2016年04月08日

二周年です(…のおまけ)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏日記』です。

それでは早速、前回の「二周年です」の続き
みんなわくわくおまけの時間です。
折角の実質初登場!という事で
畠山尚順の小ネタ(いやむしろ大ネタ)を一つ。


畠山尚順(ひさのぶ)は、畠山政長の嫡男で
明応世代の超絶主役級の一人です。
まあ、今のところ知名度未確認飛行物体ですが。

というか、私も『明応の政変』の探究を始めるまでは
全く以て知らなかったので偉そうな事は言えないのですが
(ほんとごめんw)
しかし、先入観が無かったのは幸いでした。
公平な視点で、純粋に一次史料から人物像を探る事が出来たので。

(※ちなみに尚順
 途中「尚慶」(ひさよし)に改名していますが
 私はなんとなく元服時の「尚順」で統一しています。
 それから、30代前半で早々に入道しますが
 入道後の法名は「卜山」(ぼくさん)です。)




尚順については、前回のおさらいブログ記事
 「畠山義就(その5)」の後半
 「夏休みの宿題(その2)」
で少々語っているので、そちらも見て頂きたいのですが
どうも現時点では
尚順のすごさは全力スルーされている… というか
単に "室町守護大名のよくいる一人" として
平凡に解釈されてるってだけなら、まあいいのですが
なんというか…
随分とマイナスな見方をされている…ような気が (´;ω;`)


というかもし本当に
自分の事しか考えてない器の小さい嫌な奴!
ってんなら分かるのですが
尚順はマジで、色んなもんを失いながら全身全霊で戦い抜いて
それなのに政変15年後
永正5年(1508)6月に念願の京都凱旋を果たし
将軍義材が元の幕府を取り戻して遂にこれから春!!
って時代に―――
 (※この時点でまだ34歳(満32歳)既に入道済み)
での地位も名誉も名声も
なんの見返りも求めずに去っていった 変人 聖人なんですよ?


(↑なのにこれは、はあったのに権力抗争に負けて
 幕府復帰後の地位確立に失敗した」
みたいな見方されてる
  ええぇぇぇーーー(´д`)ーーーーっっっ!!!!!!
 あれだけ義材に信頼されて公家にも歓迎されて家格も最高で
 こんないくらでも権力振るえる立場で
 普通に考えたら "自ら" 身を引いたのに、なぜそうなる??
 尚順は、凱旋以前のかなり前から
 隠居の意向を持っていた兆候があるのですが
 (というか、一回 "出家→還俗" 騒動起こしている。
  【久保尚文『越中中世史の研究:室町・戦国時代』
  (桂書房)1983】…の p.58)

 どうやら政変でを、戦で3人の弟を亡くした事が
 相当心に堪(こた)えていたらしい…
 それでも最後まで戦ったんやで (´;ω;`)
 こんな強い子そういない… というか
 どれだけ心が折れただろうと思うと、なんか遣り切れない。
 そもそも、この凱旋後の紀伊隠居については
 義材の為を思っての行動でもあったと思われる訳で
 つまり、どう見ても涙腺崩壊の映画化案件です! )



(※ちなみに、尚順の紀伊隠居(在国)の時期は
 凱旋からだいぶ経った永正十数年頃とする場合が多いですが
 『後法成寺関白記』を見るに、相当早い時期だったと思われます。
 それから隠居と言っても
 尚順は紀伊では領国経営してるし
 京都には幼い嫡男稙長(たねなが)(※当初は元服前)
 一族の能登畠山義元もいて幕府で活動していて
 尚順自身、京都とは連絡を取り続けていた事は史料から確認でき
 決して幕府や義材に背を向けた訳ではないのです。
 (能登国守護の能登畠山家はもちろん
  畠山宗家惣領尚順の指揮下にある昵懇の間柄です。
  …『上杉家文書』「越後へ条々手日記」第5条)


 畠山義元は、稙長(※幼名鶴寿丸)と一緒に
 義材に猿楽を献じていたりもするので
 (『大日本史料』永正8年11月14日)
 宗家鶴寿丸の後見的立場でもあったと思われ
 (能登畠山は、義就・義忠の頃からそんな立ち位置)
 おそらく尚順は、紀伊に帰る自分の代わりとして
 畠山義元を能登から京都に呼び寄せた
 …と見て間違いないと思われる訳ですが、ではなぜ
 そこまでして自分だけは京都を離れたがったのか…?
 まあ、詳しくはまた。)



(でもやっぱもう一言w
 尚順は、復帰後の幕府で細川高国に主導権争いで負けた…
 と大誤解されていますが、実際は
 尚順細川高国は "敵対" どころか "懇意" な関係で
 しかも細川高国の方が尚順には遠慮があって
 頭上がらないくらいの関係だったりするのです。
 でも尚順は優しいからえばったりなんてしません!w

 凱旋後、義材返り咲き時代の幕府での細川高国って
 非常に誤解されている…というか
 細川高国は傲慢でも権勢家でもなければ
 決して強い立場だった訳ではないのですが…。
 まあこれは
 クーデター政権としての宗家の行いの数々や
 クーデター政権崩壊直前に(なぜか)いきなり高国
 細川宗家の家督についた経緯を考えれば当然ですが
 普通に考えたら
 一族が赦免された事すら奇蹟… というこの状況で
 細川高国
 「凱旋後幕府での "細川宗家の立場"
 「細川宗家での "自分の立場"の安定のため
 毎日とっても神経すり減らして頑張っていた
 …という苦労人なのです。
 でも、義材も一番権力ある大内さん(←大内義興
 みんな優しかったから頑張れたのですw)

(※ちなみに祝☆幕府再スタート時のそれぞれの年齢は
 義材43歳(満41歳)、畠山尚順34歳(満32歳)
 大内義興32歳、細川高国25歳 …です。)




(さて、話を戻して…)

それから、尚順の実際の性格を探るなら
やはり現存文書の右に出るものは無い訳ですが
これがまた…
畠山家は家格がとても高いので
大抵の大名・被官層・国人たちとは圧倒的な差があるのに
書状の内容を見ると
とても謙虚丁寧相手への気遣いに溢れていたりして
なんか壮大にズコー!!となっちゃう人なんですよ。

(※越後守護代長尾為景(←上杉謙信の父ちゃん)への
 越中の軍事作戦についての書状が
 『上杉家文書』にたくさん残っています。
 自分が窮地にある時に
 「全然大丈夫だよ!へっちゃらだよ!」
 と元気に振舞って相手を安心させようとする所とか
 (軍勢の士気を落とさない為もあるけど)
 人につらい顔を見せようとしない性格だったんだろうな
 と思う。)

(※永正17年(1520)辺りのこれらの書状については
 『大日本古文書』『大日本史料』に全ての翻刻がありますが
 物語形式で読み易くまとめられたものに…
 【山田邦明『戦国のコミュニケーション ―情報と通信―』
 (吉川弘文館)2002】…の第一話
 があります。)





あと、何度も言っちゃうけど
大永元年(1521)10〜11月のあの一件について…
(※京都凱旋から13年後の話。
 義材たちが元の幕府を取り戻してからしばらくは
 少々(いやかなりw)のドタバタはあるも
 平穏に過ぎていった日々だったのですが、やがて…)

この頃、紀伊国ではなく和泉国堺にいた尚順
「嫡男畠山稙長と決裂して息子の軍に攻められた
 (稙長は京都(幕府)の命令でに背いた)」

とかいう誤解だけはない!! ないないない!!!

あれはどう見ても『春日社司祐維記』の "勘違い" であって
実際は、尚順の息子畠山稙長
畠山義英(※義就方畠山)とだけ戦っている
ってだけの話なんです。
(『大日本史料』大永元年10月23日)

(というのもこの頃
 京都(幕府)と和泉国堺の義材尚順の間でごく秘密裏に
 どうやら何か示し合わせがあったようなのですが…
 まあいいか。)



だいたいこの件は『春日社司祐維記』筆者自身が
「子が親を攻める??不思議…」と言ってるのです。

というかこの筆者(※春日社は大和国興福寺の傘下)は
大和国(←領主は興福寺の寺社領の件で
尚順に個人的に恨みを抱いていたようで
少々バイアスが掛かっている模様。

…でも政変後、京都凱旋前後の最終局面
クーデター政権の凄惨な攻撃でボロボロ大和国の為に
大和国人をまとめて壮絶な大和奪還戦を繰り広げたのは…
尚順なんやで (´・ω・`)
大和の闕所地くらい正当にちょっくら知行する権利ある
大恩人なんやで (´・ω・`)


(↑これについてもう一言いうと…
 (凱旋前に遡る話ですが)
 世の中の時勢を的確に読んでいた大和国興福寺尋尊
 (大和の為にも興福寺の為にも)
 畿内の為に戦う尚順闕所地知行(←闕所以外はノータッチ)
 を妥当なものと肯定していて(←尋尊は分かってる!)
 その一方で(戦えもせずにただ)旧態にこだわり
 (大和の味方たる)尚順を敵視する寺門の者達
 かなり難色を示しているのです。
 (『大乗院寺社雑事記』明応7年2月20日、明応8年5月7日)
 (この時代になると大和国人たちは
  興福寺の命令に従わなくなって来ていて
  畠山家惣領 "屋形" と仰ぐのを好んでいた。)

 だって
 大和に優しい尚順を敵に回したりなんてしたら…
 次に来るクーデター側の支配者は
 大和国焼き尽くしちゃうのよ (´・ω・`) ギャアアァァァーー!!!!! )





そして最後、尚順
長く暮らした紀伊国「広城」に戻れなかったのだって
あれは自分よりも義材の事を優先したからなのですよ。

この頃、義材(=義稙)は
永正18年=大永元年(1521)3月7日から
人生最後の京都出奔中wだったのですが
(京都凱旋から13年後の事。
 この出奔も実は、隠された真相があったようですが…
 まあ今はいいか)

一方、尚順
その前年の永正17年(1520)6〜8月頃
もともと問題行動を起こしがちだった
紀伊国人で幕府奉公衆の湯川一派
(おそらく教唆された)国人達による不意打ち謀反
「広城」を脱出して和泉国堺まで遠足
…というかわいそすな目に遭っていた、ってゆう (´;ω;`)


でもこれも
『上杉家文書』(永正17年)8月11日付けの
越後守護代長尾為景に宛てた尚順書状によれば
中意雑説によって…」
 (※中意は内心の企み、造意くらいの意味かと)

とあって、結構ひどすな謀略だったようで
不慮の出来事で無念至極とか言っちゃってる尚順
慣れ親しんだ「広城」ゆえに相当寝ぼけていたと思われる。
でも
和泉の堺無事に退却したから大丈夫!安心してね!」
「いま遊佐(尚順の重臣)が紀伊国人と話つけに行ってるとこ!」

と、あくまで(空)元気に振舞う尚順
さらに『上杉家文書』(永正17年)9月28日付けの
長尾為景への書状で…
京都と協力して、もうすぐ解決するから大丈夫
 心配しないでね!!」

と言っているのです、一応。


(この「広城」脱出騒動の原因については
 なんか尚順が全面的に悪くて
 長年紀伊国人たちの反感を買っていて遂に追い出された

 …みたいな捉え方されている気がしますが
 これは同年5月の幕府洛中大騒動(←細川宗家の家督問題)
 による畿内の動揺の隙を突いた便乗蜂起であって
 謀略によるかなり "唐突な" 事件、と捉えるべきかと。
 同年4月時点で
 「都鄙怱劇の半ば」「都鄙錯乱手前の様」「京都錯乱
 といった状況だったのです。(『上杉家文書』)
 (※都鄙はここでは、京都&畿内周辺の意味。) )



ただ、尚順はあまり積極的に戻る気がなかったようで…
これはおそらく
この半年ほど後に義材が京都を出奔する件で
事態が急展開し始めたせいなのではないかと
私は見ているのですが…

(この辺の事情はまた複雑…というか、一般には
 「義材細川高国と対立して京都を離れた
  高国を討ち再び入京する為に、尚順らと共に挙兵した」
 とされていますが、どうやら実際は
 相当に深い裏事情(泣ける話 (´;ω;`) )があったようで…
 ってまあ今はいいか)



と、そんな訳で
京都を飛び出した義材のもとに駆け付けたから
自分の城へ帰る事が二の次になってしまったのです。
そうやっていっつも
自分の不遇そっちのけで公方の為に戦ってる…
そんなお人好しだから誤解されるのでしょうけど。



まあ、「人間で動くもの」という前提で見ると
尚順の "隠居聖人志向" "三度の飯より公方志向" は理解されず
理解出来ない異質な者は
偏見を持って見られてしまうのは世の常なのかも知れませんが
しかも本人は、そんな事全然気にしてなさそうなのですがw
でもやっぱり尚順かわいそ過ぎる (´;ω;`)


(実は当時も…
 京都凱旋後に全く権勢を求めず紀伊に引き篭もる
 という如来の様な無欲さが常人には理解不能だったせいか
 「猜疑心が強い、いけ好かない性格で
  自分で人を遠ざけておいて
  陰でこそこそ人を疑っては難癖をつけたり
  財貨を溜め込んで一人で満足するのが趣味の嫌な奴

 …みたいな悪い噂をされていたっぽい形跡があるんですよ。
 なにそれもう!
 そんなちんけな奴
 あんなに長い間戦い続けられる訳ないじゃん!!
 ほんと、見事に父政長の不憫属性を受け継いでいる…
 (´;ω;`) …という
 ある意味不憫マニアにはたまらない情報である。)



ただし "聖人" っていっても
父の政長みたいな、なんか超越した生き仏系とはまた違い
領国経営では義就みたいに主導的なとこがあったり
すっごい筋が通っていて同盟を大事にし
それ故裏切りには厳しい
…というのもまた義就そっくりで好きな所ですが
(↑ちなみに "尚順が裏切った" とかいう永正4年12月の件は
 あれ大誤解です! 真相はまた後日)

おそらくやつは
15年の戦闘潜伏生活で相当野生化したと思われる訳で
とにかくあらゆる面で強いのに
やっぱり根が優しいからずっこけてしまうw
というそんな尚順のスペックを一言で言えばやはり…

 「政長義就を足して2で割るの忘れた」

これに尽きます!!





