2016年02月26日

ブログ引越し完了のお知らせ

(御案内)

こんばんは、本サイト管理人です。

以前のブログ
『Muromachi通り』http://reisenki.sblo.jp/ より
こちらの新ブログ
『Muromachi通り』http://mblog.reisenki.com/
に引っ越しました。
中身も丸ごと引っ越したので内容の変更はありませんが
各記事のURLは全て以前と異なります。

ちなみに本サイト『戦国黎明記』の方は
変更はありません。


さて、新ブログの記事第一弾
「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」」
になります。

今後とも引き続きよろしくお願い致します m(_ _)m



posted by 本サイト管理人 at 02:20| Comment(0) | (御案内)

2016年02月25日

室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏観応日記』です。
早速旅の続きを… と思ったのですが
ここでちょっと一休みして、追記のお知らせです。


前回の旅行記「室町的鎌倉旅行記(その2)」
(『杉本寺』と足利家長 & 父足利高経の回)
で話した
源氏累代の宝刀「鬼切」(おにきり)について
気になった事をちょっと書き加えておきました。
(最後の「尊氏&高経の画像」の少し上のカッコ内
 2016.1.4 の追記です。)

高経の手に渡ったであろう「鬼切」
なぜ弟家兼の、しかも長男直持ではなく次男兼頼の系統の
羽州探題最上家に伝来する事になったのか
不思議に思ったので。

(※ちなみに兼頼は、越前での高経vs新田戦当時は
 家臣と共に未だ関東方面にいた模様。
 『大日本史料』第6編の3、p.185-186
 『相馬文書』暦応2年3月20日氏家道誠注進状案)


まあ、記録が無い事なので憶測でしかないのですが
建武5年(1338)閏7月2日に
越前国で新田義貞の大軍を相手に勝てたのは
前年の建武4年(1337)12月25日に東国で最期を遂げた
長男家長の助けがあったからだと
そう信じた高経
東国で家長の分身的立場にあった兼頼「鬼切」を捧げる事で
家長へ感謝の気持ちを伝えたかったのかも知れない
…と、妄想してみました。

(※ただし、兼頼「鬼切」を受け取った時期は
 越前の合戦後間もなく、ではなく
 文和2年(1353)くらいの可能性…もあるかも知れない。うーん…
 ―――2016.2.29追記)





という訳で:.*:.。.:*・゚(・∀・)゚・*:.。.:*☆家長のお話
※以下、舞台は建武2年(1335)8〜12月





ところで、足利家長斯波家長)が
奥州(=陸奥国)で活動を開始するのはわりと早く
尊氏の命で当地に赴任したのは
まだ数え15歳の建武2年(1335)8月
つまり "幕府誕生前" の建武政権期の事です。

『大日本史料』建武2年8月30日
『鎌倉大日記』『奥相秘鑑』などより…

 「尊氏家長奥州の管領として斯波の館に下す」

(※陸奥国斯波郡は、現在の岩手県紫波郡(盛岡のすぐ南)
 鎌倉時代以来、足利家の所領となっていた。)


(※なお、一次史料で家長在奥州が最初に確認出来るのは
 12月になってからで
 上記の記録、及び下向開始が「8月」(一説に8月30日
 …という日付は、後世編纂の史料によるものですが
 相馬家伝来の文書など、確かな記録を基にした記述と見られます。
 また、ここで言う "管領" とは
 制度上の奥州管領ではなく
 「すべ治める」という普通名詞的な意味だとされています。)





この家長の奥州赴任は従来
北畠親房・顕家父子の奥州支配に "対抗" させる為に
(あるいはそれを "奪う" 為に)尊氏がとった策略
…のように捉えられがちだったようですが
(※この辺の概要は例えば…
 【小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館)1980】
 …の、p.378-379 の真ん中へんを)

しかし
それは(幕府再興という)結果から逆算してしまった誤解であって
まだ足利勢が "建武政権の一員" であるこの時期に
尊氏が理由も無し
(あるいは単なる権勢欲対抗意識から)
後醍醐天皇の政策にあからさまに反する独断行為に出るというのは
状況から考えてかなり不自然かと。

(普段の尊氏の欲の無さ
 後醍醐天皇への慕い方から考えても矛盾します。
 …ただし尊氏
 戦で忠功を尽くした武士達への恩賞の為なら
 多少勝手な事もします。
 でもそれは将軍なら当然よね (´・ω・`) )



では、どういう意図から出た行為か?…といえば
これは、当時の現状を考えれば
『中先代の乱』が絡んだものであった事は明らかで
8月19日に鎌倉を奪還した "官軍" 尊氏
奥州に蜂起していた北条時行与党の動きを察知し
足利家長を大将とした一行を
現地調査を兼ねて奥州に差し向けた
つまり…
 「騒乱の鎮圧完了&再燃阻止の為の機転だった」
と見るのが、まずは自然です。

鎌倉奪還だけでは決して気を緩めず
 事後の警戒を怠らない尊氏の感覚は流石です。)

(※『中先代の乱』の時系列は
 本サイト『2-2』「列島を駆ける」の冒頭をどうぞ。)


…というのも
この『中先代の乱』では
奥州勢の多くが北条時行に応じた」と伝える記録があって
実際、"官軍" 北畠顕家方の諸氏が
8月13日と15日に合戦を繰り広げているように
 (『大日本史料』建武2年8月13日)
信濃武蔵鎌倉だけでなく、奥州も臨戦状態だったのです。

(※陸奥国南端白河郡での長倉合戦はもとより
 北端の津軽郡でも戦があったと伝える記録も。
 その他、『大日本史料』建武2年8月9日、9月24日
 北条与同者の所領を没収し同族結城宗広に預ける事
 『大日本史料』同8月28日
 安達郡の北条与同者に対し、翌8月29日奥州勢発向の事
 …なども。)



その後、10月になっても
相模国の北条方残党退治で
足利方の出陣があったりしている訳ですが
 (『大日本史料』建武2年10月3日)
そんな情勢不安の最中(さなか)
安易な拡大志向で一方的に味方(=北畠顕家)をライバル視し
いきなり奥州の支配権争いを始める…
なんて戦況を見誤るようなバ…失礼、視野の狭い愚将がいたら
この時代、開始早々ゲームオーバーしてると思うのですが。


尊氏が、この超絶スーパーハードモード無理ゲー時代
いつもぶっち切りで一人勝ちゴールを決めまくっていたのは
単なる運や棚ボタではなく
他の武将より戦況の分析能力が圧倒的に長けていたからです。
(これは『観応の擾乱』を考察していると
 本当に何度でも驚かされます。)

それから
「無益な欲が無かった」という人徳
予期せぬ所で身を滅ぼさずに済んだ秘訣と言えるでしょう。


(「能力人徳も、通常の人間の域を超えているのに
  通常の人間の枠内で説明しようとしてしまっている」
 …というのが
 尊氏研究の飛躍を今一歩妨げている原因だと
 個人的には思ってます。
 圧倒的な権勢を手中に出来る能力を備えながら
 恩賞宝物もみんなにぽいぽいあげてっちゃう上に
 将軍の地位すら執着なし
 …とかいう意味不明な将軍は
 もっと発想のリミッターを解除して考察する必要があります。)




(=北条時行与党)にまだ動きが見える段階で
(少なくとも建前上は)味方の北畠顕家まで "自ら" 敵に回す
なんて判断がどれだけ愚かな事か
ちょっと冷静に考えれば誰でも分かる単純な話ですが
しかし、こういう "あまりに" 当たり前の事
最も見落とし易かったりするので要注意です。(((゚Д゚;))))


