰、法名が道朝
追号は当初「東光寺」だったのですが
後に「霊源院」(れいげんいん)に改められました。

これはなぜかと言うと
高経の四男は
足利義将(よしゆき)(or 勘解由小路殿)といって
3代目義満、4代目義持の時代に
管領を何度も務めた室町幕府の重鎮中の重鎮ですが
その義将が、ある日父の夢を見た。

夢の中で父曰く…

 高経「今、霊源院ってところに居るんだ〜」

そして義将は、父の追号を「霊源院」に改めた。



つまり…
高経の追号は、墓所とか菩提寺とか
そんな目に見える現世の存在なんかじゃなく
あちらの世界でお住まいになっている本当のおうちだったんだよ!!

(;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) な、なんだってーーーーー!!?


"霊" が「神霊」「神秘」という意味だから
「神聖なる源氏の御殿」と言ったところか…

さすが高経
現世でも「玉堂」とかいうヘブンっぽい所に生息していたのに
実際ヘブンでも宮殿系にステイとは。

やっぱり高経様くらいのレベルとなると
あの世でもやんごとない暮らしをなされているんですね。
納得です。


(※以上、夢の話の出典は『斯波家譜』です。
 『斯波家譜』は『大日本史料』にも部分的に掲載がありますが
 まとまった翻刻は
 【木下聡編『管領斯波氏(シリーズ・室町幕府の研究 第一巻)』
 (戒光祥出版)2015】
 …をどうぞ。)





という訳で、新年早々
ありがたい高経様のおめでたいお名前の話でした。

七條殿とか玉堂とか千鶴とか霊源院とか
高経は楽しい名前がたくさんあって、ネタに事欠きません。
キャラ付けが捗る捗る。




というか…
なんでそんな立ち位置(どんなw)の高経なのに
思い詰めた顔してんの?
と思われたでしょうが
この絵は半年ほど前
高経の真相に目覚めた時に紙に描いておいたイメージ図を
下書きにして描いたものなのですが
高経尊氏が抱えていたものって…
本当に深刻な物語なのですよ。

尊氏は、みんなの前では「軽々しく」振舞っていたい(『梅松論』)
と笑っていたけれど
後ろに悲しみを隠したものの放つ輝きというのは
この世のものとは思えない美しさがあって
胸が締め付けられます。



おっと、新年なのだから明るく明るく。
まあ高経
表面的にはクールを装っているのだけど
尊氏に遊ばれるキャラ… みたいな?
いや、みたいな?とか聞かれても。


さて、三日目の明日は遂に…
今年の「本意」が完成しますw



posted by 本サイト管理人 at 19:58| Comment(0) | ★チラ裏観応日記