2016年01月03日

正月奉納連画2016 第三弾

(チラ裏シリーズ)

こんばんは。
新春三日目『チラ裏観応日記』です。

では早速
「正月奉納連画」に詰め込んだ今年の "本意"
天に届けてくれるのは…

足利将軍兄弟直義尊氏です!!


足利直義


足利尊氏

(※クリックすると拡大します。750×1000px )


背景の翼はもちろん
伝説の瑞鳥「鳳凰」をイメージしました。
まあ、鳳凰とか見たことありませんが。
でも聖人の出現の兆しとして、この世に現れる事があるらしいですよ。




さて、今回は
それぞれ縁のあるアイテムを持たせようと思って
上杉憲顕にはスズメ尊氏には鳳笙
それから高経には虚無被衣(きょむかづき)
…にしたかったのですが
描けませんでした (´・ω・`)
(折角、安易なキャラ付けアイテム考えたのに描けないとか
 自分どんだけ致命的なんでしょうか。 苦行が足りてません。)


では、直義が不思議そうに見つめているのは何かと言うと
「如意宝珠」(にょいほうじゅ)です。


(如意宝珠についてはブログ「室町絵師ランキング(第3位)」を。
 要するに、お地蔵様が左手に大事そうに持っているたまたま
 あらゆる願いを不思議に叶えてくれると言われます。)


理由はもちろん
直義の(実の)一人息子、「如意王」(にょいおう)からです。




直義には40歳過ぎまで子供が出来ず
兄の尊氏から養子を貰って大事に育てていた
…という話は以前少ししましたが
なんと、数え41歳にして奇蹟的にも子を授かります。
この時、直義の奥さんも同じ歳だったので
 41歳初産とは…」 (『園太暦』ほか)
と、当時の日記に公家達の驚きが記されているように
やはり普通に考えても普通の事ではなかったのではないか…
と思われて仕方ない訳ですが
何より…
一番直義本人が驚いたと思うw
自分の子はすっかり諦めていた頃だろうし
直義にとって兄の子
心の底から可愛くて仕方なかったでしょうから
 (↑直冬基氏の懐き方が尋常じゃないのでw)
未練もさほど無かったと思うし。


如意王誕生時、直義の元には
 光王(のちの基氏)8歳、女の子5歳
 それから既に直冬(20歳くらい)もいたのは間違いないから
 実は直義夫婦
 二人だけの寂しい家庭…ではなく
 子供に囲まれた賑やかな家庭を築いていたんだったりするw)





というか、如意王については…
『観応の擾乱』が始まる2年前
あれだけ子供が出来なかった夫婦に突如として
しかも41歳の初産にして平産(安産)」(『園太暦』)という
無為無事大慶(『師守記』)で生まれた男の子
そして
 希代大合戦」 (『観応二年日次記』観応2年2月18日)
と言われた
擾乱最初の一大合戦が、直義派の快勝で決着した直後に
数え5歳(満3歳10か月半)で父に別れを告げて逝ってしまった
…という
考えれば考えるほど、幻のような存在
もしこれが『太平記』だけの記述だったとしたら
絶対に実在を信じなかったレベル。
でももちろん
日記とか書状とか、現存の一次史料に多くの記録が残る
確実に確実な史実なのです。




とは言え、そのあまりの不思議さから
(よく知られた話ですが)『太平記』では…

ある日
南朝の亡き者達…護良親王と天狗と化した僧侶達が集まって
武家による太平の世が妬ましいので
再び天下を崩壊させて見物を楽しむ為に
僧侶達は、近臣達の心に乗り移って幕府に内紛を起こし
護良親王
人並み外れて禁欲・清廉な直義の心に邪心を抱かせる為
"直義の子として生まれ変わり"
尊氏直義の仲を引き裂こうと企んだ

という話にされているのですが―――

正直この話は本当に酷い!!




まあ『太平記』は
世の中の成り行きを "因果" "自業自得" で説明しようとしていて
それは、人々の今の行いを正し
太平の世を願う気持ちからのものであって
悪意からのものではないのですが(…と私は思う)
とは言え
 勝者正しいから勝った、敗者間違っていたから負けた」
という論調にする為
時にやり過ぎなこじつけがあって
"道徳を説く" という本来の目的に逆行しているのが何とも…。


まあ、大人の心なら
その "弱さ" に魔物が巣食うという事はあるでしょう
しかし
何の罪も無い子を「禍の種として生まれた」だなんて
長く生きられなかった幼い子の事も
幼子を亡くした直義の気持ちも
あまり無視し過ぎていて、感覚が麻痺しています。
(# ゚Д゚) ムッキームッカー!!!


(というか「天下の崩壊を見物して楽しむ」って…
 護良親王にも失礼だと思う。
 しかも、この話は
 擾乱が起きる以前にどっかの僧侶が天狗の談合を垣間見て
 その後、実際すべてがその通りになった
 …という筋書きなのですが
 どう見ても、結果を知った者完全後出しで捏造した噂話
 という稚拙な風説で、後味の異常な悪さだけが残ります。)



人の世には時に、が勝ち、が負ける時もあって
その時は
に善を、に悪を見出して現実を誤魔化すのではなく
ありのままに「天道是か非か」を問う事で得た教訓を
後の世に生かすべきでしょう。
それが本当の "因果" であるはずです。


「なぜ、天は悪を選ぶ時があるのか…」
 という、もどかし過ぎる命題は
 『観応の擾乱』第二期に突きつけられる事になるので
 覚えておいて下さいw )




そもそも、兄を支える事に至上の喜びを感じていた直義
自分の子が出来たからと言って
我が子を将来の将軍にしようと、いきなり尊氏叛意を抱く
…なんて筋書きには
無理がありまくりもいいとこです。 ヽ(`Д´#)ノ ムッキー!!

私に言わせると
子を授かった直義の心に、一番に浮かんだ最大の喜びは…

「(自分を支えたように)
 将来自分の子が、将軍となった兄の子を支えるんだ」


という眩し過ぎる未来だったと思います。
それはつまり…

 自分がいなくなった後も「自分を支えていける」

という事を意味する訳で
直義は本当に、こういう事に究極の喜びを感じるようなやつなのです。
如意王の誕生は直義に
(ありふれた欲望なんかではなく)
もっと美しい自信希望を与えた事でしょう。


(まあこの辺は、今は妄想にしか聞こえないと思いますがw
 この先色々なエピソードが明かされていけば
 きっと賛同してもらえると思います。)






…という訳で
私は基本的に『太平記』はとても好きなのですが
だからこそ
この如意王の話だけは、何が何でも認められん!!
断固として改心を要求します!!

とは言え、何かの生まれ変わり…とか思いたくなるほど
如意王の存在が常識では考えられない気がするのは確かな訳で
『太平記』の説に異を唱えるのなら
じゃあ、これをどう説明するのか…
という難問に直面する訳ですが―――


しかし安心して下さい、この謎については
なんと、尊氏が有り難い証言を残してくれています!!
もちろん一次史料でw  Σ(゚Д゚;) マ・ジ・デ!!?

如意王はもっと特別な存在です。
きっと、直義が純粋だからこそ授かった奇蹟なのでしょうw





ところで、「如意王」って
如意宝珠 → 地蔵菩薩 を連想させるから
どっちかっていうと尊氏っぽい命名のような気がしませんか?

直義が、自分の初めての子の命名を尊氏に求めた
…というのは200%くらい有り得そうな話ですが
如意王の正体を知っていた… かも知れない尊氏なら
実に付けそうな名前だな〜 と私は妄想していますw





奉納☆.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆八幡大画伯!!






さて、「正月奉納連画」が出揃った訳ですが
繋げると今年の本意は…

 「the truth in 太平記」

です。

……。
新年早々痛いこと言ってすみません。
で、でも、キャッチコピーは多少厨二なくらいが
め、目が覚めていいんじゃないかと…



(まあ気を取り直して…)
これは、"軍記物語としての"『太平記』の真実…という意味ではなく
『太平記』が描いている時代…すなわち "太平記時代"
歴史の真実が甦るように
という気持ちを込めた願いです。



『太平記』というのは
鎌倉時代末、後醍醐天皇の即位(1318)くらいから始まって
『元弘の乱』(1333)による鎌倉幕府終焉
約2年半の「建武の新政」を経て
尊氏直義による室町幕府の創設(1336)
それから13年間の
北朝幕府による天下の秩序回復京都安定期
その一方で打ち続く南朝との戦い
そして『観応の擾乱』(1349〜)を境に再び訪れる乱世
それを生涯最後の仕事として平定し
人生の幕を閉じた初代将軍尊氏(1358)
最後は、次の世代である
2代目将軍義詮初代鎌倉公方基氏の時代の終わり(1367)まで
…という
壮大な歴史を記した一大軍記です。


約50年間と言う期間の長さと
激しく動いた「動乱の時代」という事で
登場人物も多岐にわたり
も留まることなく移り変わって行くので
読む人によって、その主題主人公も様々だと思いますが
ただやはり
この時代に、誰よりも特別な存在感を放っているのは…
足利尊氏だと思います。



…というと
方々から反発を受けそうですがw(本当にすみません m(_ _)m )
決して他の魅力的な登場人物を否定している訳ではなく
それでもやっぱり『太平記』って
尊氏が活躍していた25年間が妙に輝いている… というか
それゆえ尊氏亡き後
世界が急に精彩を欠いてしまうように感じるのは
人々の心に
ぽっかり穴が開いてしまったせいなのではないかなぁ… と。


『梅松論』に…

「この(尊氏の)ような将軍の時代に生まれ合い
 国民が軒を並べて楽しみ栄える事が出来るのは
 なんと目出度い事だろう」

とあるのは、大袈裟な事でもなんでもなく
本当にそういう人だったんだろうと思います。

尊氏を中心に時代が回っているように見えるのは
(決して室町好きの私の贔屓目ではなく)
やはり、当時の人々の心がそこに最も惹き付けられていたから
…という必然なのでしょう。



(※ちなみに私、現時点では
 『太平記』断片的に読んでしまっていて
 頭から通読していないので
 実は全く以て偉そうな事を言える立場ではありません。
 そのうち通読します。 本当にすみませんww m(_ _)m )




そんな訳で
この "太平記時代" を語るなら
尊氏と、それから直義が中心となる事に異論は…
(…あると思いますが、取り敢えず今は大目に見てw)



とは言え、この時代は
尊氏直義で完結するものではなく
『太平記』が次代義詮基氏まで綴っているように

 「次の時代に繋いで行く者達」

もまた…
いや、尊氏と直義の遺志を受け継いだ "彼らこそ" が
この物語の "帰結" を語ってくれる訳で
それが誰かと言えば―――

 足利高経 上杉憲顕

この二人なのです。




という訳で
前々々回の「室町的鎌倉旅行記(その2)」
 「太平記時代の主人公レベル
  尊氏直義高経の他にもう一人いる」

と言いましたが
最後の一人は…上杉憲顕です。

(先日頂いたコメントで、従兄弟の憲顕の事が触れられていて
 奉納連画描いている最中だったので
 「ちょw ばれてるばれてるww」とお茶吹いてしまいました。)





尊氏亡き後の時代では
足利高経は京都の "管領" として
上杉憲顕 "関東管領" として活躍するものの
そこまで注目されていない…というか
脇役であって
主人公と見られる事は先ずありませんが
しかし、この二人の目線で時代を見る事で
隠れた真実が明らかになります。


特に上杉憲顕
『観応の擾乱』を境に幕府を離脱した後
復帰までに10年以上のブランクがあって
しかも、その他の上杉一族もほぼ姿を消していた
という状態の中で
もしかしたら…
そのまま歴史に名を残さず時が流れてしまった可能性すらあるのに
その後は「関東といえば上杉」
となるまでに確固たる地位を築いていくのは
単なる偶然では無い
"ある意志" が働いた結果だと見るのが自然です。



この二人がどう時代を繋いで行ったのか
あるいは、なぜ二人が時代を繋ぐ主人公として選ばれたのか
それが…
"太平記という時代" に込められた祈り
物語の帰結です。


(しかも4人はほぼ同年代、というネタ的奇蹟!!
 だれがシナリオ書いたん? (´・ω・`) )




という訳で、今年の本意は開き直って

 「the truth in 太平記」

で行きたいと思います。

どこまで届くか分かりませんが
もし "鳳凰" を見かけたという方がいましたら
目撃情報をお待ちしております。 わくわく


それでは
どうぞ本年も、よろしくお願い致します m(_ _)m



posted by 本サイト管理人 at 20:27| Comment(0) | ★チラ裏観応日記

2016年02月25日

室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏観応日記』です。
早速旅の続きを… と思ったのですが
ここでちょっと一休みして、追記のお知らせです。


前回の旅行記「室町的鎌倉旅行記(その2)」
(『杉本寺』と足利家長 & 父足利高経の回)
で話した
源氏累代の宝刀「鬼切」(おにきり)について
気になった事をちょっと書き加えておきました。
(最後の「尊氏&高経の画像」の少し上のカッコ内
 2016.1.4 の追記です。)

高経の手に渡ったであろう「鬼切」
なぜ弟家兼の、しかも長男直持ではなく次男兼頼の系統の
羽州探題最上家に伝来する事になったのか
不思議に思ったので。

(※ちなみに兼頼は、越前での高経vs新田戦当時は
 家臣と共に未だ関東方面にいた模様。
 『大日本史料』第6編の3、p.185-186
 『相馬文書』暦応2年3月20日氏家道誠注進状案)


まあ、記録が無い事なので憶測でしかないのですが
建武5年(1338)閏7月2日に
越前国で新田義貞の大軍を相手に勝てたのは
前年の建武4年(1337)12月25日に東国で最期を遂げた
長男家長の助けがあったからだと
そう信じた高経
東国で家長の分身的立場にあった兼頼「鬼切」を捧げる事で
家長へ感謝の気持ちを伝えたかったのかも知れない
…と、妄想してみました。