『中先代の乱』ではこれ以外にも
7月下旬に鎌倉を落とされて三河国まで敗走した直義
それまで奉じていた成良親王京都に送り届けた
という事実を以て
 「建武政権との決別」「幕府再興の意思表示」
と捉える誤解がありますが
(※これについては上記リンク「列島を駆ける」の最後の方を)
…というか
もしそうだったとしたら
じゃあこの時の足利勢
東国広範囲の北条軍と京都の建武政権と奥州の北畠勢のすべてを
同時に敵にしたって事??
なにその全方位けんか上等戦略
いくらなんでも脳みそヒャッハーし過ぎだろ
…となってしまう訳で
常識的に考えて有り得ません。

乱鎮圧の勲功賞で
尊氏は後醍醐天皇から従二位を授かっているように
 (『大日本史料』建武2年8月30日)
「この時点での足利勢 "官軍" として行動している」
という点は非常に重要です。

それから
本サイト『2-2』「さよなら、俺らの聖地鎌倉」で解説したように
尊氏はギリギリまで
"自分達から" 朝敵になる事は、極力回避したがっていた」
という事実から考えても
不用意に奥州の北畠父子を敵に回すような下手は打たないでしょう。




まあ、そうは言っても
見方によっては
「(北畠顕家が味方だというなら)奥州北畠勢に任せて
 わざわざ足利勢が出て来る事はないだろう!」
という意見もあるかも知れませんが
ただ、北条時行党の蜂起については
『中先代の乱』の本当の原因… もっと言えば
「西園寺公宗のクーデター未遂事件」の真相を探ると
そうも言ってられないのです。


つまり、尊氏足利家長を奥州に向かわせたのは
その "すべての裏" を知っていたからかも知れない―――

尊氏なら、十分に有り得る話です。

(…もちろんこれは
 尊氏が事件に関わっていた…という意味では全然なく
 尊氏が知るはずも無い真相を、すべてお見通しだった
 という意味で。)


そもそも
当時の緊迫した情勢と、下向時期のタイムリーさを考えたら
足利家長の本来の下向目的は
 「奥州の北条方与党牽制&監視
という "戦時" 的ミッションが主眼であっただろうに
記録に残された目的、つまり表向きには
 「斯波の館奥州の管領
という "平時" のほのぼの任務っぽいものだった
というのは、何とも違和感が拭えません。

(なんたって… 史料的には
 家長は、斯波の館でほのぼのしていた気配が無く
 一方で、それよりずっと手前(南)の在地の武士と
 関係を深めているのです。)


つまり… これらのヒントを繋ぎ合わせると
北条方蜂起の背景=「西園寺公宗クーデター未遂事件」の真相
というのは
足利方(というか尊氏)にとって
あまり表沙汰にしたくない事情があったのではないか?
…と思えて仕方ない訳ですが
当時でもそんなんだったなら、後世その真相に気付いた人間は
まだ誰も…  Σ(゚Д゚ )!!!???





―――――「家長奥州紀行の真相」
       ちょっとフライング余談―――――――


足利家氏を祖とする高経の家系「斯波家」
鎌倉〜室町初期までは「足利」を名乗っていて
(あるいは家氏の官途 "尾張守" にちなんで
 「尾張殿」「足利尾張殿」とも)
"家名" として「斯波」が定着するのは室町中期頃から
…という話は何度かしましたが
高経の長男家長については
個別に「斯波殿」と称されている事があります。
(※『相馬文書』などの一次史料から『太平記』まで。)

これは上述の記録が伝えるように
家長尊氏の命を受けて
(先祖の家氏以来相伝した)奥州斯波郡に赴任し
斯波の館に居住していたから

…と考えるのが一見自然のようですが
(※この辺は
 【小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館)1980】
 …の p.379 を)

しかし
家長はこの年の12月には、既に斯波とは別の場所にいて
以降は鎌倉を中心とした関東の統治を任される事になり
結局この斯波では
ほとんど活動らしい活動をしていないのです。




ところで
鎌倉斯波の位置関係はどうなっているかというと…


cm1-shiba.jpg


(※図中の色の濃い部分の右側が奥州(陸奥国)
 左側が羽州(出羽国)(=合わせて奥羽)で
 陸奥国の国府が「多賀」です。
 北畠親房・顕家父子は元弘3年(1333)冬以降
 後醍醐天皇の皇子義良新王を奉じて
 ここ「多賀城」で奥羽の統治に当たっていました。)

(※ちなみに斯波その周辺
 源頼義・義家父子の『前九年の役』の舞台となった場所で
 武家源氏にとっては由緒ある特別な地だったりします。)



…という訳で
鎌倉から斯波郡めっちゃ遠い訳ですが
建武2年(1335)8月末鎌倉を出発したとして
京・鎌倉の関係が急変する11月初めまでの間は
下向の旅程を含めて9、10、閏10月の3か月しかなく
家長斯波に安住する時間は、ほとんど無かったのです。

しかしそうすると…
(結果的にとは言え)長期滞在した訳ではない
それなのに
まだ家督も継いでいない、当時15歳の少年家長
父とは別の家名「斯波殿」と呼ばれているのは
よくよく考えたらなんかちょっと不思議な訳で
これはただ単に「そこに居住していたから」というより
何かしら、別の意味が込められていたのでは無いかと…





尊氏の☆.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆気配!!?





という訳で、この辺もう少し突っ込んでみますと…
この "事態が急変する11月" というのはつまり
足利vs新田の決戦開始の事ですが
(※これについては上記「さよなら、俺らの聖地鎌倉」を。
 ちなみに、尊氏奏状や対戦勃発までの時系列を解説した
 最初の長いカッコ内の前半を
 またしつこく加筆修正しました)

この後
12月半ばの『竹之下・箱根の合戦』で逆転圧勝した足利軍
京都を目指す事を決心する訳ですが
この足利軍西上を追撃する為
当時、陸奥の国府「多賀」にいた北畠顕家
12月22日に当地を出立します。
そしてこの時
奥州に赴任中の足利家長は…というと
北畠軍の進軍阻止に立ち上がるのです。


ここで普通に考えたら
斯波の方から駆けつけて "北" から「多賀」に攻めかかった
…と思いそうですが
しかしどうやらそうではなく
挙兵した家長の元には
奥州「行方郡」(なめかたぐん)辺り
 (※現在の福島県相馬市・南相馬市辺り、上図参照)
を本拠としていた相馬(そうま)一族の多くが馳せ参じていて
足利家長軍
「多賀」 "南" から
府中(=多賀国府)に御発向している(『相馬文書』)
としか考えられないのです。
(『大日本史料』建武2年12月22日
 相馬行胤・朝胤父子が12月20日に一番に馳せ参じ
 相馬重胤「亘理郡」に発向している。)


(※ちなみに、相馬一族はもともと下総国相馬郡出身で
 この頃(鎌倉時代最末頃)から
 相馬重胤(しげたね)の一流を中心とする一族の一部
 奥州の所領に移り住んでいました。
 つまり、ここで下総相馬奥州相馬に分かれる訳です。)




…てゆうか
いつの間に「多賀」を超えてにスタンバってたんだよ!!!
と突っ込まずにはいられない展開ですが
この約1か月前
相馬重胤相馬胤治(たねはる)が11月20日付けで
子に所領の「譲状」(ゆずりじょう)を認(したた)めているのは
この時既に、出陣の決心を固めた証拠と見られ
 (『大日本史料』建武2年11月20日
  こういうのすごく泣ける… (´;ω;`) )

家長は遅くとも11月半ば頃までには
彼らと連絡を取り合い、糾合していたと思われます。


(※奥州の相馬一族
 これまでは足利勢と同様、建武政権に属していて
 これ以降、そのまま北畠顕家に属し続けた者もいますが
 多くは足利方となり、家長と共に戦いに身を投じて行きます。
 この建武2年11月
 足利勢だけでなく、相馬一族にとっても
 時代の激動に飛び込む決意をした一世一代の瞬間だったのです。)