…と、尚順の話していたら
また色々と止まらなくなって来てしまったので
そろそろ自重します。

(どうも私の中では、室町創生期直義ポジション
 室町後半戦では政長尚順に重なるので
 すぐにムキになってしまう… ( ゚Д゚) ムッキームッキー )





それでは我に返って
今のところ誰それ状態な畠山尚順の知名度向上の為
私のこれまでの探究成果を
簡潔に如来名にしてみましたのでどうぞ↓


畠山尚順


畠山父子の無自覚如来シリーズ」です。
(※父政長については「夢想の結果」を御覧下さい。)

しばらく床屋行ってない政長…みたいな髪型で
野生如来感を表現してみました。

天下の期待注目を一身に集めながら
どうも本人にめっぽう自覚がない…
戦いが終われば一瞬で秘仏の如く引き篭もる…
という自己顕示欲に超絶乏しい「もったいない如来様」です。
(私のめっちゃむちゃむちゃストライク属性です。)





ここまで余談↑☆.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆こっから本気





さて、畠山尚順は管領畠山政長の嫡男として
『応仁の乱』終結の2年前
文明7年(1475)12月20日に京都で生まれ
19歳(満17歳)まで王子人生送ってた
…と言う話は以前しましたが
どんな王子だったかを教えてくれる、こんな記録が残っています。



前回少し触れたように
『応仁の乱』で西軍だった義視(よしみ)・義材父子
乱終結年の文明9年(1477)
美濃国守護代の持是院妙椿と共に京都を離れますが
 (※この時義材12歳(満11歳))
その後、長享3年=延徳元年(1489)3月26日の
9代目将軍足利義尚の他界(※義政嫡男、享年25歳を期に
次期将軍候補として約11年半振りに上洛します。

そして翌延徳2年(1490)の大御所義政の他界を経て
同年7月5日、義材は正式に征夷大将軍に就任(※この時25歳
しかし、またしても翌延徳3年(1491)
駆け出し将軍の息子義材を支え
 「毎事善政御儀云々」
(『大乗院寺社雑事記』延徳2年10月12日)

と称される政道を実現していた義視が病で他界…
という不幸が訪れてしまいますが
しかし、健気な義材
大抵の幕臣たちとは良好な関係を築き
(↑『蔭凉軒日録』に和やかな雰囲気が溢れています)
前将軍である亡き従兄弟義尚の遺志を継いで
室町幕府の明日の為に頑張るのです。
それなのに2年後にあんな政変… しどい (´;ω;`)


(※従来、義材が将軍となる経緯は
 義政・義尚父子義視・義材父子
 敵対関係にあるような捉え方をされていましたが
 (なんか、家督争いでいがみ合っている様な…)
 しかし、義政義視は本当は
 とても仲の良い兄弟だと自認していたのであり
 義材を後継者にする事は、義尚自身が望んでいた
 …というのが実際なのであって
 家督問題についてはお互いに "協力" していたのです。
 足利家として当たり前の肉親の情が存在していたのに
 少しの例外があるってだけで
 (それだって周囲に翻弄された不幸なのに)
 尊氏直義兄弟もそうだけど、足利さんちはなぜか
 史料の事実そっちのけで何でも悪い方に解釈されてる
 なにそれもう… (´・ω・`)
 そろそろ改心して… (´・ω・`) )




さて、おまけの尚順ネタというのは
この延徳3年(1491)正月7日に他界した大御所義視
葬儀でのエピソードなのですが
正月25日に「等持院」で執り行われたこの葬儀の様子は
『蔭凉軒日録』(※筆者は大部分が亀泉集証
に詳しく記されていて
当時をありのままに今に伝えてくれています。
(※以下、『蔭凉軒日録』延徳3年正月25日、26日より)


幕府禅林(禅宗寺院)の間の政務を取り次ぐ職である
蔭凉職亀泉集証(きせんしゅうしょう)
葬儀の間、進行役として終始将軍義材の側近くに仕えていて
その他義材の側には
御伴衆大館政重、大館尚氏、大館視綱、山名豊重、上野尚長
細川政賢、伊勢貞宗(←今回の御伴衆の首(かしら))
伊勢貞陸(※貞宗嫡男)、伊勢貞職
など
それから走衆が控えていて
そして義材の弟や、畠山尚順、京極材宗、武田元信の大名
近習、外様、奉公衆、頭人衆、奉行衆、同朋衆、公家衆
門跡衆、御比丘尼衆、義政御台と諸権門衆…
などなど
数知れない参列者の中
高僧たちの焼香、法語、諷経、念誦…
そして義視が荼毘に付され
葬儀は粛々と進められていきました。

義材はこの時、将軍となってまだ半年
頼りとする父義視を亡くしてさぞ心細かったろうに
亀泉集証に、天気に恵まれた事を語りかけられると
また「御一咲、御含胡」してにこっと微笑みてへっと頷く
かわいかわいそ過ぎる新米公方義材26歳 (´;ω;`)w (満24歳)


この日の葬儀は、厳重な(義材の)御成敗により
万事順調に進み、時節も良く、も晴れ渡り
これらはみな、誠に義材孝行の心に通じた為だと
皆が言っていたそうな。(なんて良い話…)



さて、そんな感じで無事に葬儀は終わりを迎え
義材の退出を見送った亀泉集証
再び「等持院」の方丈(本堂)に戻って来たところ
上記の参列者たち…畠山尚順、京極材宗、武田元信
頭人衆、諸奉行衆たちが皆、お辞儀をして迎えました。
亀泉集証も大役を終えてほっとした瞬間だった事でしょう。
本当にお疲れ様です。
それでは、最後に今日の感想をどうぞ。


 「就中尾張守殿太美麗也」
(なかんずく尾張守殿、はなはだ美麗なり)

「その中でもとりわけ、畠山尚順殿非常に美しかった



……。
って、ズコー!!
なんちゅう感想で義視の葬儀を締めてんだよ!!
いやでも待てよ
逆に考えると、それ程に重要な事だったんですよ
尚順の美しさはw
(※ちなみに亀泉集証
 政務に忠実で、控え目で誠意あるまともな人物です。)


てゆうか、葬儀の席なんて
みんな白の浄衣(じょうえ)か
入道してたら薄墨の直綴(じきとつ)で
一様に地味ぃ〜な服装であって全く着飾っていないんですよ?
つまり "顔だけ" しか違わない状況で
しかも表情だってしんみりしていただろうに
強調語を2つも使っちゃうほどに
一人突出して美しさが印象に残るって… どんだけなんだよww
しかもこんな全然関係ない事、記録に残すなよw
(↑史上稀に見るグッジョブです m(_ _)m )


私これ『後鑑』(のちかがみ)読んでて初めて知ったんですけど
目ん玉 (  Д ) ゚ ゚ ポーーーーーン しましたよ。
いや〜びっくりした。

(※『後鑑』…江戸時代編纂の歴史書。『大日本史料』と同様の形式。)


という訳で以前
ブログ「室町絵師ランキング(第4位)」
幻の「史実イケメン」の予告をしましたが
正解は、明応世代畠山尚順だった
という訳でした!





そんな☆.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆オチかよ!!





まあ、一次史料で容貌(※漠然と容姿ではなく明確に
を褒められている人物といえば
8代目義政や、13代目義晴についても…

義政9歳(満7歳)
 「御容顔豊満美麗吉相悉く備える」
 (『建内記』嘉吉3年7月23日)

義晴11歳(満10歳)
 「御容顔美麗也」
 (『二水記』永正18年7月6日)

…という記録があるのですが
ただ、幼少の将軍の子息ならそりゃかわいいだろうし
これらは初めて対面した時の感想ですから
日記に特別記されているのも、自然な事と言えます。
それから
9代目ボンボン義尚もよく賞賛(絶賛?w)されていて
まあ美しかっただろう事は確かですが
なんと言うか
足利さんは基本的に、代々美的水準が高かったようなので
将軍カテゴリはやっぱハンデが必要よね
…という独断ルールにより
一次史料といえども
私の史実イケメン認定の枠外とさせて頂きました。

だいたい
尊氏直義からして間違いなくかっこ良かったと思うから
もう錯乱気味に二人が好きな私のスカウターでは測定不可能です!
まあ、義持はなんかもちもちしてるけど。
でも、もちもちの弟の6代目義教(※義政の父)からは
妙に整った端正な顔つきになるよね。
それはつまり…
義教めっちゃイケメン疑惑…!? (; ・`д・´) なぬ!!!??



…まあいいか。
それから、儀礼や儀式、遊興の席での着飾った美しさ
盛大に御供を連れた行粧を称美した記録なんかも
よく目にしますが
そういう美しさを競う場での容姿の言及は普通の事であって
お世辞も入る上に、顔ではなく全体の雰囲気だし
また、『蔭凉軒日録』の大部分の筆者で禅僧の亀泉集証
美作国の赤松被官後藤家の出身なので
主家の当主赤松政則については
行粧などを事ある毎に褒めていて微笑ましいのですが
将軍でも身内でもない、つまり褒める義理のない畠山尚順が…
しかも、およそ人生で最も地味な葬儀の参列時に…
となると、これはもう特筆せずにはいられない訳です。


ちなみに、延徳3年(1491)正月というと
尚順は前月に満15歳になったばかりです。(数え17歳
そして、当時の僧侶の美意識…つまり
寺院の稚児喝食 "美しい" の基準(←相当ハードル高い
というか中世日本の最高峰

いわゆる超絶美少年ですから―――
後は想像にお任せします、はい。


(※喝食(かっしき、かつじき)とは
 禅院における有髪の10代後半以下くらいの童僧の事で
 『蔭凉軒日録』(←基本はごく真面目な政務の記録)には
 例えば月江美丈(月江寿桂)や月嶺美丈(月嶺瑞光)などの
 特別注目を集めていた喝食が
 もうとことん美辞を尽くして賞賛されていたりして
 (ってか、美丈ってw)
 当時の人々の美しさへの感心の高さが窺えますが
 (※参照…【蔭木英雄『蔭凉軒日録 室町禅林とその周辺』
  (そしえて)1987】…の「三 禅林の法階」)

 その『蔭凉軒日録』で脈絡もなく褒められてるって事は
 尚順はそんな(美しさが仕事みたいな)美丈たちと
 同系列だったって事だろうか… マジでか… とか思う。)



これほど厳しい「史実イケメン認定基準」をクリアした中世の武将って
他に思い当たらないと思うのですが…?(ど、どうよ?)

(ただ、『蔭凉軒日録』全部読んだ訳では全くないので
 もしもっとすごいのがいたらごめんw
 で、でもたぶん大丈夫…たぶん… )



しかも、美しさで主君に見出された…みたいなケースではなく
もともと超名門畠山宗家の嫡男で
人生の3分の1を戦に捧げた本物の武士
戦い方もなんかとんでもなく
(↑勝つ時も豪快だけど、実は負ける時も豪快w)
んでもって「神慮」とか「天運」とか言われる異次元ヒーローで
その上でたまたまかっこ良かっただけ、顔はおまけ
…って何だその安易なキャラ設定は! 誰がOK出した!!
とかいう嘘みたいな史実キャラですよ?
これはもう国宝認定が必要なレベルです!


なのに見た人が誰もいない級の圧倒的秘仏
室町はもっと畠山尚順で広報していくべきだと思います!!
早急に御開帳を!!






――――※ちょっともう一言―――――

ところで
みんなが公然好意的将軍の美しさを褒めるのと違い
尚順の場合はわりと
陰で噂されるタイプだったのではないかな…
と私は見ているのですが。

なんというか、畠山家の御曹司で
リップサービス無しにこれだけかっこいいとなると
たぶん賞賛より嫉妬の方が勝(まさ)ってしまうのではないかと。
人の良い亀泉集証は素直に日記に書いていたけど
普通はムカついて絶対認めたくないと思うw

『明応の政変』はもしかしたら
この辺の複雑な嫉妬
(色々な意味で)少しあったような気がするのですが…
まあ、あくまで不確定要素なので
ちょっと考えてみるのも有りかも、くらいの話ですが。

(上記の "悪い噂" なんかも、その一環のような…
 イケメンは性格悪いに違いない!…みたいな無慈悲な先入観w)

尚順も、父の政長
その才覚地位を鼻にかけたりなんてしない
気立ての良い性格だったのに
本人は望まなくとも、やっぱり目立ってしまったんだろうなと。

天に与えられたものが多かったから
試練も人一倍だったのかも知れない…

―――――――――――――おわり―――――





それでは、史実イケメン発表記念!!と致しまして
史実妄想推進運動の一環として
畠山尚順画像の一次史料バージョンを作ってみましたので
こちらもどうぞ↓


畠山尚順


なんという史実ずくめ!!