(※ただし、兼頼「鬼切」を受け取った時期は
 越前の合戦後間もなく、ではなく
 文和2年(1353)くらいの可能性…もあるかも知れない。うーん…
 ―――2016.2.29追記)





という訳で:.*:.。.:*・゚(・∀・)゚・*:.。.:*☆家長のお話
※以下、舞台は建武2年(1335)8〜12月





ところで、足利家長斯波家長)が
奥州(=陸奥国)で活動を開始するのはわりと早く
尊氏の命で当地に赴任したのは
まだ数え15歳の建武2年(1335)8月
つまり "幕府誕生前" の建武政権期の事です。

『大日本史料』建武2年8月30日
『鎌倉大日記』『奥相秘鑑』などより…

 「尊氏家長奥州の管領として斯波の館に下す」

(※陸奥国斯波郡は、現在の岩手県紫波郡(盛岡のすぐ南)
 鎌倉時代以来、足利家の所領となっていた。)


(※なお、一次史料で家長在奥州が最初に確認出来るのは
 12月になってからで
 上記の記録、及び下向開始が「8月」(一説に8月30日
 …という日付は、後世編纂の史料によるものですが
 相馬家伝来の文書など、確かな記録を基にした記述と見られます。
 また、ここで言う "管領" とは
 制度上の奥州管領ではなく
 「すべ治める」という普通名詞的な意味だとされています。)





この家長の奥州赴任は従来
北畠親房・顕家父子の奥州支配に "対抗" させる為に
(あるいはそれを "奪う" 為に)尊氏がとった策略
…のように捉えられがちだったようですが
(※この辺の概要は例えば…
 【小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館)1980】
 …の、p.378-379 の真ん中へんを)

しかし
それは(幕府再興という)結果から逆算してしまった誤解であって
まだ足利勢が "建武政権の一員" であるこの時期に
尊氏が理由も無し
(あるいは単なる権勢欲対抗意識から)
後醍醐天皇の政策にあからさまに反する独断行為に出るというのは
状況から考えてかなり不自然かと。

(普段の尊氏の欲の無さ
 後醍醐天皇への慕い方から考えても矛盾します。
 …ただし尊氏
 戦で忠功を尽くした武士達への恩賞の為なら
 多少勝手な事もします。
 でもそれは将軍なら当然よね (´・ω・`) )



では、どういう意図から出た行為か?…といえば
これは、当時の現状を考えれば
『中先代の乱』が絡んだものであった事は明らかで
8月19日に鎌倉を奪還した "官軍" 尊氏
奥州に蜂起していた北条時行与党の動きを察知し
足利家長を大将とした一行を
現地調査を兼ねて奥州に差し向けた
つまり…
 「騒乱の鎮圧完了&再燃阻止の為の機転だった」
と見るのが、まずは自然です。

鎌倉奪還だけでは決して気を緩めず
 事後の警戒を怠らない尊氏の感覚は流石です。)

(※『中先代の乱』の時系列は
 本サイト『2-2』「列島を駆ける」の冒頭をどうぞ。)


…というのも
この『中先代の乱』では
奥州勢の多くが北条時行に応じた」と伝える記録があって
実際、"官軍" 北畠顕家方の諸氏が
8月13日と15日に合戦を繰り広げているように
 (『大日本史料』建武2年8月13日)
信濃武蔵鎌倉だけでなく、奥州も臨戦状態だったのです。

(※陸奥国南端白河郡での長倉合戦はもとより
 北端の津軽郡でも戦があったと伝える記録も。
 その他、『大日本史料』建武2年8月9日、9月24日
 北条与同者の所領を没収し同族結城宗広に預ける事
 『大日本史料』同8月28日
 安達郡の北条与同者に対し、翌8月29日奥州勢発向の事
 …なども。)



その後、10月になっても
相模国の北条方残党退治で
足利方の出陣があったりしている訳ですが
 (『大日本史料』建武2年10月3日)
そんな情勢不安の最中(さなか)
安易な拡大志向で一方的に味方(=北畠顕家)をライバル視し
いきなり奥州の支配権争いを始める…
なんて戦況を見誤るようなバ…失礼、視野の狭い愚将がいたら
この時代、開始早々ゲームオーバーしてると思うのですが。


尊氏が、この超絶スーパーハードモード無理ゲー時代
いつもぶっち切りで一人勝ちゴールを決めまくっていたのは
単なる運や棚ボタではなく
他の武将より戦況の分析能力が圧倒的に長けていたからです。
(これは『観応の擾乱』を考察していると
 本当に何度でも驚かされます。)

それから
「無益な欲が無かった」という人徳
予期せぬ所で身を滅ぼさずに済んだ秘訣と言えるでしょう。


(「能力人徳も、通常の人間の域を超えているのに
  通常の人間の枠内で説明しようとしてしまっている」
 …というのが
 尊氏研究の飛躍を今一歩妨げている原因だと
 個人的には思ってます。
 圧倒的な権勢を手中に出来る能力を備えながら
 恩賞宝物もみんなにぽいぽいあげてっちゃう上に
 将軍の地位すら執着なし
 …とかいう意味不明な将軍は
 もっと発想のリミッターを解除して考察する必要があります。)




(=北条時行与党)にまだ動きが見える段階で
(少なくとも建前上は)味方の北畠顕家まで "自ら" 敵に回す
なんて判断がどれだけ愚かな事か
ちょっと冷静に考えれば誰でも分かる単純な話ですが
しかし、こういう "あまりに" 当たり前の事
最も見落とし易かったりするので要注意です。(((゚Д゚;))))


『中先代の乱』ではこれ以外にも
7月下旬に鎌倉を落とされて三河国まで敗走した直義
それまで奉じていた成良親王京都に送り届けた
という事実を以て
 「建武政権との決別」「幕府再興の意思表示」
と捉える誤解がありますが
(※これについては上記リンク「列島を駆ける」の最後の方を)
…というか
もしそうだったとしたら
じゃあこの時の足利勢
東国広範囲の北条軍と京都の建武政権と奥州の北畠勢のすべてを
同時に敵にしたって事??
なにその全方位けんか上等戦略
いくらなんでも脳みそヒャッハーし過ぎだろ
…となってしまう訳で
常識的に考えて有り得ません。

乱鎮圧の勲功賞で
尊氏は後醍醐天皇から従二位を授かっているように
 (『大日本史料』建武2年8月30日)
「この時点での足利勢 "官軍" として行動している」
という点は非常に重要です。

それから
本サイト『2-2』「さよなら、俺らの聖地鎌倉」で解説したように
尊氏はギリギリまで
"自分達から" 朝敵になる事は、極力回避したがっていた」
という事実から考えても
不用意に奥州の北畠父子を敵に回すような下手は打たないでしょう。




まあ、そうは言っても
見方によっては
「(北畠顕家が味方だというなら)奥州北畠勢に任せて
 わざわざ足利勢が出て来る事はないだろう!」
という意見もあるかも知れませんが
ただ、北条時行党の蜂起については
『中先代の乱』の本当の原因… もっと言えば
「西園寺公宗のクーデター未遂事件」の真相を探ると
そうも言ってられないのです。


つまり、尊氏足利家長を奥州に向かわせたのは
その "すべての裏" を知っていたからかも知れない―――

尊氏なら、十分に有り得る話です。

(…もちろんこれは
 尊氏が事件に関わっていた…という意味では全然なく
 尊氏が知るはずも無い真相を、すべてお見通しだった
 という意味で。)


そもそも
当時の緊迫した情勢と、下向時期のタイムリーさを考えたら
足利家長の本来の下向目的は
 「奥州の北条方与党牽制&監視
という "戦時" 的ミッションが主眼であっただろうに
記録に残された目的、つまり表向きには
 「斯波の館奥州の管領
という "平時" のほのぼの任務っぽいものだった
というのは、何とも違和感が拭えません。

(なんたって… 史料的には
 家長は、斯波の館でほのぼのしていた気配が無く
 一方で、それよりずっと手前(南)の在地の武士と
 関係を深めているのです。)


つまり… これらのヒントを繋ぎ合わせると
北条方蜂起の背景=「西園寺公宗クーデター未遂事件」の真相
というのは
足利方(というか尊氏)にとって
あまり表沙汰にしたくない事情があったのではないか?
…と思えて仕方ない訳ですが
当時でもそんなんだったなら、後世その真相に気付いた人間は
まだ誰も…  Σ(゚Д゚ )!!!???





―――――「家長奥州紀行の真相」
       ちょっとフライング余談―――――――


足利家氏を祖とする高経の家系「斯波家」
鎌倉〜室町初期までは「足利」を名乗っていて
(あるいは家氏の官途 "尾張守" にちなんで
 「尾張殿」「足利尾張殿」とも)
"家名" として「斯波」が定着するのは室町中期頃から
…という話は何度かしましたが
高経の長男家長については
個別に「斯波殿」と称されている事があります。
(※『相馬文書』などの一次史料から『太平記』まで。)

これは上述の記録が伝えるように
家長尊氏の命を受けて
(先祖の家氏以来相伝した)奥州斯波郡に赴任し
斯波の館に居住していたから

…と考えるのが一見自然のようですが
(※この辺は
 【小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館)1980】
 …の p.379 を)

しかし
家長はこの年の12月には、既に斯波とは別の場所にいて
以降は鎌倉を中心とした関東の統治を任される事になり
結局この斯波では
ほとんど活動らしい活動をしていないのです。




ところで
鎌倉斯波の位置関係はどうなっているかというと…


cm1-shiba.jpg


(※図中の色の濃い部分の右側が奥州(陸奥国)
 左側が羽州(出羽国)(=合わせて奥羽)で
 陸奥国の国府が「多賀」です。
 北畠親房・顕家父子は元弘3年(1333)冬以降
 後醍醐天皇の皇子義良新王を奉じて
 ここ「多賀城」で奥羽の統治に当たっていました。)

(※ちなみに斯波その周辺
 源頼義・義家父子の『前九年の役』の舞台となった場所で
 武家源氏にとっては由緒ある特別な地だったりします。)



…という訳で
鎌倉から斯波郡めっちゃ遠い訳ですが
建武2年(1335)8月末鎌倉を出発したとして
京・鎌倉の関係が急変する11月初めまでの間は
下向の旅程を含めて9、10、閏10月の3か月しかなく
家長斯波に安住する時間は、ほとんど無かったのです。

しかしそうすると…
(結果的にとは言え)長期滞在した訳ではない
それなのに
まだ家督も継いでいない、当時15歳の少年家長
父とは別の家名「斯波殿」と呼ばれているのは
よくよく考えたらなんかちょっと不思議な訳で
これはただ単に「そこに居住していたから」というより
何かしら、別の意味が込められていたのでは無いかと…





尊氏の☆.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆気配!!?





という訳で、この辺もう少し突っ込んでみますと…
この "事態が急変する11月" というのはつまり
足利vs新田の決戦開始の事ですが
(※これについては上記「さよなら、俺らの聖地鎌倉」を。
 ちなみに、尊氏奏状や対戦勃発までの時系列を解説した
 最初の長いカッコ内の前半を
 またしつこく加筆修正しました)

この後
12月半ばの『竹之下・箱根の合戦』で逆転圧勝した足利軍
京都を目指す事を決心する訳ですが
この足利軍西上を追撃する為
当時、陸奥の国府「多賀」にいた北畠顕家
12月22日に当地を出立します。
そしてこの時
奥州に赴任中の足利家長は…というと
北畠軍の進軍阻止に立ち上がるのです。


ここで普通に考えたら
斯波の方から駆けつけて "北" から「多賀」に攻めかかった
…と思いそうですが
しかしどうやらそうではなく
挙兵した家長の元には
奥州「行方郡」(なめかたぐん)辺り
 (※現在の福島県相馬市・南相馬市辺り、上図参照)
を本拠としていた相馬(そうま)一族の多くが馳せ参じていて
足利家長軍
「多賀」 "南" から
府中(=多賀国府)に御発向している(『相馬文書』)
としか考えられないのです。
(『大日本史料』建武2年12月22日
 相馬行胤・朝胤父子が12月20日に一番に馳せ参じ
 相馬重胤「亘理郡」に発向している。)


(※ちなみに、相馬一族はもともと下総国相馬郡出身で
 この頃(鎌倉時代最末頃)から
 相馬重胤(しげたね)の一流を中心とする一族の一部
 奥州の所領に移り住んでいました。
 つまり、ここで下総相馬奥州相馬に分かれる訳です。)




…てゆうか
いつの間に「多賀」を超えてにスタンバってたんだよ!!!
と突っ込まずにはいられない展開ですが
この約1か月前
相馬重胤相馬胤治(たねはる)が11月20日付けで
子に所領の「譲状」(ゆずりじょう)を認(したた)めているのは
この時既に、出陣の決心を固めた証拠と見られ
 (『大日本史料』建武2年11月20日
  こういうのすごく泣ける… (´;ω;`) )

家長は遅くとも11月半ば頃までには
彼らと連絡を取り合い、糾合していたと思われます。


(※奥州の相馬一族
 これまでは足利勢と同様、建武政権に属していて
 これ以降、そのまま北畠顕家に属し続けた者もいますが
 多くは足利方となり、家長と共に戦いに身を投じて行きます。
 この建武2年11月
 足利勢だけでなく、相馬一族にとっても
 時代の激動に飛び込む決意をした一世一代の瞬間だったのです。)



さらに
『奥相秘鑑』(『大日本史料』建武2年8月30日)によると…

「建武二年八月
 尊氏卿、陸奥守家長奥州の管領として斯波の館に下し玉ふ
 (相馬)重胤始て会面、尊氏卿の御方と成て
 同年、嫡子孫次郎親胤と鎌倉に参陣… 」

…とあって
相馬重胤が初めて家長に面会したのは
12月の挙兵で参陣した時…という慌しいものではなく
家長が奥州へ下向する "行き" の道中でのんびり
…とも読める事からすると
やはり事前に関係を深めていたのではないかと。
つまり―――
家長は、鎌倉から真っ直ぐに斯波の館に向かったのではなく
途中、在地の武士に誼(よしみ)を通じながら
わりとだらだら下向してたっぽい予感…
…と考えられる余地があります。





ところで
もしこの頃まで家長斯波の館に滞在していたとしたら
「多賀」の南まで戻って来る切っ掛けは
建武2年(1335)11月2日に
直義「打倒!新田義貞」の軍勢催促を
諸国の武士に向けて一斉に発した時点
…と考えるのが妥当に思えますが
(↑これは、直義いきなり先制攻撃…という訳ではなく
 兄尊氏亡き者にしようと
 讒言&討伐計画を推進していた新田にぶち切れた "結果" です
 この京都の陰謀については『梅松論』『太平記』の他
 『大日本史料』建武2年10月15日『保暦間記』を参照)

しかしそうすると
11月2日鎌倉から発せられた情報が斯波に届き
それから準備を開始した家長一行
急速に緊張感が高まるこの情勢下
何食わぬ顔で「多賀」を通過出来たのか??
…という点は、なんかちょっとだいぶ引っかかる訳でw

しかも
相馬重胤たちが11月20日には早々に覚悟を決めていて
僅かも迷いが無い様子からすると
(普通は情勢を見極めかねて、しばらく静観しそうなのに…)
おそらく家長との関係は
"行き" に一回擦れ違っただけ…どころか
かなり密な関係を築いていた、という気がしてならないのですが
そうすると可能性としては
家長はそもそも
ずっと「行方郡」辺りでぐずぐずしてて

 「多賀」を超えて斯波まで行ってすらいないのでは?