さらに
『奥相秘鑑』(『大日本史料』建武2年8月30日)によると…

「建武二年八月
 尊氏卿、陸奥守家長奥州の管領として斯波の館に下し玉ふ
 (相馬)重胤始て会面、尊氏卿の御方と成て
 同年、嫡子孫次郎親胤と鎌倉に参陣… 」

…とあって
相馬重胤が初めて家長に面会したのは
12月の挙兵で参陣した時…という慌しいものではなく
家長が奥州へ下向する "行き" の道中でのんびり
…とも読める事からすると
やはり事前に関係を深めていたのではないかと。
つまり―――
家長は、鎌倉から真っ直ぐに斯波の館に向かったのではなく
途中、在地の武士に誼(よしみ)を通じながら
わりとだらだら下向してたっぽい予感…
…と考えられる余地があります。





ところで
もしこの頃まで家長斯波の館に滞在していたとしたら
「多賀」の南まで戻って来る切っ掛けは
建武2年(1335)11月2日に
直義「打倒!新田義貞」の軍勢催促を
諸国の武士に向けて一斉に発した時点
…と考えるのが妥当に思えますが
(↑これは、直義いきなり先制攻撃…という訳ではなく
 兄尊氏亡き者にしようと
 讒言&討伐計画を推進していた新田にぶち切れた "結果" です
 この京都の陰謀については『梅松論』『太平記』の他
 『大日本史料』建武2年10月15日『保暦間記』を参照)

しかしそうすると
11月2日鎌倉から発せられた情報が斯波に届き
それから準備を開始した家長一行
急速に緊張感が高まるこの情勢下
何食わぬ顔で「多賀」を通過出来たのか??
…という点は、なんかちょっとだいぶ引っかかる訳でw

しかも
相馬重胤たちが11月20日には早々に覚悟を決めていて
僅かも迷いが無い様子からすると
(普通は情勢を見極めかねて、しばらく静観しそうなのに…)
おそらく家長との関係は
"行き" に一回擦れ違っただけ…どころか
かなり密な関係を築いていた、という気がしてならないのですが
そうすると可能性としては
家長はそもそも
ずっと「行方郡」辺りでぐずぐずしてて

 「多賀」を超えて斯波まで行ってすらいないのでは?

という疑惑さえむくむく湧いて来る…

みなさんはどう思いますか?





どう?…って:.*:.。.:*・゚ (´・ω・`)゚・*:.。.:*☆知らんがな





さて、謎が謎を呼んで来てしまったので
私の見通しを述べておきますと…

家長は終始 "尊氏の指示" で動いていたのだと思います。
直球な事しか出来ない直義(ごめんw)の召集だとしたら
この時、鎌倉まで戻っていたのではないかと。

 「多賀」の南に待機して情勢に応じて動く

なんて先の先を読んだ周到な戦略
どう見ても尊氏の仕業
11月初めの時点で北畠顕家の動きに気を配れるのは
やつしかいないと思われます。
直義新田にぶち切れて、もう新田しか見えてないw)

(『大日本史料』建武2年11月2日の
 直義による "全方位軍勢催促状弾幕"
 (↑これでもかというほどに全部 "対新田" )は
 様式美の域に達していて必見です。
 直義は、兄貴の敵に対する噛み付き方が常軌を逸しているのが
 玉にキズ(いやむしろネタ的なおいしさで言えば玉に玉…)です。)


この時期(建武2年11〜12月)の家長の動きは
12月下旬の北畠顕家への追撃の件については
『大日本史料』建武2年12月22日条によって
既によく知られている事実ですが
ただ、その "不思議さ" はあまり気にされていないようです。

…というのも
これまでは「当時たまたま奥州斯波郡に居た家長
(多賀の北から)北畠顕家の追撃に向かった」

と思われていたようなので(たぶん)
それ故、何ら不思議の無い当然の事とされていたのだと思いますが
しかしここには
「つい結果から考えてしまう」という後世の私たちの盲点があって
未来を知らない)彼らの立場で
時系列に細心の注意を払って考えてみると
実に不思議なのです。
家長 "多賀の南" を標的にアクションを起こし始めたのは
1か月以上も前の11月上旬の事
しかも、その最初の一歩はさらに遡る事8〜9月
その時点で、一体何が分かっていたと言うのか?




11月19日には
京都の新田義貞軍が、尊氏討伐の勅命を受けて東下を開始するので
これ以降、奥州の北畠勢にも警戒するのは当然でしょうが
(『太平記』『保暦間記』によると
 この新田軍の東下に合わせて奥州からも攻め入るよう
 後醍醐天皇の綸旨が下された、とあります)

ただしこの時は
大軍を起こす事は容易ではなく延引となった」(『太平記』)
とあって
おそらく、京都にとっても北畠顕家にとっても
かなり唐突な出陣命令だったのだと思われます。
…とすると
周囲が11月下旬時点でこのような状態の中
家長たちの行動の早さだけが、異様に浮いて見える…



本来、尊氏が鎌倉に留まったのも
京都の陰謀が急激に推し進められて一触即発となったのも
尊氏討伐の決定もすべて
(どちらの陣営にとっても)予想外の事態だったはず。
つまり、北畠顕家の出足の遅さの方が "普通" なのです。



一方、その後の鎌倉勢の戦況に目を移せば…

11月末の足利軍第一陣敗退(at 三河国)の後(←たぶん予想外
12月2日に直義率いる主力軍が出陣のち敗退(←輪をかけて予想外
その結果、遂に尊氏
12月8日に鎌倉を出て箱根に向かい(←まさかの出家撤回)
形勢逆転して余りある大勝利を収めます。(←つまり有り得ない
この頃、北関東勢(=尊氏方)による
北畠勢の出陣を見越した要撃計画も持ち上がっていたようですが
 (『大日本史料』建武2年12月24日)
しかし、北畠顕家軍がようやく出陣の運びとなったのは
伊豆で尊氏直義が合流し
鎌倉に戻らず上洛の決意をして旅立った(←これまた思いつき
12月15日より後の事であり
結局北畠顕家は
箱根の合戦には間に合わなかった」訳ですが(by『太平記』)
でも、それが普通だと思います。
この予測不能成り行き展開の中で
後手に回った北畠軍の動きに合わせるように挙兵した家長軍
遥か以前から待機を続けていた
…という方が意味不明なのであって。

(このように
 家長の方から攻撃を仕掛ける意図があった訳では無い
 …のはもちろん
 北畠顕家の警戒感の希薄さや備えの皆無さから
 奥州での家長は、目立った行動すら取っていなかった
 (ましてや、挑発するような事などしていなかった)
 …という事が分かります。)



それにしても
この時期の、極めて不確定要素が強い未来に備えて
超要所ポジションに手駒を配備しておけるとか一体…


だいたい、鎌倉から立て続けに
三連弾のジェットストリーム出陣を余儀なくされ
全東国武士界がてんやわんやで収拾つかねーよこれ状態の時に
奥州の家長軍だけは
闇夜の猛禽類の如く息を潜めてが来るのを待ち続けていた
…というのは、実に対照的で面白い訳ですが
その深謀遠慮な冴え渡る指示を出していたのが
出陣直前まで出家希望ひきこもり一束切り将軍だった、とか
なんなのそれ!!
マンガだよマンガ!!


箱根峠ではなく足柄峠に向かったセンスといい
どう見てもこの将軍ニュータイプ
  ※ただし半端に出家コスプレ中ダサめ

とかもう
わたし的にどストライクなんですが
みなさんはどう思いま… どうでもいいですね。





ダサいシャアなど☆.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆いない!!





さて、まとめに入ります。

私の予想では
家長を奥州へ下向させた尊氏の目的は、おそらく初めから
斯波で腰を据えて "在国統治" させる事…ではなく
"下向の道中" に重点を置いていたのだと思います。
斯波までの道のりを出来るだけぐずぐず北上して
『中先代の乱』の余波を密かに現地調査しつつ
奥州の在地武士と面会して仲良くなる為に。

…というか、もっと大胆な事を言えば
もともと「多賀」を越えさせる予定は無く
斯波に行くふりをしつつ時間稼ぎをして
その手前(南)で留まっているよう
言い付けていたのではないかと。


流石にそれは極論だろ!…と思われそうですが
ただ、「多賀」を往復する(政治的)デメリット
家長斯波での活動を伝える記録が無い事
活動期間の短さや、残存史料の制約の問題もあるけど)
それからやっぱり
8月時点の状況では、遙々斯波まで行く必要性があったとは
どうしても思えないので。

(もし、斯波で落ち着いて奥州を管領させる予定だったのなら
 下向時期として相応しいのは
 元弘3年(1333)12月の、直義の鎌倉赴任と同時期か
 あるいは、『中先代の乱』の後なら
 尊氏の鎌倉残留が確定し(※新邸引越しが10月15日)
 一時的にしろ、ちょっと小春日和だった頃
 …だったらまだ分かるのですが。)



というか、11月初めの事態急変は
鎌倉でだって誰しも予想外だったろうに
地理的に離れた奥州で、11月半ばには覚悟を決めてるって…
 (しかも鎌倉とは別の特殊任務で、って…)
時間的にも伝達情報の絶妙さ的にも、色々と有り得ないよね?
どっかに時空無視してるニュータイプがいるよね??

という訳で、さらに踏み込んでエスパー妄想しますと…
尊氏は当初(8月)から
「多賀」の南を拠点とする奥州相馬一族をターゲットにしていて
陸奥国司北畠顕家の傘下からヘッドハンティングする為に
家長に尊氏のサイン入り紹介文でも持たせてたんじゃないか?
…とか、わりとマジで思う。
相馬重胤たちの迷いの無さ忠誠ぶりからすると。

(仮に、家長はそれまで普通に斯波で統治に当たっていて
 11月上旬から慌てて、不慣れな「多賀」周辺で
 独自に味方を募り始めた…とすると
 ある程度寄せ集めの俄か集団になってしまいそうですが
 しかし、軍忠状等の一次史料が示すその後の相馬一族
 家長のもとでの徹底した活躍ぶりは
 まるで年来の重臣…としか思えないのです。)


ではなぜ(未来予測でもしていたかのように)
"多賀の南" を重要視していたのかと言うと
尊氏は『中先代の乱』以来ずっと…
"ある嫌な予感" がしていたのですよ、たぶん。




それでは
斯波まで行っていない or 行ってたとしても
 滞在期間はごく短期、なのに)
まだ数え15歳の少年家長だけがなぜか
父をはじめとする一族と別の家名「斯波殿」と呼ばれている
…という謎についてですが
これはつまり―――
今回の奥州赴任の目的について
鎌倉出発時から大々的に
 「奥州を管領しに斯波郡に行ってきまーす!」
"公言" していて
自分から「斯波」を名乗っていたからに他ならない訳ですが
なぜそんなに建前をわざとらしく主張させたかと言うと
これは一つには
"本当の目的" を隠す為… なのは想像に難くありませんが
もう一つには
「斯波殿」という名称に
ある種の "社会的地位" を持たせていたのだと思われます。


奥州というのはそもそも
『前九年の役』源頼義・義家父子が名を馳せ
『後三年の役』源義家東国武士達との絆をさらに深めて
"武家の棟梁" としての地位を築き上げた土地であり
特に、奥州斯波郡の「陣ヶ岡」
『前九年の役』で多くの伝承を刻んだ
武家源氏の "伝説の地" みたいな所がある場所です。
 (※源頼朝も『前九年の役』の佳例に倣っている。
  『大日本史料』文治5年9月2日、同3日『吾妻鏡』)


つまり「斯波殿」という名は
奥州『前九年の役』源頼義・義家 という記憶を想起させ
"奥州の大将" 的なイメージが自然と付いて来る訳で
単なる「居所由来の家名」という結果論的なものではなく
初めから役職的なものを意識した名称であったのだと。
家長の時点で
 一族の "家名" として「斯波」が定着しなかったのも
 この特殊な事情の存在を裏付けていると言えるでしょう。)


しかも、その名乗りを保証するのが
尊氏による Go to 斯波の任命である」という事はつまり
「斯波殿」という役職的・象徴的称号はそれだけで
家長が、将軍尊氏 "名代的立場" である事を表しているのであり
奥州の在地武士の気を引くには最適!!
…だったに違いない。


将軍のお使いで奥州を管領しに斯波に行く斯波でーす!!」
なんて言えば
現代でも尊氏ファンは入れ食いですよ、たぶん。
少なくとも、私は食い付きます。 


(※ただの呼び名にそこまで意味を見出すのは穿ち過ぎ…
 と思われるかも知れませんが、そうでもありません。
 その称号が単なる名前以上の社会的地位を象徴している
 という考察についての参考として…
 【桃崎有一朗
 『初期室町幕府の執政と「武家探題」鎌倉殿の成立
  ―「将軍」尊氏・「執権」直義・「武家探題」義詮 ―』
 (『古文書研究』第68号 2010年1月)】
 …をどうぞ。)




という訳で
「斯波殿」という謎めいた称号から
家長の奥州下向は、やはり尊氏の構想であったと言え
上記の『奥相秘鑑』の記述を補強するものとなりましたが
絶妙に "策めいた" 称号でもある事から
何かしら "微妙な任務" を含んでいたらしい… という事
そしておそらく、本当の理由を隠す意図も含まれていた事から
 (斯波まで行ってないっぽいのに「斯波殿」とはこれ如何に…)
やはり
『中先代の乱』を起こした北条時行の動向、つまりは
「西園寺公宗クーデター未遂事件」の真相というのは
わりと厄介な極秘情報だったのだと考えられます。
どんな風に厄介かと言うと…
 「尊氏がそれに気付いている事に "気付かれてはいけない"
という感じ。


北条時行方の動向監視という目的を隠し
奥州に赴任した家長
斯波の館に向かう道中でーす!」と言いつつ
「多賀」の手前でぐずぐずして相馬一族と仲良くなっていた

一体、尊氏は何を予期して… Σ(゚Д゚ ) ハッ!!!???




という訳で
「家長奥州紀行の真相」フライング余談でした。
この「西園寺公宗のクーデター未遂事件」については
近いうち解説したいと思っています。





(なんか不親切なのでもう一言 (´・ω・`)
 尊氏が動向を注視していたのは
 実は奥州の北条時行与党だけではなく
 北畠顕家自身にも、相当な警戒をしていたと思われます。
 あくまで密かに探っていたのは
 情報分析からの先読みによる "嫌な予感" だったので
 不用意に相手を刺激して対立を表面化しない為の
 気遣いだったのでしょう。
 誰よりも天下泰平を愛する将軍ですので。
 尊氏は基本的にいつも
 「争いを "未然" に防ぐ事を第一の目標として行動している」
 という事に気付くと
 あの奇想天外・不可解千万な言動の数々が
 ほぼ矛盾無く面白いように上手く説明出来るので
 頭の片隅に置いておいて下さい。)




最後にもう一つ
足利家長奥州に赴任したのは「建武2年 "6月"
と伝える記録もありますが
 (『大日本史料』建武2年8月30日『奥相秘鑑』)
これは "六" と "八" の誤記であって、やはり8月が正しいと思います。
もし、6月時点で奥州にいたなら
7月の『中先代の乱』
武蔵国から北条時行軍鎌倉に迫り
鎌倉から渋川義季軍が迎撃に向かった際
北の奥州から足利家長軍も駆けつけて挟み撃ちにしているはずですが
(少なくとも、尊氏到着前には間に合っているはず)
でもそういう記録は無いので。