さて出典は―――

「就中尾張守殿美麗也」
…は『蔭凉軒日録』延徳3年正月25日より。

それから

「抑河内畠山少弼没落云々、尾張守入国云々、希代之天運也」
(河内国では、畠山基家が没落して尚順が入国したそうだ
 希代の天運である。)

…は、三条西実隆の日記『実隆公記』明応6年10月8日

大敵不移時日責落條非直事、併為神慮者乎」
大敵(=畠山基家方)を(尚順が)日を移さず責め落とすとは
 尋常ならざる事だ… 神慮か。)

…は、近衛政家の日記『後法興院記』明応6年10月10日


この2つの記述についてですが
これは明応2年(1493)閏4月以降
それまで紀伊国に逼塞(ひっそく)していた畠山尚順
和泉国で動きを見せつつ3年の雌伏を経て遂に始動するのですが
その翌年の明応6年(1497)10月
クーデター政権側であり、畠山家の守護国の一つ河内国を治める
(義就方畠山の)畠山基家の勢力を
まさに神懸ったかの如く一瞬で制圧し
一時、河内・大和・和泉・紀伊の畿内広域を
突如として掌握した時のものです。


この尚順の快進撃を全面的に賞賛した記述が
"京都の" 公家によるものである」という事実は
『明応の政変』の実態を明らかにしてくれる
非常に重要な証言です。


というのも、普通に考えたら
京都を治めるクーデター政権の、"敵" である尚順
畿内広域を制した」なんて聞いたら
京都に在住する者なら
「つつつ、次は京都に攻め込んでくる!!」
恐怖で怯えるはずなのですが…
(こういう危機は、室町時代を通して度々あった訳ですが
 公家の日記にはその都度
 恐怖とか避難の準備といった記述があるw)


しかし、この時の近衛政家三条西実隆
これまでの公家の反応とは全く逆の
まさに "異例" としか言い様のない感想を記している
これはつまり、彼らが―――

 「尚順は敵ではなく、天下にとっての味方である」

という真実を "知っていた"、という事を意味するのです。



(↑ここ、とても重要です。
 当時のクーデター政権下の京都に在住する者達には
 天下の真相を "知っている者" と "知らない者" がいたのです。
 「誰が知っている側か?」これが最大のポイントです。

 一方、知らない者達の中には
 事なかれ主義で自ら真実に耳をふさいだ者もいたようですが
 情報統制されて事実を知らない者達もいて
 義材陣営は "天下を乱すの凶徒"」
 と信じていた(信じさせられていた)訳ですが
 その筆頭が…
 クーデターで新将軍に立てられた12代目義澄(よしずみ)
 一般にクーデターの勝者とされている義澄ですが
 実は、最大の被害者だったのです (´;ω;`)
 (※義澄は義材の14歳年下の従兄弟、足利政知の次男です。
  政変当時は「天龍寺」の喝食で14歳(満12歳)でした。)


 だから義材は、終始義澄とは和睦の道を模索していたのですが
 しかし、義澄の方は最後まで洗脳が解けず
 義材は自分を心底怨み、命を狙っている」と信じて怯え
 頑なに和睦を拒み武力で対抗し続けた、という
 あまりにも残酷な話なのです。
 義澄だけはもう本当に本当に可哀相…
 良い将軍になろうと頑張っていたという史料もあるから猶更。
 ほんとこの政変、鬱… (´;ω;`)
 (だから何が何でも
  全部明らかにしてやらないと気が済まない!!!)

 まあ、詳しい話や根拠の史料はまた後日。)




さて、さらにその翌月の11月には
尚順は隣の大和国に入国するのですが
大和国興福寺尋尊はこの尚順の入国
尚順の敵方(=クーデター政権側)の大和国人が没落した事と共に
「神慮珍重」と記し、明らかな賛意を表しています。
(『大乗院寺社雑事記』明応6年11月23日)
(※珍重(ちんちょう)…めでたい事、祝うべき事。)


大和国の主、興福寺の大乗院門跡尋尊(じんそん)
自国への尚順の入国を恐れるどころか歓迎するって…
お前はどんだけヒーローなんだよww
と突っ込まずにいられませんが
『大乗院寺社雑事記』の大部分の筆者尋尊(※一条兼良の子)
『応仁の乱』の頃も貴重な情報を沢山提供してくれた
室町切っての情強ですので
『明応の政変』でももちろん、"知っている側" な訳です。

(ただし、近衛政家三条西実隆とは情報源が別で
 独自の超絶情報網と持ち前の公平公正な判断力高い道徳観
 天下の真相を的確に見抜いていた、といった感じです。)




政変後4年目にして早くも
その伝説のような名将振りを天下に示した尚順ですが
ただし…
この後の畿内の状況は何度も反転
尚順が最後の勝利を手にするまでには
まだこれから11年近い気の遠くなるような年月を
勝利敗北を繰り返し、傷つき立ち上がり
それでも闇の先にを求めて
生きていかなければならなかったのです。





Stand for ☆.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆ Sunrise !!!!!





という訳で
2回に分けてお送りした「本サイト開設二周年記念」の特別企画
11代目将軍義材畠山尚順の奉納絵と
久々『明応の政変』談義、ついでに(と言いつつ本題の)
幻の「史実イケメン」の発表でした!



ちなみに、尚順義材の9歳年下で
義材が将軍となった当時から、よく可愛がられていました。
(※この頃義材20代後半、尚順10代後半。)
二人はもちろん、将軍大名と言う主従の関係ですが
しかし実質は、深い信頼で結ばれた "友達" といった感じです。
それなのに、運命に翻弄されて何度も引き離されてゆく…
という悲しい友情です。
しかし過酷な運命にすら
最後まで二人の心を引き裂く事は出来なかった
という温かい友情でもあります。


始まりの、まだ未来を何も知らずに過ごした
無邪気な2〜3年が突然に途切れて
『明応の政変』で生き別れてから
義材の為に戦い続けて15年
京都凱旋で念願の再会を果たすものの
その後の平穏な京都時代は、尚順が紀伊に身を引いた為
途中、ほんの一時尚順が在京した事があっただけで時は流れ
しかし、何の因果か京都凱旋から13年後
再び二人は再会
最後の一年を共に過ごす事になります。
そして
紀伊に帰る日を迎えぬまま、大永2年(1522)に尚順
さらに翌年、京都に戻る事なく義材が跡を追うように世を去り
ここに
描かれたシナリオのような一生を生きた二人の友情
深い眠りにつくのでした。


その一蓮托生の人生からは意外なほどに
一緒に過ごした時間の少なかった二人ですが
政変後の15年も、凱旋後の13年
義材はずっと尚順を心配していたようで
それを示す言動や御内書がいくつも残されています。
もしかしたら
遠く離れているほどに強さを増した友情が
二人の物語の最後に
"再会" と言う答えを与えたのかも知れない…

そういう視点で見るとまた、『明応の政変』
もう一つの感動の顔を見せてくれる
深い歴史の物語… だったりもするのです。





☆☆最後にまとめ☆☆

今回は冒頭でいきなり
京都凱旋の13年後の話までしてしまい
かなり時系列的に分かり難かったかと思いますが
義材尚順一蓮托生物語…として見ると
概要が掴み易いかと思われます。


義材1st将軍時代 3年弱
 ↓
『明応の政変』義材放浪 15年
 ↓
「京都凱旋」義材2nd将軍時代 13年
 ↓
「再会」そしてエピローグ…



非常に読みにくい長文で申し訳ないのですが
以上を踏まえて情報を整理して頂けますと
理解が捗るかと思います m(_ _)m


それから、久々に原点公方義材の話題に花が咲いたので
本サイトのTOPページを春に衣替えしてみました。
天下に春呼ぶ花咲か公方義材
そんな公方の為に戦い続けたとある尚順の物語が
もう一度咲き誇る日が来るよう、願いを込めて。



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posted by 本サイト管理人 at 20:18| Comment(0) | ★チラ裏日記

2016年03月29日

二周年です

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏日記』です。
突然ですが、本日3月29日は… 本サイト開設記念日です!
という事で2周年を迎えました。


去年のブログ記事「一周年です」では
「正確な日付は自分でも不明…」とか
てきとーな事言ってしまいましたが、これはなぜかと言うと
本サイトをUPしたのは3月29日なんだけど
ブログ『Muromachi通り』3月24日に始めてしまっていて
何これどうしたらいいの!…と混乱した為ですが
やはり記念日はちゃんとしておこうと思いまして
3月29日をスタートの日とする事にしました。
ちょうど桜も咲く頃だし
毎年心を新たにするにもいい日です。

そんな訳で
ネットの片隅でしがない室町幕府応援活動を始めて
2年となりました。
まだまだ世間にも宇宙にも何の影響も及ぼせてはいませんが
いつか必ず、室町時代の真価は天地の知るところとなる…
と大袈裟に信じていますので
これからもよろしくお願い致します m(_ _)m



「きっと彼らはもう一度戻って来てくれる…」
そんな願いを込めて、今年も記念の奉納絵を描きました。
モデルは本サイトの主役「明応世代」より
私の原点公方11代目足利義材(よしき)(左)と…
実質初登場の畠山尚順(ひさのぶ)(右)です。



足利義材・畠山尚順
(※クリックすると拡大します。1000×750px)


なんか去年と雰囲気変わんない…

自分でも描いてて
技法センスにほとんど向上が感じられなくてやや絶望したので
お花いっぱい舞わせて、希望に満ち溢れてるっぽくしてみました。

(※明応世代のキャッチフレーズについては
 当ブログ「夏休みの宿題(その2)」
 "三応兄弟" の三男「We'll be back!!」を御覧下さい。)




さて、主役といいながら
最近とんと『明応の政変』関連はご無沙汰していて
尊氏直義時代に嵌り込んでしまっていますが
決して『明応の政変』への興味が薄れた…とかいう訳ではなく
それどころか許されるなら
今すぐにでもいくらでも語り出したいくらい
義材畠山尚順他のメンバーも大好きなのですが
ただ、室町の歴史ってのは
もうとにかくあっちもこっちも意外な真相ばかりで
どっからどう手をつけていいのか
ああ、もうああぁぁぁーーーーーー!!!
と錯乱している
…という話は以前もしましたが、それに加えてここ最近
短期間に太平記時代の知識をぎゅうぎゅうに詰め込んだせいで
『明応の政変』関連の情報が脳からはみ出していっちゃってて
 (なんてスペック低い脳みそなの…)
解説を始めるには改めて知識入れ直さなきゃならんから
そうすると本腰入れる為に
まずは尊氏直義時代の解説に一応の目処を付けないと…
ってなって、ああもうあああぁぁーーーー
とかいう輪廻錯乱です、もう (´;ω;`)



というかそもそも…
南北朝動乱期のように
日本史の中でもそこそこ知名度人気もあって
相当に詳しい人も多いという時代ならまだしも
『明応の政変』って
太平記時代が天体ならこっちはUFO未確認飛行物体かよ!!
ってくらい、見た人が誰もいないレベルの知名度なので
(…って言い過ぎかw
 じゃあせめてMFO(むーえふおー。む確認飛行物体
 ってどうでもいいか)

そういう訳で
どんな風に説明していったら上手く伝わるのか
見当が付かなくて困っていたりします。

(まあ、考え過ぎなのでしょうが
 でも義材畠山尚順は本当に良い奴なのに
 なぜか酷く誤解されているので (´;ω;`)
 どうしても本当のところを上手く伝えたいのです。)



ま、取り敢えず今日のところは
これまで概要に触れたブログ記事を挙げて
ごくごく簡単におさらい… でお茶を濁したいと思います。


「畠山義就(その3)」の後半

『応仁の乱』終結の5年後、河内国を舞台に
畠山義就畠山政長(※尚順の父)の対決が再開します。
(この頃、旧西軍義就は河内国誉田で「俺の城」経営中
 旧東軍政長は幕府で管領をしていて京都在住だったのですが
 これ以降、河内国に在国して義就と対峙を続けます。)

しかし、8年間の対陣の後
二人は決着を果たせぬまま義就が他界。
その2年と少し後
つまり『応仁の乱』終結後15年以上
置き去りにされて来た両畠山家の問題に、遂に終焉を告げるべく
義就方畠山(※当主は義就次男の畠山基家の居城
河内国「誉田城」へ向けて
11代目将軍足利義材率いる大名連合幕府軍が出陣します。
(↑この幕府軍側が、畠山政長とその嫡男畠山尚順
 ただし出陣と言っても
 当初は戦闘ではなく話し合いでの和睦を企図していて
 出陣時はみな優雅なものだった。『金言和歌集』)


しかしその時…
すなわち明応2年(1493)4月の京都において
義材を廃し、新将軍(のちの12代目義澄)を擁立するという
ごく一部の首謀者によるクーデター『明応の政変』が起こり
河内の義材・畠山政長たちの幕府軍と
京都のクーデター政権との立場が逆転。
我先にとクーデター政権に恭順の意を示し
昨日までの主君を忘れて保身を図る大名が多く
屈服を良しとしない大名
抵抗を諦めて国に帰還してしまい
状況はまさに "一変" してしまうのです。

そしてそのひと月後の翌閏4月
幕府軍の本部、河内国「橘嶋正覚寺」において
将軍義材と共にあった畠山政長が家臣数名と共に自害
嫡男畠山尚順紀伊国へ逃れ
そして将軍義材京都へ護送され、幽閉の身となるのですが…
しかし2か月後
味方の手引きにより大雨夜陰に紛れて脱出
それから再び京都に戻るまでの15年間
夜明けを目指す戦いが始まるのです。