という疑惑さえむくむく湧いて来る…

みなさんはどう思いますか?





どう?…って:.*:.。.:*・゚ (´・ω・`)゚・*:.。.:*☆知らんがな





さて、謎が謎を呼んで来てしまったので
私の見通しを述べておきますと…

家長は終始 "尊氏の指示" で動いていたのだと思います。
直球な事しか出来ない直義(ごめんw)の召集だとしたら
この時、鎌倉まで戻っていたのではないかと。

 「多賀」の南に待機して情勢に応じて動く

なんて先の先を読んだ周到な戦略
どう見ても尊氏の仕業
11月初めの時点で北畠顕家の動きに気を配れるのは
やつしかいないと思われます。
直義新田にぶち切れて、もう新田しか見えてないw)

(『大日本史料』建武2年11月2日の
 直義による "全方位軍勢催促状弾幕"
 (↑これでもかというほどに全部 "対新田" )は
 様式美の域に達していて必見です。
 直義は、兄貴の敵に対する噛み付き方が常軌を逸しているのが
 玉にキズ(いやむしろネタ的なおいしさで言えば玉に玉…)です。)


この時期(建武2年11〜12月)の家長の動きは
12月下旬の北畠顕家への追撃の件については
『大日本史料』建武2年12月22日条によって
既によく知られている事実ですが
ただ、その "不思議さ" はあまり気にされていないようです。

…というのも
これまでは「当時たまたま奥州斯波郡に居た家長
(多賀の北から)北畠顕家の追撃に向かった」

と思われていたようなので(たぶん)
それ故、何ら不思議の無い当然の事とされていたのだと思いますが
しかしここには
「つい結果から考えてしまう」という後世の私たちの盲点があって
未来を知らない)彼らの立場で
時系列に細心の注意を払って考えてみると
実に不思議なのです。
家長 "多賀の南" を標的にアクションを起こし始めたのは
1か月以上も前の11月上旬の事
しかも、その最初の一歩はさらに遡る事8〜9月
その時点で、一体何が分かっていたと言うのか?




11月19日には
京都の新田義貞軍が、尊氏討伐の勅命を受けて東下を開始するので
これ以降、奥州の北畠勢にも警戒するのは当然でしょうが
(『太平記』『保暦間記』によると
 この新田軍の東下に合わせて奥州からも攻め入るよう
 後醍醐天皇の綸旨が下された、とあります)

ただしこの時は
大軍を起こす事は容易ではなく延引となった」(『太平記』)
とあって
おそらく、京都にとっても北畠顕家にとっても
かなり唐突な出陣命令だったのだと思われます。
…とすると
周囲が11月下旬時点でこのような状態の中
家長たちの行動の早さだけが、異様に浮いて見える…



本来、尊氏が鎌倉に留まったのも
京都の陰謀が急激に推し進められて一触即発となったのも
尊氏討伐の決定もすべて
(どちらの陣営にとっても)予想外の事態だったはず。
つまり、北畠顕家の出足の遅さの方が "普通" なのです。



一方、その後の鎌倉勢の戦況に目を移せば…

11月末の足利軍第一陣敗退(at 三河国)の後(←たぶん予想外
12月2日に直義率いる主力軍が出陣のち敗退(←輪をかけて予想外
その結果、遂に尊氏
12月8日に鎌倉を出て箱根に向かい(←まさかの出家撤回)
形勢逆転して余りある大勝利を収めます。(←つまり有り得ない
この頃、北関東勢(=尊氏方)による
北畠勢の出陣を見越した要撃計画も持ち上がっていたようですが
 (『大日本史料』建武2年12月24日)
しかし、北畠顕家軍がようやく出陣の運びとなったのは
伊豆で尊氏直義が合流し
鎌倉に戻らず上洛の決意をして旅立った(←これまた思いつき
12月15日より後の事であり
結局北畠顕家は
箱根の合戦には間に合わなかった」訳ですが(by『太平記』)
でも、それが普通だと思います。
この予測不能成り行き展開の中で
後手に回った北畠軍の動きに合わせるように挙兵した家長軍
遥か以前から待機を続けていた
…という方が意味不明なのであって。

(このように
 家長の方から攻撃を仕掛ける意図があった訳では無い
 …のはもちろん
 北畠顕家の警戒感の希薄さや備えの皆無さから
 奥州での家長は、目立った行動すら取っていなかった
 (ましてや、挑発するような事などしていなかった)
 …という事が分かります。)



それにしても
この時期の、極めて不確定要素が強い未来に備えて
超要所ポジションに手駒を配備しておけるとか一体…


だいたい、鎌倉から立て続けに
三連弾のジェットストリーム出陣を余儀なくされ
全東国武士界がてんやわんやで収拾つかねーよこれ状態の時に
奥州の家長軍だけは
闇夜の猛禽類の如く息を潜めてが来るのを待ち続けていた
…というのは、実に対照的で面白い訳ですが
その深謀遠慮な冴え渡る指示を出していたのが
出陣直前まで出家希望ひきこもり一束切り将軍だった、とか
なんなのそれ!!
マンガだよマンガ!!


箱根峠ではなく足柄峠に向かったセンスといい
どう見てもこの将軍ニュータイプ
  ※ただし半端に出家コスプレ中ダサめ

とかもう
わたし的にどストライクなんですが
みなさんはどう思いま… どうでもいいですね。





ダサいシャアなど☆.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆いない!!





さて、まとめに入ります。

私の予想では
家長を奥州へ下向させた尊氏の目的は、おそらく初めから
斯波で腰を据えて "在国統治" させる事…ではなく
"下向の道中" に重点を置いていたのだと思います。
斯波までの道のりを出来るだけぐずぐず北上して
『中先代の乱』の余波を密かに現地調査しつつ
奥州の在地武士と面会して仲良くなる為に。

…というか、もっと大胆な事を言えば
もともと「多賀」を越えさせる予定は無く
斯波に行くふりをしつつ時間稼ぎをして
その手前(南)で留まっているよう
言い付けていたのではないかと。


流石にそれは極論だろ!…と思われそうですが
ただ、「多賀」を往復する(政治的)デメリット
家長斯波での活動を伝える記録が無い事
活動期間の短さや、残存史料の制約の問題もあるけど)
それからやっぱり
8月時点の状況では、遙々斯波まで行く必要性があったとは
どうしても思えないので。

(もし、斯波で落ち着いて奥州を管領させる予定だったのなら
 下向時期として相応しいのは
 元弘3年(1333)12月の、直義の鎌倉赴任と同時期か
 あるいは、『中先代の乱』の後なら
 尊氏の鎌倉残留が確定し(※新邸引越しが10月15日)
 一時的にしろ、ちょっと小春日和だった頃
 …だったらまだ分かるのですが。)



というか、11月初めの事態急変は
鎌倉でだって誰しも予想外だったろうに
地理的に離れた奥州で、11月半ばには覚悟を決めてるって…
 (しかも鎌倉とは別の特殊任務で、って…)
時間的にも伝達情報の絶妙さ的にも、色々と有り得ないよね?
どっかに時空無視してるニュータイプがいるよね??

という訳で、さらに踏み込んでエスパー妄想しますと…
尊氏は当初(8月)から
「多賀」の南を拠点とする奥州相馬一族をターゲットにしていて
陸奥国司北畠顕家の傘下からヘッドハンティングする為に
家長に尊氏のサイン入り紹介文でも持たせてたんじゃないか?
…とか、わりとマジで思う。
相馬重胤たちの迷いの無さ忠誠ぶりからすると。

(仮に、家長はそれまで普通に斯波で統治に当たっていて
 11月上旬から慌てて、不慣れな「多賀」周辺で
 独自に味方を募り始めた…とすると
 ある程度寄せ集めの俄か集団になってしまいそうですが
 しかし、軍忠状等の一次史料が示すその後の相馬一族
 家長のもとでの徹底した活躍ぶりは
 まるで年来の重臣…としか思えないのです。)


ではなぜ(未来予測でもしていたかのように)
"多賀の南" を重要視していたのかと言うと
尊氏は『中先代の乱』以来ずっと…
"ある嫌な予感" がしていたのですよ、たぶん。




それでは
斯波まで行っていない or 行ってたとしても
 滞在期間はごく短期、なのに)
まだ数え15歳の少年家長だけがなぜか
父をはじめとする一族と別の家名「斯波殿」と呼ばれている
…という謎についてですが
これはつまり―――
今回の奥州赴任の目的について
鎌倉出発時から大々的に
 「奥州を管領しに斯波郡に行ってきまーす!」
"公言" していて
自分から「斯波」を名乗っていたからに他ならない訳ですが
なぜそんなに建前をわざとらしく主張させたかと言うと
これは一つには
"本当の目的" を隠す為… なのは想像に難くありませんが
もう一つには
「斯波殿」という名称に
ある種の "社会的地位" を持たせていたのだと思われます。


奥州というのはそもそも
『前九年の役』源頼義・義家父子が名を馳せ
『後三年の役』源義家東国武士達との絆をさらに深めて
"武家の棟梁" としての地位を築き上げた土地であり
特に、奥州斯波郡の「陣ヶ岡」
『前九年の役』で多くの伝承を刻んだ
武家源氏の "伝説の地" みたいな所がある場所です。
 (※源頼朝も『前九年の役』の佳例に倣っている。
  『大日本史料』文治5年9月2日、同3日『吾妻鏡』)


つまり「斯波殿」という名は
奥州『前九年の役』源頼義・義家 という記憶を想起させ
"奥州の大将" 的なイメージが自然と付いて来る訳で
単なる「居所由来の家名」という結果論的なものではなく
初めから役職的なものを意識した名称であったのだと。
家長の時点で
 一族の "家名" として「斯波」が定着しなかったのも
 この特殊な事情の存在を裏付けていると言えるでしょう。)


しかも、その名乗りを保証するのが
尊氏による Go to 斯波の任命である」という事はつまり
「斯波殿」という役職的・象徴的称号はそれだけで
家長が、将軍尊氏 "名代的立場" である事を表しているのであり
奥州の在地武士の気を引くには最適!!
…だったに違いない。


将軍のお使いで奥州を管領しに斯波に行く斯波でーす!!」
なんて言えば
現代でも尊氏ファンは入れ食いですよ、たぶん。
少なくとも、私は食い付きます。 


(※ただの呼び名にそこまで意味を見出すのは穿ち過ぎ…
 と思われるかも知れませんが、そうでもありません。
 その称号が単なる名前以上の社会的地位を象徴している
 という考察についての参考として…
 【桃崎有一朗
 『初期室町幕府の執政と「武家探題」鎌倉殿の成立
  ―「将軍」尊氏・「執権」直義・「武家探題」義詮 ―』
 (『古文書研究』第68号 2010年1月)】
 …をどうぞ。)




という訳で
「斯波殿」という謎めいた称号から
家長の奥州下向は、やはり尊氏の構想であったと言え
上記の『奥相秘鑑』の記述を補強するものとなりましたが
絶妙に "策めいた" 称号でもある事から
何かしら "微妙な任務" を含んでいたらしい… という事
そしておそらく、本当の理由を隠す意図も含まれていた事から
 (斯波まで行ってないっぽいのに「斯波殿」とはこれ如何に…)
やはり
『中先代の乱』を起こした北条時行の動向、つまりは
「西園寺公宗クーデター未遂事件」の真相というのは
わりと厄介な極秘情報だったのだと考えられます。
どんな風に厄介かと言うと…
 「尊氏がそれに気付いている事に "気付かれてはいけない"
という感じ。


北条時行方の動向監視という目的を隠し
奥州に赴任した家長
斯波の館に向かう道中でーす!」と言いつつ
「多賀」の手前でぐずぐずして相馬一族と仲良くなっていた

一体、尊氏は何を予期して… Σ(゚Д゚ ) ハッ!!!???