――――――(余談おわり)―――――――





さて、余談のつもりが本談になってしまいました。
というか今日は
最初の追記のお知らせだけで
後は旅行記の続きに入る予定だったのですが
家長(「鬼切」を相伝した)兼頼の関係をもう少し知りたくて
家長の奥州赴任の事を調べ始めたら
『中先代の乱』との関係から尊氏の影が見え隠れし出して
すっかり話が別の方向にすっ飛んでしまいました。


つまり、実は私も
この辺の事今まであまり分かっていなくて
今回初めて気付いた事がほとんどです。

(だから理論構築するのにめっちゃ時間かかった…
 もしまだ穴があったらごめん (´・ω・`)
 ちなみに
 「西園寺公宗のクーデター未遂事件」の真相だけは
 だいぶ前に気付いてて
 今回知った家長の行動が
 それを裏付けるものだったから、びびってしもた。)

こんな歴史の片隅に飛び込む事が出来たのも
先日、鎌倉の『杉本寺』
家長になむなむして来たお蔭に違いない!!
家長の事はもちろん
予想外に尊氏の理解が深まって大満足です。



それにしても
言いたい事言いたいだけ言ってしまったので
 「んなマニアックな事知るかよ… (´・ω・`) 」
みたいな内容になってしまって
本当にすみません。
で、でも、尊氏という迷宮の攻略は
全宇宙の悲願だと思うんだ、うん。

ちなみに、長くなり過ぎたので一旦切りますが
実は言いたい事まだまだ終わってないので次回に続きます。
…って、まだ続くのかよ!!
いやむしろこっからが本気
今日は余談



posted by 本サイト管理人 at 23:50| Comment(0) | ★チラ裏観応日記

2016年01月03日

正月奉納連画2016 第三弾

(チラ裏シリーズ)

こんばんは。
新春三日目『チラ裏観応日記』です。

では早速
「正月奉納連画」に詰め込んだ今年の "本意"
天に届けてくれるのは…

足利将軍兄弟直義尊氏です!!


足利直義


足利尊氏

(※クリックすると拡大します。750×1000px )


背景の翼はもちろん
伝説の瑞鳥「鳳凰」をイメージしました。
まあ、鳳凰とか見たことありませんが。
でも聖人の出現の兆しとして、この世に現れる事があるらしいですよ。




さて、今回は
それぞれ縁のあるアイテムを持たせようと思って
上杉憲顕にはスズメ尊氏には鳳笙
それから高経には虚無被衣(きょむかづき)
…にしたかったのですが
描けませんでした (´・ω・`)
(折角、安易なキャラ付けアイテム考えたのに描けないとか
 自分どんだけ致命的なんでしょうか。 苦行が足りてません。)


では、直義が不思議そうに見つめているのは何かと言うと
「如意宝珠」(にょいほうじゅ)です。


(如意宝珠についてはブログ「室町絵師ランキング(第3位)」を。
 要するに、お地蔵様が左手に大事そうに持っているたまたま
 あらゆる願いを不思議に叶えてくれると言われます。)


理由はもちろん
直義の(実の)一人息子、「如意王」(にょいおう)からです。




直義には40歳過ぎまで子供が出来ず
兄の尊氏から養子を貰って大事に育てていた
…という話は以前少ししましたが
なんと、数え41歳にして奇蹟的にも子を授かります。
この時、直義の奥さんも同じ歳だったので
 41歳初産とは…」 (『園太暦』ほか)
と、当時の日記に公家達の驚きが記されているように
やはり普通に考えても普通の事ではなかったのではないか…
と思われて仕方ない訳ですが
何より…
一番直義本人が驚いたと思うw
自分の子はすっかり諦めていた頃だろうし
直義にとって兄の子
心の底から可愛くて仕方なかったでしょうから
 (↑直冬基氏の懐き方が尋常じゃないのでw)
未練もさほど無かったと思うし。


如意王誕生時、直義の元には
 光王(のちの基氏)8歳、女の子5歳
 それから既に直冬(20歳くらい)もいたのは間違いないから
 実は直義夫婦
 二人だけの寂しい家庭…ではなく
 子供に囲まれた賑やかな家庭を築いていたんだったりするw)





というか、如意王については…
『観応の擾乱』が始まる2年前
あれだけ子供が出来なかった夫婦に突如として
しかも41歳の初産にして平産(安産)」(『園太暦』)という
無為無事大慶(『師守記』)で生まれた男の子
そして
 希代大合戦」 (『観応二年日次記』観応2年2月18日)
と言われた
擾乱最初の一大合戦が、直義派の快勝で決着した直後に
数え5歳(満3歳10か月半)で父に別れを告げて逝ってしまった
…という
考えれば考えるほど、幻のような存在
もしこれが『太平記』だけの記述だったとしたら
絶対に実在を信じなかったレベル。
でももちろん
日記とか書状とか、現存の一次史料に多くの記録が残る
確実に確実な史実なのです。




とは言え、そのあまりの不思議さから
(よく知られた話ですが)『太平記』では…

ある日
南朝の亡き者達…護良親王と天狗と化した僧侶達が集まって
武家による太平の世が妬ましいので
再び天下を崩壊させて見物を楽しむ為に
僧侶達は、近臣達の心に乗り移って幕府に内紛を起こし
護良親王
人並み外れて禁欲・清廉な直義の心に邪心を抱かせる為
"直義の子として生まれ変わり"
尊氏直義の仲を引き裂こうと企んだ

という話にされているのですが―――

正直この話は本当に酷い!!




まあ『太平記』は
世の中の成り行きを "因果" "自業自得" で説明しようとしていて
それは、人々の今の行いを正し
太平の世を願う気持ちからのものであって
悪意からのものではないのですが(…と私は思う)
とは言え
 勝者正しいから勝った、敗者間違っていたから負けた」
という論調にする為
時にやり過ぎなこじつけがあって
"道徳を説く" という本来の目的に逆行しているのが何とも…。


まあ、大人の心なら
その "弱さ" に魔物が巣食うという事はあるでしょう
しかし
何の罪も無い子を「禍の種として生まれた」だなんて
長く生きられなかった幼い子の事も
幼子を亡くした直義の気持ちも
あまり無視し過ぎていて、感覚が麻痺しています。
(# ゚Д゚) ムッキームッカー!!!


(というか「天下の崩壊を見物して楽しむ」って…
 護良親王にも失礼だと思う。
 しかも、この話は
 擾乱が起きる以前にどっかの僧侶が天狗の談合を垣間見て
 その後、実際すべてがその通りになった
 …という筋書きなのですが
 どう見ても、結果を知った者完全後出しで捏造した噂話
 という稚拙な風説で、後味の異常な悪さだけが残ります。)



人の世には時に、が勝ち、が負ける時もあって
その時は
に善を、に悪を見出して現実を誤魔化すのではなく
ありのままに「天道是か非か」を問う事で得た教訓を
後の世に生かすべきでしょう。
それが本当の "因果" であるはずです。


「なぜ、天は悪を選ぶ時があるのか…」
 という、もどかし過ぎる命題は
 『観応の擾乱』第二期に突きつけられる事になるので
 覚えておいて下さいw )




そもそも、兄を支える事に至上の喜びを感じていた直義
自分の子が出来たからと言って
我が子を将来の将軍にしようと、いきなり尊氏叛意を抱く
…なんて筋書きには
無理がありまくりもいいとこです。 ヽ(`Д´#)ノ ムッキー!!

私に言わせると
子を授かった直義の心に、一番に浮かんだ最大の喜びは…

「(自分を支えたように)
 将来自分の子が、将軍となった兄の子を支えるんだ」


という眩し過ぎる未来だったと思います。
それはつまり…

 自分がいなくなった後も「自分を支えていける」

という事を意味する訳で
直義は本当に、こういう事に究極の喜びを感じるようなやつなのです。
如意王の誕生は直義に
(ありふれた欲望なんかではなく)
もっと美しい自信希望を与えた事でしょう。


(まあこの辺は、今は妄想にしか聞こえないと思いますがw
 この先色々なエピソードが明かされていけば
 きっと賛同してもらえると思います。)






…という訳で
私は基本的に『太平記』はとても好きなのですが
だからこそ
この如意王の話だけは、何が何でも認められん!!
断固として改心を要求します!!