「畠山義就(その5)」後半

『明応の政変』を攻略する為の視点
王道覇道正邪を正しく見極める事で
当時の世論・人心を的確に掴み、本当の歴史を捉える事が出来ます。
(↑ここを間違えると
 『明応の政変』は180度まるで違った事件になってしまうので
 極めて重要なポイントです。)


それから、畠山尚順にスポットライトを当てた話を少し。
『明応の政変』その後の15年では
流浪将軍義材として
大名・奉公衆・国人・寺社勢力・公家衆…と
様々な立場の者達が各地で活躍していますが
やはり、京都を包摂する畿内において
都に王手をかけられる唯一の存在として
 「畠山尚順こそが天下の期待を一身に背負っていた」
という事実は
この歴史的事件を
権力者目線ではなく)天下の人々の目線で理解する為の
最重要ヒントの一つとなります。

視点を変えれば真相が見えて来る、それが『明応の政変』です。



「夏休みの宿題(その2)」

"sunrise 三兄弟" の三男「Stand for Sunrise!」
"三応兄弟" の紹介の冒頭と、三男「We'll be back!!」の箇所で
ざっと輪郭を解説。

『明応の政変』はこれまで

「(社会的合意の無い)"力" によって将軍権力が否定され
 その結果 "力" による権力掌握が社会に "許容" された歴史的画期
 戦国時代の幕開け」


という理解が主流だったようですが
しかしそれは、この政変を
事件が発生した明応2年(1493)4月末〜閏4月末の
"点" として見て "全容" で捉えない場合にのみ成り立つ解釈です。
『明応の政変』 "帰結" までを含めた15年の物語として見る事で
その本来の歴史的意義が明らかになります。

社会が "力による理不尽" を許容しなかったからこそ
将軍義材は15年後、人々の喝采の中で京都に返り咲いたのです。



…などなど。



うん、極めててきとーにマクロな概念的解説で
不親切もいいとこです。 本当にすみません m(_ _)m


まあでも、『明応の政変』どマイナーとは言え
ネットで検索すれば結構な情報が集まるので
個人的に気になって気になって仕方ない事を
やっぱり先走って言い訳しておきたいと思います。




歴史学的☆.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆レジスタンス




まず、最初に浮かぶ疑問は
 「この政変はなぜ起こったのか?」
という事だと思いますが
一般には
 「諸大名 "一致団結" して、新米将軍義材を追放した」
と思われがちなようですが
決してそういう訳ではありません。

(※『応仁の乱』後、父義視(※義政の弟)と共に
 それまで11年以上美濃国で暮らしていた義材
 京都に戻ってからこの時点で約4年
 正式に将軍になってからは3年弱で、それ故
 義材は「京都における基盤が脆く味方が少なかった
 という考察が主流ですが
 しかし、これはあくまで政変から逆算した考察であって
 当時の日記の記録では
 新米将軍義材奉公衆にも大名達にも普通に受け入れられ
 (少なくとも政変首謀者となった一部勢力以外とは)
 上手く行っていた様子が読み取れるのです。)



政変当時は、クーデター政権による情報操作
諸大名一味同心している」との虚構が大々的に発表されたのですが
それはもちろん、政変を正当化する為のであって
 (※以上3行、2016.4.24追記)
この突然の政変に驚いた大名の中には
義材と(政変で擁立された)新将軍義澄との "和睦" と言う形で
事態の収拾を模索している者がいるらしい
…という噂まであったように
多くの者達にとってこの事件は、不意打ちの強行でした。
(※『大乗院寺社雑事記』閏4月19日
 大名達は、義材の側近の一人には不満を抱いていたのだが
 義材自身には背くつもりも
 まして追放など望んでいなかったのが実際です。)


しかしそれでも… 善悪を差し置いて従うしかない "理不尽な権威"
背後に控えていたのです。



それからまた、この政変は
「将軍義材の方に非があり
 いち大名が将軍のすげ替えに成功して
 幕府権力を掌握し "専制政治" を敷いた画期的な事件

といった感じで
権力の下克上を評価するような見方がありますが
その視点はあくまで現代のものであって、当時の現実とは違います。

当時の世論においてこの政変は
人道に背く極めて卑劣なものであり
評価どころか、人々から非常に厳しく非難されていた事は
上掲のブログ記事でも触れましたが
そもそもこの政変の背後にあったのは
(いち大名の権力ではなく)
8代目将軍義政(※この時点では既に故人)の "御台の権威" であって
この政変を遂行させたのは、政所頭人伊勢貞宗の計略です。
(↑特に、将軍の直臣たる奉公衆
 義材から瞬時に大量に離反したのは伊勢貞宗の策
 伊勢貞宗(さだむね)は、当ブログでも度々登場している
 あの "きのこ" です。)


一般に "一番の首謀者" と見做され
クーデター計画を立てた策謀家のように思われている大名
細川宗家の当主細川政元(まさもと)は
実は、政変で主導権を握っていた訳ではなく
一貫した姿勢も持っていなかった節があり
その後の言動からも
幕府権力の掌握・独占専制政治を望んでいたとは
考えられないのです。


(※以上、『明応の政変』についてもっと知りたい!となったら
 【山田康弘『戦国期室町幕府と将軍』(吉川弘文館)2000】
 …の、第一章(それから第二章、第三章も出来れば)
 を一番にお勧めします。専門書ですが分かり易いので是非。)





…という訳で
いきなり何がなんだか分からなくなって来ましたが
『明応の政変』(…の発生原因)を解く最大の鍵
首謀者である

 義政の御台、細川宗家細川政元、政所頭人伊勢貞宗

この三者の思惑には
実は "かなりのズレ" があった、という事実です。

(さらに言うと、細川宗家内では
 当主の細川政元とその家臣内衆)たちの間で
 思惑利害も相当なズレがあり
 実際には(当主細川政元の意図とは反する)
 内衆の一部の思惑が実行されています。)



従って…
政変当時は、京都でも河内でも
様々な細かい事件・出来事が発生しているのですが
その一つ一つについて
 「どの事件誰の思惑によるものか?」
という事を慎重に紐解いていく必要があります。
(とにかく一枚岩でもなければ
 単に権力を求めた下克上ではない点が最大の注意点です。)


特に、伊勢貞宗の行動の意図・背景はとても複雑で
前者の2人の意図とは… "隔絶" しています。
(なんたって、深く追求すればするほど
 伊勢貞宗誰の味方か分からなくなってくる、ってゆう。)

しかしここにこそ
『明応の政変』本当の姿が隠れていると思われるのです。




政長☆.*:.。.:*・゚(´;ω;`)゚・*:.。.:*☆お前ってやつは…な話




ところで、かなり以前の話になりますが
私は当ブログ「畠山義就と畠山政長」の最後で
この政変での(大名での)唯一の犠牲者である畠山政長
"敗れた" のではなく
 「死ななければならなかった訳ではないのに
  敢えて自ら自害の道を選んだ」

と言いましたが
それはなぜかと言うと…


先ず一つに、この政変の目的は一般に
 「(将軍義材だけではなく)
  将軍義材 "政長方畠山" を幕府から追放する事」

と捉えられていたりもしますが
これは… 半分は結果から逆算した誤解です。
(正確には、主語を誰にするかによって変わってきます。
 "義政の○台が" あるいは "細川宗家の内衆の一部が"
 というのなら当たっていますが… )



当時の日記の記録には
京都にいるクーデター側の細川政元から
河内に在陣する畠山政長へ伝えた意向として

「(政長とは)当家(=細川宗家)は代々扶持関係にあるので
 河内から(政長が)上洛する事を待っている。
 等閑(おざなり、疎遠)になる事は望んでいない。
 ただ公方(=義材)一人に不満があるだけだ」
(『大乗院寺社雑事記』閏4月10日)


という情報があるのです。
つまり、畠山政長自身の身の上を優先したなら
義材を見捨てて上洛する事も不可能ではなかったのです。
ただし、政長がそんな考えを抱く訳はありませんが。


(※『応仁の乱』の頃の
 細川勝元(※政元の父)と畠山政長の関係は
 本サイトでも度々言及した通り、極めて親密良好です。
 乱中は、細川勝元邸内政長の陣所があったくらいですから。
 (『大日本史料』文明3年6月11日)
 ただし、『明応の政変』当時は
 細川宗家の内衆の一部畠山基家(※義就次男)と通じていて
 主君政元に無断で、政長方畠山の排除を目論んでいた事
 (この政変後、畠山宗家の家督は義就方畠山へと移ります)
 それから細川政元自身は
 父の勝元のように一貫した心情がない…というか
 畠山政長に対してはともかく、息子の畠山尚順には
 どうも複雑なものがあったようですが…
 まあいいか。
 ちなみに「将軍義材に不満があった」というのも
 ちょっと一方的な言い分で
 実際はむしろ、これまで細川政元の方が幕政に非協力的
 義材が困っていた訳なのですが… まあ詳しくはいずれ。)




それからもう一つ
将軍義材畠山政長は、布陣していた「橘嶋正覚寺」
細川宗家の内衆の軍に "攻め落とされた"
つまり
 「政長 "合戦に負けて" 進退窮まり自害に及んだ」
と一般には思われていますが
(まあ普通に考えれば
 大合戦があったと思ってしまうのは当然ですが)
しかし意外な事にこの時
実は大した戦はなかったのです。

 「不及一合戦而破了」
((正覚寺の陣は)一合戦に及ばずして破れた)

(『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月25日)

これは大和国興福寺大乗院尋尊の貴重な証言です。
驚くべき事に、政長は戦に負けた訳ではなかったのです。
(せいぜい「在々所々」で小競り合いがあったくらい。)


確かに、『応仁の乱』の頃の政長を思い起こせば
「上御霊社の戦い」でも
(※本サイト『2-8』「天に告ぐ!上御霊社の戦い」
「相国寺の合戦」でも
(※本サイト『2-9』「相国寺に紅蓮舞う」
圧倒的に不利な状況にも拘わらず
巧みな戦略戦術奇蹟的な戦い方をするのが
政長のやり方だったはずで
大火災に向かってなお
冷静沈着に自己を保つ強靭な精神の持ち主であり
(※このエピソードはブログ「畠山義就(その3)」の前半を)
窮地に陥った時こそ本領を発揮して来たのが
政長だったはずです。


その政長が、それ程の主力軍ではない敵を相手に
簡単に敗北する訳がない

つまり―――


政長の自害後
「正覚寺」には(政長方より)火が放たれたので
(敵側には)政長の行方は「不分明」だったとあるように
(『蔭凉軒日録』明応2年閏4月26日)
幕府軍の本陣「橘嶋正覚寺」の最後
政長方の "筋書き" によって描かれたものだったのです。



ではなぜ、政長 "敢えて" 自害したのか?
もっと言えば…
自害をして "敗北を演出した" のはなぜか?
それは―――
義材の為だった、というのは想像に難くないと思いますが
政長と共に「正覚寺」にいた義材はこの時
 最後まで義材に付き従った数十名の奉公衆と共に敵方に降り
 京都へ護送となります)

この時の政長の思いと言うのは
上述の伊勢貞宗の思惑と
"擦れ違いながらもリンクする" という悲しい話
かも知れませんので、頭の片隅に置いといて下さい。

(ちなみに畠山政長伊勢貞宗
 かつてはとても仲の良い友達でした (´;ω;`) )




次回の☆.*:.。.:*・゚(´・ω・`)゚・*:.。.:*☆おまけ予告




さて、ちょっとおさらい… のつもりが
なんか益々めいて来てしまったので
今日のところはこの辺で撤退したいと思います。

(上述の解説は概要の為、史料の提示が不完全ですが
 基本的に日記を中心とした一次史料を根拠としています。)



うん、まあつまり何が言いたかったかと言うと…

 義材政長も悪くないのさぁぁぁぁーーーー!!!