という訳で
「家長奥州紀行の真相」フライング余談でした。
この「西園寺公宗のクーデター未遂事件」については
近いうち解説したいと思っています。





(なんか不親切なのでもう一言 (´・ω・`)
 尊氏が動向を注視していたのは
 実は奥州の北条時行与党だけではなく
 北畠顕家自身にも、相当な警戒をしていたと思われます。
 あくまで密かに探っていたのは
 情報分析からの先読みによる "嫌な予感" だったので
 不用意に相手を刺激して対立を表面化しない為の
 気遣いだったのでしょう。
 誰よりも天下泰平を愛する将軍ですので。
 尊氏は基本的にいつも
 「争いを "未然" に防ぐ事を第一の目標として行動している」
 という事に気付くと
 あの奇想天外・不可解千万な言動の数々が
 ほぼ矛盾無く面白いように上手く説明出来るので
 頭の片隅に置いておいて下さい。)




最後にもう一つ
足利家長奥州に赴任したのは「建武2年 "6月"
と伝える記録もありますが
 (『大日本史料』建武2年8月30日『奥相秘鑑』)
これは "六" と "八" の誤記であって、やはり8月が正しいと思います。
もし、6月時点で奥州にいたなら
7月の『中先代の乱』
武蔵国から北条時行軍鎌倉に迫り
鎌倉から渋川義季軍が迎撃に向かった際
北の奥州から足利家長軍も駆けつけて挟み撃ちにしているはずですが
(少なくとも、尊氏到着前には間に合っているはず)
でもそういう記録は無いので。



――――――(余談おわり)―――――――





さて、余談のつもりが本談になってしまいました。
というか今日は
最初の追記のお知らせだけで
後は旅行記の続きに入る予定だったのですが
家長(「鬼切」を相伝した)兼頼の関係をもう少し知りたくて
家長の奥州赴任の事を調べ始めたら
『中先代の乱』との関係から尊氏の影が見え隠れし出して
すっかり話が別の方向にすっ飛んでしまいました。


つまり、実は私も
この辺の事今まであまり分かっていなくて
今回初めて気付いた事がほとんどです。

(だから理論構築するのにめっちゃ時間かかった…
 もしまだ穴があったらごめん (´・ω・`)
 ちなみに
 「西園寺公宗のクーデター未遂事件」の真相だけは
 だいぶ前に気付いてて
 今回知った家長の行動が
 それを裏付けるものだったから、びびってしもた。)

こんな歴史の片隅に飛び込む事が出来たのも
先日、鎌倉の『杉本寺』
家長になむなむして来たお蔭に違いない!!
家長の事はもちろん
予想外に尊氏の理解が深まって大満足です。



それにしても
言いたい事言いたいだけ言ってしまったので
 「んなマニアックな事知るかよ… (´・ω・`) 」
みたいな内容になってしまって
本当にすみません。
で、でも、尊氏という迷宮の攻略は
全宇宙の悲願だと思うんだ、うん。

ちなみに、長くなり過ぎたので一旦切りますが
実は言いたい事まだまだ終わってないので次回に続きます。
…って、まだ続くのかよ!!
いやむしろこっからが本気
今日は余談



posted by 本サイト管理人 at 23:50| Comment(0) | ★チラ裏観応日記

2016年03月09日

室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長関東編」

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏観応日記』です。
という訳で前回の
「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」」
の続きです。



☆☆☆ はじめに… 今日の注意事項 ☆☆☆

本文中の建武3年(1366)の元号については
便宜上「建武」で統一してありますが
『大日本史料』では、建武3年正月〜10月までは
「延元」表記になっているので(※建武3年=延元元年)
この期間の "引用元" を示すに当たっては
 「『大日本史料』延元元年○月○日
と表記してあります。
御注意下さい。
(ちなみに同史料の10月以降は
 11月2日〜12月20日「建武」表記
 12月21日以降は、南北朝分裂の為「延元・建武」併記
 となっています。)

これはどういう事かというと…
歴史的には
建武3年2月29日、改元で「延元元年」に(at 新政権)
(↑同史料では、改元があった年は
 遡って年始から新元号表記となります)

しかしその後11月2日、和睦により光明天皇の御代となり
「建武3年」に戻るため
形式上、このように変則的な事になっている訳ですが
実態としては…
つまり武家方の認識では
8月15日の豊仁親王(つまり光明天皇)践祚の時点で
既に「建武」継続の方針は固まっていた… というか
2月半ばには光厳院の「院宣」を拝受していたので
3月以降も武家側はそのままふつーに
「建武」で通していたってゆう。
だから実際の史料では「建武3年」表記のものが非常に多く
この期間(3〜10月)における「建武」元号は
実質上は無視出来ない存在になっています。

…うん、気にしない、細かい事気にしない。
この時代は頭固いと付いて行けない。生きてけない。 
ま、『大日本史料』データベースでは
どちらでも検索可能なので大丈夫です。

☆☆☆ おわり ☆☆☆





という訳で:.*:.。.:*・゚(・∀・)゚・*:.。.:*☆今日の舞台は
建武3年(1336)〜建武4年(1337)






さて、建武2年(1335)8月当初は
『中先代の乱』の余波の偵察という
尊氏マル秘ミッション
奥州に赴任したであろう足利家長ですが
11月になって天下の情勢は一変
11月2日、直義による「打倒!新田義貞」の一斉軍勢催促
11月19日、尊氏討伐を掲げた新田義貞軍が京都より東下
そして12月半ば
『竹之下・箱根の合戦』で勝利した足利軍
遂に京都を目指す事を決める訳ですが
その足利軍の西上を追撃するべく
12月22日に北畠顕家軍が奥州「多賀」を出立
この時、同国にいた足利家長斯波家長
現地の相馬一族らと共に、その進軍阻止に立ち上がります。
 (『大日本史料』建武2年12月22日)

ただしこの時は
北畠軍を食い止める事が第一目標…というより
北畠軍が去った後の奥州〜関東
守備を固める事が主眼だったようで
各々が所々の城郭で北畠方勢力と交戦する一方
家長相馬重胤らはそのまま南下して鎌倉に入り
今後の戦略を立てていたようです。

(※相馬重胤の次男相馬光胤を奥州に下国させて城郭を構え
 現地の戦に備えています。(行方郡「小高城」
 …『大日本史料』延元元年3月8日)

(※ちなみに北畠顕家
 建武3年正月13日には近江国に入っています。)




ところで、この頃の関東
尊氏たちが大軍を引き連れて西上した後ですから
かなりすっからかんだったと思われます。
そんな鎌倉の留守を預かる、という
重大任務を託された数え16歳の少年大将家長… (´;ω;`)
とかもう、最初の設定だけで泣ける話ですが
建武3年(1336)2〜3月には
再び北条時行党の蜂起があったり
 (『大日本史料』延元元年3月25日)
奥州に帰った相馬光胤たちも
それから2か月以上続く激しい戦いが始まっていて
 (『大日本史料』延元元年3月22日)
その上京都では
建武3年(1336)正月、一旦入京に成功した尊氏たちが
まさかのカウンター&ダメ押しパンチ(at 兵庫)で
九州までサプライズ船旅…
なんつー聞いてない話になっていましたから
この頃鎌倉を守っていた家長たちは
それこそ毎分毎秒を決死の覚悟で生きていたと思います。

(※この頃の尊氏たちの足跡については
 本サイト『2-2』「西へ」をどうぞ。)



しかし、何といっても
この年の最大の危機は…
建武3年(1336)正月の一連の洛中合戦の後
3月まで京都に滞在していた北畠顕家
義良親王と共に、再び奥州へと戻るのですが
 (↑この時は父北畠親房は同行せず)
その帰国の途次、鎌倉周辺を通過する際に起こった
4月16日の相模国片瀬川での戦いです。

この戦で家長は―――
昨年の奥州以来忠節比類なく戦い続けた
相馬重胤(しげたね)相馬胤康(たねやす)を失う事に!!
(´;ω;`)そ、そんな…

相馬胤康は最前に馳せ向かって4月16日に討死
 相馬重胤「法華堂」(※鎌倉の源頼朝の廟所)にて自害。
 (明確な日付は不明ですが、おそらく胤康と同日かと。)
 …『大日本史料』延元元年4月16日)

(※ちなみに相馬胤康
 昨年末、奥州での家長の挙兵を受けて参陣する際
 建武2年(1335)12月20日付けで
 子に「譲状」を託しています  (´;ω;`)ウッ…
 …『大日本史料』建武2年12月22日)




な、なんという大打撃…
建武3年(1336)2〜3月といえば
京都では、新政権軍が尊氏たちを追いやり
すっかり勝利の甘美なムードに包まれていた頃な訳で。
(↑この頃の慢心した新政権内
 時代が尊氏に流れつつあるのを看破していたのは
 ただ一人楠木正成のみ… )

一方、4月半ばの鎌倉には
九州での尊氏たちの勝利(3月2日)は伝わっていたようですが
(『大日本史料』延元元年4月11日
 建武3年4月11日付けの斯波家長の奉書を見るに
 情報の行き来はしていたようです。 なおこの奉書は
 「尊氏の計らいで、相馬重胤に奥州の闕所地を預け置く」
 という内容のもの。
 重胤が今日まで重ねた戦功は、ちゃんと尊氏に伝わっていて
 生きている内にその恩を受け取る事が出来たんだ… (´;ω;`) )

しかし4月16日時点では
九州からの尊氏たちの東上開始(4月3日)の報が
届いていたかどうか… くらいの状態ですから
明日の行方を知らぬ家長たちの窮地たるや
まるで…
取り残された少年兵ホワイトベース状態!! Σ(゚Д゚ )なぬ!!???


しかも、ホワイトベースの艦長ブライト19歳ですけど
家長は数え16歳(満14〜15歳)だから
アムロ(15歳)が艦長やってるようなもんですよ!!
なにそのハードモード!!



…ってまあ、そんなガンダムの話はどうでもいいのですが
こんな、設定からしてギリギリの鎌倉にあって
その上次々に襲い来る試練にもめげず
少年大将家長は―――
実に甲斐甲斐しく
尊氏から託された任務を全うして行くのです。


この頃(※幕府再興前〜開始初期)の家長の活動に関しては
様々な発給文書が残されていて
軍勢催促、(戦功をあげた部下への)感状
本領安堵所領預置
寺社領への違乱停止、(将軍の祈祷料として)寺領の寄進

それから
部下への恩賞下賜の為の(京都の幕府への)軍忠の披露
(これこれこんだけ頑張ったので
 (部下への)恩賞よろしくお願いします!…というもの)

…などなど
本当に立派に働いて泣かせます。


(※この辺の事は…『大日本史料』のデータベース
 キーワード「斯波家長」で検索か、数行の要約なら
 【小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館)1980】
 …の p.379 後半を)


しかも、京都からの(恩賞の)返事が遅れれば
軍忠についての「誓文」を添えて、重ねて注進したりして
(※誓文…絶対絶対嘘ではありません!という神仏への誓い)
部下の恩賞獲得の為に、必死に頑張る家長

(『大日本史料』延元元年4月16日
 …『相馬岡田文書』建武4年4月17日、同8月18日
 『大日本史料』建武4年4月1日
 …『相馬岡田文書』
 しかもこれは、前年に片瀬川で討死した相馬胤康
 これまでの数々の軍忠に基づき
 残されたその子息相馬胤家(乙鶴丸)への本領安堵
 京都の幕府に重ねて求めたもの。
 (↑恩賞関連は、尊氏と執事高師直の管轄)
 「前回誓文が無かったから、疑われちゃったのかな…」
 と心配したらしい。
 亡き部下の忠節に何としても報いようとするこの純真さ… )



やばい、今日はもう涙腺がやばい (´;ω;`)





さて一方、その後の建武3年(1336)の京都では
九州から奇蹟の大復活を果たした尊氏たちの
5月の『湊川の戦い』
5月晦日〜6月の入京
(この頃、比叡山に立て篭もる新政権軍との合戦が続く)
8月の豊仁親王(=光明天皇)践祚
11月の後醍醐天皇との和睦
そして『建武式目』を掲げて、武家政権の本格再開―――

…と
を味方に付けた尊氏の止まらぬ快進撃で
時代は一気に塗り替えられ
手探りで戦い続けた鎌倉の家長たちにも
心安らげるひと時が訪れます。

(この辺りの展開って… 結果を知っていると
 「ふーん、すごいね!」くらいの感覚ですが
 改めて常識の範囲で考え直してみると
 超常現象以外の何ものでも無いような気がするのですが
 …まあいいか。)


ただ…
南朝方に依然として
北畠顕家新田義貞という勇将が健在である間は
やはりまだ、それは "仮の安息" でしかなかった訳で。





北畠顕家
建武3年(1336)のおそらく5月末〜6月初め頃までには
奥州「多賀」に帰国したと思われますが
下向の途次でこそ、次々と足利方を制圧していったものの
 (上述の4月16日の片瀬川の戦いの他
  奥州での相馬光胤たちの決死の奮闘がまた… (´;ω;`) )

しかしその後…
まず常陸国では、これより先建武3年(1335)2月
一旦優勢を獲得した瓜連城周辺〜同国南部新政権方勢力は
 (『大日本史料』延元元年2月6日)
建武3年(1336)7、8、12月
および翌建武4年(1337)2、3月にかけて
常陸国北部からの足利方の反撃により南に追いやられ
以後、劣勢確定となってしまいます。



―――※以下、常陸国での合戦次第―――

『大日本史料』建武3年12月11日、瓜連城陥落の事。
…『茂木文書』建武3年7月12日の、家長軍勢催促状
常陸国の敵方蜂起により(大将として)
 足利少輔三郎(←誰かは謎、たぶん石橋辺りの誰か?)
 を差し下す」とあり
7、8、12月の合戦を経て、12月11日に遂に落城。