とは言え、何かの生まれ変わり…とか思いたくなるほど
如意王の存在が常識では考えられない気がするのは確かな訳で
『太平記』の説に異を唱えるのなら
じゃあ、これをどう説明するのか…
という難問に直面する訳ですが―――


しかし安心して下さい、この謎については
なんと、尊氏が有り難い証言を残してくれています!!
もちろん一次史料でw  Σ(゚Д゚;) マ・ジ・デ!!?

如意王はもっと特別な存在です。
きっと、直義が純粋だからこそ授かった奇蹟なのでしょうw





ところで、「如意王」って
如意宝珠 → 地蔵菩薩 を連想させるから
どっちかっていうと尊氏っぽい命名のような気がしませんか?

直義が、自分の初めての子の命名を尊氏に求めた
…というのは200%くらい有り得そうな話ですが
如意王の正体を知っていた… かも知れない尊氏なら
実に付けそうな名前だな〜 と私は妄想していますw





奉納☆.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆八幡大画伯!!






さて、「正月奉納連画」が出揃った訳ですが
繋げると今年の本意は…

 「the truth in 太平記」

です。

……。
新年早々痛いこと言ってすみません。
で、でも、キャッチコピーは多少厨二なくらいが
め、目が覚めていいんじゃないかと…



(まあ気を取り直して…)
これは、"軍記物語としての"『太平記』の真実…という意味ではなく
『太平記』が描いている時代…すなわち "太平記時代"
歴史の真実が甦るように
という気持ちを込めた願いです。



『太平記』というのは
鎌倉時代末、後醍醐天皇の即位(1318)くらいから始まって
『元弘の乱』(1333)による鎌倉幕府終焉
約2年半の「建武の新政」を経て
尊氏直義による室町幕府の創設(1336)
それから13年間の
北朝幕府による天下の秩序回復京都安定期
その一方で打ち続く南朝との戦い
そして『観応の擾乱』(1349〜)を境に再び訪れる乱世
それを生涯最後の仕事として平定し
人生の幕を閉じた初代将軍尊氏(1358)
最後は、次の世代である
2代目将軍義詮初代鎌倉公方基氏の時代の終わり(1367)まで
…という
壮大な歴史を記した一大軍記です。


約50年間と言う期間の長さと
激しく動いた「動乱の時代」という事で
登場人物も多岐にわたり
も留まることなく移り変わって行くので
読む人によって、その主題主人公も様々だと思いますが
ただやはり
この時代に、誰よりも特別な存在感を放っているのは…
足利尊氏だと思います。



…というと
方々から反発を受けそうですがw(本当にすみません m(_ _)m )
決して他の魅力的な登場人物を否定している訳ではなく
それでもやっぱり『太平記』って
尊氏が活躍していた25年間が妙に輝いている… というか
それゆえ尊氏亡き後
世界が急に精彩を欠いてしまうように感じるのは
人々の心に
ぽっかり穴が開いてしまったせいなのではないかなぁ… と。


『梅松論』に…

「この(尊氏の)ような将軍の時代に生まれ合い
 国民が軒を並べて楽しみ栄える事が出来るのは
 なんと目出度い事だろう」

とあるのは、大袈裟な事でもなんでもなく
本当にそういう人だったんだろうと思います。

尊氏を中心に時代が回っているように見えるのは
(決して室町好きの私の贔屓目ではなく)
やはり、当時の人々の心がそこに最も惹き付けられていたから
…という必然なのでしょう。



(※ちなみに私、現時点では
 『太平記』断片的に読んでしまっていて
 頭から通読していないので
 実は全く以て偉そうな事を言える立場ではありません。
 そのうち通読します。 本当にすみませんww m(_ _)m )




そんな訳で
この "太平記時代" を語るなら
尊氏と、それから直義が中心となる事に異論は…
(…あると思いますが、取り敢えず今は大目に見てw)



とは言え、この時代は
尊氏直義で完結するものではなく
『太平記』が次代義詮基氏まで綴っているように

 「次の時代に繋いで行く者達」

もまた…
いや、尊氏と直義の遺志を受け継いだ "彼らこそ" が
この物語の "帰結" を語ってくれる訳で
それが誰かと言えば―――

 足利高経 上杉憲顕

この二人なのです。




という訳で
前々々回の「室町的鎌倉旅行記(その2)」
 「太平記時代の主人公レベル
  尊氏直義高経の他にもう一人いる」

と言いましたが
最後の一人は…上杉憲顕です。

(先日頂いたコメントで、従兄弟の憲顕の事が触れられていて
 奉納連画描いている最中だったので
 「ちょw ばれてるばれてるww」とお茶吹いてしまいました。)





尊氏亡き後の時代では
足利高経は京都の "管領" として
上杉憲顕 "関東管領" として活躍するものの
そこまで注目されていない…というか
脇役であって
主人公と見られる事は先ずありませんが
しかし、この二人の目線で時代を見る事で
隠れた真実が明らかになります。


特に上杉憲顕
『観応の擾乱』を境に幕府を離脱した後
復帰までに10年以上のブランクがあって
しかも、その他の上杉一族もほぼ姿を消していた
という状態の中で
もしかしたら…
そのまま歴史に名を残さず時が流れてしまった可能性すらあるのに
その後は「関東といえば上杉」
となるまでに確固たる地位を築いていくのは
単なる偶然では無い
"ある意志" が働いた結果だと見るのが自然です。



この二人がどう時代を繋いで行ったのか
あるいは、なぜ二人が時代を繋ぐ主人公として選ばれたのか
それが…
"太平記という時代" に込められた祈り
物語の帰結です。


(しかも4人はほぼ同年代、というネタ的奇蹟!!
 だれがシナリオ書いたん? (´・ω・`) )




という訳で、今年の本意は開き直って

 「the truth in 太平記」

で行きたいと思います。

どこまで届くか分かりませんが
もし "鳳凰" を見かけたという方がいましたら
目撃情報をお待ちしております。 わくわく


それでは
どうぞ本年も、よろしくお願い致します m(_ _)m



posted by 本サイト管理人 at 20:27| Comment(0) | ★チラ裏観応日記

2016年01月02日

正月奉納連画2016 第二弾

(チラ裏シリーズ)

こんばんは。
新春二日目『チラ裏観応日記』です。

という訳で
三箇日連続企画「正月奉納連画」第二弾
前々回の「室町的鎌倉旅行記(その2)」
彗星の如く初登場を果たした "太平記時代" の裏要人

足利高経(たかつね)です!!


足利高経斯波高経

(※クリックすると拡大します。750×1000px )



え、何、もう記憶から消えかけていただと?
まあ、私が
僅かながらも知名度のある "斯波高経"(しばたかつね)と呼ばないで
頑(かたく)なに "足利高経" と呼び続けているから
誰それ状態を誘発してしまっているのでしょうが
 (つまり、とんだ逆効果)
しかし、やはり名前は重要です。



ところで、背景の翼は「鶴」をイメージしたのですが
これはなぜかと言うと
高経の元服前の幼名(おさなな、ようめい)が…

 「千鶴」(ちづる)だから。 (あるいは千鶴丸

なにそれかわいいw
しかも、3歳下の弟家兼(初名時家)の幼名は…

 「千代鶴」(ちよつる)(or 千代鶴丸

ひな鶴兄弟ww


さらに記録が残っているものでは
家兼の次男兼頼「竹鶴」なので
 (※建武3年3月相馬長胤軍忠状に「大将軍足利竹鶴殿」)
おそらく、この頃の斯波家の子弟はみんな
ひよこ時代は "鶴" がついていたんじゃなかろうか…
という事で
私の中で室町最初期の斯波家は
「鶴」のイメージで決まってしまいました。

美しく儚げな感じがぴったりです。



というか、「鶴の翼を描こう」と思って
参考に "タンチョウ" の画像検索をしてたら
タンチョウの舞(いわゆる求愛ダンス)が気になってしまって
YouTubeで動画を探したところ
素晴らしいのをいくつも上げてる方がいて見入ってしまいました。
タンチョウってこんなに美しい鳥だったんだ…と。
本当に芸術品のようです。


(こう思っている人はあまりいないと思うけど…)
私にとっては、尊氏直義が活躍する "太平記時代"
奇蹟のように美しい話にあふれた時代なので
それとタンチョウの舞う姿が重なって
思わず涙が出てしまいました。
なんというか
美し過ぎて届かない…ような思いに駆られて妙にへこんだw
同じ国の、昔あった本当の話なのに―――




…って、高経ネタからの派生で感動してしまうなんて!!
私の中で高経はそんな立ち位置ではない!!