これだけ伝われば今日はもう満足です。




ちなみに、本サイト開設記念日という事で
今日はスペシャルなおまけを用意していたのですが…
久々に『明応の政変』の話をしていたら
思いのほか気分が乗って長くなってしまったので
おまけは次回に持ち越しです。



posted by 本サイト管理人 at 23:48| Comment(9) | ★チラ裏日記

2016年03月21日

室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「家長と兼頼編」

(チラ裏シリーズ)

こんにちは、『チラ裏観応日記』です。
という訳で前回の
「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長関東編」」
の続きです。
ようやく本題です。



まずは今日の本題その一
足利家長の年下の従兄弟である兼頼(かねより)
建武3年(1336)あたりの動向です。

(※兼頼は、足利高経の弟家兼(※初名時家)の次男で
 のちに羽州探題最上家の祖となる人物です。
 当時は足利兼頼(竹鶴)とも、斯波兼頼とも。)



さて、もともと建武政権時の高経
越前守護としての活動や
紀伊国飯盛城での合戦で活躍した記録があるので
当初、高経一家(そしてたぶん家兼一家も)は
尊氏と同様に京都(時々越前に滞在していたようです。
そして建武2年(1335)8月
『中先代の乱』鎮圧の為、尊氏に従って東国へ向かう軍勢の中に
高経の名前が見えるので(at『太平記』諸本)
(※以上、この辺の事は…
 【小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館)1980】
 …の p.375-377を)

この時、家長兼頼ほかの子供達も
一緒に鎌倉に赴いたのでしょう。

(ただし、幼い兼頼や家長以外の弟達
 遅れて下向、あるいはもともと上洛せずに
 鎌倉周辺に留まっていたとも考えられますが
 まあ、細かい事はいいか。)


その後すぐ、家長は単身奥州を管領しに出発しますが
建武2年(1335)12月以降(おそらく年明けくらい?)には
尊氏たちが去った鎌倉に戻り
以後は、千寿王(義詮)を補佐する関東執事として
奥州を含めた東国の統治を担う事になります。

(この "鎌倉新体制" はもちろん
 すべて尊氏の指示によって築かれたものでしょう。
 (家長の発給文書に見られる明確な権限からするに。)
 「直義が死んじゃうぅぅーーー!!」とか言って
 てんやわんやで鎌倉を飛び出した割には
 きっちり事後の事を考えているという
 わりとマメな男尊氏。)

こうして見ると
家長東国の管領を任されるに至ったのは
事態急変による偶然の要素が強かったんだなぁと思う。





さて、鎌倉に戻った家長
尊氏たちが京都時代を動かす大仕事をしている間
武家の聖地東国を保守するという
地味だけど重要なミッションに着手します。
その一環として
前回少し触れたように
奥州から行動を共にしていた相馬重胤(しげたね)の
次男相馬光胤(みつたね)を帰国させ
奥州相馬一族の主要拠点、行方郡「小高城」
来(きた)る戦に備えさせます。
(『大日本史料』延元元年3月8日)


この計画は
『相馬文書』建武3年3月3日相馬光胤着到状によると

斯波殿(御教)書ならびに親父重胤事書に任せて
 今月八日下国せしむ」


…とあるので
家長相馬重胤相談して決めたんじゃないかな、と思う。
相馬重胤の「事書」(←色々言い付けを記したもの)が
建武3年(1336)2月18日付けなので
それから程無く鎌倉を出発して
3月8日行方郡小高に到着した相馬光胤たち
3月13日には早々に、押寄せる新政権方との戦闘を開始し
その後息つく間もなく
激しい攻防戦を繰り広げて行く事になります。



(※ちなみに…
 この『相馬文書』建武3年 "3月3日" 相馬光胤着到状
 日付についてですが…
 (↑『大日本史料』延元元年3月8日
  または『南北朝遺文東北編』第1巻 214)

 この着到状3箇所目の欠損による空欄[ ]
 『相馬文書』建武3年2月18日相馬重胤事書目録
 の第二条と照合すると
 (↑『大日本史料』延元元年3月8日
  または『南北朝遺文東北編』第1巻 209)

 「成[御敵一]族等押寄楯…」だと推測でき、従って
 『相馬岡田文書』建武3年3月相馬長胤軍忠状写
 第一条の合戦の事だと思われるので
 (↑『大日本史料』延元元年3月22日
  または『南北朝遺文東北編』第1巻 223
  「一族等引別為御敵之間、三月十三日
   押寄同心一族相共対治畢」)

 3月3日ではなくて "3月13日" の事なのでは?と思う。
 (3月3日じゃ小高城到着前だし、「今月八日」が
  2月4月という事も有り得ないので。)

 『南北朝遺文東北編』第1巻は2008年発行ですが
 既に他にどこかで指摘されている事だろうとは思いつつ
 一応、自分用メモとして記しておきます m(_ _)m )





やっと本題☆.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆兼頼登場!!





さて、ここで今日の本題その一が関わってくるのですが
相馬光胤たちはこの時
 「足利兼頼に属して(=兼頼を大将として)奥州へ向かった」
のです。
(『大日本史料』延元元年3月8日
 …『相馬文書』暦応2年3月20日氏家道誠注進状案)


この兼頼の立場はつまり、これまでの家長のそれな訳で
奥州の管領を任務としていた「斯波殿」家長
関東執事と言う立場になったので
おそらくそれまで鎌倉にあった兼頼
家長の役割を継承する事になった、と見ていいかと思います。

ただし、この時の兼頼
まだ「大将軍 足利竹鶴殿と幼名で呼ばれているように元服前
(『大日本史料』延元元年3月22日
 『相馬岡田文書』建武3年3月相馬長胤軍忠状写)

家臣の氏家道誠が代理として判形(花押)を加えていた
…という子供大将だったのもあり(※上記、氏家道誠注進状案)
史料を見る限りでは
奥州全域の総大将という訳ではなく
 「奥州行方郡周辺の作戦での大将」
という限定的なものだったようですが。

(この方面での軍事作戦では、常陸国守護の佐竹一族
 この後、石塔義房桃井貞直なども参戦して
 指揮を取っているのと
 兼頼の奥州での活動期間は
 結果的に1年間ほどだったようなので(※少し後述↓)
 もともと建武3年(1336)2〜3月という緊急事態での
 臨時的な名代だったのだとも考えられます。)


とは言え
相馬一族と共に奥州での作戦に従事する」というは
まさに家長の分身と言えるかと思います。



という訳で、先日
「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」」
の冒頭の追記のお知らせ
兼頼「家長の分身的立場にあった…」と言ってみたのは
以上の事実を根拠にしたもので
それで、戦死した家長の代わりに
兼頼「鬼切」が渡ったのではないか?…と想像した訳です。





ちなみに、この家長と兼頼の関係を反映している
…のかも知れないもう一つの形跡があって
(【小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館)1980】
 …の p.387 註(13)
 原文は『大日本史料』暦応元年10月5日
 または『南北朝遺文関東編』第1巻 890 より…)

『烟田文書』建武5年10月烟田時幹軍忠状案の末尾に
 「志波殿 承候了 在判」 (※志波=斯波)
とあるのです。
(※『南北朝遺文』によると、
 この「志波殿」の文字は案文に記された後筆です。)

つまり
家長が戦死した1年弱後である暦応元年(1338)10月に
足利方として戦った常陸国の烟田時幹軍忠状
「一見しました!OK!」の判を加えた「志波殿」とは誰か?
という話ですが…


これは、『大日本史料』と『南北朝遺文』では
(兼頼の父である)家兼(=高経弟)としていて
上記文献では
(当時京都方面で活動が見られる家兼とは考えられない
 という的確な指摘から)

『茂木文書』建武3年7月12日の家長の軍勢催促状にある
「足利少輔三郎」であり、且つ
家長の子(養子)とされる詮経(※後述↓)と同一人物
と比定されていますが
ただ、数え17歳で他界した家長
既に成人した人物を生前に養子にとっていた
…というのは少々考えづらいので
この「志波殿」
普通に兼頼を指すものと見ていいような気がしますが…

家長亡き後、当時関東で「斯波殿」と呼ばれ得るのは
一時奥州相馬一族の大将も務めた同族の兼頼以外に
いないのではないかと。
(判自体は、兼頼代理の氏家道誠のものだったかも知れませんが。)


(※この頃の奥州では、建武4年(1337)春夏頃から
 中賀野義長石塔蔵人(頼房?)が指揮を執り始めていて
 (『大日本史料』建武4年3月10日、4月1日など)
 また、兼頼家臣氏家道誠の奥州での活動を伝える史料は
 建武4年(1337)2月6日付けの
 武石道倫への本領安堵の奉書が最後のようなので
 (『大日本史料』建武4年2月6日)
 兼頼が奥州で大将だった時期はおそらく
 建武4年(1337)正月26日合戦(※詳しくは後日)
 くらいまでだったと思われ
 暦応元年(1338)には鎌倉〜関東近辺にいたと考えても
 無理は無いように思います。)


そうすると兼頼
(関東限定の一時的な認識としても)
家長の名跡を継いでいたと言えるかも知れません。






――――――※ちょっと余談――――――

家長の名跡を継いでいたかも…」
とか、さらっと言ってしまいましたが
斯波に行った事もなければ家長実子でも養子でもない兼頼
「斯波殿」と呼ばれていたとしたら
それはあまり看過出来ない事のように思うので
ちょっと気になる事を、ついでに突っ込んでおきます。


家長関東執事として
建武3年(1336)〜建武4年(1337)12月25日まで
2年間ほど鎌倉で活躍しますが
この関東執事が後に関東管領と呼ばれるようになるので
(便宜上)家長は「初代関東管領」とも言われます。

で、家長の次に関東執事に就任した2代目は誰かと言うと
上杉憲顕なのですが、その就任時期は
建武5年=暦応元年(1338)5月頃になります。
(※建武5年8月28日「暦応」に改元)


これはなぜかというと、先日解説した通り
建武4年(1337)12月「杉本城」の合戦の後
鎌倉を脱した上杉憲顕・憲藤兄弟や桃井直常高重茂たちは
軍勢をかき集めて上洛し
「青野原の戦い」畿内での南朝方との合戦に従事していた為で
上杉憲顕が再び鎌倉に戻って来たのが
建武5年(1338)5月末〜6月初めくらいの事だったからです。

(※以上、この辺の事は…
 【黒田基樹編『関東管領上杉氏(シリーズ中世関東武士の研究
  第十一巻)』(戒光祥出版)2013】
 …の、第2部T
 「小要博『関東管領補任沿革小稿 ― その(一)―』1978」)



つまり、家長卒後から上杉憲顕の就任まで
関東執事は半年弱ほど空席の状態だった訳ですが
まあ、鎌倉の主君である千寿王(義詮)も三浦に避難していて
鎌倉に帰って来たのはこの年の7月11日なので
 (『大日本史料』暦応元年7月11日)
建武5年(1338)の前半と言うのは
先の建武3年(1336)の前半と同じくらい
人員的にもすっからかんな非常事態だったと言え
平時の体制が整わなかったのは仕方の無い事でしょう。


…とはいえ、それでも人々の日常は続いていく訳で
政務の継続が求められる以上
一応の代表者と言うのはやはり必要になります
特に武家政権では。

とすると、この主要人物軒並みかっさらわれた鎌倉
形だけでもいいから代表者になり得る人物って…
と考えると、やはりここは
足利尾張家の子息兼頼しかいないのではないかと。



もちろん、実際の政務は鎌倉に残った数少ない御家人や
兼頼家臣の氏家道誠が執り行ったのでしょうが
もし、この建武5年(1338)前半の半年間に

兼頼は "鎌倉の代表者として" 家長の後継者に立てられた

…という事実があったとしたら
上述の『烟田文書』建武5年10月烟田時幹軍忠状
「志波殿」なる記述はもしかして
兼頼がこの時、家長「斯波殿」という肩書きを

鎌倉代表と言う "地位の裏付け" として継承していた

という事実を反映したものなのではないか?
…との推測も可能かと思います。


(※建武3年(1336)3月時点で「足利竹鶴殿」だった兼頼
 建武4年(1337)正月時点でも
 家臣氏家道誠が代理で花押を据えていた幼子大将ですが
 暦応2年(1339)3月には「式部大夫兼頼」と元服済みなので
 (『大日本史料』延元元年3月8日
  …『相馬文書』暦応2年3月20日氏家道誠注進状案)

 もしかしたら、この建武5年(1338)前半の事情の為
 (早めに?)元服したのかも知れません。)


(※それから、10月時点では既に上杉憲顕が関東執事で
 また、常陸国の豪族である烟田時幹はもともと
 常陸国守護の佐竹一族の指揮下にあったのですが
 (『大日本史料』建武4年2月24日、7月是月『烟田文書』)
 ただ、この暦応元年(1338)10月の合戦は
 実はかなりの緊急事態でして…
 同年5月北畠顕家、続く閏7月新田義貞の戦死により
 戦略変更を迫られた南朝方
 奥羽〜東国での南朝勢力再建を企図し
 南朝の重鎮北畠親房9月、伊勢国から海路で常陸国に漂着
 これが、常陸国南部を中心に5年にも及んだ長期戦の
 幕開けとなったのでした。 
 つまり、北畠親房の登場という
 関東勢にとっては相当衝撃的な重大事件でして
 急遽、鎌倉から「斯波殿」兼頼が特任大将として向かった
 という事は十分に有り得るかと思います。)



という訳で、もしこの推測が少しは的を射ていたら
家長の「斯波殿」という称号が
単なる「居所由来の家名」ではなく象徴的意味を持っている
という先日の一考とも合致しますが
何より、家長と兼頼の関係
(奥州の大将としてだけではない)
想像以上に "近い" ものだった
という事が明らかに…なった、かも知れない? Σ(゚Д゚ )!!!??