『大日本史料』建武4年正月10日
常陸国の合戦での伊賀盛光の戦功を賞する、直義感状

『大日本史料』建武4年2月21日
足利方大将石塔蔵人(頼房?)、相馬親胤など
常陸国関城(南朝方)を攻める事。

『大日本史料』建武4年2月24日
常陸国小田城(南朝方)で24日、26日、29日合戦の事。
3月10日、小田城主小田治久(南朝方)国府原に出向
伊賀盛光(北朝方)「多勢の中に懸け入って散々に合戦


…などなど。
当時の(北朝幕府方の)常陸国守護佐竹貞義
佐竹一族の指揮のもと
陸奥国南部に拠点を置く陸奥国御家人
伊賀盛光の活躍を伝える文書が多く残っています。



※その他、この頃の北関東での両者の攻防戦は…

『大日本史料』建武4年3月5日、下野国小山城(北朝方)周辺
『大日本史料』同4月11日、下野国宇都宮
『大日本史料』同7月4日
7月4日下野国小山城(北朝方)が攻められ
7月8日常陸国関城(南朝方)に反撃
(↑両城、20km位しか離れてない)…まさに攻防戦
(…この辺、足利方大将桃井貞直

『大日本史料』同7月是月
佐竹義春たち、常陸国東条城笠間城(共に南朝方)を攻める

…などなど。

―――――――――――おわり――――





北畠顕家の奥州帰国後の京都では
九州からの足利軍の復活、入京、和睦、幕府再興
…と、楠木正成の先見通りの未来が訪れる事になったのは
上述した通りですが
この1か月半後の建武3年(1336)12月21日
突然和睦破棄して吉野へ逃れた後醍醐天皇
各地の南朝方(=これまでの新政権方)へ挙兵を促して
全国的戦闘の再開を指示し
奥州の北畠顕家にも
東国の武士を従えて即刻上洛すべしとの勅書が下されます。
(『大日本史料』建武3年12月25日
 この勅書は延元元年12月25日付けの宸筆(直筆)
 つまり単独和睦破棄4日後という早さ。)



しかし、この頃の北畠顕家周辺では
上述の北関東だけでなく
奥州でも南朝方の劣勢が進行していて
遂に翌建武4年(1337)正月8日
北朝幕府方の攻勢の前に
陸奥国国府「多賀」を保ち切れなくなった北畠顕家
それよりずっと南の陸奥国伊達郡「霊山(りょうぜん)城」
義良親王と共に退却を余儀なくされてしまいます。
(『大日本史料』建武4年正月8日)

(※霊山城は、福島県の霊山の山頂辺りにあった城。
 場所は、現在の福島市と当時の行方郡の間くらい。)



そしてこの移動を境に
両者の攻防戦はさらに激しさを増していき
上述の勅書への、正月25日付けの北畠顕家の奉答には…
当国(=奥州)擾乱」のため
不本意ながら上洛延引してしまっている申し開きと
霊山も敵に囲まれ、近日合戦に出る事
下国の後は日夜籌策(ちゅうさく)を廻らす」ばかりの日々に
心労」を重ねる切実な現状が綴られている…
という。
(しかし勅書を拝見して
 そんなつらさも吹き飛びました!…と続く。)
 (『大日本史料』建武4年正月25日)

敵ながら、うーん… (過酷…)




―――※以下、北畠顕家霊山退却後の合戦次第―――

『大日本史料』建武4年正月26日
相馬胤頼(松鶴丸)ほか相馬一族、奥州宇多荘熊野堂を奪還。
(↑これは相馬光胤たちへの仇討ちといえる執念の奪還。
 涙腺崩壊な詳細は後日 (´;ω;`) )

『大日本史料』同3月10日、奥州行方郡周辺で6月まで合戦続く。
行方郡「小高城」4月9日より
足利方大将中賀野義長相馬胤時など昼夜9日間の防戦。

『大日本史料』同3月17日、足利方伊賀盛光奥州退治の軍に合流。
常陸でも奥州でもすっ飛んでって働きまくる伊賀盛光…w )

『大日本史料』同4月1日、奥州楢葉郡ほかで合戦。
足利方大将石塔蔵人(頼房?)

『大日本史料』同5月18日
足利方大将中賀野義長伊賀盛光など、「霊山城」を攻める。
反撃に出た南朝方と、奥州椎葉郡・行方郡で合戦。
…『岩城飯野八幡文書』建武4年9月1日の家長の奉書は
伊賀盛光の戦功を賞し、急いで(京都に)恩賞のお願いするね!
というもの。


(※実は、前年の建武3年(1336)5月
 北朝幕府方は、相馬一族の主要拠点行方郡「小高城」
 南朝方に落とされていて
 建武4年(1337)初頭に始まった霊山〜行方郡周辺での
 この一連の攻防戦は
 まさにプライドを懸けた、弔いの反撃でもあったのだ!)

――――――――――――おわり――――






このような情勢の中
北畠顕家が再び京都を目指して「霊山城」を後にしたのは
勅命が下ってから半年以上が過ぎた翌年の秋
前回の、足利軍の西上を追った建武2年(1335)12月の上洛から
2年も経たない建武4年(1337)8月11日事でした。
(『大日本史料』建武4年8月11日)

(※以上、この辺の概要については…
 【佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)1974】
 …の、p.184-186 を。)



(というか、この南朝方の兵の酷使を見ていると…
 北畠顕家が、あの激し過ぎる内容の奏状を書いた覚悟が
 なんかすごい分かる… とか思ってしまう。
  (↑新政権の過ちを訴えた諫書のこと)
 京都で戦、奥州で戦、撫民や和平より大義の戦
 在地の窮状
 京都奥州の間の気の遠くなるような移動距離
 大義の前では、わずかも思い遣られる事はなく
 精神論でワープでも出来ればいいんでしょうが
 彼らだって人間なんだから、食いもんがなきゃ動けない訳で
 (そしてそのしわ寄せは全て道中の民衆達の不幸となる訳で…)
 しかし、そんな過酷な京・奥州間の行程も
 建武4年(1337)8月11日の出発を最後として
 翌建武5年(1338)5月22日北畠顕家の切実な叫びは
 7日後に遺言となってしまうのです。
 敵ながら… (´;ω;`) )






この後の事は
先日「室町的鎌倉旅行記(その2)」で解説した通りです。

ただ、8月11日「霊山城」を出立した北畠軍ですが
途中、下野国小山城での足利方の抵抗もあり
上野国と武蔵国の境、利根川に達したのは実に4か月後
12月に入ってからでした。
(『大日本史料』建武4年8月11日
 『上杉家文書』建武4年9月3日付けの直義御教書
 上野国から駆けつけた上杉憲顕
 小山城で敵を退治した事を賞したものですが
 一方、『結城古文書写』(※南朝方の文書)では
 来る12月8日に、小山城足利方への攻撃を予定している
 とあるので、かなりの時間が経過していますが
 その後の北畠軍大軍化からみるに
 軍勢が集まるまで時間がかかったもよう。)



しかし、12月以降の南朝北畠軍の進撃は早く
12月13日の利根川合戦、16日の武蔵国安保原の合戦
そして12月23日には鎌倉に討ち入り
24日の合戦を経て
遂に12月25日、「杉本城」
落城の日を迎えてしまうのです。 (´;ω;`)はぁ…





…ところで
北畠顕家進軍の早さ(=移動日数の短さ
よく語られるところですが、これはもちろん
第一の要因には、北畠顕家の統率力の高さが挙げられるだろうし
錦の御旗を掲げている事もその一つと言えるかも知れませんが
いま一つの理由には…
「ホームとアウェー」の問題があったのではないかと思われます。
 (※ただし通常の用法とはちょっと違う意味で。)


建武5年(1338)正月2日
鎌倉を出て京都に向かう北畠軍の行軍についての
有名な『太平記』の一節…

北畠顕家の率いる奥羽の50万騎の大軍が
 夜を日に継いで(=昼夜の別なく)
 海道を道いっぱいに広がって上洛して行ったが
 (彼らはアウェーの者達なので)
 路次の民屋では略奪を尽くし、神社仏閣焼き払って行った
 この軍勢の過ぎ去った後は、地を払ったように
 一軒の家も、一本の草木も残らなかった」


…まさに焦土。

(※これについては…
 【佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)1974】
 …の p.187-188 と
 『大日本史料』暦応元年正月2日)



もちろん、兵粮の現地調達は北畠軍に限った事ではなく
どの戦においても
軍勢の通り道となった土地の民衆の被害苦しみ
想像するだけでもマジ鬱 (´;ω;`) …な話でいたたまれませんが
特に奥羽の軍勢にとっては、関東以西アウェーですから
通り過ぎた後の事を考慮する必要が無く
速度を最優先すれば当然
その惨状は、想像を絶するものとなったのでしょう。

これが足利軍だったら
東海道には味方の所領が沢山ある、いわばホームなので
土地に対する思いも、少しは違うものがあったんじゃないかと。


(…というか、現地奥州では「多賀」でも霊山城でも
 北畠顕家はあんなに苦戦していたのに
 京都へ遠征となったら(50万騎は誇張にしても)
 ここまで軍勢が膨れ上がっていったのはなぜ??
 …とか素朴に疑問。 アウェーだから??
 南朝北畠顕家といえば「強い!」のイメージで通っていますが
 奥州での軍勢召集の時間のかかり方をみても
 ホームではなぜか厳しい北畠軍… )





建武4年(1337)12月25日に「杉本城」を落とした北畠軍
上述のように、翌建武5年(1338)正月2日には
早々に鎌倉を後にして上洛を再開しますが
道中に比べたら、鎌倉は遥かに物資に富んだ都市ですから
この1週間の間にどれだけ鎌倉は奪い尽くされたのだろう…
と思うと
足利方の総大将家長が、どう見ても勝ち目の無い北畠の大軍を相手に
決死の覚悟で徹底抗戦に挑んだ気持ちが
なんか痛いほど分かってしまって、もう… (´;ω;`)ウウッ
(おそらく、去年の北畠軍の奥州帰国の際も
 結構な被害に遭っていると思われる。)


鎌倉京都という都市は
外から攻められる事に非常に弱いので
戦力差が圧倒的なら逃げるしかないし
互角若干の劣勢なら
一旦退いて敵を誘い込み、攻守反転した上で一斉攻撃
…という作戦が有効で
これはよく『観応の擾乱』時尊氏が取った戦略ですが
しかしこの時、家長鎌倉での防戦を選んだのは
経験の浅さによる誤算なのではなく
上記の理由をその一つとして、もしかして家長
負けるのが分かってて「杉本城」に向かったのではないか?
と、ふと思う訳ですが…

それでは、家長勇気を与えたのは何だったかと言うと―――




私は先日「室町的鎌倉旅行記(その2)」
この時に鎌倉での防戦を主張した『太平記』の逸話は
当時数え8歳の千寿王(義詮)によるものではなく
関東執事かつ総大将だった家長の言葉だろうと言いましたが
これは、上述の家長多岐にわたる活動を鑑みれば

「自分は東国の管領を任されているから…」(『太平記』)

という強い自負を持って生きていたのは
間違いなく家長だと
賛同してもらえると思います。

ただ、建武2年(1335)8月に15歳奥州へ旅立ってから
2年と数ヶ月の家長の足跡を追っていて
もう一つ思う事がありました。



この『太平記』の逸話を意訳すると―――

利根川合戦以来、士気を失った足利方劣勢により
 一旦安房上総への退却を相談する面々に対して
 家長(※『太平記』では千寿王)が主張するには…)


「そんな意見はあなた達らしくない!
 戦においては、必ず一方は負けるものなのだから
 負ける事を恐れていたら、なんて出来ない。
 俺は東国の管領を任されて鎌倉にいるのに
 相手が大勢だからと言って、一戦もせずに逃げたとしたら
 敵にあざけられるだけじゃないか。
 たとえ味方が小勢であっても
 敵が押寄せれば馳せ向かって戦い
 敵(かな)わなければ討死すればいい。
 もしそこで逃げるべきとなったら
 その時は、一点突破して安房上総に退き
 その後、上洛する敵を追って(京都の手前の)宇治・勢多
 (西からの)味方前後から攻めれば
 きっと敵を倒す事が出来るに違いない」


…と、思慮深く道理を尽くして訴えたので
みなこの一言に励まされて、討死覚悟で鎌倉での決戦に挑んだ
という訳ですが
この眩しいまでの勇ましさ
思うに、この時の家長の心の中には
昨年の建武3年(1336)4月
奥州へ帰国する北畠軍との片瀬川の合戦
鎌倉を守って果てた
相馬重胤相馬胤康の姿があったのではないかと。





建武2年(1335)8月の奥州赴任
おそらくそれまで父高経のもとにあった家長にとって
一人で手勢を率いての初任務だったと思われます。

…という事は、奥州の相馬一族
家長にとって、初めての自分の部下だった訳で
しかも、相馬重胤たちの忠誠ぶりは
本当に素晴らしいの一言に尽きるのですが
 (↑実は今回紹介し切れなかった史料が…)
斯波家(※当時は足利尾張家)の嫡男とは言え
まだ十代半ばの駆け出し大将でしかない自分を信じて
支えてくれる彼らの存在は
相当励みになったと思われます。
 (鎌倉が極端に手薄だった建武3年(1336)前半は特に。)
家長相馬胤康の恩賞に必死だったのも
こういう心情的な背景があるのではないかと。


(この頃、家長に属して活躍した奥州相馬一族
 惣領の相馬重胤をはじめ
 家臣も含めてかなりの数に上ります。
 (…『相馬文書』などの着到状や軍忠状より。)
 当時の敵味方の流動性の高さ
 一時期の足利勢の致命的な劣勢を考えると
 彼らの一貫した姿勢
 わりとかなり特筆すべき事かと思います。)




もちろん、武家社会は広いですから
家長には、譜代の家臣も鎌倉時代以来の御家人層もいて
建武3年(1336)後半からは、京都からの帰還組も増えて
多くの部下を「関東執事」として統率していたのでしょうが
しかし奥州「斯波殿」として初めて出会って以来
鎌倉までも付き従い
足利軍の未来が絶望に瀕した時期を共にし
そして、鎌倉を守って戦死を遂げた相馬重胤たちには
たとえどんなに恩賞の吹挙(すいきょ)を頑張っても
結局は、同じように命を懸けて戦う事でしか
彼らの忠節に報いる事が出来ないと
17歳の少年ならそう考えてしまうんじゃないかな。

そして今、今度は自分があの時と同じ状況にいる
そうなったら
迷う事など何もなくなってしまうでしょう。



(※先日解説したように、「杉本城」陥落後
 上杉憲顕・憲藤兄弟や桃井直常高重茂らは
 千寿王(義詮)を擁して一旦鎌倉を脱出し
 その後、軍勢をひたすらかき集めて北畠軍の後を追う訳ですが
 これが上記の家長の言葉の通りである事からすると
 もしかしてこの言葉の真意
  「 "自分が" 討死したら、残った者達は鎌倉から逃れて
   そして敵を追ってくれ」

 という覚悟だったのかも知れない…
 と、深読みしてしまう (´;ω;`) )




一般に、奥州相馬一族の去就については
足利軍建武政権と決別した時、足利方になった」
…くらいのさらっとした書き方で
家長との関係を掘り下げたものはあまり見かけない気がしますが
(というか、そんなマニアックな事気になって仕方ないのは
 私くらいでしょうが)
でも、誰もが通り過ぎてしまう歴史の片隅
本当の物語が待っている
というのが、この太平記時代の特徴です。
一次史料だけなら、誰もが目に出来る形で知れ渡っているのに
その一歩先に広がる世界
見ようとしてくれる人がいない
というのもまた、この太平記時代の負った宿命です。

つまり… 太平記時代の実力こんなもんじゃないよ!!
きっとまだ
とんでもないものを隠しているに違いない… Σ(゚Д゚ )なぬ!!???