こんな立ち位置↓

千鶴高経


ちなみに右から…

上杉憲顕 徳治元年(1306)生まれ
足利直義 徳治2年(1307)生まれ
足利尊氏 嘉元3年(1305)生まれ
足利高経 嘉元3年(1305)生まれ

です。

(上図はデフォルメしてあって子供っぽいですが
 直垂を着ているので、みんな成人後のおっさんです。)



それから、翼はあくまで背景イメージのつもりで描いたので
高経天使になっているとかいう訳ではありません。
まあでも、高経様はやんごとないので
羽くらい生えていたと思います。

ついでに言うと、高経の髻(もとどり)は
単なるポニーテールではなく
結わいた根本を隠したアップ系です。
なんか… ゴージャスな感じ。






ところで、名前といえば
高経にはもう一つエピソードが。

当時の(広義の)法名的なものには色々あって
在家の仏教徒で言えば
入道後に法体(剃髪&僧衣)となって名乗る「法名」の他
俗人のままでも
帰依していれば「道号」とか「別号」とか名乗ったりしていて
そして、亡くなった後に贈られる「追号」というのもありました。


直義で言えば…
道号が古山、法名は慧源(えげん)、追号が大休寺殿
で、繋げると
「大休寺殿古山慧源」となります。

それから、尊氏の追号は言わずと知れた「等持院殿」ですが
このように
追号は墓所である「菩提寺」の寺号である事が多いです。



で、高経はと言えば
道号が日峰、法名が道朝
追号は当初「東光寺」だったのですが
後に「霊源院」(れいげんいん)に改められました。

これはなぜかと言うと
高経の四男は
足利義将(よしゆき)(or 勘解由小路殿)といって
3代目義満、4代目義持の時代に
管領を何度も務めた室町幕府の重鎮中の重鎮ですが
その義将が、ある日父の夢を見た。

夢の中で父曰く…

 高経「今、霊源院ってところに居るんだ〜」

そして義将は、父の追号を「霊源院」に改めた。



つまり…
高経の追号は、墓所とか菩提寺とか
そんな目に見える現世の存在なんかじゃなく
あちらの世界でお住まいになっている本当のおうちだったんだよ!!

(;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) な、なんだってーーーーー!!?


"霊" が「神霊」「神秘」という意味だから
「神聖なる源氏の御殿」と言ったところか…

さすが高経
現世でも「玉堂」とかいうヘブンっぽい所に生息していたのに
実際ヘブンでも宮殿系にステイとは。

やっぱり高経様くらいのレベルとなると
あの世でもやんごとない暮らしをなされているんですね。
納得です。


(※以上、夢の話の出典は『斯波家譜』です。
 『斯波家譜』は『大日本史料』にも部分的に掲載がありますが
 まとまった翻刻は
 【木下聡編『管領斯波氏(シリーズ・室町幕府の研究 第一巻)』
 (戒光祥出版)2015】
 …をどうぞ。)





という訳で、新年早々
ありがたい高経様のおめでたいお名前の話でした。

七條殿とか玉堂とか千鶴とか霊源院とか
高経は楽しい名前がたくさんあって、ネタに事欠きません。
キャラ付けが捗る捗る。




というか…
なんでそんな立ち位置(どんなw)の高経なのに
思い詰めた顔してんの?
と思われたでしょうが
この絵は半年ほど前
高経の真相に目覚めた時に紙に描いておいたイメージ図を
下書きにして描いたものなのですが
高経尊氏が抱えていたものって…
本当に深刻な物語なのですよ。

尊氏は、みんなの前では「軽々しく」振舞っていたい(『梅松論』)
と笑っていたけれど
後ろに悲しみを隠したものの放つ輝きというのは
この世のものとは思えない美しさがあって
胸が締め付けられます。



おっと、新年なのだから明るく明るく。
まあ高経
表面的にはクールを装っているのだけど
尊氏に遊ばれるキャラ… みたいな?
いや、みたいな?とか聞かれても。


さて、三日目の明日は遂に…
今年の「本意」が完成しますw



posted by 本サイト管理人 at 19:58| Comment(0) | ★チラ裏観応日記

2016年01月01日

正月奉納連画2016 第一弾

(チラ裏シリーズ)

明けましておめでとうございます。
新春『チラ裏観応日記』です。

去年一年間
この場末の室町ブログを飽きずに読んでくれた皆様
本当にありがとうございました。
室町ファン尊氏直義ファンが一人でも増えるよう
今年も一層
全力で "室町" を語り尽くして行く所存ですので
どうぞよろしくお願い致します m(_ _)m



さて、今年も一年の祈願を込めて
正月三箇日連続企画「正月奉納連画」
必死で作成しましたので
武家源氏の氏神にして大画伯菩薩であらせられる
我らが "八幡大菩薩" に謹んで脳内奉納し
新年の御挨拶に代えたいと思います。

(※「正月奉納連画」とは
 中世武士が神仏に「願文」を納めて祈願する慣習に準えて
 「連歌」ならぬ「連画」を奉納して新年の「本意」を祈る伝統行事。
 去年思い付きで始めた。)





ちなみに、去年の本意は「源氏元年」だったんですけど
何かが眠りから覚め…!!?
…たかどうかは知りませんが
でも、室町南北朝関連の
 「本格的でありながら一般向けに書かれた書籍(※)」
の類が
なんか色々誕生していたような気がしないでもないような気が…する。

(※…これまでの
 既存の説をまとめた歴史概説書や歴史系読み物とは
 かなり内容の質が異なり
 学術書を出している研究者が
 「最新の研修成果を一般向けに書き直してみた」みたいな
 読み易いのに論文レベルの本、の事です。)


まあこれは、近年の傾向であって
去年に始まった事でもなんでもないのですが
でも、今後も益々期待して
今年も引き続き「源氏二年」でよろしくお願いしたいと思います。

是非みなさんも、新しい本を色々と読んでみて下さい。
楽しいですよ。





さて、2016年の「奉納連画」に参りたいと思います。
第一弾は、新春にして初登場の―――

上杉憲顕(のりあき)です!!


上杉憲顕

(※クリックすると拡大します。750×1000px )



スズメと戯れています、上杉なだけに。
(※上杉家の家紋「竹に雀」については
 ブログ「夏休みの宿題(その1)」をどうぞ。)

まあ、憲顕レベルだとスズメと会話くらい余裕だと思います。



上杉憲顕については
今の所、上記ブログ記事でチラッと語っただけで
まだ全然解説が足りていませんが
尊氏直義の従兄弟であると共に
『観応の擾乱』の謎解きの鍵を握る重要人物
今年はたくさん出番予定がある、私の中の最注目株ですので
どうぞ御期待下さい。
(さ、最注目って…
 前回登場したばかりの高経様の立場は… ま、いっか。)


確かに主要人物ではあるけど…そこまで重要か?
と思われるかも知れませんが、これがまた
憲顕になりきって憲顕の動向を追っていると… Σ(゚Д゚ )!!!??