ただ、これが「関東執事と言えるか?」と言われれば
あくまで臨時の "機転" であって正式なものではなく
でも実質的にはそれと同等の立場を想定してたんじゃないかなぁ…
くらいに個人的には思うのですが
 (これでもちょと言い過ぎかな?と思うのですが)
しかし暦応2年(1339)3月に
既に任官して「式部大夫兼頼」となっていると言う事は
もしかしてもしかしたら
京都の指示の上での正式な "何か" があったのかも知れない
とも考えられてしまうので、うーん… 何ともw

(あの尊氏が、半年近くも中途半端な状態で鎌倉を放置する
 とはとても思えないし、特に「斯波殿」の名乗りは
 そんなに勝手にはしないだろうと思われる訳で… )


まあここでは取り敢えず
初代関東執事足利家長と2代目上杉憲顕の間の

 1.5代目関東執事(仮)「斯波殿」兼頼

…という可能性だけ、提示しておきたいと思います。


(ここまで突っ込んどいて何ですが
 この仮説、まるで見当外れの可能性もあります
 \(^o^)/ナンテコッタ )



――――――――――おわり―――――





という訳で
「いいかげんマニアック情報やめて… (´・ω・`) 」
みたいな話になってしまって申し訳ありませんが
「鬼切」高経から兼頼に伝わった背景が
どうしても気になって気になって仕方なかったので
 (え、みんなも「鬼切」気になるよね?ね?)
高経の亡き長男家長兼頼の関係を掘り起こしてみました。



この暦応元年(1338)の「志波殿」兼頼を指すのだとしても
その後の、奥州〜東国での兼頼に関係しそうな史料は
翌暦応2年(1339)の家臣氏家道誠による
相馬胤頼の(2年以上前に遡る)軍忠についての
再度の注進状くらいなので
(『相馬文書』暦応2年3月20日氏家道誠注進状案
 …『大日本史料』延元元年3月8日)

家長亡き後、しばらくは関東にいただろう兼頼
2〜3年以内には京都に移ったのだと思いますが
しかしほんの一時期でも
家長の片腕となり、その跡を継承した(ような気もする)日々の記憶は
長く残ったのではないかな… と思います。




ただ…
「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」」
の冒頭お知らせの最後
ちょっと追記(2016.2.29)しておいたのですが…
「鬼切」の伝わり方は
もうちょっと複雑な経路をたどったのかも知れない
…とも思う訳で。




すまん.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆こっから再び家長情報





家長は数え17歳で他界してしまったので
『武衛系図』に

 「無子、自斯波養子云々」

…とあるように
子が無かったので "斯波" より養子を迎えたらしく
(※ここでいう斯波とは "他系統" くらいの意味かと)
実際、『奥州斯波系図』には

 家長 ― 詮経 ― 詮将 ……

と、家長の子に詮経(あきつね)
その孫に詮将(あきゆき)が記してあって
後にこの系統が奥州斯波郡に定住し
(おそらく詮将の代から)代々当地を治めて行く事になります。

ただ、養子と言っても
これは家長の没後しばらく経ってから
おそらく父高経の意向で
名目上…というか名誉的意味合いを込めて
長男家長の跡として由緒ある奥州斯波の地を継がせる為の
便宜だったのだろうと思います。(※詳しくは後述↓)

(家長の孫とされる「詮将」
 高経の次男氏経の子(=家長の弟の子)である「義高」
 同一人物とも考えられていて
 私もそう思いますが(もしくは兄弟?)…まあ詳しくはまた。)





そんな訳で
家長には実子が無く、名目上の子孫が跡を継いだらしい
そうなのかふむふむ… で終わるかと思いきや―――
終わらないのです。 Σ(゚Д゚ )ナント!?



実は『常楽記』に
 「文和二年五月 斯波三郎入滅 十七歳
…という記録があって
文和2年(1353)5月に享年17歳(=生年建武4年(1337))
斯波三郎って誰だよ!!
と突っ込まずにはいられないこのネタに
え?家長養子?? 実子…な訳ない、よね??
と、私はずっと疑問に思っていたのですが…。

(この時点では「斯波」は一族の家名として定着してないし
 当然家長はもういないし
 でも "三郎" は代々この家系の多くが通称としていて
 主要人物っぽい気配満々だし
 (家長は正確には弥三郎だが(『相馬文書』)
  『太平記』では斯波三郎と記されていて
  それで通っていたようだ)
 何より生年が、高経家兼の子とするには中途半端で
 該当者がいない… \(^o^)/ドウイウコッタ )

しかしその後
【木下聡編『管領斯波氏(シリーズ・室町幕府の研究 第一巻)』
 (戒光祥出版)2015】
…の p.14 で
「斯波三郎=詮経」としているのを読んで
あ、やっぱり家長の子でいいんだ
と呆気なく解決した、という次第であります。

(※これについては
 【今谷明・藤枝文忠編『室町幕府守護職家事典 下』
 (新人物往来社)1988】の「斯波氏」の項 p.42 にもありました。)



……。
てゆうか、一件落着でほっと一息お茶飲んでる場合じゃないですよ!!
これはつまり

 家長には、「杉本城」で戦死する年に生まれた実子がいた

って事じゃないですか!!
(;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) な、なんだってーーーーー!!?

わたし的には、わりと不意打ちな衝撃的事実なんですが
…まあいいか。


(※ところで『常楽記』では
 通常の俗人「他界」と記されていて
 「入滅」と表現されているのは結構な高僧に限られるので
 なんかちょっとうっかり間違えたのだと思いますが
 まあ、死因は病などの平時のものだったのでしょう。)




しかしそうすると、上記の『武衛系図』の
「子が無かったので斯波より養子を迎えた」
という記述は家長ではなくて
実際は、家長の実子斯波三郎(=詮経)のものであって
どちらも享年17歳だったので、のちに混同してしまった
…という可能性もあるかも知れません。

詮経の「経」が祖父高経の偏諱である事からすると
 (※「詮」はのちの2代目義詮の偏諱)
将来を期待していただろうに… 高経ショック (´;ω;`)
(この頃は、高経の次男氏経や三男氏頼
 父を支えて活躍し始めていたとは言え… )

おそらく、この斯波三郎(=詮経)の跡を絶やさぬ為に
惣領高経の意向で
次男氏経の子詮将を名目上の養子としたのだと思われ
従って上記の『奥州斯波系図』の記述は正確には

 家長 ― 詮経 = 詮将 ……

となるのでしょう。(※=は養子関係)





という訳で
上のブログ記事の冒頭の追記で
「鬼切」兼頼に渡ったのは文和2年頃かも知れない…」
と追記しておいたのは
可能性の一つとして…

建武5年(1338)閏7月2日の越前の合戦
「鬼切」は一旦、家長の忘れ形見三郎詮経に渡ったのだが
17歳にして父家長と同じく早世してしまったので
ショックを受けた高経
かつて東国〜奥州家長の分身として頑張った兼頼
家長の面影を偲んで「鬼切」を受け継がせたのかなぁ


…とも考えてみた訳ですが、うーん?
(※この翌年の文和3年(1354)
 兼頼は父家兼や兄直持と共に、奥州へと旅立ちます。)




ただやはり
「鬼切」兼頼に渡った背景が
東国での家長と兼頼の関係にあるのなら
(↑もちろん、この仮説自体が誤りの可能性もあるけどw
 でもこれ以外に「鬼切」兼頼の接点を見出せない… )

暦応2年(1339)以降
程無く京都へ移っただろう兼頼
建武3年(1336)という一番大変だった時期を乗り越えた
家長兼頼 "二人の" 功績を讃えて
当時直接、高経から兼頼「鬼切」が捧げられた
…と考えた方が自然でしっくり来るように思います。

幼くして鎌倉に残っていた兼頼
それゆえ、大将として戦場に赴くという重責を負った訳で
それは特別に褒められていい事なんじゃないかと。

(兄直持が嘉暦2年(1327)生まれなので
 弟兼頼は2〜3歳は離れていたとすると
 1329〜1330年生まれくらい?でしょうか。
 (ちなみに千寿王(義詮)は1330年生まれ)
 とすると奥州に赴いた建武3年(1336)は数え7〜8歳
 暦応元年(1338)でようやく9〜10歳といった所。)




まあ、真実のみぞ知る訳ですが
私としては、建武5年(1338)閏7月2日の奇蹟的な勝利に
高経はきっと家長の事を想っただろう
…と思っているので
東国帰り兼頼
戦功への褒賞と感謝の意を込めた「鬼切」
受け渡されたのではないかと、そう想像しています。





―――――※最後に豆知識―――――

文和3年(1354)
奥州管領として京都から当地へ移った足利家兼一家はその後
家兼の長男直持の系統の奥州探題大崎家
(…拠点は、宮城県仙台市の少し北辺り)
家兼の次男兼頼の系統の羽州探題最上家
(…拠点は、山形県山形市「山形城」)
の2流に分かれ
そして奥州斯波郡の地(※岩手県盛岡市の南)
高経の長男家長の養子としての奥州斯波家(高水寺斯波家とも)
が定住し、以後
奥羽の斯波一族はこの3系統が栄えて行く事になります。

(※奥羽両探題についてはこの後(40年後くらい)
 鎌倉公方2代目足利氏満、3代目足利満兼の時代に
 鎌倉府との関係で色々と色々な事になって行きますが
 …まあ、先の事はいいか。)



それではおまけに、前々回の奥州〜関東周辺地図
マイナーチェンジ版をどうぞ↓

家長兼頼の奥州関東地図


―――――――――――おわり―――



以上☆.*:.。.:*・゚(´・ω・`)゚・*:.。.:*☆家長兼頼鬼切
あったかも知れない昔々のお話



さて、ようやく本題…といいながら
結局本題その一までしか終わりませんでした。
というか、実はその一すら終わってなくて
兼頼相馬光胤の話まで行けませんでした。

という訳で次回に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 17:30| Comment(0) | ★チラ裏観応日記

2016年03月09日

室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長関東編」

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏観応日記』です。
という訳で前回の
「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」」
の続きです。



☆☆☆ はじめに… 今日の注意事項 ☆☆☆

本文中の建武3年(1366)の元号については
便宜上「建武」で統一してありますが
『大日本史料』では、建武3年正月〜10月までは
「延元」表記になっているので(※建武3年=延元元年)
この期間の "引用元" を示すに当たっては
 「『大日本史料』延元元年○月○日
と表記してあります。
御注意下さい。
(ちなみに同史料の10月以降は
 11月2日〜12月20日「建武」表記
 12月21日以降は、南北朝分裂の為「延元・建武」併記
 となっています。)

これはどういう事かというと…
歴史的には
建武3年2月29日、改元で「延元元年」に(at 新政権)
(↑同史料では、改元があった年は
 遡って年始から新元号表記となります)

しかしその後11月2日、和睦により光明天皇の御代となり
「建武3年」に戻るため
形式上、このように変則的な事になっている訳ですが
実態としては…
つまり武家方の認識では
8月15日の豊仁親王(つまり光明天皇)践祚の時点で
既に「建武」継続の方針は固まっていた… というか
2月半ばには光厳院の「院宣」を拝受していたので
3月以降も武家側はそのままふつーに
「建武」で通していたってゆう。
だから実際の史料では「建武3年」表記のものが非常に多く
この期間(3〜10月)における「建武」元号は
実質上は無視出来ない存在になっています。

…うん、気にしない、細かい事気にしない。
この時代は頭固いと付いて行けない。生きてけない。 
ま、『大日本史料』データベースでは
どちらでも検索可能なので大丈夫です。

☆☆☆ おわり ☆☆☆





という訳で:.*:.。.:*・゚(・∀・)゚・*:.。.:*☆今日の舞台は
建武3年(1336)〜建武4年(1337)






さて、建武2年(1335)8月当初は
『中先代の乱』の余波の偵察という
尊氏マル秘ミッション
奥州に赴任したであろう足利家長ですが
11月になって天下の情勢は一変
11月2日、直義による「打倒!新田義貞」の一斉軍勢催促
11月19日、尊氏討伐を掲げた新田義貞軍が京都より東下
そして12月半ば
『竹之下・箱根の合戦』で勝利した足利軍
遂に京都を目指す事を決める訳ですが
その足利軍の西上を追撃するべく
12月22日に北畠顕家軍が奥州「多賀」を出立
この時、同国にいた足利家長斯波家長
現地の相馬一族らと共に、その進軍阻止に立ち上がります。
 (『大日本史料』建武2年12月22日)

ただしこの時は
北畠軍を食い止める事が第一目標…というより
北畠軍が去った後の奥州〜関東
守備を固める事が主眼だったようで
各々が所々の城郭で北畠方勢力と交戦する一方
家長相馬重胤らはそのまま南下して鎌倉に入り
今後の戦略を立てていたようです。

(※相馬重胤の次男相馬光胤を奥州に下国させて城郭を構え
 現地の戦に備えています。(行方郡「小高城」
 …『大日本史料』延元元年3月8日)

(※ちなみに北畠顕家
 建武3年正月13日には近江国に入っています。)




ところで、この頃の関東
尊氏たちが大軍を引き連れて西上した後ですから
かなりすっからかんだったと思われます。
そんな鎌倉の留守を預かる、という
重大任務を託された数え16歳の少年大将家長… (´;ω;`)
とかもう、最初の設定だけで泣ける話ですが
建武3年(1336)2〜3月には
再び北条時行党の蜂起があったり
 (『大日本史料』延元元年3月25日)
奥州に帰った相馬光胤たちも
それから2か月以上続く激しい戦いが始まっていて
 (『大日本史料』延元元年3月22日)
その上京都では
建武3年(1336)正月、一旦入京に成功した尊氏たちが
まさかのカウンター&ダメ押しパンチ(at 兵庫)で
九州までサプライズ船旅…
なんつー聞いてない話になっていましたから
この頃鎌倉を守っていた家長たちは
それこそ毎分毎秒を決死の覚悟で生きていたと思います。

(※この頃の尊氏たちの足跡については
 本サイト『2-2』「西へ」をどうぞ。)



しかし、何といっても
この年の最大の危機は…
建武3年(1336)正月の一連の洛中合戦の後
3月まで京都に滞在していた北畠顕家
義良親王と共に、再び奥州へと戻るのですが
 (↑この時は父北畠親房は同行せず)
その帰国の途次、鎌倉周辺を通過する際に起こった
4月16日の相模国片瀬川での戦いです。

この戦で家長は―――
昨年の奥州以来忠節比類なく戦い続けた
相馬重胤(しげたね)相馬胤康(たねやす)を失う事に!!
(´;ω;`)そ、そんな…

相馬胤康は最前に馳せ向かって4月16日に討死
 相馬重胤「法華堂」(※鎌倉の源頼朝の廟所)にて自害。
 (明確な日付は不明ですが、おそらく胤康と同日かと。)
 …『大日本史料』延元元年4月16日)

(※ちなみに相馬胤康
 昨年末、奥州での家長の挙兵を受けて参陣する際
 建武2年(1335)12月20日付けで
 子に「譲状」を託しています  (´;ω;`)ウッ…
 …『大日本史料』建武2年12月22日)




な、なんという大打撃…
建武3年(1336)2〜3月といえば
京都では、新政権軍が尊氏たちを追いやり
すっかり勝利の甘美なムードに包まれていた頃な訳で。
(↑この頃の慢心した新政権内
 時代が尊氏に流れつつあるのを看破していたのは
 ただ一人楠木正成のみ… )

一方、4月半ばの鎌倉には
九州での尊氏たちの勝利(3月2日)は伝わっていたようですが
(『大日本史料』延元元年4月11日
 建武3年4月11日付けの斯波家長の奉書を見るに
 情報の行き来はしていたようです。 なおこの奉書は
 「尊氏の計らいで、相馬重胤に奥州の闕所地を預け置く」
 という内容のもの。
 重胤が今日まで重ねた戦功は、ちゃんと尊氏に伝わっていて
 生きている内にその恩を受け取る事が出来たんだ… (´;ω;`) )

しかし4月16日時点では
九州からの尊氏たちの東上開始(4月3日)の報が
届いていたかどうか… くらいの状態ですから
明日の行方を知らぬ家長たちの窮地たるや
まるで…
取り残された少年兵ホワイトベース状態!! Σ(゚Д゚ )なぬ!!???