うん、まあ最後の方は
若干妄想が入ってしまっているかも知れませんが
でも、ここまで調べる切っ掛けをくれたのが
去年の秋の『杉本寺』への訪問だったので
きっと、そんなには間違っていないんじゃないかなぁ…と
自分では思っています。


というか、あの時は正直言ってこの辺の事
全っっ然知らなかったから
 「高経の嫡男家長〜〜ルンルン♪」
くらいのあほあほな気分で行ったので
もう一回行かない事には話にならなよね (´・ω・`)
今度は、源頼朝の『法華堂跡』相馬重胤をなむなむしに行こう
と、思いますた。はい。







独り立ちした15歳の家長が戦った日々は
2年と4か月と言う短い時間だったけれど
尊氏たちが去った後の鎌倉を背負い
建武政権との対峙から幕府再興という激し過ぎる時勢の中で
見事に任務を全うしていきます。
奥州での最初の出会いは
まだ幼かった少年を、一人の立派な武将へと成長させました。
決して敵に背中を見せる事をしなかった家長の最期が
残された者達の勇気となって
翌年の勝利に繋がったのだとしたら
それは、紛れもなく「任務完了」という事で
胸を張って将軍尊氏に報告出来るのでしょう。


(実際、分かっててもあそこで戦わなかったら
 東国武士南朝化を促進してしまっていただろう
 …とは思う。 人心って戦の行方を左右する一番大事な要素。)



家長「杉本観音堂」で最期を遂げてから
来年でちょうど680年ですが
今になって、私が家長を知る事になったのも
何か意味があるのかも知れない… という事で

 680年後の未来に届くほどの輝きを放った数え17歳の生涯

これを私なりの "答え" としたいと思います。

なにか、遠く離れた星の光
今初めて地球に届いた… みたいな不思議な気分。


つまり太平記時代は―――

六百うん十光年先の宇宙に、今も存在してるんだよ!!
Σ(゚Д゚ )なぬ!!???




うそです☆


でも、重力波も検出されたらしいし
そろそろやつらも検出され…  うそです☆



足利家長




――――※最後にワンポイント――――

建武2年(1335)12月に
尊氏たちが上洛した後の鎌倉の体制
形式的には…
 「主君」千寿王(義詮)を補佐する「関東執事」足利家長
となりますが
 (つまり「千寿王の意を奉じて政務を行う」という形)
ただし実質的には
総大将家長を年上の足利一門家臣たちが支えて
諸事を執り行っていた感じでしょう。
恩賞関連では
尊氏の意を奉じた家長奉書も多く残っています。
(※奉書(ほうしょ)…主人の意を奉じて出す文書。
 この場合、尊氏の意を受けて家長の名前で出す文書。)


 以下、自分用メモ↓
『大日本史料』延元元年4月11日(相馬重胤宛、所領預置)
『大日本史料』延元元年10月10日(小早川宗平宛、所領預置)
『大日本史料』延元元年10月28日(小山大後家宛、所領預置)
『大日本史料』建武3年11月22日(相馬親胤宛、所領預置)
『大日本史料』建武4年7月16日(甲斐大善寺に料所寄進)
(↑これは奉書ではないけど
 将軍尊氏の御祈祷の為のもの、という事で一応)



つまり家長は…
数え15歳〜17歳に最も人生を輝かせた
少年大将かつ少年執事のみならず実質少年主君
しかも、飾りじゃなくて健気に働きまくる上に
尊氏マル秘ミッションのエージェントだったりもして
んでもって高経長男(その上、高経数え17歳の時の子w)
…とかいう
ネタ的にわりと果てしなく夢が広がる感じ。



(※ついでに余談ですが…
 尊氏のマル秘エージェントは、他にもまだ数人います。
 (先日紹介した高経はその最たるものですが、他にも…)
 これに気付くと
 特に『観応の擾乱』スペシャル異次元化してくるのですが
 もちろん、マル秘なので一見したところでは分かりません。
 ほんの少しの勇気を持って覗き込めば
 その一歩先に、もう一つの世界が広がっているのです。
 Σ(゚Д゚ )なぬ!!??? )



―――――――――おわり―――




…という訳で以上
建武3年(1336)〜建武4年(1337)の
「足利家長関東編」でした。

というか、今日話したかったのは
家長の従兄弟の兼頼(かねより)の動向だったんですが
またまたその前提の話で終わってしまいました。
相馬関連の話が興味深々過ぎました。)

つまり… さらに次回に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 23:41| Comment(0) | ★チラ裏観応日記

2016年03月21日

室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「家長と兼頼編」

(チラ裏シリーズ)

こんにちは、『チラ裏観応日記』です。
という訳で前回の
「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長関東編」」
の続きです。
ようやく本題です。



まずは今日の本題その一
足利家長の年下の従兄弟である兼頼(かねより)
建武3年(1336)あたりの動向です。

(※兼頼は、足利高経の弟家兼(※初名時家)の次男で
 のちに羽州探題最上家の祖となる人物です。
 当時は足利兼頼(竹鶴)とも、斯波兼頼とも。)



さて、もともと建武政権時の高経
越前守護としての活動や
紀伊国飯盛城での合戦で活躍した記録があるので
当初、高経一家(そしてたぶん家兼一家も)は
尊氏と同様に京都(時々越前に滞在していたようです。
そして建武2年(1335)8月
『中先代の乱』鎮圧の為、尊氏に従って東国へ向かう軍勢の中に
高経の名前が見えるので(at『太平記』諸本)
(※以上、この辺の事は…
 【小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館)1980】
 …の p.375-377を)

この時、家長兼頼ほかの子供達も
一緒に鎌倉に赴いたのでしょう。

(ただし、幼い兼頼や家長以外の弟達
 遅れて下向、あるいはもともと上洛せずに
 鎌倉周辺に留まっていたとも考えられますが
 まあ、細かい事はいいか。)


その後すぐ、家長は単身奥州を管領しに出発しますが
建武2年(1335)12月以降(おそらく年明けくらい?)には
尊氏たちが去った鎌倉に戻り
以後は、千寿王(義詮)を補佐する関東執事として
奥州を含めた東国の統治を担う事になります。

(この "鎌倉新体制" はもちろん
 すべて尊氏の指示によって築かれたものでしょう。
 (家長の発給文書に見られる明確な権限からするに。)
 「直義が死んじゃうぅぅーーー!!」とか言って
 てんやわんやで鎌倉を飛び出した割には
 きっちり事後の事を考えているという
 わりとマメな男尊氏。)

こうして見ると
家長東国の管領を任されるに至ったのは
事態急変による偶然の要素が強かったんだなぁと思う。





さて、鎌倉に戻った家長
尊氏たちが京都時代を動かす大仕事をしている間
武家の聖地東国を保守するという
地味だけど重要なミッションに着手します。
その一環として
前回少し触れたように
奥州から行動を共にしていた相馬重胤(しげたね)の
次男相馬光胤(みつたね)を帰国させ
奥州相馬一族の主要拠点、行方郡「小高城」
来(きた)る戦に備えさせます。
(『大日本史料』延元元年3月8日)


この計画は
『相馬文書』建武3年3月3日相馬光胤着到状によると

斯波殿(御教)書ならびに親父重胤事書に任せて
 今月八日下国せしむ」


…とあるので
家長相馬重胤相談して決めたんじゃないかな、と思う。
相馬重胤の「事書」(←色々言い付けを記したもの)が
建武3年(1336)2月18日付けなので
それから程無く鎌倉を出発して
3月8日行方郡小高に到着した相馬光胤たち
3月13日には早々に、押寄せる新政権方との戦闘を開始し
その後息つく間もなく
激しい攻防戦を繰り広げて行く事になります。



(※ちなみに…
 この『相馬文書』建武3年 "3月3日" 相馬光胤着到状
 日付についてですが…
 (↑『大日本史料』延元元年3月8日
  または『南北朝遺文東北編』第1巻 214)

 この着到状3箇所目の欠損による空欄[ ]
 『相馬文書』建武3年2月18日相馬重胤事書目録
 の第二条と照合すると
 (↑『大日本史料』延元元年3月8日
  または『南北朝遺文東北編』第1巻 209)

 「成[御敵一]族等押寄楯…」だと推測でき、従って
 『相馬岡田文書』建武3年3月相馬長胤軍忠状写
 第一条の合戦の事だと思われるので
 (↑『大日本史料』延元元年3月22日
  または『南北朝遺文東北編』第1巻 223
  「一族等引別為御敵之間、三月十三日
   押寄同心一族相共対治畢」)

 3月3日ではなくて "3月13日" の事なのでは?と思う。
 (3月3日じゃ小高城到着前だし、「今月八日」が
  2月4月という事も有り得ないので。)

 『南北朝遺文東北編』第1巻は2008年発行ですが
 既に他にどこかで指摘されている事だろうとは思いつつ
 一応、自分用メモとして記しておきます m(_ _)m )





やっと本題☆.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆兼頼登場!!





さて、ここで今日の本題その一が関わってくるのですが
相馬光胤たちはこの時
 「足利兼頼に属して(=兼頼を大将として)奥州へ向かった」
のです。
(『大日本史料』延元元年3月8日
 …『相馬文書』暦応2年3月20日氏家道誠注進状案)


この兼頼の立場はつまり、これまでの家長のそれな訳で
奥州の管領を任務としていた「斯波殿」家長
関東執事と言う立場になったので
おそらくそれまで鎌倉にあった兼頼
家長の役割を継承する事になった、と見ていいかと思います。

ただし、この時の兼頼
まだ「大将軍 足利竹鶴殿と幼名で呼ばれているように元服前
(『大日本史料』延元元年3月22日
 『相馬岡田文書』建武3年3月相馬長胤軍忠状写)

家臣の氏家道誠が代理として判形(花押)を加えていた
…という子供大将だったのもあり(※上記、氏家道誠注進状案)
史料を見る限りでは
奥州全域の総大将という訳ではなく
 「奥州行方郡周辺の作戦での大将」
という限定的なものだったようですが。

(この方面での軍事作戦では、常陸国守護の佐竹一族
 この後、石塔義房桃井貞直なども参戦して
 指揮を取っているのと
 兼頼の奥州での活動期間は
 結果的に1年間ほどだったようなので(※少し後述↓)
 もともと建武3年(1336)2〜3月という緊急事態での
 臨時的な名代だったのだとも考えられます。)


とは言え
相馬一族と共に奥州での作戦に従事する」というは
まさに家長の分身と言えるかと思います。



という訳で、先日
「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」」
の冒頭の追記のお知らせ
兼頼「家長の分身的立場にあった…」と言ってみたのは
以上の事実を根拠にしたもので
それで、戦死した家長の代わりに
兼頼「鬼切」が渡ったのではないか?…と想像した訳です。





ちなみに、この家長と兼頼の関係を反映している
…のかも知れないもう一つの形跡があって
(【小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館)1980】
 …の p.387 註(13)
 原文は『大日本史料』暦応元年10月5日
 または『南北朝遺文関東編』第1巻 890 より…)

『烟田文書』建武5年10月烟田時幹軍忠状案の末尾に
 「志波殿 承候了 在判」 (※志波=斯波)
とあるのです。
(※『南北朝遺文』によると、
 この「志波殿」の文字は案文に記された後筆です。)

つまり
家長が戦死した1年弱後である暦応元年(1338)10月に
足利方として戦った常陸国の烟田時幹軍忠状
「一見しました!OK!」の判を加えた「志波殿」とは誰か?
という話ですが…


これは、『大日本史料』と『南北朝遺文』では
(兼頼の父である)家兼(=高経弟)としていて
上記文献では
(当時京都方面で活動が見られる家兼とは考えられない
 という的確な指摘から)

『茂木文書』建武3年7月12日の家長の軍勢催促状にある
「足利少輔三郎」であり、且つ
家長の子(養子)とされる詮経(※後述↓)と同一人物
と比定されていますが
ただ、数え17歳で他界した家長
既に成人した人物を生前に養子にとっていた
…というのは少々考えづらいので
この「志波殿」
普通に兼頼を指すものと見ていいような気がしますが…