ま、とりあえず今は
直義と仲が良い…という事だけ押さえておけば十分かと。


直義超絶マニア目線で相変わらず本当にすみません。
 今年こそはこの偏愛を改めようと
 ただ今苦行を積んでいる最中です。)




てゆうか、なんでスズメとおしゃべり中なのに
背後がイーグル(鷲)なんだよ!!
とか思われたでしょうが…



上杉憲顕に限らず
上杉家は全般に品行方正優等生のイメージがあって
 (…え、私だけかな? みんなもそうだよね??)
実際、"普段の" 上杉憲顕
室町中期(6代目義教の時代)の上杉憲実(のりざね)なんかも
見事に誠実忠実教養も格段に高く(足利学校再興とかね)
特にこの二人は
晴れ渡った空の如くハイレベルに清い
かなりわたし的どストライクなのですが
しかし憲顕というのはこれがまた
可愛いスズメかと思いきや
直義が絡むと容赦なく本気出しまくって来る
…というのは
『観応の擾乱』の見せ場の一つだったりします。
 (つまり、さらに私好みの超絶変化球投げてくる。)



『観応の擾乱』は
貞和5年(1349)に始まって
観応元年(1350)10月から翌観応2年(1351)2月にかけて
最初のクライマックスを迎える訳ですが
"京都" の幕府内での対立・衝突がメインではあるものの
この擾乱はもちろん
"鎌倉" の幕府勢をも巻き込んで進行した一大騒動でした。

(巻き込んだ…は語弊があるかな。
 『観応の擾乱』はむしろ
 鎌倉にこそ、最初の火種がくすぶり育っていた
 …という事に、誰も気付いていなかった
 のがすべての始まりだった
 という事件だったりするので。 Σ(゚Д゚ )!!!?? )

(※↑ちなみにこれは、上杉憲顕は関係ありません。
 (直接の当事者ではない=悪くない、という事。)
 ―――2016.1.23追記 )



…まあ、この辺は
今後詳細に解説していく事になりますので
今日の所は、関連箇所の簡単な紹介だけ。




観応元年(1350)当時の鎌倉は
前年に鎌倉の主君として下向した
11歳の足利基氏(※尊氏実子で直義猶子)と
それを補佐する関東執事
上杉憲顕高師冬(こうのもろふゆ)(※高師直の従兄弟で猶子)
という態勢だったのですが
京都での「直義」「尊氏・高師直」という対立は
鎌倉では、「上杉憲顕」「高師冬」の対決という形で現れます。


ただしこれは
単に "派閥" を背景とした代理戦争…という訳ではなく
前年の貞和5年(1349)の京都での騒動で
上杉憲顕は、実の従兄弟で義兄弟の上杉重能
高師直に殺害されているので
(さらに、上杉憲顕の実子能憲(よしのり)は
 重能の猶子となっていたので、養父を失った事になる)

上杉一族にとっては
弔い仇討ちを兼ねた、鎌倉平定かつ京都への援護射撃であり
そしてその他の鎌倉勢
幕府誕生以来
長らく関東執事として政務を主導して来た上杉憲顕に従う者が
圧倒的に多く
鎌倉でのこの時の騒動は
京都より1か月早く、上杉憲顕方の勝利で決着します。


(※京都にいた上杉重能(しげよし)は
 尊氏の側近であり、直義の近臣でもあり、従兄弟でもあり
 二人にとっては、血の繋がりもあって特別な重臣でした。
 一般には "直義派の重要人物" とされていて
 尊氏との関係に注目した文献は数えるほどしかないのですが
 ここにこそ、真相の一端が隠されていた
 という大注目ポイントですので、気にしておいて下さい。)



というか
観応元年(1350)11月12日
上杉能憲(※憲顕実子で、亡くなった重能の猶子)が
直義派として常陸国で旗揚げした為
12月1日上杉憲顕が鎌倉を立って上野国に向かったところ
12月25日高師冬
足利基氏(※この時点では元服前なので光王御前)を連れて
鎌倉を出て相模国毛利庄湯山に着陣… するのですが
12月26日には、上杉方が基氏を取り返し
3日後の12月29日
上杉憲顕基氏と共に鎌倉に帰還
という、イリュージョン的な早業

その後、甲斐国逸見城に立て篭もった高師冬を討つ為
観応2年(1351)正月4日
上杉憲将(※憲顕の嫡男)が数千騎を率いて出陣し
正月17日に、高師冬が討ち取られて(あるいは自害により)
2週間で決着…


どう見てもスズメの速度ではない…



しかし、問題はこの後で
鎌倉静謐でほっと一息… するかと思いきや
上杉憲顕はなんと
その勢いのままで、京都にとっ込もうとしていたってゆうww
しかも、完全な独断でw
京都では、直義高師直を相手に戦っている最中でしたから。

やつにとって、この鎌倉の一大騒動
準備体操でしかなかったのか…


上杉憲顕の上洛計画を知った直義
この度の戦功を絶賛すると共に…

「じょ、上洛??
 (落居直後で)今大変な時なのに、じょ、上洛???
 (こっちは大丈夫だから落ち着いて!!www)」
  (↑3行目エスパー意訳)

…と、めっちゃ驚いて止めに入った書状↓


直義書状

(足利直義自筆御内書(上杉家文書)
 【上島有『足利尊氏文書の総合的研究(写真編)』
 (国書刊行会)2001】 …の、p.83-84より引用)



これは、直義の自筆なのですが
直義偏愛マニアの私に言わせると
直義にしてはだいぶ字が崩れている…ので
相当焦って記したと思われるw

書状の日付は2月3日(at 京都(※正確には石清水八幡宮)
となっていることから
正月17日の決着後
本当に間髪入れず飛び立つ気だったらしい。
完全にタッチアンドゴー

って、お前はどんな戦闘機なんだよwwww
落ち着けよwwww


という訳で
背景がイーグルになりました。




ちなみに上杉憲顕
この直義の一言で、広げた翼を休める気になったものの
2月8日には
「東国軍勢数千騎」(『園太暦』)を率いた嫡男の上杉憲将
さらに2月15日には
上杉能憲(※憲顕実子で重能猶子)も上洛していますから
あんまり気持ちは静まっていなかったようだw

とは言えこの…

イーグル遷移状態上杉憲顕をコントロール出来るのは
 直義だけ」

という点はよく覚えておいて下さい。
これは、『観応の擾乱』における憲顕の行動を解明する
重要なヒントになります。

二人の最後の別れの… (´;ω;`)
おっと、悲しい話は今日はよそう。




というか、言ってはなんだか
上杉憲顕直義よりも戦強いと思うw
 (いや、直義が弱すぎ… すみません禁句でした)
一見、文武なら文道特化型っぽく見えて
戦で予想外の無双を見せつけてくる意外性キャラ
ってのが、すごく好きなのですが
その上直義マニアとか、もうどうなってんだよ!!
 (師匠と呼ばせて下さい m(_ _)m )
やばい、ほんとやばい!!!
錯乱する!!

…という事が早くみなさんに伝わるよう
今年は

憲顕直義が絡むと
 戦闘機にトランスフォームして見境がなくなる

という「上杉憲顕イーグル説」
大々的に唱えて行きたいと思います。



(…というのも、憲顕はさらにこの後
 これまでとは比べ物にならない覚悟で大空に飛び立ちます。
 だいたい予想は付くと思いますが… 直義亡き後、その直後に。
 ああもう、この辺は涙腺が崩壊するから
 今日は保留!! (´;ω;`)(´;ω;`)(´;ω;`) )





という訳で
「正月奉納連画」第一弾は上杉憲顕でした!

第二弾はお待ちかね…
うん、まあ、明日に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 15:06| Comment(2) | ★チラ裏観応日記