しかも、ホワイトベースの艦長ブライト19歳ですけど
家長は数え16歳(満14〜15歳)だから
アムロ(15歳)が艦長やってるようなもんですよ!!
なにそのハードモード!!



…ってまあ、そんなガンダムの話はどうでもいいのですが
こんな、設定からしてギリギリの鎌倉にあって
その上次々に襲い来る試練にもめげず
少年大将家長は―――
実に甲斐甲斐しく
尊氏から託された任務を全うして行くのです。


この頃(※幕府再興前〜開始初期)の家長の活動に関しては
様々な発給文書が残されていて
軍勢催促、(戦功をあげた部下への)感状
本領安堵所領預置
寺社領への違乱停止、(将軍の祈祷料として)寺領の寄進

それから
部下への恩賞下賜の為の(京都の幕府への)軍忠の披露
(これこれこんだけ頑張ったので
 (部下への)恩賞よろしくお願いします!…というもの)

…などなど
本当に立派に働いて泣かせます。


(※この辺の事は…『大日本史料』のデータベース
 キーワード「斯波家長」で検索か、数行の要約なら
 【小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館)1980】
 …の p.379 後半を)


しかも、京都からの(恩賞の)返事が遅れれば
軍忠についての「誓文」を添えて、重ねて注進したりして
(※誓文…絶対絶対嘘ではありません!という神仏への誓い)
部下の恩賞獲得の為に、必死に頑張る家長

(『大日本史料』延元元年4月16日
 …『相馬岡田文書』建武4年4月17日、同8月18日
 『大日本史料』建武4年4月1日
 …『相馬岡田文書』
 しかもこれは、前年に片瀬川で討死した相馬胤康
 これまでの数々の軍忠に基づき
 残されたその子息相馬胤家(乙鶴丸)への本領安堵
 京都の幕府に重ねて求めたもの。
 (↑恩賞関連は、尊氏と執事高師直の管轄)
 「前回誓文が無かったから、疑われちゃったのかな…」
 と心配したらしい。
 亡き部下の忠節に何としても報いようとするこの純真さ… )



やばい、今日はもう涙腺がやばい (´;ω;`)





さて一方、その後の建武3年(1336)の京都では
九州から奇蹟の大復活を果たした尊氏たちの
5月の『湊川の戦い』
5月晦日〜6月の入京
(この頃、比叡山に立て篭もる新政権軍との合戦が続く)
8月の豊仁親王(=光明天皇)践祚
11月の後醍醐天皇との和睦
そして『建武式目』を掲げて、武家政権の本格再開―――

…と
を味方に付けた尊氏の止まらぬ快進撃で
時代は一気に塗り替えられ
手探りで戦い続けた鎌倉の家長たちにも
心安らげるひと時が訪れます。

(この辺りの展開って… 結果を知っていると
 「ふーん、すごいね!」くらいの感覚ですが
 改めて常識の範囲で考え直してみると
 超常現象以外の何ものでも無いような気がするのですが
 …まあいいか。)


ただ…
南朝方に依然として
北畠顕家新田義貞という勇将が健在である間は
やはりまだ、それは "仮の安息" でしかなかった訳で。





北畠顕家
建武3年(1336)のおそらく5月末〜6月初め頃までには
奥州「多賀」に帰国したと思われますが
下向の途次でこそ、次々と足利方を制圧していったものの
 (上述の4月16日の片瀬川の戦いの他
  奥州での相馬光胤たちの決死の奮闘がまた… (´;ω;`) )

しかしその後…
まず常陸国では、これより先建武3年(1335)2月
一旦優勢を獲得した瓜連城周辺〜同国南部新政権方勢力は
 (『大日本史料』延元元年2月6日)
建武3年(1336)7、8、12月
および翌建武4年(1337)2、3月にかけて
常陸国北部からの足利方の反撃により南に追いやられ
以後、劣勢確定となってしまいます。



―――※以下、常陸国での合戦次第―――

『大日本史料』建武3年12月11日、瓜連城陥落の事。
…『茂木文書』建武3年7月12日の、家長軍勢催促状
常陸国の敵方蜂起により(大将として)
 足利少輔三郎(←誰かは謎、たぶん石橋辺りの誰か?)
 を差し下す」とあり
7、8、12月の合戦を経て、12月11日に遂に落城。

『大日本史料』建武4年正月10日
常陸国の合戦での伊賀盛光の戦功を賞する、直義感状

『大日本史料』建武4年2月21日
足利方大将石塔蔵人(頼房?)、相馬親胤など
常陸国関城(南朝方)を攻める事。

『大日本史料』建武4年2月24日
常陸国小田城(南朝方)で24日、26日、29日合戦の事。
3月10日、小田城主小田治久(南朝方)国府原に出向
伊賀盛光(北朝方)「多勢の中に懸け入って散々に合戦


…などなど。
当時の(北朝幕府方の)常陸国守護佐竹貞義
佐竹一族の指揮のもと
陸奥国南部に拠点を置く陸奥国御家人
伊賀盛光の活躍を伝える文書が多く残っています。



※その他、この頃の北関東での両者の攻防戦は…

『大日本史料』建武4年3月5日、下野国小山城(北朝方)周辺
『大日本史料』同4月11日、下野国宇都宮
『大日本史料』同7月4日
7月4日下野国小山城(北朝方)が攻められ
7月8日常陸国関城(南朝方)に反撃
(↑両城、20km位しか離れてない)…まさに攻防戦
(…この辺、足利方大将桃井貞直

『大日本史料』同7月是月
佐竹義春たち、常陸国東条城笠間城(共に南朝方)を攻める

…などなど。

―――――――――――おわり――――





北畠顕家の奥州帰国後の京都では
九州からの足利軍の復活、入京、和睦、幕府再興
…と、楠木正成の先見通りの未来が訪れる事になったのは
上述した通りですが
この1か月半後の建武3年(1336)12月21日
突然和睦破棄して吉野へ逃れた後醍醐天皇
各地の南朝方(=これまでの新政権方)へ挙兵を促して
全国的戦闘の再開を指示し
奥州の北畠顕家にも
東国の武士を従えて即刻上洛すべしとの勅書が下されます。
(『大日本史料』建武3年12月25日
 この勅書は延元元年12月25日付けの宸筆(直筆)
 つまり単独和睦破棄4日後という早さ。)



しかし、この頃の北畠顕家周辺では
上述の北関東だけでなく
奥州でも南朝方の劣勢が進行していて
遂に翌建武4年(1337)正月8日
北朝幕府方の攻勢の前に
陸奥国国府「多賀」を保ち切れなくなった北畠顕家
それよりずっと南の陸奥国伊達郡「霊山(りょうぜん)城」
義良親王と共に退却を余儀なくされてしまいます。
(『大日本史料』建武4年正月8日)

(※霊山城は、福島県の霊山の山頂辺りにあった城。
 場所は、現在の福島市と当時の行方郡の間くらい。)



そしてこの移動を境に
両者の攻防戦はさらに激しさを増していき
上述の勅書への、正月25日付けの北畠顕家の奉答には…
当国(=奥州)擾乱」のため
不本意ながら上洛延引してしまっている申し開きと
霊山も敵に囲まれ、近日合戦に出る事
下国の後は日夜籌策(ちゅうさく)を廻らす」ばかりの日々に
心労」を重ねる切実な現状が綴られている…
という。
(しかし勅書を拝見して
 そんなつらさも吹き飛びました!…と続く。)
 (『大日本史料』建武4年正月25日)

敵ながら、うーん… (過酷…)




―――※以下、北畠顕家霊山退却後の合戦次第―――

『大日本史料』建武4年正月26日
相馬胤頼(松鶴丸)ほか相馬一族、奥州宇多荘熊野堂を奪還。
(↑これは相馬光胤たちへの仇討ちといえる執念の奪還。
 涙腺崩壊な詳細は後日 (´;ω;`) )

『大日本史料』同3月10日、奥州行方郡周辺で6月まで合戦続く。
行方郡「小高城」4月9日より
足利方大将中賀野義長相馬胤時など昼夜9日間の防戦。

『大日本史料』同3月17日、足利方伊賀盛光奥州退治の軍に合流。
常陸でも奥州でもすっ飛んでって働きまくる伊賀盛光…w )

『大日本史料』同4月1日、奥州楢葉郡ほかで合戦。
足利方大将石塔蔵人(頼房?)

『大日本史料』同5月18日
足利方大将中賀野義長伊賀盛光など、「霊山城」を攻める。
反撃に出た南朝方と、奥州椎葉郡・行方郡で合戦。
…『岩城飯野八幡文書』建武4年9月1日の家長の奉書は
伊賀盛光の戦功を賞し、急いで(京都に)恩賞のお願いするね!
というもの。


(※実は、前年の建武3年(1336)5月
 北朝幕府方は、相馬一族の主要拠点行方郡「小高城」
 南朝方に落とされていて
 建武4年(1337)初頭に始まった霊山〜行方郡周辺での
 この一連の攻防戦は
 まさにプライドを懸けた、弔いの反撃でもあったのだ!)

――――――――――――おわり――――






このような情勢の中
北畠顕家が再び京都を目指して「霊山城」を後にしたのは
勅命が下ってから半年以上が過ぎた翌年の秋
前回の、足利軍の西上を追った建武2年(1335)12月の上洛から
2年も経たない建武4年(1337)8月11日事でした。
(『大日本史料』建武4年8月11日)

(※以上、この辺の概要については…
 【佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)1974】
 …の、p.184-186 を。)



(というか、この南朝方の兵の酷使を見ていると…
 北畠顕家が、あの激し過ぎる内容の奏状を書いた覚悟が
 なんかすごい分かる… とか思ってしまう。
  (↑新政権の過ちを訴えた諫書のこと)
 京都で戦、奥州で戦、撫民や和平より大義の戦
 在地の窮状
 京都奥州の間の気の遠くなるような移動距離
 大義の前では、わずかも思い遣られる事はなく
 精神論でワープでも出来ればいいんでしょうが
 彼らだって人間なんだから、食いもんがなきゃ動けない訳で
 (そしてそのしわ寄せは全て道中の民衆達の不幸となる訳で…)
 しかし、そんな過酷な京・奥州間の行程も
 建武4年(1337)8月11日の出発を最後として
 翌建武5年(1338)5月22日北畠顕家の切実な叫びは
 7日後に遺言となってしまうのです。
 敵ながら… (´;ω;`) )






この後の事は
先日「室町的鎌倉旅行記(その2)」で解説した通りです。

ただ、8月11日「霊山城」を出立した北畠軍ですが
途中、下野国小山城での足利方の抵抗もあり
上野国と武蔵国の境、利根川に達したのは実に4か月後
12月に入ってからでした。
(『大日本史料』建武4年8月11日
 『上杉家文書』建武4年9月3日付けの直義御教書
 上野国から駆けつけた上杉憲顕
 小山城で敵を退治した事を賞したものですが
 一方、『結城古文書写』(※南朝方の文書)では
 来る12月8日に、小山城足利方への攻撃を予定している
 とあるので、かなりの時間が経過していますが
 その後の北畠軍大軍化からみるに
 軍勢が集まるまで時間がかかったもよう。)



しかし、12月以降の南朝北畠軍の進撃は早く
12月13日の利根川合戦、16日の武蔵国安保原の合戦
そして12月23日には鎌倉に討ち入り
24日の合戦を経て
遂に12月25日、「杉本城」
落城の日を迎えてしまうのです。 (´;ω;`)はぁ…





…ところで
北畠顕家進軍の早さ(=移動日数の短さ
よく語られるところですが、これはもちろん
第一の要因には、北畠顕家の統率力の高さが挙げられるだろうし
錦の御旗を掲げている事もその一つと言えるかも知れませんが
いま一つの理由には…
「ホームとアウェー」の問題があったのではないかと思われます。
 (※ただし通常の用法とはちょっと違う意味で。)