家長亡き後、当時関東で「斯波殿」と呼ばれ得るのは
一時奥州相馬一族の大将も務めた同族の兼頼以外に
いないのではないかと。
(判自体は、兼頼代理の氏家道誠のものだったかも知れませんが。)


(※この頃の奥州では、建武4年(1337)春夏頃から
 中賀野義長石塔蔵人(頼房?)が指揮を執り始めていて
 (『大日本史料』建武4年3月10日、4月1日など)
 また、兼頼家臣氏家道誠の奥州での活動を伝える史料は
 建武4年(1337)2月6日付けの
 武石道倫への本領安堵の奉書が最後のようなので
 (『大日本史料』建武4年2月6日)
 兼頼が奥州で大将だった時期はおそらく
 建武4年(1337)正月26日合戦(※詳しくは後日)
 くらいまでだったと思われ
 暦応元年(1338)には鎌倉〜関東近辺にいたと考えても
 無理は無いように思います。)


そうすると兼頼
(関東限定の一時的な認識としても)
家長の名跡を継いでいたと言えるかも知れません。






――――――※ちょっと余談――――――

家長の名跡を継いでいたかも…」
とか、さらっと言ってしまいましたが
斯波に行った事もなければ家長実子でも養子でもない兼頼
「斯波殿」と呼ばれていたとしたら
それはあまり看過出来ない事のように思うので
ちょっと気になる事を、ついでに突っ込んでおきます。


家長関東執事として
建武3年(1336)〜建武4年(1337)12月25日まで
2年間ほど鎌倉で活躍しますが
この関東執事が後に関東管領と呼ばれるようになるので
(便宜上)家長は「初代関東管領」とも言われます。

で、家長の次に関東執事に就任した2代目は誰かと言うと
上杉憲顕なのですが、その就任時期は
建武5年=暦応元年(1338)5月頃になります。
(※建武5年8月28日「暦応」に改元)


これはなぜかというと、先日解説した通り
建武4年(1337)12月「杉本城」の合戦の後
鎌倉を脱した上杉憲顕・憲藤兄弟や桃井直常高重茂たちは
軍勢をかき集めて上洛し
「青野原の戦い」畿内での南朝方との合戦に従事していた為で
上杉憲顕が再び鎌倉に戻って来たのが
建武5年(1338)5月末〜6月初めくらいの事だったからです。

(※以上、この辺の事は…
 【黒田基樹編『関東管領上杉氏(シリーズ中世関東武士の研究
  第十一巻)』(戒光祥出版)2013】
 …の、第2部T
 「小要博『関東管領補任沿革小稿 ― その(一)―』1978」)



つまり、家長卒後から上杉憲顕の就任まで
関東執事は半年弱ほど空席の状態だった訳ですが
まあ、鎌倉の主君である千寿王(義詮)も三浦に避難していて
鎌倉に帰って来たのはこの年の7月11日なので
 (『大日本史料』暦応元年7月11日)
建武5年(1338)の前半と言うのは
先の建武3年(1336)の前半と同じくらい
人員的にもすっからかんな非常事態だったと言え
平時の体制が整わなかったのは仕方の無い事でしょう。


…とはいえ、それでも人々の日常は続いていく訳で
政務の継続が求められる以上
一応の代表者と言うのはやはり必要になります
特に武家政権では。

とすると、この主要人物軒並みかっさらわれた鎌倉
形だけでもいいから代表者になり得る人物って…
と考えると、やはりここは
足利尾張家の子息兼頼しかいないのではないかと。



もちろん、実際の政務は鎌倉に残った数少ない御家人や
兼頼家臣の氏家道誠が執り行ったのでしょうが
もし、この建武5年(1338)前半の半年間に

兼頼は "鎌倉の代表者として" 家長の後継者に立てられた

…という事実があったとしたら
上述の『烟田文書』建武5年10月烟田時幹軍忠状
「志波殿」なる記述はもしかして
兼頼がこの時、家長「斯波殿」という肩書きを

鎌倉代表と言う "地位の裏付け" として継承していた

という事実を反映したものなのではないか?
…との推測も可能かと思います。


(※建武3年(1336)3月時点で「足利竹鶴殿」だった兼頼
 建武4年(1337)正月時点でも
 家臣氏家道誠が代理で花押を据えていた幼子大将ですが
 暦応2年(1339)3月には「式部大夫兼頼」と元服済みなので
 (『大日本史料』延元元年3月8日
  …『相馬文書』暦応2年3月20日氏家道誠注進状案)

 もしかしたら、この建武5年(1338)前半の事情の為
 (早めに?)元服したのかも知れません。)


(※それから、10月時点では既に上杉憲顕が関東執事で
 また、常陸国の豪族である烟田時幹はもともと
 常陸国守護の佐竹一族の指揮下にあったのですが
 (『大日本史料』建武4年2月24日、7月是月『烟田文書』)
 ただ、この暦応元年(1338)10月の合戦は
 実はかなりの緊急事態でして…
 同年5月北畠顕家、続く閏7月新田義貞の戦死により
 戦略変更を迫られた南朝方
 奥羽〜東国での南朝勢力再建を企図し
 南朝の重鎮北畠親房9月、伊勢国から海路で常陸国に漂着
 これが、常陸国南部を中心に5年にも及んだ長期戦の
 幕開けとなったのでした。 
 つまり、北畠親房の登場という
 関東勢にとっては相当衝撃的な重大事件でして
 急遽、鎌倉から「斯波殿」兼頼が特任大将として向かった
 という事は十分に有り得るかと思います。)



という訳で、もしこの推測が少しは的を射ていたら
家長の「斯波殿」という称号が
単なる「居所由来の家名」ではなく象徴的意味を持っている
という先日の一考とも合致しますが
何より、家長と兼頼の関係
(奥州の大将としてだけではない)
想像以上に "近い" ものだった
という事が明らかに…なった、かも知れない? Σ(゚Д゚ )!!!??


ただ、これが「関東執事と言えるか?」と言われれば
あくまで臨時の "機転" であって正式なものではなく
でも実質的にはそれと同等の立場を想定してたんじゃないかなぁ…
くらいに個人的には思うのですが
 (これでもちょと言い過ぎかな?と思うのですが)
しかし暦応2年(1339)3月に
既に任官して「式部大夫兼頼」となっていると言う事は
もしかしてもしかしたら
京都の指示の上での正式な "何か" があったのかも知れない
とも考えられてしまうので、うーん… 何ともw

(あの尊氏が、半年近くも中途半端な状態で鎌倉を放置する
 とはとても思えないし、特に「斯波殿」の名乗りは
 そんなに勝手にはしないだろうと思われる訳で… )


まあここでは取り敢えず
初代関東執事足利家長と2代目上杉憲顕の間の

 1.5代目関東執事(仮)「斯波殿」兼頼

…という可能性だけ、提示しておきたいと思います。


(ここまで突っ込んどいて何ですが
 この仮説、まるで見当外れの可能性もあります
 \(^o^)/ナンテコッタ )



――――――――――おわり―――――





という訳で
「いいかげんマニアック情報やめて… (´・ω・`) 」
みたいな話になってしまって申し訳ありませんが
「鬼切」高経から兼頼に伝わった背景が
どうしても気になって気になって仕方なかったので
 (え、みんなも「鬼切」気になるよね?ね?)
高経の亡き長男家長兼頼の関係を掘り起こしてみました。



この暦応元年(1338)の「志波殿」兼頼を指すのだとしても
その後の、奥州〜東国での兼頼に関係しそうな史料は
翌暦応2年(1339)の家臣氏家道誠による
相馬胤頼の(2年以上前に遡る)軍忠についての
再度の注進状くらいなので
(『相馬文書』暦応2年3月20日氏家道誠注進状案
 …『大日本史料』延元元年3月8日)

家長亡き後、しばらくは関東にいただろう兼頼
2〜3年以内には京都に移ったのだと思いますが
しかしほんの一時期でも
家長の片腕となり、その跡を継承した(ような気もする)日々の記憶は
長く残ったのではないかな… と思います。




ただ…
「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」」
の冒頭お知らせの最後
ちょっと追記(2016.2.29)しておいたのですが…
「鬼切」の伝わり方は
もうちょっと複雑な経路をたどったのかも知れない
…とも思う訳で。




すまん.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆こっから再び家長情報





家長は数え17歳で他界してしまったので
『武衛系図』に

 「無子、自斯波養子云々」

…とあるように
子が無かったので "斯波" より養子を迎えたらしく
(※ここでいう斯波とは "他系統" くらいの意味かと)
実際、『奥州斯波系図』には

 家長 ― 詮経 ― 詮将 ……

と、家長の子に詮経(あきつね)
その孫に詮将(あきゆき)が記してあって
後にこの系統が奥州斯波郡に定住し
(おそらく詮将の代から)代々当地を治めて行く事になります。

ただ、養子と言っても
これは家長の没後しばらく経ってから
おそらく父高経の意向で
名目上…というか名誉的意味合いを込めて
長男家長の跡として由緒ある奥州斯波の地を継がせる為の
便宜だったのだろうと思います。(※詳しくは後述↓)

(家長の孫とされる「詮将」
 高経の次男氏経の子(=家長の弟の子)である「義高」
 同一人物とも考えられていて
 私もそう思いますが(もしくは兄弟?)…まあ詳しくはまた。)





そんな訳で
家長には実子が無く、名目上の子孫が跡を継いだらしい
そうなのかふむふむ… で終わるかと思いきや―――
終わらないのです。 Σ(゚Д゚ )ナント!?



実は『常楽記』に
 「文和二年五月 斯波三郎入滅 十七歳
…という記録があって
文和2年(1353)5月に享年17歳(=生年建武4年(1337))
斯波三郎って誰だよ!!
と突っ込まずにはいられないこのネタに
え?家長養子?? 実子…な訳ない、よね??
と、私はずっと疑問に思っていたのですが…。

(この時点では「斯波」は一族の家名として定着してないし
 当然家長はもういないし
 でも "三郎" は代々この家系の多くが通称としていて
 主要人物っぽい気配満々だし
 (家長は正確には弥三郎だが(『相馬文書』)
  『太平記』では斯波三郎と記されていて
  それで通っていたようだ)
 何より生年が、高経家兼の子とするには中途半端で
 該当者がいない… \(^o^)/ドウイウコッタ )

しかしその後
【木下聡編『管領斯波氏(シリーズ・室町幕府の研究 第一巻)』
 (戒光祥出版)2015】
…の p.14 で
「斯波三郎=詮経」としているのを読んで
あ、やっぱり家長の子でいいんだ
と呆気なく解決した、という次第であります。

(※これについては
 【今谷明・藤枝文忠編『室町幕府守護職家事典 下』
 (新人物往来社)1988】の「斯波氏」の項 p.42 にもありました。)



……。
てゆうか、一件落着でほっと一息お茶飲んでる場合じゃないですよ!!
これはつまり

 家長には、「杉本城」で戦死する年に生まれた実子がいた

って事じゃないですか!!
(;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) な、なんだってーーーーー!!?

わたし的には、わりと不意打ちな衝撃的事実なんですが
…まあいいか。


(※ところで『常楽記』では
 通常の俗人「他界」と記されていて
 「入滅」と表現されているのは結構な高僧に限られるので
 なんかちょっとうっかり間違えたのだと思いますが
 まあ、死因は病などの平時のものだったのでしょう。)




しかしそうすると、上記の『武衛系図』の
「子が無かったので斯波より養子を迎えた」
という記述は家長ではなくて
実際は、家長の実子斯波三郎(=詮経)のものであって
どちらも享年17歳だったので、のちに混同してしまった
…という可能性もあるかも知れません。

詮経の「経」が祖父高経の偏諱である事からすると
 (※「詮」はのちの2代目義詮の偏諱)
将来を期待していただろうに… 高経ショック (´;ω;`)
(この頃は、高経の次男氏経や三男氏頼
 父を支えて活躍し始めていたとは言え… )

おそらく、この斯波三郎(=詮経)の跡を絶やさぬ為に
惣領高経の意向で
次男氏経の子詮将を名目上の養子としたのだと思われ
従って上記の『奥州斯波系図』の記述は正確には

 家長 ― 詮経 = 詮将 ……

となるのでしょう。(※=は養子関係)





という訳で
上のブログ記事の冒頭の追記で
「鬼切」兼頼に渡ったのは文和2年頃かも知れない…」
と追記しておいたのは
可能性の一つとして…

建武5年(1338)閏7月2日の越前の合戦
「鬼切」は一旦、家長の忘れ形見三郎詮経に渡ったのだが
17歳にして父家長と同じく早世してしまったので
ショックを受けた高経
かつて東国〜奥州家長の分身として頑張った兼頼
家長の面影を偲んで「鬼切」を受け継がせたのかなぁ


…とも考えてみた訳ですが、うーん?
(※この翌年の文和3年(1354)
 兼頼は父家兼や兄直持と共に、奥州へと旅立ちます。)




ただやはり
「鬼切」兼頼に渡った背景が
東国での家長と兼頼の関係にあるのなら
(↑もちろん、この仮説自体が誤りの可能性もあるけどw
 でもこれ以外に「鬼切」兼頼の接点を見出せない… )

暦応2年(1339)以降
程無く京都へ移っただろう兼頼
建武3年(1336)という一番大変だった時期を乗り越えた
家長兼頼 "二人の" 功績を讃えて
当時直接、高経から兼頼「鬼切」が捧げられた
…と考えた方が自然でしっくり来るように思います。

幼くして鎌倉に残っていた兼頼
それゆえ、大将として戦場に赴くという重責を負った訳で
それは特別に褒められていい事なんじゃないかと。

(兄直持が嘉暦2年(1327)生まれなので
 弟兼頼は2〜3歳は離れていたとすると
 1329〜1330年生まれくらい?でしょうか。
 (ちなみに千寿王(義詮)は1330年生まれ)
 とすると奥州に赴いた建武3年(1336)は数え7〜8歳
 暦応元年(1338)でようやく9〜10歳といった所。)




まあ、真実のみぞ知る訳ですが
私としては、建武5年(1338)閏7月2日の奇蹟的な勝利に
高経はきっと家長の事を想っただろう
…と思っているので
東国帰り兼頼
戦功への褒賞と感謝の意を込めた「鬼切」
受け渡されたのではないかと、そう想像しています。





―――――※最後に豆知識―――――

文和3年(1354)
奥州管領として京都から当地へ移った足利家兼一家はその後
家兼の長男直持の系統の奥州探題大崎家
(…拠点は、宮城県仙台市の少し北辺り)
家兼の次男兼頼の系統の羽州探題最上家
(…拠点は、山形県山形市「山形城」)
の2流に分かれ
そして奥州斯波郡の地(※岩手県盛岡市の南)
高経の長男家長の養子としての奥州斯波家(高水寺斯波家とも)
が定住し、以後
奥羽の斯波一族はこの3系統が栄えて行く事になります。

(※奥羽両探題についてはこの後(40年後くらい)
 鎌倉公方2代目足利氏満、3代目足利満兼の時代に
 鎌倉府との関係で色々と色々な事になって行きますが
 …まあ、先の事はいいか。)



それではおまけに、前々回の奥州〜関東周辺地図
マイナーチェンジ版をどうぞ↓

家長兼頼の奥州関東地図


―――――――――――おわり―――



以上☆.*:.。.:*・゚(´・ω・`)゚・*:.。.:*☆家長兼頼鬼切
あったかも知れない昔々のお話



さて、ようやく本題…といいながら
結局本題その一までしか終わりませんでした。
というか、実はその一すら終わってなくて
兼頼相馬光胤の話まで行けませんでした。

という訳で次回に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 17:30| Comment(0) | ★チラ裏観応日記

2016年04月29日

2016年GW企画 国宝『神護寺三像』

(チラ裏シリーズ)

こんにちは、『チラ裏観応日記』です。
今年も生尊氏生直義を拝める季節がやって来ました。


京都『神護寺』所蔵(※京都国立博物館 寄託)の日本一有名な肖像画
伝平重盛像(尊氏)」伝源頼朝像(直義)」
毎年GW期間の5月1日〜5月5日に『神護寺』で一般公開される
…という話については
去年(=2015年)の記事「GW企画 国宝『神護寺三像』」をどうぞ。


というかそもそも
「伝平重盛像」が実は尊氏で、「伝源頼朝像」が実は直義
んでもってこの "対" の肖像画の秘密には―――
八幡大菩薩空海(弘法大師)がお互いを描いた肖像画
神護寺の伝説『互いの御影』が関わって来るんだよ!!
衆生を苦しみから救う瑞相という伝承を持つ『互いの御影』
遥か未来に至るまで天下と万民の幸せを願う祈りを重ねて
尊氏直義の肖像画が奉納されたんだよ!!
…という話については
上記ブログ記事に加え「室町絵師ランキング(第1位)」をどうぞ。



観たい! 是非観たい!!
と心が叫んでいますが、今年もやはり行く予定のない私は
脳内妄想スクリーンで、一人悶々と生尊氏生直義を鑑賞するのみ…
…とかやってるだけでは何か寂し過ぎるので
今年も本サイトのTOPページ「期間限定GW仕様」に変更して
なんちゃって「修法」を修し、健全に悶々としたいと思います。
(※修法(しゅほう・すほう)…密教の加持祈祷。)


何のお願いかって…
この「伝平重盛像」「伝源頼朝像」については
美術史方面からも歴史学方面からも実証的な研究が進んでいて
もはやほぼ尊氏直義で真相は間違いない
…という所まで明らかになっては来ているものの
ただ、どうしても
これまで源頼朝像として信じられて来た歴史
(…といっても、記録が残るのは江戸以降ですが)
を乗り越えるには、やはり時間が必要な訳でありまして
しかしこれが、純粋な真実であり
その真実を求める心に偽りが無いならば
必ずは応えてくれるだろう―――
…と思って去年からなむなむしてる、という話については
「かんのう日記予告」をどうぞ。



さて、今年の「修法」
GW期間の4月29日(金)〜5月8日(日)の10日間
初日の今日は「開白」(かいびゃく)ですので
脳内本尊様(←私の中では十一面観音菩薩
祈願の趣旨を述べたいと思います。

 「尊氏直義認定、よろしくお願いしまーす!!」

あくまで無私の心で、天下の為に祈るのがポイントです。
そしてこれから最終日の「結願」(けちがん)まで
毎朝自分のHPを開いては修法仕様のTOPページに向かって
なむなむ自画自拝するGWが始まるのであった… ちーん。

(相変わらず正月奉納絵の使い回しですみません。
 でもちょっと新緑っぽくしてみました
 いつもの高性能ブラシツールでw)



(※2016.5.9追記―――GW期間が終わりましたので
TOPページを元に戻しましたが
上の話が意味不明になってしまうので
この時の背景画像の縮小版を掲載しておきます。
尊氏直義
※左上のキャッチコピーなど文字部分を除く。(左:直義、右:尊氏))



無私の心で願念すれば☆:。*゚(`・ω・´)゚・*。☆は必ず応えてくれる
…って直義が言ってた





さて、康永4年(1345)4月23日に
京都『神護寺』に奉納された尊氏寿像直義寿像について
これまで明かされている事実に関しては
上記ブログ記事で主要な部分はだいたい解説しましたが
その先の事について…つまり
この "対" の肖像画に隠されたもう一つの真意については
私は以前、2015年5月19日のブログ記事
「室町絵師ランキング(第1位)」の後半で

「さらに深い、極めて具体的な目的(願い)が込められていた
 (しかもそれは清く純粋でかなり泣かせる話)」


と述べたのですが…

(↑ちなみにこれは
 尊氏にとっては直義と対である事 "だけ" が
 直義にとっては尊氏と対である事 "だけ" が意味を持つ
 という涙腺崩壊案件 (´;ω;`)
 こんな兄弟愛あっていいのだろうか… という話。)




なの で す が
記事をUPした約半年後(つまり去年の11月くらい)になって
この真相の奥に、さらにもっとショッキングな事実が秘められていた…
という事に気付きました。
当該部分に追記もしておいたのですが…
ラスボス倒して悦に浸ってたら
頭上から巨大なラスボスアルティメットが現れて
え、ちょ、もうMP残ってないよ!
エリクサーとか使い切っちゃったよ!!
どうすんの!これどうすんだよ!!状態です。


まあでも、事実なのなら仕方ない… 戦うしかありません。


ではその真相真相とは―――
という話を始めたいところではありますが
流石にラスボスラスボスだけあって
ここにたどり着くまでの道のりはめちゃむちゃ長かった…というか
その果てしない道のりの全過程を解説しないと、説明不可能な結果なので
現時点では手も足も出ません。 すまぬ、すまぬ… (´;ω;`)


一応、(その道のりの)具体的な要素だけ挙げてみますと…
有名な「宝積経要品」「清水寺の願文」
長門の『忌宮神社』に奉納した法楽和歌とか
尊氏の十一面観音のエピソードとか、尊氏画伯の事とか
というかこれまでの尊氏の言動のあれこれとか
「康永三年の謎」(←私が勝手に命名)とか
政務を譲った事、出家騒動尊氏邸引越しの事…

などなどなどなど
とにかく尊氏の人生のすべてを凝縮したような話で
これらあらゆる史実複雑に総合した結果として導かれる事実
…というエクストラハードモードの最難関迷宮でして
正直、私の慎ましいスペックな脳みそには無理ゲーもいいとこでした。
(未だにHP(ヒットポイント)全快してません。)


というか、本当はもっと早く
『観応の擾乱』の真相や「尊氏の秘密」の解明が大方完了した
去年の5〜6月の時点で気付くべき事だったのに
半年も後になって知るなんて… なんてあほなの
とやや絶望しますが、しかしそれだけ
尊氏の、つまりは太平記時代の真相って
一回の考察では決して解けない謎ばかりで
だけど何度も何度も史料を読み返し、考察を重ねに重ねてたどり着いた真実は
その苦労に見合って余りあるほどの夜半の日頭の如く美しい話だったりします。




取り敢えず今は、言える事だけ精一杯言っておきますと
この二人の肖像画は、奉納の趣旨を述べた「直義の願文」と共に
『神護寺』に納められたものであり
当時の天下政道を主導していたのが直義である事からも
肖像画 "制作" の指揮は直義が執っていた、と考えて間違いない訳ですが
そうすると普通に考えて
もともと肖像画の "提案" をしたのも直義だった
…とするのが妥当であり、私も当初はそう考えていたのですが
これがまた―――


実は、提案は尊氏でした。 Σ(゚Д゚;) マ・ジ・デ!?


しかも尊氏は、真の意図を隠して直義に提案したのです。
上の例えでいうと
尊氏は、ラスボスを理由として
「『夢中問答集』の夢窓国師の説法にある
 八幡大菩薩と空海の『互いの御影』に準(なぞら)えて
 『神護寺』に二人の寿像を奉納しようよ」

と提案し
これに大大大感激した直義がもうめっちゃ張り切って色々頑張った
という感じで
実はあの「宝積経要品」も、最初の切っ掛け(発端)は
これに関連するものだったと考えられます。
(つまりここまでは、直義の他にも知っていた公の話。)

(※ちなみに「宝積経要品」(ほうしゃくきょうようほん)は
 高野山金剛三昧院に奉納された写経&和歌の事。
 詳しくは後日また。)



このラスボスというのは
上述のように「涙腺崩壊の兄弟愛」…という温かい話で
また「宝積経要品」も、肖像画奉納時の「直義の願文」
共に広く天下への祈りが込められたものであり
これら "表の理由" 自体も決して建前ではなく
"本当の理由" の一端(というか大部分)である事に偽りは無いのですが
ただ尊氏
その表の理由(=ラスボス)の裏に
真の理由(=ラスボスアルティメット)を隠して
肖像画の制作を直義に提案したのでした。


つまり、あの肖像画の "真意" というのは
直義にとってのそれと
尊氏にとってのそれとでは
実は若干の違いがあるのです。 Σ(゚Д゚;) !!!!?????


直義尊氏の "両者" にとっての真意であるラスボスの方は
誰しも思わず涙してしまうだろうハートフルな話なのですが
尊氏 "だけ" にとっての真意であるラスボスアルティメットの方は…
こっちの方は…
いやあぁぁぁぁあぁぁぁあーーーーーっっっ!!!!!
と私が錯乱するレベルです。


まあ、見方によってはこれも "温かい話" というべきものなのですが
ラスボスが「涙腺崩壊の兄弟愛」なら
ラスボスアルティメットは… うーん…
上手い言葉が見つかりませんが
 「最愛の代償とは、絶望の事だったのか」
と悟った私が絶望しました orz


まあとにかく一つ言える事は
この二人の兄弟愛というのは…
他人の想像の及ぶようなもんじゃないですよ
(仲良しであって欲しいな〜とか思っていた私の希望すら
 桁違いで超えたものでした… )

たとえどんなに世が乱れ、天がに覆われ人の悪意が渦巻こうとも
二人の間に入れるものはこの世界に存在しない、と言ったところです。





あと最後に… この尊氏の真意
実は明らかになる日が来るはずだったのですが
結局隠されたまま終わる事になりました。
(それはもちろん良い事と言えますが。)
なので、直義は生涯それを知る事は無かったと思われますが
(てゆうか、もし知ったら直義気絶しちゃう… )
ただもしかしたら、しばらく経った後で尊氏
(この絶対誰にも言っちゃいけないレベルの秘密を)
足利高経(というかいわゆる斯波高経"だけ" には
後日談として打ち明けた可能性があるんじゃないかな〜と
長門『忌宮神社』に奉納された法楽和歌から
(まあ半分くらいの確率ですが)思ったりします。

(※この法楽和歌については
 今のところ解説無しの画像のみですが
 「夢想の結果」尊氏直義の)と
 「室町的鎌倉旅行記(その2)」高経の)を御覧下さい。
 ちなみに、この和歌自体は肖像画奉納より(時間的に)の話。)



てゆうかまた高経か!
存在感最モブステルス界の王子かと思いきや
おいしいとこだけピンポイントで颯爽と登場!!(そして速攻で退場…)




高経様は☆*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆今日も健在




…という訳で
今日の話は解説準備が出来ていないと言いながら
ただ、この『神護寺』の肖像画には
深い深い思いが込められている」という事だけ
どうしても早く伝えたくて、壮大にフライングしてしまいました。



ちなみに、肖像画の真意(ラスボスの方)は
直義の最期にも関連する話なので頭の片隅に置いておいて下さい。
(というか、直義亡き後の尊氏の行動にも大いに関連するのだが…
 まあいいか。)

(※直義の鎌倉での最期
 定説となっている『太平記』の尊氏による毒殺説ではなく
 直義はすべて自分で決めて自ら命を絶ったのだ…という話の概要は
 ブログ「暑中御見舞い申し上げます」の前半をどうぞ。)



なぜ直義は、尊氏と和解した "あのタイミング" で
自ら尊氏に先立つ事を選んだのか?
誰にも告げる事の無かっただろうその理由を
この一対の肖像画が教えてくれます。






(※2016.6.19追記―――
 この記事をUPした直後、気になる所をもう少し詰めて考えてみたら
 もしかすると尊氏が隠していた真の理由
 さらに遡ると、当初はもう一つの別の理由だった可能性が出てきた…
 つまりラスボスアルティメットの方は、途中でトランスフォームしていた疑惑!
 うーーーんw )




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posted by 本サイト管理人 at 16:11| Comment(0) | ★チラ裏観応日記