建武5年(1338)正月2日
鎌倉を出て京都に向かう北畠軍の行軍についての
有名な『太平記』の一節…

北畠顕家の率いる奥羽の50万騎の大軍が
 夜を日に継いで(=昼夜の別なく)
 海道を道いっぱいに広がって上洛して行ったが
 (彼らはアウェーの者達なので)
 路次の民屋では略奪を尽くし、神社仏閣焼き払って行った
 この軍勢の過ぎ去った後は、地を払ったように
 一軒の家も、一本の草木も残らなかった」


…まさに焦土。

(※これについては…
 【佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)1974】
 …の p.187-188 と
 『大日本史料』暦応元年正月2日)



もちろん、兵粮の現地調達は北畠軍に限った事ではなく
どの戦においても
軍勢の通り道となった土地の民衆の被害苦しみ
想像するだけでもマジ鬱 (´;ω;`) …な話でいたたまれませんが
特に奥羽の軍勢にとっては、関東以西アウェーですから
通り過ぎた後の事を考慮する必要が無く
速度を最優先すれば当然
その惨状は、想像を絶するものとなったのでしょう。

これが足利軍だったら
東海道には味方の所領が沢山ある、いわばホームなので
土地に対する思いも、少しは違うものがあったんじゃないかと。


(…というか、現地奥州では「多賀」でも霊山城でも
 北畠顕家はあんなに苦戦していたのに
 京都へ遠征となったら(50万騎は誇張にしても)
 ここまで軍勢が膨れ上がっていったのはなぜ??
 …とか素朴に疑問。 アウェーだから??
 南朝北畠顕家といえば「強い!」のイメージで通っていますが
 奥州での軍勢召集の時間のかかり方をみても
 ホームではなぜか厳しい北畠軍… )





建武4年(1337)12月25日に「杉本城」を落とした北畠軍
上述のように、翌建武5年(1338)正月2日には
早々に鎌倉を後にして上洛を再開しますが
道中に比べたら、鎌倉は遥かに物資に富んだ都市ですから
この1週間の間にどれだけ鎌倉は奪い尽くされたのだろう…
と思うと
足利方の総大将家長が、どう見ても勝ち目の無い北畠の大軍を相手に
決死の覚悟で徹底抗戦に挑んだ気持ちが
なんか痛いほど分かってしまって、もう… (´;ω;`)ウウッ
(おそらく、去年の北畠軍の奥州帰国の際も
 結構な被害に遭っていると思われる。)


鎌倉京都という都市は
外から攻められる事に非常に弱いので
戦力差が圧倒的なら逃げるしかないし
互角若干の劣勢なら
一旦退いて敵を誘い込み、攻守反転した上で一斉攻撃
…という作戦が有効で
これはよく『観応の擾乱』時尊氏が取った戦略ですが
しかしこの時、家長鎌倉での防戦を選んだのは
経験の浅さによる誤算なのではなく
上記の理由をその一つとして、もしかして家長
負けるのが分かってて「杉本城」に向かったのではないか?
と、ふと思う訳ですが…

それでは、家長勇気を与えたのは何だったかと言うと―――




私は先日「室町的鎌倉旅行記(その2)」
この時に鎌倉での防戦を主張した『太平記』の逸話は
当時数え8歳の千寿王(義詮)によるものではなく
関東執事かつ総大将だった家長の言葉だろうと言いましたが
これは、上述の家長多岐にわたる活動を鑑みれば

「自分は東国の管領を任されているから…」(『太平記』)

という強い自負を持って生きていたのは
間違いなく家長だと
賛同してもらえると思います。

ただ、建武2年(1335)8月に15歳奥州へ旅立ってから
2年と数ヶ月の家長の足跡を追っていて
もう一つ思う事がありました。



この『太平記』の逸話を意訳すると―――

利根川合戦以来、士気を失った足利方劣勢により
 一旦安房上総への退却を相談する面々に対して
 家長(※『太平記』では千寿王)が主張するには…)


「そんな意見はあなた達らしくない!
 戦においては、必ず一方は負けるものなのだから
 負ける事を恐れていたら、なんて出来ない。
 俺は東国の管領を任されて鎌倉にいるのに
 相手が大勢だからと言って、一戦もせずに逃げたとしたら
 敵にあざけられるだけじゃないか。
 たとえ味方が小勢であっても
 敵が押寄せれば馳せ向かって戦い
 敵(かな)わなければ討死すればいい。
 もしそこで逃げるべきとなったら
 その時は、一点突破して安房上総に退き
 その後、上洛する敵を追って(京都の手前の)宇治・勢多
 (西からの)味方前後から攻めれば
 きっと敵を倒す事が出来るに違いない」


…と、思慮深く道理を尽くして訴えたので
みなこの一言に励まされて、討死覚悟で鎌倉での決戦に挑んだ
という訳ですが
この眩しいまでの勇ましさ
思うに、この時の家長の心の中には
昨年の建武3年(1336)4月
奥州へ帰国する北畠軍との片瀬川の合戦
鎌倉を守って果てた
相馬重胤相馬胤康の姿があったのではないかと。





建武2年(1335)8月の奥州赴任
おそらくそれまで父高経のもとにあった家長にとって
一人で手勢を率いての初任務だったと思われます。

…という事は、奥州の相馬一族
家長にとって、初めての自分の部下だった訳で
しかも、相馬重胤たちの忠誠ぶりは
本当に素晴らしいの一言に尽きるのですが
 (↑実は今回紹介し切れなかった史料が…)
斯波家(※当時は足利尾張家)の嫡男とは言え
まだ十代半ばの駆け出し大将でしかない自分を信じて
支えてくれる彼らの存在は
相当励みになったと思われます。
 (鎌倉が極端に手薄だった建武3年(1336)前半は特に。)
家長相馬胤康の恩賞に必死だったのも
こういう心情的な背景があるのではないかと。


(この頃、家長に属して活躍した奥州相馬一族
 惣領の相馬重胤をはじめ
 家臣も含めてかなりの数に上ります。
 (…『相馬文書』などの着到状や軍忠状より。)
 当時の敵味方の流動性の高さ
 一時期の足利勢の致命的な劣勢を考えると
 彼らの一貫した姿勢
 わりとかなり特筆すべき事かと思います。)




もちろん、武家社会は広いですから
家長には、譜代の家臣も鎌倉時代以来の御家人層もいて
建武3年(1336)後半からは、京都からの帰還組も増えて
多くの部下を「関東執事」として統率していたのでしょうが
しかし奥州「斯波殿」として初めて出会って以来
鎌倉までも付き従い
足利軍の未来が絶望に瀕した時期を共にし
そして、鎌倉を守って戦死を遂げた相馬重胤たちには
たとえどんなに恩賞の吹挙(すいきょ)を頑張っても
結局は、同じように命を懸けて戦う事でしか
彼らの忠節に報いる事が出来ないと
17歳の少年ならそう考えてしまうんじゃないかな。

そして今、今度は自分があの時と同じ状況にいる
そうなったら
迷う事など何もなくなってしまうでしょう。



(※先日解説したように、「杉本城」陥落後
 上杉憲顕・憲藤兄弟や桃井直常高重茂らは
 千寿王(義詮)を擁して一旦鎌倉を脱出し
 その後、軍勢をひたすらかき集めて北畠軍の後を追う訳ですが
 これが上記の家長の言葉の通りである事からすると
 もしかしてこの言葉の真意
  「 "自分が" 討死したら、残った者達は鎌倉から逃れて
   そして敵を追ってくれ」

 という覚悟だったのかも知れない…
 と、深読みしてしまう (´;ω;`) )




一般に、奥州相馬一族の去就については
足利軍建武政権と決別した時、足利方になった」
…くらいのさらっとした書き方で
家長との関係を掘り下げたものはあまり見かけない気がしますが
(というか、そんなマニアックな事気になって仕方ないのは
 私くらいでしょうが)
でも、誰もが通り過ぎてしまう歴史の片隅
本当の物語が待っている
というのが、この太平記時代の特徴です。
一次史料だけなら、誰もが目に出来る形で知れ渡っているのに
その一歩先に広がる世界
見ようとしてくれる人がいない
というのもまた、この太平記時代の負った宿命です。

つまり… 太平記時代の実力こんなもんじゃないよ!!
きっとまだ
とんでもないものを隠しているに違いない… Σ(゚Д゚ )なぬ!!???





うん、まあ最後の方は
若干妄想が入ってしまっているかも知れませんが
でも、ここまで調べる切っ掛けをくれたのが
去年の秋の『杉本寺』への訪問だったので
きっと、そんなには間違っていないんじゃないかなぁ…と
自分では思っています。


というか、あの時は正直言ってこの辺の事
全っっ然知らなかったから
 「高経の嫡男家長〜〜ルンルン♪」
くらいのあほあほな気分で行ったので
もう一回行かない事には話にならなよね (´・ω・`)
今度は、源頼朝の『法華堂跡』相馬重胤をなむなむしに行こう
と、思いますた。はい。







独り立ちした15歳の家長が戦った日々は
2年と4か月と言う短い時間だったけれど
尊氏たちが去った後の鎌倉を背負い
建武政権との対峙から幕府再興という激し過ぎる時勢の中で
見事に任務を全うしていきます。
奥州での最初の出会いは
まだ幼かった少年を、一人の立派な武将へと成長させました。
決して敵に背中を見せる事をしなかった家長の最期が
残された者達の勇気となって
翌年の勝利に繋がったのだとしたら
それは、紛れもなく「任務完了」という事で
胸を張って将軍尊氏に報告出来るのでしょう。


(実際、分かっててもあそこで戦わなかったら
 東国武士南朝化を促進してしまっていただろう
 …とは思う。 人心って戦の行方を左右する一番大事な要素。)



家長「杉本観音堂」で最期を遂げてから
来年でちょうど680年ですが
今になって、私が家長を知る事になったのも
何か意味があるのかも知れない… という事で

 680年後の未来に届くほどの輝きを放った数え17歳の生涯

これを私なりの "答え" としたいと思います。

なにか、遠く離れた星の光
今初めて地球に届いた… みたいな不思議な気分。


つまり太平記時代は―――

六百うん十光年先の宇宙に、今も存在してるんだよ!!
Σ(゚Д゚ )なぬ!!???




うそです☆


でも、重力波も検出されたらしいし
そろそろやつらも検出され…  うそです☆



足利家長




――――※最後にワンポイント――――

建武2年(1335)12月に
尊氏たちが上洛した後の鎌倉の体制
形式的には…
 「主君」千寿王(義詮)を補佐する「関東執事」足利家長
となりますが
 (つまり「千寿王の意を奉じて政務を行う」という形)
ただし実質的には
総大将家長を年上の足利一門家臣たちが支えて
諸事を執り行っていた感じでしょう。
恩賞関連では
尊氏の意を奉じた家長奉書も多く残っています。
(※奉書(ほうしょ)…主人の意を奉じて出す文書。
 この場合、尊氏の意を受けて家長の名前で出す文書。)


 以下、自分用メモ↓
『大日本史料』延元元年4月11日(相馬重胤宛、所領預置)
『大日本史料』延元元年10月10日(小早川宗平宛、所領預置)
『大日本史料』延元元年10月28日(小山大後家宛、所領預置)
『大日本史料』建武3年11月22日(相馬親胤宛、所領預置)
『大日本史料』建武4年7月16日(甲斐大善寺に料所寄進)
(↑これは奉書ではないけど
 将軍尊氏の御祈祷の為のもの、という事で一応)



つまり家長は…
数え15歳〜17歳に最も人生を輝かせた
少年大将かつ少年執事のみならず実質少年主君
しかも、飾りじゃなくて健気に働きまくる上に
尊氏マル秘ミッションのエージェントだったりもして
んでもって高経長男(その上、高経数え17歳の時の子w)
…とかいう
ネタ的にわりと果てしなく夢が広がる感じ。



(※ついでに余談ですが…
 尊氏のマル秘エージェントは、他にもまだ数人います。
 (先日紹介した高経はその最たるものですが、他にも…)
 これに気付くと
 特に『観応の擾乱』スペシャル異次元化してくるのですが
 もちろん、マル秘なので一見したところでは分かりません。
 ほんの少しの勇気を持って覗き込めば
 その一歩先に、もう一つの世界が広がっているのです。
 Σ(゚Д゚ )なぬ!!??? )



―――――――――おわり―――




…という訳で以上
建武3年(1336)〜建武4年(1337)の
「足利家長関東編」でした。

というか、今日話したかったのは
家長の従兄弟の兼頼(かねより)の動向だったんですが
またまたその前提の話で終わってしまいました。
相馬関連の話が興味深々過ぎました。)

つまり… さらに次回に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 23:41| Comment(0) | ★チラ裏観応日記

2016年03月04日

「バーボン室町」開店のお知らせ

(御案内)

こんばんは、本サイト管理人です。

さて、突然ですが
前々からもっと気軽にてきとーな事を言いたいなぁ
と思っていて、この度
チラ裏ブログ『バーボンMuromachi』を始めてみました。

内容は…下らないものになる予定です。
ただ少し、日々の片隅室町を思い出してもらえたら
そう思って
駄弁ってみることにしたんだ (´・ω・`)



posted by 本サイト管理人 at 21:53| Comment(0) | (御案内)